民数記28章

きょうは、民数記28章を学びます。

Ⅰ.主へのなだめのかおりの火によるささげもの(1-8)

まず1節から8節までをご覧ください。

「1 主はモーセに告げて仰せられた。28:2 「イスラエル人に命じて彼らに言え。あなたがたは、わたしへのなだめのかおりの火によるささげ物として、わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない。28:3 彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭。28:4 一頭の子羊を朝ささげ、他の一頭の子羊を夕暮れにささげなければならない。28:5 穀物のささげ物としては、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパとする。28:6 これはシナイ山で定められた常供の全焼のいけにえであって、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。28:7 それにつく注ぎのささげ物は子羊一頭につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい。28:8 他の一頭の子羊は夕暮れにささげなければならない。これに朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物と同じものを添えてささげなければならない。これは主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」

ここには、イスラエルの民が約束の地に入ってから、ささげなければならない火によるささげものの規定が記されてあります。このささげものの規定については15章でも語られたばかりですが、ここで再び語られていす。なぜそんなに繰り返して記されてあるのでしょうか?なぜなら、このことはそれほど重要な内容だからです。イスラエルが約束に地に入ってからもどうしても忘れてはならなかったこと、それは彼らをエジプトから贖い出してくださった神を覚えることでした。私たちはすぐに忘れがちな者ですが、そのような中にあっても忘れることがないように、何度も何度も繰り返して語られているのです。しかも、ここでは語られている対象が変わっています。エジプトから出た20歳以上の男子はみなヨシュアとカレブ以外全員死にました。彼らは神のみことばに従わなかったので荒野で息絶えてしまったのです。今そこにいたのは新しい世代でした。以前はまだ小さくて聞いたことのなかった子どもたちが大きく成長していました。彼らが約束の地に入るのです。そんなさかれらが忘れてはならなかったのは、彼らの父祖たちが経験した神の恵みを忘れないことだったのです。

ここで主は、かおりの火によるささげものとして、神への食物のささげ物をささげるようにとあります。かおりの火によるささげものには、三つの種類がありました。一つは、全焼のいけにえ、もう一つは、穀物のささげもの、そしてもう一つが、注ぎのささげ物です。全焼のいけにえは、小羊をすべて祭壇の上で焼きます。穀物のささげものは、油をまぜた小麦粉です。それから、注ぎのささげ物は、ぶどう酒です。全焼のいけにえをささげて、このいけにえに、穀物のささげものと注ぎのささげものを供えます。これらは常供のいけにえです。常供のいけにえとは、日ごとにささげるいけにえのことで、それは毎日、朝と夕暮れにささげなければなりませんでした。

それにしても、ここには、「わたしへの食物のささげ物を、定められた時に、気をつけてささげなければならない」とあります。どういうことでしょうか?主はこのささげ物を食べるというのでしょうか?主は私たちからのこのようなささげ物を必要としているということなのでしょうか?そういうことではありません。それは、神によって罪の中から贖い出された者としてこの恵みに応答し、感謝して生きなさいということです。

パウロはローマ書12章1節でこのように言っています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」

「そういうわけですから」というのは、それ以前のところで語られてきたことを受けてのことです。そこには、神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によって、価なしに義と認められたということが語られてきました。そのように罪から救われたクリスチャンに求められていることは、自分を神にささげることです。これこそ、霊的な礼拝なのです。神の喜びのために生きるということであります。神が求めておられるのは私たちの何かではなく、私たち自身です。私たちのすべてなのです。私たち自身が神と一つとなり、私たちを通して主の栄光があがめられること、それが主の喜びなのです。そして、それが現される手段が礼拝であり、ささげ物なのです。その時、私たち自身にも究極的な喜びがもたらされるのです。

今週の礼拝のメッセージはテモテ第二の手紙4章からでしたが、その中でパウロは、「私は今や注ぎの供え物となります。」(4:6)言っています。彼はそのように生きていたということです。彼の生涯は、自分のすべてを主にささげる生涯でした。彼は全く主に自分をささげていたのです。これを献身というのです。主が求めておられたのはこの献身だったのです。イスラエルは今神が約束してくださった地に入ろうとしていました。そんな彼らに求められていたことは、主に自分自身をささげるということだったのです。

Ⅱ.安息日ごとのささげもの(9-10)

次に9節と10節をご覧ください。

「9 安息日には、一歳の傷のない雄の子羊二頭と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それにつく注ぎのささげ物とする。10 これは、常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えられる、安息日ごとの全焼のいけにえである。」

ここには安息日ごとのささげものについて記されてあります。安息日ごとのささげものは、常供のいけにえの他に加えてささげられます。ここで大切なのは「加えて」ということです。プラスしてです。私たちは日毎に、主の前に出ていかねばなりませんが、主の日にはそれにブラスして主の前に出て行かなければなりません。毎日礼拝していれば別に主の日だからといって礼拝する必要はないというのではなく、毎日礼拝していればなおのこと、主の日を大切にして、それに加えて主の前に出て行かなければなりません。あるいは、毎日忙しいので日曜日だけは礼拝するというのも違います。主の日が常供のささげものを代用することはできないのです。ですから、主の日に礼拝すれば自分の務めを果たしているとは言うことはできず、それは日ごとの礼拝の他にささげられる物で、むしろ日毎の礼拝の延長に、他の信者と集まっての礼拝があると言えるでしょう。

Ⅲ.新月の祭り(11-15)

次に、新月の祭りについてです。11節から15節までをご覧ください。

「11 あなたがたは月の第一日に、主への全焼のいけにえとして若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の傷のない雄の子羊七頭をささげなければならない。28:12 雄牛一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の三エパ。雄羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の二エパとする。28:13 子羊一頭については、穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉十分の一エパ。これらはなだめのかおりの全焼のいけにえであって、主への火によるささげ物である。28:14 それにつく注ぎのささげ物は、雄牛一頭については二分の一ヒン、雄羊一頭については三分の一ヒン、子羊一頭については四分の一ヒンのぶどう酒でなければならない。これは一年を通して毎月の、新月祭の全焼のいけにえである。28:15 常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物に加えて、雄やぎ一頭が、主への罪のためのいけにえとしてささげられなければならない。」

今度は、月の第一日、つまり新月にも供え物をするようにと命じられています。これは、民数記で新しく出てきた規定です。新月のささげものは全焼のいけにえが中心ですが、罪のためのいけにえもささげられます。しかしそれは全焼のいけにえと比べると非常に少ないことがわかります。この後のところに、例年行う祭りのささげ物の規定が出てきますが、そこでも同じです。罪のためのいけにえは全焼のいけにえと比べれば圧倒的に少なくなっています。これはいったいどうしてなのでしょうか?

それは、礼拝とは、「悔い改めにいくところ」ではないということです。毎日の生活で罪を犯してしまうので、その罪が赦されるために礼拝にいかなければいけない、ということではないのです。勿論、悔い改めるは重要なことですが、それが礼拝の中心ではありません。礼拝とは、自分自身を主にささげることであり、そこにある喜びと平和、そして聖霊による神の臨在を楽しむところなのです。イスラエルの民は新しく入るそのところで、自分たちを愛し、そのように導いてくださった主を覚え、日ごとに、週ごとに、そして月ごとに、すなわち、いつも主と交わり、主が良くしてくださったことを覚えて、主に心からの感謝をささげなければならなかったのです。

Ⅳ.春の祭り(16-31)

最後に、春の祭りの規定を見ておわりたいと思います。16節から31節までをご覧ください。まず16節から25節までをご覧ください。

「16 第一の月の十四日は、過越のいけにえを主にささげなさい。17 この月の十五日は祭りである。七日間、種を入れないパンを食べなければならない。18 その最初の日には、聖なる会合を開き、どんな労役の仕事もしてはならない。19 あなたがたは、主への火によるささげ物、全焼のいけにえとして、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなければならない。それはあなたがたにとって傷のないものでなければならない。20 それにつく穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパをささげなければならない。21 子羊七頭には、一頭につき十分の一エパをささげなければならない。22 あなたがたの贖いのためには、罪のためのいけにえとして、雄やぎ一頭とする。23 あなたがたは、常供の全焼のいけにえである朝の全焼のいけにえのほかに、これらの物をささげなければならない。24 このように七日間、毎日主へのなだめのかおりの火によるささげ物を食物としてささげなければならない。これは常供の全焼のいけにえとその注ぎのささげ物とに加えてささげられなければならない。25 七日目にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。」

例祭、すなわち、毎年恒例の祭りは、過越の祭りからはじまりました。これがユダヤ人にとってのスタートだったのです。なぜ過越の祭りから恥じるのでしょうか?それは、これが贖いを表していたからです。私たちの信仰は贖いから始まります。だから、過ぎ越しの小羊を覚え、それを感謝しなければなりません。それは十字架に付けられたイエス・キリストを示していたからです。ペテロは、「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1ペテロ1:18-19)と言いました。これが私たちの信仰土台です。それは新しいイスラエルの民が、新しい約束の地に入ってからも変わりません。彼らはこれまでと同じように、まず過ぎ越しの祭りから始めなければなりませんでした。

そして、この過ぎ越しの祭りに続いて、種なしパンの祭りが行われました。その時彼らは種を入れないパンを食べなければなりませんでした。なぜでしょうか?罪が赦されたからです。キリストの血によって罪が赦され、罪が取り除かれました。もうパン種がなくなったのです。だから、古いパン種で祭りをしたりしないで、パン種の入らないパンで祭りをしなければなりません。それが種を入れないパンの祭りです。すなわちそれは、キリストによって罪が取り除かれたことを祝う祭りのことだったのです。

次は、初穂の祭り、すなわち、七週の祭りです。26節から31節です。

「26初穂の日、すなわち七週の祭りに新しい穀物のささげ物を主にささげるとき、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。27 あなたがたは、主へのなだめのかおりとして、全焼のいけにえ、すなわち、若い雄牛二頭、雄羊一頭、一歳の雄の子羊七頭をささげなさい。28 それにつく穀物のささげ物としては、油を混ぜた小麦粉を、雄牛一頭につき十分の三エパ、雄羊一頭につき十分の二エパとする。29 七頭の子羊には、一頭につき十分の一エパとする。30 あなたがたの贖いのためには、雄やぎ一頭とする。31 あなたがたは、常供の全焼のいけにえとその穀物のささげ物のほかに、これらのものと・・これらは傷のないものでなければならない。・・・・それらにつく注ぎのささげ物とをささげなければならない。」

初穂の祭りは、過ぎ越しの祭りの三日目、つまり過ぎ越しの祭りの後の最初の日曜日に行われました。これはキリストの復活を表していました。キリストは過越の祭りの時に十字架で死なれ、墓に葬られました。そして、安息日が終わった翌日の日曜日に復活されました。日曜日の朝早く女たちが、イエスに香料を塗ろうと墓にやって来くると、墓の石は取り除かれていました。そこに御使いがいて、女たちにこう言いました。「この方はここにはおられません。よみがえられたのです。」そうです、初穂の祭りは、イエス・キリストの復活を表していたのです。使徒パウロはこう言いました。コリント人への手紙第一15章20節です。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」キリストは、私たちのために死んでくださり、その血によって罪を赦し、きよめてくださっただけではなく、よみがえってくださいました。よみがえって、今も生きておられます。そのことを覚えて、主に感謝のいけにえをささげるのです。それは全焼のいけにえ、穀物のささげもの、そして注ぎのささげ物です。

それは初穂の日だけではありません。ここには七週の祭り、すなわち、ペンテコステにもささげ物をささげるようにと命じられています。それは聖霊が下られたことを記念する祭りです。もちろん、ユダヤ人にとってはこれが何を意味しているのかはわからなかったと思いますが・・・。

このように、イスラエルが約束の地に入っからも忘れずに行わなければならなかったことは、火による全焼のいけにえ、穀物のささげ物、そして注ぎのささげ物をささげなければなりませんでした。それは神への献身、神への感謝を表すものです。

これが、イスラエルが約束の地に入る備えでした。約束の地に入るイスラエルにとって求められていたことは、神へのいけにえをささげることによっていつも神を礼拝し、神と交わり、神に感謝し、神の恵みを忘れないだけでなく、その神の恵みに応答して、自分のすべてを主におささげすることだったのです。日ごとに、朝ごとに、そして夕ごとに。また、週ごとに、新しい月ごとに、その節目、節目に、主が成してくださったことを覚えて感謝し、その方を礼拝することが求められていたのです。

私たちはどうでしょうか?新しい地に導かれた者として、いつも主を礼拝し、主に心からの礼拝をささげているでしょうか?神があなたのためにしてくださった奇しい御業を覚えて、いつも主に感謝し、心からの礼拝をささげましょう。