申命記4章

きょうは、申命記4章から学びます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-8)

 

まず、1節から8節までをご覧ください。

「今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。あなたがたは、主がバアル・ペオルのことでなさったことを、その目で見た。バアル・ペオルに従った者はみな、あなたの神、主があなたのうちから根絶やしにされた。しかし、あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている。見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」

 

「申命記」というタイトルの意味は、第二の律法で、神が語られたことを繰り返して述べるということでした。なぜなら、それはとても重要な内容だからです。ここでモーセは、「聞きなさい」という言葉を何度も繰り返して語り、それを強調しています。1節には、「今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。」とあります。なぜでしょうか。なぜなら、そうすれば、彼らは生き、彼らの父祖の神、主が、彼らに与えようとしておられる地を所有することができるからです。その神の命じることばには、つけ加えてはならないし、また、減らしてはなりません。主が命じる命令を、守らなければなりません。

 

その命令を守らなかったことで起こった悲劇がここに取り上げられています。それはバアル・ペオルでの出来事です。これは民数記25章に記されてある内容ですが、イスラエルがモアブの草原に宿営していたとき、バラムの陰謀によってモアブの娘たちがそこに送り込まれると、この娘たちとみだらなことをしただけでなく、彼女たちの神々であったバアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りがイスラエルに対して燃やされ、それに関わった多くの者たちが殺されたのです。この神罰で死んだ者は二万四千人であったとあります(民数記25:9)。いったい何が問題だったのでしょうか。彼らが主の命令に従わなかったことです。主の命令に背いて、偶像を拝んでしまいました。それで主は彼らを根絶やしにされたのです。しかし、それはあの時だけのことではありません。その主はきょうも生きておられるのです。彼らは、これから入って行って、所有しようとしているその地で、主の命令を守り行わなければなりません。そのことで、その地の住民に、彼らの知恵と悟りを示し、これらすべてのおきてを聞く彼らが、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うようになるためです。

 

このようなイスラエルの偉大さは、神の二つの特質にかかっていることでした。一つは、彼らが呼ばわるとき、主は、いつも近くにおられることです。神が臨在しておられるということほど、祝福に満ちたことはありません。もう一つは正しい、おきてと定めを持っていることです。

 

これはほんとうに偉大なことではないでしょうか。私たちの主は、私たちが呼ばわるとき、いつも近くにおられる方です。主イエスはこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)主がともにおられるということほど大きな祝福はありません。主が共におられるならば、私たちは何も恐れることがないからです。なぜなら、主は全能者であって、すべての問題に勝利してくださる方だからです。

また、このような正しいおきてと定めが与えられていることも大きな祝福です。情報過多の時代にあって多くの情報が錯そうする中で人々は何を信じたらいいかわからずに迷っています。そのような中にあって、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言って導いてくださる方がおられるということは、本当に感謝なことなのです。

 

2.十分に気をつけなさい(9-40)

 

次に9節から40節までを見ていきたいと思います。まず、14節までをご覧ください。

「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。 主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行なうように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。主は、そのとき、あなたがたにおきてと定めとを教えるように、私に命じられた。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、それらを行なうためであった。」

 

モーセは今、シナイ山において、神がみことばを与えられたときのことを思い起こさせています。それは二枚の石の板に書き記された十のことば、十戒のことです。それを一生の間心から離れないようにするばかりでなく、それらを、自分たちの子どもや孫たちに知らせるようにと言われました。それは彼らが所有しようとしている地で、それらを行うためです。

 

 次に15節から24節までをご覧ください。

「あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。しかし、主は、あなたがたのことで私を怒り、私はヨルダンを渡れず、またあなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる良い地にはいることができないと誓われた。私は、この地で、死ななければならない。私はヨルダンを渡ることができない。しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」(20-24)

 

ここに繰り返して「気をつけなさい」と言われています。何を、気をつけなければならないのでしょうか。偶像崇拝です。イスラエルの民にとって、そして私たちクリスチャンにとっても根本的な問題は何かというと、偶像礼拝なのです。偶像とは何でしょうか。神以外のものを神とすることです。人はそれを肩地にするのですが、それが偶像です。自分が理解できて、感じることができて、自分で考えて、満足できるものがほしい、と願うのです。それが偶像なのです。しかし、主に拠り頼むときに、私たちは自分のものを持つことができません。自分の考えではなく、神が考えておられることを受け入れなければなりません。自分が喜ぶことではなく、神が喜ぶことを選び取らなければならないのです。神を主としていくことが、私たちの務めであるからです。それゆえ、十戒の第一の戒めは何かというと、「あなたには、わたしのほかに、ほかの偶像があってはならない。」ということでした。自分のために、偶像を造ってはならないし、それらを拝んではなりません。私たちに求められていることは、神を神としていくことであり、自分の思い、自分のイメージではなく、神の命令に聞き従うことなのです。

 

 次にモーセは、偶像を造ったり、拝んだりするようなことがあった場合どうなるかについて語っています。25節から31節までです。

「あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、御怒りを買うようなことがあれば、私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」

 

どういうことでしょうか。偶像を拝むようなことがあれば、主は彼らを国々の民の中に散らされます。その土地から追いやられるのです。異邦の民の中で、異邦人と同じように生きなければならないのです。しかし、あわれみ深い主は、そこから主に立ち返るようにしてくださいます。主は決して彼らを捨てず、彼らを滅ぼさず、彼らの先祖たちに誓った契約を忘れないのです。なんとすばらしい神のあわれみでしょうか。イスラエルが偶像を拝んでも、神は彼らが立ち返るようにしてくださいます。偶像ではなく、御声を聞くことができるようにしてくださいます。30節には「後の日」とありますが、これは終わりの時のことです。イスラエルは事実、土地を離れ離散の民となりましたが、今や、約束の地に戻ってきています。神は、ご自分の立てた契約のゆえに、彼らがこの地に戻ることができるようにしてくださいます。

 

この預言のとおり、1948年5月に、全世界に離散していたユダヤ人がここに戻り、イスラエル共和国を樹立しました。二千年もの間離散としていた民が再び集まって国を再建するということは考えられません。しかし、神はそれを行ってくださいました。神はご自分の語られたことを必ず成就してくださる方であることを知ることができます。この「終わりの日」とは、まさに現代のことを指しているのです。

 

次に32節から40節までをご覧ください。

「さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地にはいらせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。」  どういうことでしょうか。モーセはここで、神がイスラエルをいかに愛しておられるのかを語っています。イスラエルはこれまで、主の偉大なみわざをずっと見てきました。それはたとえば、火の中から語られる神の声であったり、エジプトにおいて彼らのためになされた力強いみわざであったりです。いったいなぜ主は彼らのこのような偉大なみわざを見せられたのでしょうか。それは35節にあるように、主だけが神であり、他に神がないことを知るためであり、心に留めるためでした。彼らがこのことを心に留めることによって、彼らが入っていく約束の地において、彼らが長く生き続けるためだったのです。

 

 それは私たちも同じです。主は私たちの人生においても数々のみわざを成してくださいました。それはいったい何のためなのかというと、これからの歩みにおいて、主こそ神であることを知り、その神に信頼して生きるためです。それなのに、私たちは神のみわざを心に留めることをしないので、すぐに忘れてしまうので、人間的になってしまいます。神が与えてくださった地で私たちが長く生き続けるためには、私たちは主の偉大さを思い起こし、信仰によって生きなければならないのです。

 

3.これがイスラエル人の前に置かれたみことば(41-49) 「それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。東のほうである。以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生きのびることができる。ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴランである。これはモーセがイスラエル人の前に置いたみおしえである。これはさとしとおきてと定めであって、イスラエル人がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げたのである。そこは、ヨルダンの向こうの地、エモリ人の王シホンの国のベテ・ペオルの前の谷であった。シホンはヘシュボンに住んでいたが、モーセとイスラエル人が、エジプトから出て来たとき、彼を打ち殺した。彼らは、シホンの国とバシャンの王オグの国とを占領した。このふたりのエモリ人の王はヨルダンの向こうの地、東のほうにいた。それはアルノン川の縁にあるアロエルからシーオン山、すなわちヘルモンまで、また、ヨルダンの向こうの地、東の、アラバの全部、ピスガの傾斜地のふもとのアラバの海までである。」

 

それからモーセは、ヨルダン川の東側に三つの町を取り分けました。

 

のがれの町とは、あやまって人を殺した者がそこに逃れることができるようにと定められた町です。この町々は、彼らが復讐する者からのがれるところで、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことがないようにと定められた町々です。

こののがれの町は何を表していたのかというと、キリストの贖いでした。彼らは聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければなりませんでした。血を流したことに対しては贖いが求められたからです。そして、大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うに十分なものでした。この大祭司こそイエス・キリストを示すものでした。イエス・キリストは大いなる大祭司として、永遠の御霊によって、全く汚れのないご自分を神にささげ、その死によって世の罪のためのなだめの供え物となられました。ちょうど大祭司の死によって、あやまって人を殺した者の罪の贖いがなされ、自分の所有の地に帰ることができたように、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来たものたちが、罪によって失われた嗣業を受けるに足る者とされ、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができたのです。

 

こうして、主のみことばを聞くことがいかに大切であるかが語られました。これがモーセをとおしてイスラエル人の前に置かれたみおしえです。このように、主との生きた交わりは、その場の雰囲気や自分の思いや感情とは全く関係なく、ただ主の言われることを単純に聞き、それに応答していく、柔らかい心だけなのです。これが、イスラエルがヨルダン川のところまできたその旅路に現われていたことだったのです。