民数記32章

きょうは民数記32章から学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

Ⅰ.ルベン族とガド族の願い(1-15)

「ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜を持っていた。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、ガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザルおよび会衆の上に立つ者たちのところに来て、次のように言った。「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン。これら主がイスラエルの会衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。」また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」

26章から、イスラエルが約束の地に入るための備えが語られていますが、そのような時、「ルベン族とガド族」から、モーセと祭司エリアザルに一つの願いが出されました。それは、ヨルダンの東側にあったヤゼルの地とギルアデの地を見るとその場所は家畜に適した場所だったので、その地を自分たちに与えてほしいということでした。そして、自分たちがヨルダン川を渡ることがないようにしてほしいというのです。なぜなら、彼らは非常に多くの家畜を持っていたからです。ミデヤン人たちからの戦利品としての家畜も加わり、たいへん多くなっていました。「ヤゼルの地とギルアデの地」は、彼らがエモリ人シホンを打ち破った時に占領したところです。モアブの地であるアルノン川からヤボク川までがヤゼル、ヤボク川からガリラヤ湖の南端へ走っているヤムルク川までがギルアデの地です。

それに対してモーセは何と答えたでしょうか。6節から15節までをご覧ください。

「モーセはガド族とルベン族に答えた。「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたは、ここにとどまろうとするのか。どうしてあなたがたは、イスラエル人の意気をくじいて、主が彼らに与えた地へ渡らせないようにするのか。私がカデシュ・バルネアからその地を調べるためにあなたがたの父たちを遣わしたときにも、彼らはこのようにふるまった。彼らはエシュコルの谷まで上って行き、その地を見て、主が彼らに与えられた地にはいって行かないようにイスラエル人の意気をくじいた。その日、主の怒りが燃え上がり、誓って言われた。『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは主に従い通したからである。』主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで主の目の前に悪を行なったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた。そして今、あなたがた罪人の子らは、あなたがたの父たちに代わって立ち上がり、イスラエルに対する主の燃える怒りをさらに増し加えようとしている。あなたがたが、もしそむいて主に従わなければ、主はまたこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたはこの民すべてに滅びをもたらすことになる。」

モーセは怒って言いました。彼らの兄弟たちは戦いに行くというのに、彼らはそこにとどまろうとするのか。どうしてそのようにイスラエル人の意気をくじいて、主が彼らに与えられた地へ渡らせないようにするのか。それはかつてイスラエルがカデシュ・バルネアからその地をさぐらせるために遣わしたときにふるまったことと同じではないか。神が、上って行って、そこを占領せよ、と仰せられたのに、彼らは従わなかったので、主の怒りを招くこととなり、四十年間荒野をさまようことになってしまいました。それと同じことだというのです。そして、もし主のみことばに背いて主に従わなければ、主はまたこの民を見捨てられると言いました。それは全く自己中心的な願いであると言ったのです。

主がヨルダン川東岸の民を追い出されたのは、そこにイスラエルが定住するためではありませんでした。それは彼らがイスラエルに敵対し、戦いを挑んできたからに過ぎません。また主が彼らの家畜を増やされたのもそこに住むためではなく、彼らが約束の地で生活するためでした。彼らが住むところはあくまでもヨルダン川を渡ったカナン人の地なのに、たまたま住むのに良さそうだからという理由で、これらのものを自分のものにしようとするのはよくありません。   これは、私たちクリスチャンにもよくあることです。私たちはよく、 「私たちの願いがかないますなら」 と言って、自分の願い、自分の思いを満たすことを神の教会に求めてしまうことがありますが、それは間違っています。教会は自分の願いをかなえるところではなく、神の願い、神のみこころを行うために集められた所です。それなのに、自分の都合だけを考えて満足を得ようとするのは、このルベン族やガド族が抱いていた思いと同じことです。今の状態のままでいたい、これから前進しなくてもいい、このままの状態で留まっていたいと願うのは、ここでルベン族とガド族が言っていることと同じことなのです。私たちはもう一度考えなければなりません。自分が救われたのは何のためか、何のために教会に集められたのか・・・を。それは自分の願いをかなえるためではなく、神のみこころを行うためなのです。

Ⅱ.ルベン族とガド族の誓い(16-32)

それに対して、彼らは何と言ったでしょうか。16節から19節までをご覧ください。

「彼らはモーセに近づいて言った。「私たちはここに家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。しかし、私たちは、イスラエル人をその場所に導き入れるまで、武装して彼らの先頭に立って急ぎます。私たちの子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。私たちは、イスラエル人がおのおのその相続地を受け継ぐまで、私たちの家に帰りません。私たちは、ヨルダンを越えた向こうでは、彼らとともに相続地を持ちはしません。私たちの相続地は、ヨルダンのこちらの側、東のほうになっているからです。」

それを聞いた彼らは、自分たちはイスラエルが約束の地に入るまで、武装して、先頭に立って戦うと言いました。イスラエル人がおのおのその相続地を受けるまで、自分たちの家には帰らないと明言したのです。これは一見、主のみこころに従って、自分の分を果たしているかのように思えますが、しかし、根本的にはやはり自分の願いを通しているにすぎません。結局、ヨルダン川東岸を自分の土地にするということには変わりがないからです。自分たちを完全に明け渡していないのです。こうするから、こうしてくださいという、条件付きの従順です。それは主が求めておられることではありません。主が求めておられることは無条件で従うことです。その後のことは主が最善に導いてくださると信じて主にゆだねることなのです。

時々、私たちも、主のみこころに自分自身を明け渡すこのではなく、このように条件を付けて、少し距離を取りながら、自分の願いをかなえられようとしていることはないでしょうか?そして、付け足しのように、お手伝いをして、自分も主に仕えているかのように振る舞っていることはないでしょうか。心の深いところにある動機を聖霊によって探っていただく必要があります。そして、純粋に主に従う者でありたいと思います。

それでモーセはどうしたでしょうか。20節から32節までをご覧ください。

「モーセは彼らに言った。「もしあなたがたがそのようにし、もし主の前に戦いのため武装をし、あなたがたのうちの武装した者がみな、主の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。しかし、もしそのようにしないなら、今や、あなたがたは主に対して罪を犯したのだ。あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。あなたがたの子どもたちのために町々を建て、その羊のために囲い場を作りなさい。あなたがたの口から出たことは実行しなければならない。」ガド族とルベン族はモーセに答えて言った。「あなたのしもべどもは、あなたの命じるとおりにします。私たちの子どもたちや妻たち、家畜とすべての獣は、そこのギルアデの町々にとどまります。 しかし、あなたのしもべたち、いくさのために武装した者はみな、あなたが命じられたとおり、渡って行って、主の前に戦います。」 そこで、モーセは彼らについて、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエル人の部族の諸氏族のかしらたちに命令を下した。モーセは彼らに言った。「もし、ガド族とルベン族の戦いのために武装した者がみな、あなたがたとともにヨルダンを渡り、主の前に戦い、その地があなたがたの前に征服されたなら、あなたがたはギルアデの地を所有地として彼らに与えなさい。もし彼らが武装し、あなたがたとともに渡って行かなければ、彼らはカナンの地であなたがたの間に所有地を得なければならない。」ガド族とルベン族は答えて言った。「主があなたのしもべたちについて言われたとおりに、私たちはいたします。私たちは武装して主の前にカナンの地に渡って行きます。それで私たちの相続の所有地はヨルダンのこちら側にありますように。」

それでモーセは、もし彼らが主の前に戦いの武装をし、ヨルダン川を渡って、その敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服された後に帰るのであればいいと、それを許しました。その結果どうなったでしょうか。32節から42節までをご覧ください。

 

Ⅲ.新しい名を付けたガド族とルベン族 (33-42)

「そこでモーセは、ガド族と、ルベン族と、ヨセフの子マナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土とを与えた。そこでガド族は、ディボン、アタロテ、アロエル、アテロテ・ショファン、ヤゼル、ヨグボハ、ベテ・ニムラ、ベテ・ハランを城壁のある町々として、または羊の囲い場として建て直した。また、ルベン族は、ヘシュボン、エルアレ、キルヤタイム、ネボ、バアル・メオン・・ある名は改められる。・・またシブマを建て直した。彼らは、建て直した町々に新しい名をつけた。マナセの子マキルの子らはギルアデに行ってそこを攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。それでモーセは、ギルアデをマナセの子マキルに与えたので、彼はそこに住みついた。マナセの子ヤイルは行って、彼らの村々を攻め取り、それらをハボテ・ヤイルと名づけた。ノバフは行って、ケナテとそれに属する村落を攻め取り、自分の名にちなんで、それをノバフと名づけた。」  ここにヨセフの子マナセの半部族も加わっていることがわかります。モーセは、ガド族とルベン族とマナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土を与えました。彼らは自分たちのために町を建て、その建て直した町々に新しい名をつけましたが、それはすべて自分たちの名前にちなんでつけました。神ではなく自分の名前です。ここに彼らの本心が表れているのではないでしょうか。主のみこころを求めず、自分のことで満足しているならば、結局それは自分自身を求めていることなのです。

そうした自分中心の信仰には、やがて必ず主の正しいさばきがあることを覚えておかなければなりません。彼らはモーセに約束したように、確かにヨルダン川を渡って、他の部族とともに戦いました。そして、ヨルダン川の東側を自分たちの所有としました。しかし、その後歴史はどうなったでしょうか。イスラエルがカナンを占領して後、ダビデの時代に統一王国となりますが、その後、国は二分され、ついに外国によって滅ぼされることになります。その時最初に滅ぼされたのはガド族とルベン族でした。彼らはアッシリヤ帝国によって最初の捕囚の民となりました。そして、主イエスの時代には、そこはデカポリスという異邦人の地になっていました。マルコの福音書5章には、イエスさまがゲラサ人の地に行ったとき、そこで汚れた霊につかれた人から霊を追い出し、それを豚に乗り移させたという記事がありますが、それがこのデカポリス地方、ゲラサ人の地、ガダラ人の地だったのです。この「ガダラ人の地」とはガド族の人々の土地という意味で、そこは悪霊がたくさんいました。そこはユダヤ人が豚を飼うほど異教化していたのです。

ですから、私たちの信仰生活においても、自分の満足を求めるだけで神のみこころに歩もうとしなければ、このガド族やルベン族が歩んだのと同じ道を歩むことになることを覚え、ますます主のみこころに歩んでいきたいと思います。