きょうは、Ⅱテモテ3章後半の箇所から、「聖書は神のことば」というタイトルでお話したいと思います。パウロは3章前半のところで、終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい、と勧めました。なぜなら、そのことを事前に知っているならたとえ困難な事態に直面しても落ち着いてそれに対処することができるからです。
そしてきょうの箇所には、そうした困難な時代の中でクリスチャンはどあるべきなのかについて教えています。困難な時代がやってくることを避けることはできませんが、しかし、そのような困難な状況の中にも堅く信仰に立つことができます。いったいどうしたらいいのでしょうか。きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。
Ⅰ.良い模範を見ならう(10-12)
まず10節から12節までをご覧ください。
「しかし、あなたは、私の教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついてきてくれました。何というひどい迫害にも私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」
終わりの日の困難な時代に私たちが信仰に堅く立つために必要な第一のことは、良い模範を見ならうということです。ここでパウロはテモテに対して、神のしもべとして歩んできた自分に、「よくついて来てくれました」と感謝しています。エペソの教会はパウロによって始められた教会です。最初のうちはキリストの愛に溢れ、宣教の情熱に燃えるすばらしい教会でしたが、パウロがエペソを去った後でだんだん雲行きが怪しくなってきました。狂暴な狼が入り込み、群れを荒らすようになったからです。聖書の教えとは違うことを主張したり、ああでもない、こうでもないと、自分を主張する人たちが出てきたのです。それは教会の中に癌のように広がり、ある人たちの信仰をくつがえしてしまうほどでしたが、しかし、テモテは、彼らとは違っていました。彼は、パウロの教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、そればかりか、アンテオケ、イコニオム、ルステラでパウロにふりかかった迫害や苦難にも、よくついて行きました。彼は最後までパウロの教えから離れることはありませんでした。その模範に見習ったのです。
皆さん、終わりの日にはこうした困難な時代がやってきますが、そうした中にあっても私たちは信仰に堅く立ち続けることができます。それは、信仰の良い模範を見習うことによってです。クリスチャンの歩む道は必ずしも孤独なものではありません。そこには信仰の先達者たちの良い模範が数多く残されているのです。たとえば、ヘブル12章1節にはこうあります。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」
いったいどうしたら目の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けることができるのでしょうか。それは多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んでいるからです。私たちだけでなく、私たちの先に生きた多くのクリスチャンたちも同じような経験をしながらも、忍耐をもって最後まで走り続けました。そのことを思うと励ましが与えられます。確かにテモテには困難がありましたが、しかしそうした中にあっても同じような困難を通ったパウロのそばにいて、パウロがどのように主に信頼しているのかを間近に見ながらその姿から学ぶことができたことは大きな恵みでした。
いったいテモテはパウロの何を見習ったのでしょうか。まずテモテが見習ったのはパウロの教えでした。パウロの教えは人から聞いたものではなく、主イエスから直接聞いたものでした。それはガラテヤ書1章11~20節のところで言われているとおりです。彼はクリスチャンを迫害するためにダマスコという町に向かっていた時、突然、天からまばゆいばかりの光を見ました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」それで彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、街に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」それで彼は目が見えませんでしたが、人々に手を引いてもらってダマスコに行き、そこで三日の間、目が見えず、また飲み食いもせず、神のみこころを待ち望みました。そこへアナニヤという弟子が現れて、彼がしなければならないことを告げるのです。それでパウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになり、ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めました。ですから、パウロの教えはだれか他の人から聞いたことではなく、主ご自身から聞いた主の教えでした。テモテはその教えにとどまったのです。
いったいなぜ人は聖書が教えている主イエスの教えから外れてしまうのでしょうか。それは主イエスから聞いたことではなく、人から聞いたことや、だれか別の人が言ったことを鵜呑みにするからです。そうではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかを聞かなければなりません。聖書は何と言っているのか、また、それはどういう意味なのか、そして、それは私の生活にとってどういうことなのか祈りながら適用しなければなりません。そうでなかったらいつまでも人の話に振り回されてしまい、それと違った考えや教えが入ってきてもどこが違うのかを判別することができず、惑わされてしまうことになります。
またテモテはパウロの教えばかりでなく、パウロの行動も見習いました。パウロの行動は、その教えと一致していました。彼は自分が語っているメッセージをその生涯で実証していたからです。主のために犠牲を惜しまずに伝道し、自らが華美で贅沢な暮らしを求めるようなことはしませんでした。自分が人から受ける以上のものを人に与えました。また、真理のためなら、自らのいのちを落とすことも厭いませんでした。彼は神と人に仕える僕だったのです。
またパウロの計画は、これは目的と言い換えたほうが良いかと思いますが、それはただ神の栄光を現すことでした。パウロはこう証しています。「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)パウロはこの地に福音が満たされ、救われる人たちが起こされることによって、神の栄光が現されることをひたすら願いました。彼の関心は自分が人から注目を浴びることではなく、自分の名声を得ることでもなく、ただ神の栄光が現されることでした。テモテはずっとパウロのそばにいてその姿を見ていました。パウロは自分に頼らないで、主に信頼していたのです。
そればかりでなく、パウロが反対する人たちがたくさんいる中でも、寛容な心をもって教えているのを見ていました。また迫害する人たちに対しても、神の愛をもって赦す姿、どんな困難な状況にあっても、じっと忍耐する姿をそばで見ていたのです。
パウロは11節でそのことを言っています。彼が福音のゆえに受けた迫害や苦難は、私たちの想像以上のものでした。ピシデヤのアンテオケではユダヤ人たちの激しいねたみによってその地方から追い出され、イコニオム、ルステラでも同様の迫害がありましたが、ルステラでは石打にされ、死んだと思われて捨てられたほどです。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。しかし、テモテが見たのはそれだけではありませんした。そうした激しい迫害や苦難にあっても、主はいっさいのことから救い出してくださったということも目の当たりにしていました。
ここでパウロは、主が迫害や苦難から救い出してくださったということを思い出しています。このように自分の過去を振り返る時、神がどのようなことをしてくださったのかを思い出すなら、今置かれている状況がどんなに苦しくても希望を持つことができます。この時パウロはローマの地下牢にいてこれを書いていましたが、この時には打ち首になることが決まっていました。そこにはもう何の希望もないかのようでしたが、そのような中にあっても彼は決してあきらめませんでした。主が必ず救ってくださるという希望を持っていたのです。どういうふうに救い出してくださるのかはわかりません。もしかしたらそれが延期になって事態が一変し、そこから奇跡的に逃れられるようになるのか、あるいは、かつてピリピの獄舎で経験したように、大地震が起こって救い出されるのか、どのようにして救い出されるのかはわかりませんが、神が必ず救い出してくださるという確信がありました。たとえそうでなくても、主は彼に最善のことをしてくださると信じていました。たとえ処刑されて命を失うようなことがあっても、それは主イエスのそばに行くということを意味しているので、それもまた喜ぶことができました。彼は迫害の中にあっても、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができたのです。
テモテはいつもパウロのそばにいて、そうしたパウロの姿をつぶさに見ながら、そこから学んでいました。彼にはそうした信仰の模範がありました。ですから、実際の困難な状況にあったとき、そのことを思い出して励まされ、忍耐することができたのです。
私たちも、時に困難に直面することがありますが、そのような時にはぜひこうした信仰の先達者たちの姿を思い出したいものです。そして、そこから励ましを受け、そうした困難の中にあっても目標に向かって前進していきたいと思うのです。
Ⅱ.神のことばにとどまる(13-15a)
困難な時代にあっても、私たちが信仰に堅く立つために必要な第二のことは、神のことばである聖書にとどまることです。13~15節前半までをご覧ください。ここには、「しかし、悪人や詐欺師たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪に落ちて行くのです。けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。」とあります。
終わりの日が近くなると、こうした「悪人」とか「詐欺師たち」と呼ばれる人たちが増えてきます。「悪人」とか「詐欺師たち」とは名ばかりのクリスチャンたちのことで、言っていることとやっていることが一致しない人たちのことです。口ではイエス様信じます!と言いながら、その主のことばに従って歩もうとしないのです。そういう人は信じているとは言っても行いによってそれを否定するので、信じていることにはならないのです。
主イエスはマタイの福音書の中で、「わたしに向かって「主よ、主よ」と言う人者がみな天の御国に入るのではなく、無店におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)と言われました。終わりの日にはこういう人たちが多くなっていくのです。そして、こういう人たちはだましだまされながら、ますます悪に落ちて行くのです。
では、どうしたらいいのでしょうか。そのような現実の中でいったいどうやって信仰に堅く立ち続けることができるのでしょうか。聖書はこう言っています。14節です。「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。」
いったいなぜこうした悪人や詐欺師たちにだまされるのでしょうか?それは、聖書を学ぼうとしないからです。聖書が何と言っているかということよりも、自分の考えや思いによって行動しようとするからです。ですから、そうした偽りの教えがやってきてもそれを正しく判別することができないので、その結果、振り回されてしまうのです。
けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。勿論、この学んでというのは「聖書」のことです。「聖書」を学んで確信したところにとどまっていなければなりません。なぜなら、その聖書をだれから学んだのかをよく知っているからです。
テモテはだれから聖書を学んだのでしょうか。テモテの父親はギリシャ人で、母親はユダヤ人でした。でもテモテを信仰に育てたのは母親でした。なぜなら、ユダヤ人の誇りは、子供たちを幼い時から律法に基づいて教育し、訓練することだったからです。ユダヤ人は、律法が子供たちの魂にも精神にも深く印象づけられているので、自分の名前を忘れることはあっても律法は忘れないと言っています。そのようにテモテは幼い頃から母親から聖書を学んでいました。
テモテはそれを知らない人から聞いたのではありません。まして偽りの教師たちから聞いたのでもないのです。彼はそれを信頼できる人から学びました。ですから、それは信頼できる教えなのです。そしてそうした信頼できる教えは、必ず健全な信仰を生み出します。そしてそこにとどまっているなら、たとえ偽りの教えが入ってきても惑わされることはないのです。
Ⅲ.聖書の価値(15b-17)
では、テモテが幼いころから親しんできた聖書とはどのようなものなのでしょうか。15節の後半から17節までをご覧ください。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」
ここでパウロは、聖書について四つの大切なことを語っています。第一に、聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるということです。これが、聖書が書かれた一番大きな目的です。聖書は単なる文学書や歴史書ではありません。聖書は、イエス・キリストによる救いを受けさせるために書かれたものなのです。
ヨハネの福音書20章31節には、「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」とあります。聖書が書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、そして、信じて、イエスの御名によっていのちを得るためなのです。ですから、どんなに聖書を読みその内容を知っていても、それによってイエスを信じなければ何の意味もありません。それは聖書読みの聖書知らずということになります。しかし、聖書は私たちがそれを読んで、イエスが神の子キリストであることを信じるために書かれたのです。この目的を理解してあなたが聖書を読むなら、あなたもキリスト・イエスを信じる信仰へと導かれ、永遠のいのちを得ることができるのです。
A.M.チャーギンは、「世界伝道における聖書」という本の中で、あるイギリスの小児科病院の看護婦長の話をしています。彼女の告白した話では、彼女は人生がくだらぬ、無意味なものだと思っていました。そして、彼女は人生の意味を見出すために、次から次に本を読みました。しかし、何の満足も得られなかったので、次に彼女は哲学書を苦労して読み始めました。しかし聖書を開こうとはしませんでした。彼女の友人が、ことこまかに、聖書がいかに偽りであって、真実性のないものであるのかを語っていたので、そう信じ込まされていたからです。しかし、ある日病室に訪問者がやって来て福音書の一冊を贈り物として残して行きました。その婦長はヨハネの福音書を読むようにと勧められていたので読んでみると、そこにはこう書かれてありました。「そこでピラトはイエスに行った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネの福音書18章37節)そして彼女は救い主を発見したのです。
この婦人は、聖書を読むまで真理がわかりませんでした。けれども、直ぐな心で聖書を読むなら、そこに驚くべきことが起こります。他のどんな本にもない救いの知恵がその中にあるからです。
第二のことは、聖書はすべて神の霊感によるものであるということです。ここには、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、」とあります。どういう意味でしょうか?それは、聖書は神の霊の息吹によって書かれたということです。聖書は40人の著者たちによって、約1600年の歳月をかけて書かれましたが、その内容をみると統一性があり、全体が見事に調和していることがわかります。バラバラではないのです。もしここにいる人たちがイエス・キリストというテーマで書いたとしたら、その内容はバラバラなものになってしまうでしょう。全く違う人たちが違った視点で書くからです。けれども、聖書は40人の著者たちによって書かれましたが、真の著者は神ご自身であって、神がそれぞれに聖霊によって語りかけ、聖霊は神の人を用いて神のみことばを書かせたので、そこには統一性や一貫性があるのです。それはちょうど法隆寺が聖徳太子によって立てられたのと同じです。実際には聖徳太子が建てたのではなく、宮大工職人によって建てられたものですが、それは聖徳太子の命によって建てられました。ですから、法隆寺は聖徳太子によって建てられたのです。同じように聖書も実際には40人もの人間によって書かれましたが、それを意図して書かせたのは神ご自身なのです。聖書が神のことばであるゆえんはここにあります。
いったい神はどのようにして彼らに書かせたのでしょうか。それは彼らが単なるインスピレーションやひらめきによって書いたというのではありません。またその人たちが意識を失って、手が勝手に動き出して書いたというのでもないのです。神が語られたことを、聖霊に動かされて人たちが書いたのです。そのことをⅡペテロ1章21節では、こう言っています。
「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人とたちが、神からのことばを語ったのだからです。」
「預言」とは「聖書」のことです。聖書は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、神の聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。それゆえに聖書は神のことばであると言えるのです。しかも部分的にではありません。すべてです。聖書はすへて神の霊感による、神のことばなのです。
そして第三に、聖書は教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。聖書は、何が真理であり、何が悪であるかをしっかり教えてくれます。また、私たちの生活をまっすぐにし、正しいことを行う力を与えてくれるのです。
リック・ウォーレンの書いた「人生を変える力」という本の中に、南太平洋に浮かぶある島の人食い人種の話があります。その人はキリストを信じて聖書を読むようになりました。ある日、その人が大きなつぼのそばに座って聖書を読んでいると、ヘルメットをかぶった一人の文化人類学者が近寄って来て、「何をしているんだい」と尋ねました。その原住民が「聖書を読んでいるのです」と答えると、その文化人類学者は笑って言いました。「現代の文明人がその本を拒絶してきたことを知らないのかい?ウソのかたまり以外の何ものでもないさ。そんなものを読んで、自分の時間を無駄にしないほうがいい」すると、この人食い人種は、その文化人類学者の頭のてっぺんからつま先までゆっくり眺めた後で、こう言いました。「先生、もしこの本がなかったら、あなたは今頃このつぼの中ですよ。」神のみことばによって、その人食い人種の人生は見事に変えられたのです。このように聖書は、人を変える力があるのです。
もし本気で自分の人生を変えたいと願うなら、聖書に向かわなければなりません。聖書を読んで、そこから学び、ただ学ぶだけでなく暗記したり黙想して、それを自分の生活に適用しなければなりません。そうでなければ、信仰の成長を期待することはできないのです。
それは子供の成長と同じです。小さな子供はわがままで自己主張が強くて大変ですが、そういう子供を立派な大人に成長させたいと願うとき、いったい親はどうするでしょうか。まず何が正しくて、何が正しくないかを教えます。そして、それと違ったことをしたら「それは違う」と教えます。何度言っても聞かない時にはムチを使うかもしれませんね。そしてそれができるようにトレーニングします。同じように、神は私たちを子として扱っておられるので、私たちに教え、戒め、矯正し、義の訓練をされるのです。その道具が聖書なのです。生まれながらの人間は、自分のやり方を通そうとします。真理に従いたくないのです。自分の思うようにしたいのです。それを聖書では肉と言っています。肉は神のみこころに反します。しかし、聖書のことばに従うと成長し、霊的に成熟していくのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益なのです。
第四に、聖書は神の人が、すべての良い働きのためにふさわしく十分に整えます。Ⅰテモテ6章11節で、パウロはテモテを「神の人」と呼びましたが、ここではテモテに限らず、神のみことばを学び、それに従い、それによって支配された人たちを「神の人」と呼んでいます。そして神のことばは、そのような人たちがすべての良い働きのためにふさわしく十分に整えてくれるのです。聖書を学ぶ目的は、ただ聖書の教えを理解し、信仰を守るといった消極的なものだけでなく、みことばによって神の人が神のわざを行っていくという積極的な面で整えられるためでもあるのです。
有名なイギリスの説教者C・H・スポルジョンは、あるとき古くてボロボロになった聖書を手に入れました。普通に扱うと壊れてしまうので、彼は机の上にその聖書を置いて、慎重に1枚1枚開いて読まなければなりませんでした。毎日読んでいるうちに、ふと聖書の中に小さい穴があいているのに気が付きました。その穴は表紙から裏表紙までを貫いていました。それはシミという小さな虫の食った穴でした。シミという虫は銀色のむかでみたいなやつです。以来彼は、「神よ、どうぞ私をこのシミのようにしてください」と祈ったそうです。そして彼は、シミのように聖書の初めから終わりまで何度も何度も繰り返して読んだと言われています。そこに彼の奉仕の原動力の秘密を見るような気がします。
私たちも祈りましょう。「主よ、どうぞ私をシミのようにしてください。」と。聖書の最初から最後まで何度も読んで神の人に創り変えられ、良い働きのために備えられるようにと祈ろうではありませんか。
終わりの日が近くなると、偽りの教えがはびこり、困難な時代がやって来ますが、しかし、動じることはありません。永遠に変わることのない神のことばを握りしめ、そこに根を下ろすなら、どんな困難な中にも堅く立ち続けることができるのです。