創世記18章

 聖書には、アブラハムは「神の友」と呼ばれています。(ヤコブ2:23,イザヤ41:8)それは、彼のある一つの行動を通してそう呼ばれるようになったというよりも、彼の生涯がまさにそのような歩みだったからです。しかし、このところには、彼がそのような光栄ある名が与えられるにふさわしい人物であったことがよく表されています。 

 1.旅人をもてなしたアブラハム(1-8) 

 まず1節から8節までをご覧ください。ある日、主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れてくださいました。彼は日の暑いころ、天幕の入り口にすわっていました。近東では、日中の暑さはものすごく、卵が焼けるほど暑いと言われています。そのような時に人々のたいていは家の中で休み、外で働くことはしません。アブラハムも天幕の入り口にすわり、休んでいました。そこに三人の人がやってきたのです。暑さのためただボーとしていたアブラハムは、何も考えることもなく地面に目をやったのでしょう。そして目を上げたとき、そこに三人の人が彼に向かって立っていました。そのときアブラハムはどのような行動を取ったでしょうか?2節には、「彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした」とあります。ここにアブラハムの信仰が生活の中に深く浸透していたことを見ることができます。旅人をもてなすことは神が命じておられることであり、神の民の義務でした(ヘブル13:2)。この当時は、今日のように旅館やホテルがあったわけではなく、こうした旅人をもてなすことが神の民の義務として、最高の徳であったわけです。まあホテルや旅館があるなしにかかわらず、こうやって人々をもてなすこと自体しもべのようになることですから、今日においてもとても大切な徳であると言えます。しかも素性のわからない人をもてなしたわけですから、それはただ信仰によってのみできたと言えるでしょう。3節の「ご主人」ということばは、下の欄外を見ると「主よ」となっていて、この時アブラハムがこの客を主なる神であるとわかっていたかのような印象がありますが、実際にはこの言葉は、「主人」とか「主」など、一般の客に対して使う丁寧な呼び方なので、必ずしも彼が神として認識していたわけではないことがわかります。ですから、アブラハムがここで三人の旅人をもてなしたのは、普通の旅人に対してごく自然にした行為だったのです。そして彼は、自分のもっている最上のものをもって、彼らをもてなしました。 

 2.主に不可能なことがあろうか(9-15) 

 次に9節から15節までをご覧ください。するとその旅人はアブラハムに尋ねました。「あなたの妻サラはどこにいるか」と。「天幕にいます」と告げると、その中のひとりが、こう言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのとこに戻ってきますが、そのとき、サラには、男の子ができている」と。

サラはそれを天幕のうしろの方で聞いていましたが、それを聞いていて、心の中で笑いました。なぜなら、彼女には普通の女にあることが止まっていたからです。もう子供を産めるような体ではなかったのです。だから、そんなことあり得ないと思ったのです。

すると主が、「サラはなぜ「私はほんとうに子を産めるだろうか。こんな年をとっているのに」と言って笑うのか」と告げました。主にとって不可能なことはありません。そして、主は続けてこう言われました。「わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」 するとサラは恐ろしくなったのか、「いいえ、笑いませんでした」と言って打ち消しました。 

 この13,14節の「主」は太字の主になっています。これは父なる神「ヤーウェー」のことです。ヘブル語では「יהוה (YHWH)」と書きますが、ユダヤ人たちは、神の御名を発音することを恐れ、「יהוה (YHWH)」という御名が出て来ると、それを「アドナイ」と読み替えました。アドナイとは、「我が主」という意味です。新改訳聖書で太字の「主」と、普通の「主」を使い分けています。太字の「主」はこのエホバなる主のことであり、太字でない「主」が出て来た場合は「יהוה (YHWH)」ではなく、普通名詞の「主」です。新約聖書に出てくる主はほとんどがイエスのことです。しかし旧約聖書からの引用箇所にある主はやはりエホバのことを指し示しています。エホバはイエスの父にあたります。そして、イエスは神の子です。ですから、両者とも「主」なのです。それはイエスが言われた、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)のことばからもわかります。ですから、これは人の子として生まれる前に、人として現れてくださったイエスご自身だったのです。 

その主イエスにとって不可能なことは一つもありません。これまでアブラハムに与えられた約束が実現していなかったのはそれが全く不可能なことだったからではなく、彼らの信仰の訓練のためだったのです。神には神の時があって、その時が満ちるとき、それが実現するのです。神にとって不可能なことは一つもないのです。神は人間には不可能に見えることでも可能にすることができる全能の神なのです。あなたはこのことを信じていますか。これが私たちの信仰です。ここで全能の主が人の姿をとって来られたというのも、このことを教えるためだったに違いありません。 

 3.とりなしの祈り手アブラハム(16-33) 

 最後に、16節から終わりまでを見ていきましょう。主はアブラハムにみこころを示し、これからソドムに対してなそうとしておられることを明らかにされました。それはソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重いため、彼らを滅ぼすということでした。するとアブラハムはどうしたでしょうか?23節からのところです。彼は驚き、かつ心配し、とりなしの祈りをしました。とりなしとは、その人に代わって祈ることです。ソドムとゴモラの滅びをわがことのように嘆き、神の怒りからソドムとゴモラを救おうとしたのです。なぜアブラハムはこんなに必死にとりなしたのでしょうか。それは、そこに甥のロトがいたからです。 

 アブラハムはどのようにとりなしたでしょうか。彼は大胆に祈りました。23節を見ると、「アブラハムは近づいて申し上げた」とあります。罪に汚れた人間が、聖く、正しい神に近づくなど考えられないことです。しかし、神とともに歩み、神の友と呼ばれたアブラハムは、大胆にも神に近づき、率直の自分の思いを打ち明けたのです。 

 第二に、彼は熱心に、忍耐強く祈りました。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか」と、もしそこに50人の正しい人がいたら、もしそこに50人に5人足りない45人がいたらと、最後には10人がいたら・・・と、忍耐強く祈っています。イエスは「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことを教えるために、あるしつこいやもめのたとえを話されました。(ルカ18章)神様が望んでおられるのは、私たちがあきらめないで、失望しないでいのることです。そうした祈りを聞いて、最後にはそれをかなえてくださるのです。 

 第三に、彼は謙遜に祈りました。27節を見ると、「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」とあります。また、30,32節を見ると、「主よ。どうかお怒りにならないでください」と言っています。彼は謙遜に、かつ大胆に、熱心に祈ったのです。 

 神様は大きな知恵と恵みをもってこの歴史を支配し導いておられます。その神の歴史の中に、私たちは祈りによって携わることができる恵みを与えてくださいました。それがとりなしの祈りです。ヘブル7:25には、「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしておられるのです」とあります。とりなしはその人に対する愛から生まれるものです。Ⅰテモテ2:1には、「すべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」とあります。とりなしは、神のみこころなのです。私たちもこの国が滅びることがないように、アブラハムのように神の前にとりなす者でありたいと願わされます。