民数記30章

きょうは民数記30章から学びます。

Ⅰ.自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない(1-2)

「モーセはイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げて言った。「これは主が命じられたことである。人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」

これは、モーセがイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げたことばです。モーセは28章と29章においてイスラエルが約束の地に入ってからささげるいけにえの規定について語りましたが、ここでも同様に、イスラエルが約束の地に入ってからどのように生きるべきなのかについて語っています。ここでは主への誓願と、物断ちの誓願について教えられています。主への誓願についてはナジル人の誓願ということで、これまでレビ記や民数記で学んできました。それは、主のために「この期間、これこれのことをします」と誓願をして行うことですが、物断ちとは、逆に、主のために「この期間、これこれのことをしません」と誓うことです。誓願とは積極的に何かをすることであるのに対して、物断ちは積極的に何かをしないことです。

こうした誓願や物断ちは、主がとても尊ばれることでした。主のためにこれをするとか、これをしないといった意志や決意を主が喜ばれたからです。しかし、そのように誓ったならば、それを果たさなければなりません。すべて自分の口から出たことは、そのとおりに実行しなければならなかったのです。誓ったのにそれを果たさないということがあれば、それは主が喜ばれることではありません。それゆえ、主に誓ったことは取り消すことができなかったのです。新約聖書には、「誓ってはならない」と戒められていますが、それは、無責任になってはいけないということです。誓願、決意、志はとても尊いものですが、そのように誓ったならば、それを果たさなければならないのです。果たさせない誓いはするなというのが、主が戒めておられたことなのです。

Ⅱ.誓願の責任(3-16)

 それでは、この誓願について主はどのように教えておられるでしょうか。3節から16節までをご覧ください。

 

「もし女がまだ婚約していないおとめで、父の家にいて主に誓願をし、あるいは物断ちをする場合、その父が彼女の誓願、あるいは、物断ちを聞いて、その父が彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて、有効としなければならない。もし父がそれを聞いた日に彼女にそれを禁じるなら、彼女の誓願、または、物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に禁じるのであるから、主は彼女を赦される。もし彼女が、自分の誓願、あるいは、物断ちをするのに無思慮に言ったことが、まだその身にかかっているうちにとつぐ場合、夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効でなければならない。もし彼女の夫がそれを聞いた日に彼女に禁じるなら、彼は、彼女がかけている誓願や、物断ちをするのに無思慮に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。やもめや離婚された女の誓願で、物断ちをするものはすべて有効としなければならない。もし女が夫の家で誓願をし、あるいは、誓って物断ちをする場合、夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、しかも彼女に禁じないならば、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効としなければならない。もし夫が、そのことを聞いた日にそれらを破棄してしまうなら、その誓願も、物断ちも、彼女の口から出たすべてのことは無効としなければならない。彼女の夫がそれを破棄したので、主は彼女を赦される。すべての誓願も、身を戒めるための物断ちの誓いもみな、彼女の夫がそれを有効にすることができ、彼女の夫がそれを破棄することができる。身を戒めるとは、断食のことです。もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。彼がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったので、彼はそれを有効にしたのである。もし夫がそれを聞いて後、それを破棄してしまうなら、夫が彼女の咎を負う。」以上は主がモーセに命じられたおきてであって、夫とその妻、父と父の家にいるまだ婚約していないその娘との間に関するものである。」

ここで教えられている規定によると、男性が女性の立てた誓願の責任を負うということです。まず、若い未婚の娘の誓願は父親が破棄することができました。また、妻の誓願は夫が破棄することができました。父親や夫が何も言わなかった時だけ、その誓願が有効になったのです。ただし父親や夫が娘または妻の誓願を無効にすることができたのは、それを聞いた最初の日、すなわち、誓願を立てた最初の日に限られていました。9節にはやもめや離婚された女の誓願について語られていますが、それはすべて有効としなければなりませんでした。どんな神への誓いも守られなければならなかったのです。

いったいこのことは私たちに何を教えているのでしょうか。ここで、この誓願を立てている人に注目したいと思います。すなわち、ここで誓願を立てている人はみな女性であるということです。この30章では、誓願の中でも女性の人が立てる誓願について語られているのです。つまりイスラエル全体は最小単位である夫婦、家族から始まり、それが氏族、部族、そしてイスラエルの家全体へと広がっているということです。イスラエルは、それぞれの部族が共同体を形成しており、それぞれが一つになって物事を管理していかなければいけません。その最小単位が夫婦であり、家族だったのです。その夫婦や家族がどうあるべきなのか、そのことが教えられているのでするそれが民全体へと広がっていくからです。

それはイスラエル民族に限らずすべての組織に言えることではないでしょうか。たとえば、Ⅰテモテ3章4,5節には教会の監督の資格について語られていますが、その一つとしてあげられていることは自分の家庭をよく治めている人であるということです。「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもたちも従わせている人です。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」

教会のことについて教えられているのになぜ自分の家庭のことが出てくるのか。それは家庭が教会の最小単位だからです。それが地域教会、さらには神の国全体へと広がっていくのです。だから、家庭がどのように治められるかはとても重要なことなのです。この国全体の建て上げを考えても、実はそれぞれの家族がどうあるべきなのかがその鍵を握っていると言えるでしょう。

では家族はどうあるべきなのでしょうか。ここにはその秩序が教えられています。すなわち、家族のリーダーは父親であり、夫婦のリーダーは夫であり、その権威に従わなければならないということです。それは父親が必ずしも正しいとか、絶対であるという意味ではありません。また、夫が必ずしも優しく親切であるということではないのです。それは神が立てた秩序であって、その秩序に従って歩むことによって、家族全体が神の祝福の中で平和に過ごすことができるようになるということです。家の中で、もしある人が一つのことを決意して、他の人が別のことを決意して、その両方を同時に行なうことができないものであれば、どちらかを破棄しなければいけません。そこで、今読んだような定めがあるのです。娘が誓願を立て、父親が、それが家全体にとって良くないことであると判断したのならば、その誓願を禁じなければいけません。けれども、娘が誓願を立てていたことを聞いたその日に、それを禁じなければ、その誓願は有効としなければらないのです。

それは神の家族である教会にも言えることです。神は家族としての教会に指導者を立ててくださいました。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師です。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです(エペソ4:10-13)。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがないためです。ですから、教会にこうした指導者が与えられていることは本当に感謝なことなのです。もしこうした指導者がいなかったらどうでしょうか。神の教会がまとまることはないでしょう。各自、自分が思うことを主張するようになり、やりたいことをするので決してまとまることはありません。ですから、無牧の教会は悲惨なのです。牧者がいないのですから、どこに行ったらいいか、何をしたらいいか、わかりません。各自が自分の思った通りに行動します。それは楽でいいようですが不幸なことです。食べ物に預かることができず、やがて死を迎えることになることでしょう。だから神の家族である教会には年齢や性別、育った環境、置かれている状況など多種多様な人たちが集まっていますが、そうした中にあってこうした秩序を重んじ、それに従って一致して行動することが求められているのです。

それは、女だから口を出すな、ということはありません。黙っていればいいのね、黙っていれば・・ということでもないのです。女性であっても志を立てることはすばらしいことです。しかし、それが家族全体にとってどうなのかをよく吟味するためによく祈らなければなりません。そして教会の指導者たちの意見を聞き、その指導に従わなければならないのです。

また、男は、怒ったり言い争ったりせず、聖い手をあげて祈らなければなりません。そうすれば、妻や子どもに対してどうあるべきかが見えてくるでしょう。つまり、自分が家の主だかと言って傲慢にふるまうのではなく、自分の妻や娘の意見をよく聞いて、判断しなければならないということです。自分の妻が今何を考え、何を行なっているのかを見て、聞いて、彼女の意志を尊重しなければならないのです。ペテロは、「夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐものとして尊敬しなさい。」(Ⅰペテロ3:7)と勧めていますが、このことをわきまえて、妻とともに生活することが求められているのです。つまりキリストが夫婦の関係に求めた愛と服従の関係が、神の家族である教会の中でも、さらにありとあらゆる関係の中に求められているのです。