申命記2章

きょうは、申命記2章から学びます。まず1節から8節までをご覧ください。 

Ⅰ.エサウの子孫に戦いをしかけてはならない(1-8) 

「それから、私たちは向きを変え、主が私に告げられたように、葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイル山のまわりを回っていた。主は私にこう仰せられた。「あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け。民に命じてこう言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。 彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。そして、私たちはモアブの荒野への道を進んで行った。」 

カデシュ・バルネアでの出来事によって約束の地に入れないと宣告されたイスラエルの民は、再び荒野を放浪することになりました。セイル山の回りというのは死海とアカバ湾の間の地域のことです。彼らはそこをグルグルと38年間も回っていたのです。その時主は彼らに、「北のほうに向かって行け。」と仰せになられました。そこはエサウの子孫エドム人が住んでいた所ですが、彼らに争いをしかけてはならない、と命じられたのです。なぜでしょうか。それは、主がエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからです。エサウはイスラエルの先祖アブラハムの子イサクの双子の兄弟で、彼らにとっては親戚にあたる民族です。神はヤコブを選ばれ、彼をイスラエルと改名して、彼から12の部族が誕生しました。それがイスラエルの起源です。けれども、エサウにも彼が所有する地を与えておられたのです。使徒17章26節に、「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全地に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」とありますが、それはイスラエル民族だけではなく、すべての民族に対しても同じようにしてくださったのです。このことは神が愛しておられるのはご自分が選ばれ、ご自分の民とされたイスラエルだけではないということです。神はイスラエルに約束の地を与えてくださいましたが、エサウにも、他の民族にも同じように与えておられるのです。 

6節をご覧ください。食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければなりませんでした。これはどういうことでしょうか。これまではどうであったかというと、食物は神が天からマナを降らせて養い、水は岩から流して与えてくださいました。しかし、これからは自分で食べ物も飲み物も得なければなりません。なぜなら、神は彼らに乳と蜜の流れる地へ導いてくださるからです。乳とは家畜の乳のことであり、家畜を飼うに適した地という意味です。また、蜜とは蜂蜜のことではなくくだものの蜜のことです。すなわち、そこは農耕にも適した地であるという意味です。神はそのようなすばらしい地を与えてくださるのですから、これからは自分で買って食べなければなりません。いつまでもマナが降るわけではありません。いつまでも岩から水が流れるわけではありません。神は必要な時には必ず与えてくださいますが、それはいつまでもそこに甘んじていてはならないのです。約束の地に導かれたなら、それが止むのです。ヨシュア5章11節と12節を見ると、彼らがカナンの地に入り、そこで過ぎ越しのいけにえをささげた翌日から、マナが降るのがやんだので、彼らはカナンの地で収穫したものを食べました。このように神はどのような状態でも、私たちを祝福して守ってくださるのです。それが7節で言われていることです。「あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」これはイスラエルがエドムを通る時も同じで、主は彼らが事欠くことがないと励ましてくださいました。主はなんとすばらしい方でしょうか。彼らが荒野を旅する時でも、彼らが一度も飢えることがないように、すべての必要を満たし続けてくださったのです。

それはイスラエルに対してだけではありません。私たちに対しても同じです。クリスチャンになって何年、何十年と辛いこと、苦しいことはありましたが、振り返ってみると、一度も事欠くようなことはありませんでした。主はすべての必要を満たし続けてくださいました。あれがない、これがないと言ったことはありましたが、それでもすべてを備えてくださいました。私たちの主はそのようにあわれみ深く、忠実な方なのです。 

Ⅱ.モアブに敵対してはならない(9-15) 

次に9節から15節までをご覧ください。

「主は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。そこには以前、エミム人が住んでいた。強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かった。アナク人と同じく、彼らもレファイムであるとみなされていたが、モアブ人は彼らをエミム人と呼んでいた。ホリ人は、以前セイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにして、彼らに代わって住んでいた。ちょうど、イスラエルが主の下さった所有の地に対してしたようにである。今、立ってゼレデ川を渡れ。」そこで私たちはゼレデ川を渡った。カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。主が彼らについて誓われたとおりであった。まことに主の御手が彼らに下り、彼らをかき乱し、宿営のうちから絶やされた。」 

ここでは、「モアブに敵対してはならない」と言われています。なぜでしょうか。モアブはアブラハムの甥ロトが先祖だからです。ロトはソドムとゴモラを選び取りそこに住んでいましたが、あまりにも激しい堕落のゆえに神によって滅ぼされてしまいました。けれども、アブラハムの必死のとりなしによってロトとその家族は救出されたのですが、ロトの妻は後ろを振り返ってはならないと言われたにもかかわらず振り返ってしまったので、塩の柱になってしまいました。残されたロトの二人の娘はどうやって子孫を残すでしょうと考えた末、父親のロトと関係を持つことによって子供をもうけました。そのようにして生まれたのがモアブとアモンです。ですからモアブもイスラエルの親戚にあたる民族なので、彼らに敵対してはならないし、彼らに争いをしかけてはならないと言われているのです。 

ところで、そのモアブ人の住んでいたところにはかつてエミム人が住んでいましたが、このエミム人は強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かったのですが、彼らはそんなエミム人を追い払い、自分たちの領土にしていたのです。 

それはあのエサウの子孫が住んでいたセイルの地も同じです。そこにはかつてホリ人が住んでいましたが、彼らはこのホリ人を追い払い、根絶やしにして、そこを占領し住んでいたのです。 

何が言いいたいのかというと、エドム人やモアブ人は、そこに背が高いレファイムがいても、自分たちの手で勇敢に戦い、その地を攻め取ったということです。その一方でイスラエルはどうだったかというと、彼らは約束の地を前にして、そうした巨人たちがいるのを見て恐れおののき、戦おうとしませんでした。その結果、約束の地へ入ることができませんでした。 

これはどういうことでしょうか。神の民であるクリスチャンの中には、目の前にこうした巨人たちがいると尻込みして戦おうとしない人たちが多いということです。ちょっとでも辛いこと、苦しいこと、試練などがあると、「ああ、私はもうだめだ。」「私はなんてかわいそうな人間なんだろう」と悲観的になったり、自己憐憫に陥ってしまい、戦いを避けようとする傾向があります。でもモアブ人やエドム人はどうだったかというと、彼らは異教徒であったにもかかわらず勇敢に戦って、自分たちの手でその地を占領しました。これは全く逆ではないでしょうか。私たちには全能者である神がともにおられるのです。私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです、とあるのに、実際はできません、だめだと言って、戦おうとしないのです。ノンクリスチャンには神がいないので、自分でやるしかありません。自分を鼓舞して、自分の力を信じて、だめもとでチャレンジします。私たちはダメもとどころか、真の力の源であられる主イエスがともにおられるのです。それがみこころだったら、主が必ず与えてくださるはずです。主が真の解決者なのです。私たちこそ主の力を信じて、すべてを主にゆだねて、開拓して、パイノニアの精神で、切り開いていく者でなければなりません。Ⅰコリント10章13節にはこうあります。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

 何が脱出の道ですか。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」ですから、イエスが道です。イエスが脱出の道です。私たちにはその道が与えられているのです。ですから、主が命じられることならば、恐れないで、チャレンジしていかなければなりません。 

「ゼレデ川」とは死海の南端に水が入っていく、モアブとエドムの国境にもなっている渓谷です。これからゼレデ川を渡ってモアブの地に入ります。カデシュ・バルネアからゼレデ川を渡るまでの期間は38年でした。エジプトを出たのはさらに1年数か月前のことでしたから、エジプトを出てから実に四十年かかりました。40年というのは一世代のことですから、この間にエジプトを出たときに二十歳以上であった人たちはみな荒野で死に絶えてしまいました。 

Ⅲ.アモン人に敵対してはならない(16-23) 

次に16節から23節までをご覧ください。

「戦士たちがみな、民のうちから絶えたとき、主は私に告げて仰せられた。「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。・・そこもまたレファイムの国とみなされている。以前は、レファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた。それは、セイルに住んでいるエサウの子孫のために、主が彼らの前からホリ人を根絶やしにされたのと同じである。それで彼らはホリ人を追い払い、彼らに代わって住みつき、今日に至っている。また、ガザ近郊の村々に住んでいたアビム人を、カフトルから出て来たカフトル人が根絶やしにして、これに代わって住みついた。・・」 

 ここには、ロトと彼のもう一人の娘との間に生まれたアモンの子孫のことについて、彼らに敵対してはならないと言われています。それは彼らがロトの子孫であり、彼らの親戚にあたる人たちだからです。アモン人もまたザムズミズ人という巨人、レファイムを打ち破り、その地を占領していました。それは強大な民であって数も多く、アナク人のように背が高かったが、主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいたのです。それはエサウの子孫やモアブの子孫たちと同じです。ちなみに、ここに「カフトル」から出てきた民のことが言及されていますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。これはペリシテ人のことです。彼らはクレテから始まる、地中海沿岸地域に住みつき、イスラエルの地ではガザ地区辺りに住んでいた民族でありますが、彼らはガザ近郊の村々に住んでいたアピム人を、根絶やしにして、代わりに住みついていました。 

ここでおもしろいことは、11節や12節でモアブやエサウの子孫たちがその地を占領した時の経緯と違い、ここには「主が」という言葉があることです。「主がこれを根絶やしにされたのです・・・」(21)、「主が彼らの前からホリ人を根絶やしにされたのと同じである。」これはどういうことでしょうか。これは、モアブやエサウの子孫たちが占領した時にも、主が働いておられたということです。主が働いておられたので、彼らもその地の住人を追い払うことができたのです。ノンクリスチャンの背後にも主が働いておられるのです。ノンクリスチャンは自分の手腕によって成功したかのように考えているかもしれませんが、そうではなく、その背後に主が働いておられ、主がその人に能力を与え成功に導いてくださったのです。ローマ1章21節を見ると、「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」とありますが、このことを認めず、神に感謝しないと、彼らの思いは暗くなってしまいます。このことをしなかったエドムも、モアブも、アモンも、今日は存在していません。彼らは神を神としてあがめなかったので滅びてしまったのです。それは今日も言えることで、ノンクリスチャンの背後にも神が働いておられるということを認め、神に感謝しなければ、その人もまた滅ぼされてしまうことになってしまいます。 

Ⅳ.ヘシュボンの王シホンと戦いを交えよ(24-37) 

最後に24節から37節までを見ておわります。

「立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。そこで私は、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言った。「あなたの国を通らせてください。私は大路だけを通って、右にも左にも曲がりません。食物は金で私に売ってください。それを食べます。水も、金を取って私に与えてください。それを飲みます。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。セイルに住んでいるエサウの子孫や、アルに住んでいるモアブ人が、私にしたようにしてください。そうすれば、私はヨルダンを渡って、私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地に行けるのです。」しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである。主は私に言われた。「見よ。わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めた。占領し始めよ。その地を所有せよ。」シホンとそのすべての民が、私たちを迎えて戦うため、ヤハツに出て来たとき、私たちの神、主は、彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子らと、そのすべての民とを打ち殺した。そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。ただし、私たちが分捕った家畜と私たちが攻め取った町々で略奪した物とは別である。アルノン川の縁にあるアロエルおよび谷の中の町から、ギルアデに至るまで、私たちよりも強い町は一つもなかった。私たちの神、主が、それらをみな、私たちの手に渡されたのである。ただアモン人の地、ヤボク川の全岸と山地の町々には、私たちの神、主が命じられたとおりに、近寄らなかった。」 

これまで主は三度も「争うな」と命じておられましたが、ここでは「戦え」と命じておられます。アルノン川が、モアブの北の国境線になっており、そこを越えるとエモリ人シホンの国になります。それでモーセは、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言いました。「あなたの国を通らせてください・・・」しかし、ヘシュボンの王は、どうしても通らせようとしなかったので、イスラエルは彼らと戦いを交え、その民のすべての民を滅ぼしました。 

ここには、興味深いいくつかのことが記されてあります。その一つは、主はモーセに戦いを交えよと言われたのに、モーセはまず和平を申し込んだことです。これは決してモーセが神の命令に逆らったということではありません。それは正しいことでした。神は正義に基づいて事を行われます。ですから、相手がこちらの要求に従う時には、わざわざ戦いを交える必要はないのです。和平ができれば、それに越したことはありません。だから、そのようなステップを踏みながら接していくことはとても重要なことなのです。しかし、主は相手がどのような態度を取るかということを前もって知っておられました。相手がかたくなになって、強気になって、戦いを挑んでくることを知っておられたので、戦いを交えよと言われたのであって、できるだけ平和的な解決を求めることは神の民にとってふさわしいことなのです。 

もう一つのことは、こうしたヘシュボンの王シホンの態度は、主がそのようにしておられたということです。20節を見ると、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである、とあります。ヘシュボンの王シホンの心をかたくなにしたのは主ご自身でありました。なぜでしょうか。それは、主が彼をイスラエルに渡すためです。彼らがかたくなになり、強気になり、イスラエルと戦うことによって、主がイスラエルに勝利を与え、彼らをその手に渡すためでした。

これはエジプトの王パロも同じでした。かつてイスラエルがエジプトを出るときに、モーセがパロのところに行って、「民を出て行かせてください」と願い出ても、パロは心を強情にして出て行かせませんでした。それでどうしたかというと、主がエジプトと戦われました。神が勝利を表されるために、あえて相手の心をかたくなにすることがあるのです。 

これは私たちにも言えることです。これまで仲良くしていた人が急に手のひらをかえしたかのような行動をとる場合があります。あんなに丁寧に接していたのに、あんなにやさしく、親切にして、仲良かったのに、急に対立したり、対抗してくるようなことがあって、ショックになることがあるのです。いったいなんでそうなるのかどんなに考えてもわからないことがあるのです。

それを解決する鍵がここにあります。それは、主がそのことを許されたということです。すべてのことは神の御の中にあります。神が主権をもってコントロールしておられるのであって、私たちがわからないこともあるのです。私たちにとって必要なのは、その神の主権を認めることなのです。「あっ、これも神がゆるしておられることなんだ」「このことにもきっと何らかの神のご計画があるに違いない」と認めると、平安が与えられます。神は御座におられ、すべてをすべ治めておられます。シホンの王の心がかたくなになったのも主がゆるされたことであって、それで戦いを交えることがあったとしても、主が勝利を与えてくださり、主に栄光が帰されるということです。ですから、たとえ理解できなくてもすべてを主にゆだねて祈らなければなりません。

あの創世記に出て来たヨセフもそうでした。なぜそのようなことになったのかさっぱりわかりませんでしたが、主はそのような悪さえも善に変えてくださいました。それはヨセフがそこに主の御手があることを覚え、すべてを主にゆだねたからです。

それは私たちにも言えることです。私たちの人生にもなぜそのようなことが起こるのかさっぱりわからないことがありますが、その背後で主が働いておられ、主がそのように導いておられるのです。ということは、そのことさえも主の栄光のために用いられるということです。そのことがわかると安心します。私たちに必要なのは、そのような中でもただ主を待ち望むことなのです。 

それから34節に「聖絶」ということばが出てきます。それは主のためにすべてを滅ぼすことです。いったいなぜこのようなことが命じられているのでしょうか。そんなことをしたらかわいそうだ、そんなことを命じる神はおかしいと、このことでつまずく人もいますので、このことを正しく理解することは大切なことです。 

これは霊的には、聖霊によって肉の性質を徹底的に殺すことを意味しています。ローマ8章13節には、「もし肉に従って生きるのなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すのなら、あなたがたは生きるのです。」とあります。どうしたら生きるのでしょうか。御霊によって、からだの行いを殺すことによってです。そこには妥協は一切許されません。肉が働く機会を許さないように、徹底的に取り除かなければならないのです。ここでひとりの生存者も残さないように聖絶するようにと命じられているのは、そのためだったのです。私たちも信仰の戦いにおいて、こうした肉の働きに対しては聖絶することが求められているのです。こうしてエモリ人の地を占領しました。イスラエルは主が命じられたとおりに、エサウの子孫であるエドム人の地やロトの子孫であったモアブ人の地とアモン人の地には近寄りませんでしたが、エモリ人とは戦いを交えて勝利し、その地を聖絶したのです。