ヘブル4章1~13節 「神の安息は残されている」

 きょうは、ヘブル4章のみことばから、「神の安息は残されている」というタイトルでお話します。 

 現代は忙しさと不安の時代です。「忙しいですか」という言葉が挨拶になっているくらいです。もしも「いや、そんなに忙しくもないですよ」と答えようものなら、「この人は何をしているのだろう」という目で見られ、落ちこぼれではないかと思われかねません。しかし、「忙しい」という字は「心が亡びる」と書くように、それは滅びへの道を邁進しているとも限らないのです。もちろん、毎日忙しい生活を送りながらも充実した日々を送っている人もいますが、そうした忙しさの陰にあって、心のどこかで不安を隠すことができないというのも事実です。こんなに一生懸命に仕事をしているのにリストラにされたらどうしよう。その先どうやって生活していったらいいのか。家族はどうなってしまうのだろう。リストラに遭わなくても病気になって働けなくなるかもしれないし、そしたら自分はどうなってしまうのだろうか、といった不安もあります。要するに現代は先が見えない時代なのです。だからみんな不安を感じているのです。このような忙しさと不安の時代にあっても、身も心も休まるような安息が与えられるとしたらどんなに幸いなことでしょうか。きょうは、この安息について三つのことをお話したいと思います。 

 Ⅰ.聞いたみことばを、信仰によって、結びつける(1-3a) 

 まず1節から3節までをご覧ください。1節には、「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」とあります。 

 「こういうわけで」とは、どういうわけで、でしょうか。これは3章の後半で語られていたことを受けてのことです。そこには、荒野でのイスラエルの不信仰について語られていました。彼らは何度も何度も神のみわざを見て、神の恵みを体験したにもかかわらず、ちょっとでも自分たちの状況が悪くなると、すぐにモーセにつぶやきました。その結果、カデシュ・バルネアというところで決定的なことが起こりました。それは3節にあるように、神が彼らに、「決してわたしの安息に入らせない。」と言われたのです。それは、彼らが神を信じなかったからです。神は彼らに、「上って行って、占領せよ。」と命じられたのに、それに従いませんでした。その地を偵察するために12人の偵察隊を遣わすと、その内の10人が否定的な報告をもたらしました。それを聞いた彼らは、上って行くことはできないと結論してモーセにつぶやいたのです。それで神は怒られ、「彼らの先祖たちに誓った地を見ることはできない」と宣言されたのです。その結果、彼らは荒野で滅びてしまいました。約束の地に入ることができなかったのです。ただ最後まで従い通したヨシュアとカレブだけが入ることができました「そういうわけで」です。

そういうわけで、神の安息はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないことがないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか、というのです。どういうことでしょうか。ここでこの手紙の著者は、モーセの時代のイスラエルの不信仰を例に取り上げて、キリストによって成し遂げられた救いのみわざを信じないで真の安息に入れないというようなことがないように、この救いのみわざにしっかりとどまろうと勧めているのです。 

ご存知のように、この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らの中には激しい迫害のゆえにモーセの律法を中心としたかつての生活に逆戻りしようとする人たちがいました。しかし、モーセの時代でも不信仰によって神が約束してくださった安息に入ることができなかったのであれば、ましてやモーセよりも偉大なイエス・キリストによってもたらされた救いのみわざを信じなければ真の安息に入ることはできないのだから、万が一にもそういうことがないように、この救いのみわざにしっかりとどまろうと励ましているのです。すなわち、モーセの時代の神の安息の話から、キリストによってもたらされた真の安息の話へと話題を展開しているのです。皆さん、いったいどこに本当の安息があるのでしょうか。イエスはこう言われました。 

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

 本当の安息はイエス・キリストにあります。あなたがキリストのもとに行くなら、あなたはたましいにやすらぎを得ることができます。なぜなら、あなたの罪が赦されるからです。罪が赦されると神との平和が回復するので、あなたの心の深い部分に神の平安がもたらされるのです。これが真の安息です。私たちは肉体が疲れたら休まなければなりません。休まないで働き続けるとどうなりますか。必ずガタがきます。知らず知らずのうちに疲れが蓄積されて身体に変調をきたすようになるのです。だから疲れたら休まなければなりません。それは私たちの心も同じです。私たちの心にも休息が必要なのです。いったいどこで休息を得ることができるのでしょうか。心が疲れているとき、どんなにリポビタンDを飲んでも解決にはなりません。心が疲れたときはキリストのもとに行かなければなりません。キリストのもとに行くならたましいにやすらぎを得ることができます。それはこの地上の表面的で一時的なやすらぎとは違います。世の波風が吹き荒れても決して動じない天国の安息です。私たちはこの地上でその前味を味わう時がありますが、やがて天に行く時その完全な安息を味わうことでしょう。この安息があなたのためにまだ残されているのですから、万が一にもこれに入れないことがないように注意しなければなりません。 

 ではどうしたらこの安息に入ることができるのでしょうか。2節と3節前半をご覧ください。

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。「信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。」 

「福音」とは「良い知らせ」のことです。モーセの時代の良き知らせとは何だったのでしょうか。それは、神の約束の地に入ることでした。彼らはそれまでずっとエジプトの奴隷でしたが、そこから解放されて乳と蜜の流れる地へ入れられるとの約束が与えられました。それが彼らにとっての良い知らせだったのです。それと同じように、私たちも良い知らせを聞きました。どんな知らせですか。神の御子イエス・キリストの十字架の贖いによって罪の奴隷から解放され、天の御国に入れていただけるという知らせです。私たちが何かをしたからでなく、またできるからというわけでもなく、何もできない私たちを神は愛して下さり、私たちのために御子イエス・キリストをこの世に遣わし、この方が私の罪のために死んでくださり三日目によみがえられたことによって、その名を信じる者に罪の赦しと永遠のいのちが与えられるという知らせです。これはグッド・ニュースではないでしょうか。 

けれども、どんなに良い知らせを聞いても、その聞いたことばを、信仰によって結びつけることがなければ全く無意味です。モーセの時代のイスラエルの人々はそうでした。彼らはエジプトから救われて神が約束した地に導いてくださるということばを聞いたのに、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。なぜ?それを聞いた人たちに、信仰によって、結び付けられなかったからです。 

皆さん、神のみことばを聞くことは大切なことですが、聞いても信じなければ意味がありません。イエスは種まきのたとえ話の中でこう教えられました。

「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:3~9) 

 種とは、神のことばのことです。農夫が種を蒔いたら四つの地に落ちました。道ばた、岩地、いばら、良い地です。道ばたに落ちた種はどうなったでしょうか。鳥が来て食べてしまいました。それはみことばを聞くとすぐにサタンがやって来てみことばを奪って行くので、実を結ぶことができない人のことです。                                        岩地に落ちた種はどうなったでしょうか。岩地に落ちた種は、土が柔らかく温かかったのですぐに芽を出しましたが、日が上ると焼けて、すぐに枯れてしまいました。根がなかったからです。これは、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れますが、根を張っていないので、しばらくの間そうしているだけで、困難や迫害があるとすぐにつまずいてしまい、実を結ぶことができない人のことです。   いばらの中に蒔かれた種はどうなったでしょうか。いばらが伸びて、ふさいでしまうので、実を結ぶことができませんでした。これはみことばを聞いて成長しますが、この世の心遣いや富の惑わしといったものでみことばが塞がれるため実を結ぶことができない人のことです。いい線までは行くのですが、そうしたいばらによって首が絞められるため実を結ぶことができないのです。          しかし、良い地に蒔かれた種は、30倍、60倍、100倍の実を結びました。これは、神のみことばを聞いて、それを悟人のことです。すなわち、神のことばを聞いて、それを信仰によって、結び付ける人のことです。そういう人は何倍もの実を結ぶのです。 

三恵(さんね)という言葉があります。聞恵(もんえ)、思恵(しえ)、そして修恵(しゅえ)です。聞恵(もんえ)とは、見たり、聞いたりするだけの知恵(知識・情報)です。思恵(しえ)とは、その見たり、聞いたりしたことを心の中で思い巡らし、「ああ、わかった」と悟ることです。でも、まだ体で受け取るまでにはいっていません。そして、修恵(しゅえ)とは、見たこと、聞いたことを思い巡らして悟り、その学んだことを実際の生活の中に生かしていくことです。神の言葉を信仰によって結びつけるとは、神の言葉をただ聞くだけでなく、また、そのことを思い巡らすだけでもなく、それをしっかりと心に結び付け実際の生活に生かす。      信仰の実を結ぶ原則は実にシンプルです。すなわち、神のみことばを聞き、それを心に結び付けることです。みことばを聞いて信じるなら実を結びますが、聞いても信じなければ、実を結ぶことはできません。実に単純なことです。 

 あるひとりの少女が言いました。「あたし、天国に行くとき、あたしの聖書を持っていくわ」。「どうしてなの」と尋ねると、その少女はこう答えました。「もしイエスさまが、あたしにどうして天国なんかに来たかって言ったら、マタイの福音書11章を開いて、「だって、わたしのところに来なさいとおっしゃったではありませんか」と言うのよ。」                    なんと単純な信仰でしょう。信じた私たちは安息に入るのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。」と言われる主のことばを信じて、単純に罪を悔い改め、イエスさまのもとに行こうではありませんか。 

 Ⅱ.神の安息はまだ残されている(3b~10) 

 次に、3節後半から10節までをご覧ください。

「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」

これはどういうことでしょうか。3節と4節の、「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある箇所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。」というのは、創世記2章2節のみことばからの引用です。神はこの天地万物を造られたとき六日間で造られ、七日目には、なさっていたすべてのわざを休まれました。この「休まれた」というのは、すべてが完成したとか、終わったという意味です。私たちは六日間働くと疲れて七日目に休みますが、神は私たちのように疲れることはありません。ですから、そういう意味で休まれたのではないのです。六日間ですべてのものを造られ、完成したという意味です。もう何も付け加えるものはありません。人が住むための最高の環境が備えられたので、「それは非常に良かった」と言われたのです。満足されたわけです。ところが、その満足が破壊される出来事が起こりました。それは人間の罪です。神が、食べてはならないと命じられていた木から取って食べてしまったので、その神との平和が断たれてしまったのです。断絶したのです。                                                        しかし、それでも神はあきらめませんでした。神はあわれみ深い方なので、その壊れた関係を修復し本来の関係に回復しようと、救い主をお遣わしになったのですが、それが主イエス・キリストです。イエス・キリストは私たちを罪から救うために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえってくださいました。それによって私たちの罪の贖いを完成してくださったのです。それでイエス・キリストを信じる者には、元々あった神との平和な関係、神の安息、永遠のいのちが与えられるようになりました。ですから、イエスは十字架の上でこのように叫ばれたのです。                                             「完了した」(ヨハネ19:30)                                            罪のための贖いは完了しました。これに付け加えるものは何もありません。イエスがあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださったので、あなたが罪のために支払わなければならない代価はすべて完全に支払われました。あなたはこのイエスによって罪から解放されたのです。                                                     この罪の赦し、永遠のいのち、天の御国の安息に入るために、旧約聖書ではそのひな型を示し、神を信じるようにとずっと勧められてきましたが、その一つが神の約束の地カナンであり、神殿の至聖所であったわけです。                    それらはこのキリストによる神の安息、天国のひな型だったのです。 

 しかし、モーセの時代、イスラエルは不信仰だったので、この安息に入ることができませんでした。それが5節と6節に書かれてあることです。モーセの時代、彼らは不信仰だったので、神は、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。そして、「その安息に入る人々がまだ残っており」とも言われました。これはどういうことかというと、この安息がまだ残されているということです。もしモーセの時代に安息が終わっていたのであれば、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」とか、「その安息に入る人々がまだ残っている」とは言わなかったでしょう。神の創造のわざは完成しましたが、罪によって失われた安息を回復することができるように、神は今もその働きを続けておられるということなのです。 

 それは7節を見てもわかります。ここにはモーセの時代よりもずっと後のダビデの時代のことが言及されています。神はダビデを通しても、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」と言われました。それは、ダビデの時代にも安息に入る人たちが残っていたということです。つまり、モーセの時代も、ダビデの時代にも、神はご自分の安息の中に人々を入れるように招き続けておられたということなのです。つまり、神の安息はまだ残されているということです。その安息こそキリストによってもたらされた神の国、永遠のいのちのことだったのです。 

神の創造のわざは終わっていますが、神の安息はまだ残されています。最初の人が罪を犯したことで神との関係が損なわれてしまいましたが、神はその壊れた関係を修復し、私たちがこの安息に入るようにと今に至るまでずっと働いておられるのです。この安息はあなたのために、神の民のためにまだ残っているのです。いったいどうしたらこの安息に入ることができるのでしょうか。 

 Ⅲ.神のみことばには力がある(11-13) 

ですから、最後に11節から13節までをご一緒に読みたいと思います。

「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」 

 ですから、この手紙の著者はこう勧めるのです。「ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」

ここには、「この安息に入るように力を尽くして努め・・・」とありますが、休息と努力とは全く反対のように思えます。しかし、真の安息とは、何もしないで手ぶらで遊んでいて与えられるものでありません。むしろ、すべてを造られ、すべてを支配しておられる神を知り、その神が遣わされた救い主を信じ、その中にしっかりととどまっていることによってこそ得られるものなのです。この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、さまざまな教えの波にもて遊ばれて、中にはキリストの福音から離れて行く人たちもいました。それでは神の安息に入ることはできません。神の安息に入るためには、聞いたみことばにしっかりととどまっていなければならないのです。あのイスラエルの不従順のように、落伍する者がないように、力を尽くして努力しなければならないのです。 

それは私たちも同じです。私たちも聞いたみことばを受け入れて、それを心に結び付け、しっかりとそこにとどまっていなければなりません。私たちは時々、もっと努力をしなければ救われないのではないかと焦ることがあります。神のためにもっと奉仕をしなければならないのではないか、もっと献金をしなければならないのではないかといった思いにかられることがありますが、そうした人間の努力によっては救われることはありません。私たちが救われるのはただ神の恵みによるのであって、神がしてくださった十字架のみわざを信じることによってのみなのです。私たちが良いことをするのは救われるためではなく、救われたからです。神がこんな者をも愛して救ってくださったので、その恵みに応答したいからであって、そうでないとだんだんと疲れてくるのです。私たちはいつもいろいろな教えを聞きますが、そうした教えに押し流されないように、しっかりと神の恵みに、信仰にとどまっていなければなりません。 

その恵みにとどまらせるものは何でしょうか。この安息に入るために、信仰にとどまらせてくれるものは何でしょうか。それが神のみことばです。なぜなら、神のみことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるからです。神は造られたすべてのものを完全にご存知であられ、心の奥底まで探り極められる方です。神はみことばによって私たちの心を探り、なにが良いことで完全なものであるかを示してくださるのです。 

この神のみことばがあなたを救います。このみことばが聖霊を通してあなたに働かれるとき、あなたは罪について、さばきについて、救いについて悟り、イエス・キリストを救い主として信じることができるようになるのです。なぜなら、聖霊によらなければ、だれもイエスを主と告白することはできないからです。 

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

この十字架の神のことばは、私たちに永遠のいのち、神の安息へと導いてくれます。私たちの人生の良し悪しを最終的に決めるものは何ですか。それは私たちの将来がどうであるかということです。今がどんなに良くても将来が永遠の滅びであったとしたら、何の意味もありません。しかし、キリストの福音は、あなたに輝かしい将来を約束しています。それは永遠のいのちです。福音は私たちに現在の救いを与えるばかりではなく、永遠のいのちを与えてくれるのです。 

ある船頭さんがひとりの物知り博士を乗せて、夜、小さな船で海を渡っていました。しばらくして、その物知り博士が船頭に言いました。                                                         「きみ、きみは天文学のことを知っているかね?」                                      「いや先生、私はいっこうに天文学のことは知りません」船頭がそう答えると、                                                      「きみ、あのね、太陽系以外で一番近い星でも地球からは6兆マイルも離れているんだよ。きみ、天文学のことを知らなければ人生を半分知らないと言ってもいいよ」                                                   しばらくするとまた、その物知り博士は船頭に言いました。                                         「きみ、きみはいつでも海の上を渡っているけれども、この海のことを知っているかね?」                                船頭が「あまり専門的なことはしりません」と答えると、                                        「きみ、海のことを知らないようでは人生の半分は知らないんだよ、いまに人間はこの海の水からエネルギーを取るようになる」  などといろいろなことを偉そうに言っていました。                                         ところが、急に突風がやって来て、船の中に水が入り始めました。                                       そのとき船頭は、「先生、あなたは泳ぎを知っていますか?」と言うと、                                その物知り博士は、「いや、私は泳ぎを知らない」と答えました。するとその船頭が言いました。                             「先生、天文学を知っていても海洋学を知っていても、泳げなければオダブツですね。」

皆さん、私たちにどんなに知識があり、どんなに文化的な生活をしていても、私たちが永遠のいのちを持っていなければ、永遠の世界において生きるということを知っていなければ、ほんとうにオダブツなのですそのことを私たちに教えてくれるのが神のことばです。十字架のことばは滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。

どうかこの神のことばを知ってください。神のことばを聞いて、幼子のように素直に信じてください。そうすれば、あなたはキリストにある永遠のいのちを得ることができるのです。神の安息はあなたのためにまだ残されているのです。この安息に入れるように、あなたもイエス・キリストを信じて救われてください。