ヘブル4章14~16節 「私たちの大祭司イエス」

 

 きょうは、ヘブル4章14節から16節までのみことばから、「私たちの大祭司イエス」というタイトルでお話したいと思います。

 

 「大祭司」というのは私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、旧約聖書を信じていたユダヤ人たちにはよく知られていたことでした。それは、神と人を結びつける働きをする人のこと、仲介者のことです。旧約聖書でなぜ大祭司が存在していたのかというと、罪ある人間は、そのままでは神に近づくことができなかったからです。神は聖なる、聖なる、聖なる方なので、その神に近づこうものなら、たちまちのうちに滅ぼされてしまったわけです。それで神はそういうことがないように、ご自分に近づく方法をお定めになられました。それが大祭司を建てるということだったのです。大祭司が年に一度動物をほふり、その血を携えて幕屋と呼ばれる所に入って行き、だれも近づくことができない、契約の箱が置いてある至聖所に入り、その契約の箱に動物の血をふりかけてイスラエルの民の罪の贖いをしました。それによってイスラエルの民の罪は赦され、神の前に出ることができたのです。

 

 ここでは、神の御子イエスがこの大祭司であると言われています。ここから10章の終わりまでずっとこの大祭司の話が続きます。いわばこれはこのヘブル書の中心的な内容であると言えます。いったいなぜ大祭司の話が出てくるのでしょうか。旧約聖書の時には、大祭司はアロンという人の家系から選ばれましたが、ここにはアロンではない、もっと偉大な大祭司がいて、この方によって私たちは大胆に神のみもとに出て行くことができるということを証明しようとしているのです。それが私たちの主イエス・キリストです。

この手紙はユダヤ教からキリスト教に回心した人たちに宛てて書かれました。キリスト教に回心したのはよかったけれども、それによって度重なる迫害を受けて、中には元の教え、旧約聖書の律法に逆戻りしようという人たちもいました。そこでこの手紙の著者は、旧約聖書の大祭司であるアロンとまことの大祭司であるイエスとを比較することによって、イエスがどれほど偉大な大祭司であるのかを証明し、このイエスにしっかりとどまるようにと勧めるのです。いったいイエスはどのように偉大な大祭司なのでしょうか。

 

 Ⅰ.もろもろの天を通られた大祭司(14)

 

 まず14節をご覧ください。

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」

 

 ここには、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、とあります。私たちの大祭司であられるイエスは、もろもろの天を通られた偉大な大祭司です。では、この「もろもろの天を通られた」とはどういう意味でしょうか。

 

ユダヤ人は、天には三つの層があると考えていました。すなわち、第一の天、第二の天、そして第三の天です。まず、第一の天というのは、私たちの肉眼で見ることができる天のことで、そこには雲あり、太陽の光が輝いています。また、鳥が飛び交っています。いわゆる大気圏と呼ばれてものです。

第二の天は、その大気圏を出た宇宙のことです。そこには太陽があり、月があり、多くの星々があります。旧約聖書に出てくるソロモン王は、壮大な神の宮を建てようとしていたとき、「天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。」(Ⅱ歴代誌2:6)と言いましたが、この「天の天」というのがこの第二の天のことでしょう。神が造られたすべての世界のことです。

 そして第三の天というのは、神が住んでおられる所、神の国のことです。Ⅱコリント12章2節のところでパウロは、「第三の天にまで引き上げられました」と言っていますが、それはこの神が住み給う所、天国のことでした。

 だから、ある人はもろもろの天を通られたというのは、こうした天を通られたという意味ではないかと考えているのです。

 

 しかし、ある人たちはこの天を文字通りの天のことではなく、自然界に対する超自然界のことを指しているのではないかと考えています。すなわち、悪魔の試みを含むあらゆる経験をされたということを意味ではないかというのです。それは、15節のところに、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とあるからです。

 

 しかし、このもろもろの天を通られたということがどういうことであるにせよ、重要なことは、このもろもろの天を通ってどこへ行かれたのかということです。キリストはもろもろの天を通られ、神の御住まいであられる天に昇り、その右の座に着座されました。着座するというのは働きが完成したことを表しています。もう終わったのです。人類の罪に対する神の救いのみわざは、このイエスによって成し遂げられました。イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死なれ、三日目によみがえれ、四十日間この地上でご自身のお姿を現されて後に、天にある神の御座に着座されたことによって完成したのです。ですからもろもろの天を通られたというのは、この救いのみわざを成し遂げて神の右の座に着かれたことを表しているのです。

 

ローマ8章34節には、このようにあります。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

 

主イエスは、私たちの罪の贖いを成し遂げて神の右の座に着き、そこで私たちのためにとりなしていてくださるのです。「とりなす」とは「なかだちをする」とか、「仲介する」ということですが、たとえだれかがあなたを罪に定めようとする人がいたとしても、あなたが罪に定められることが絶対にありません。なぜなら、キリストが神の右の座にいて、とりなしてくださるからです。あなたの罪の贖いは、イエス様が十字架で死んで、三日目によみがえられたことで、完全に成し遂げられたのです。

 

 でも、この地上の大祭司、アロンの家系の大祭司はどうかというと、そうではありません。ユダヤ教では今でも年に一度、大贖罪日と呼ばれる日に大祭司が動物の血を携えて聖所の中に入って行き、そこでイスラエルの罪の贖いが繰り返して行われています。それはいつまで経っても終わることがありません。永遠に繰り返されているのです。

 

 しかし、イエスによる贖いは完了しました。なぜなら、イエスはやぎや子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたからです。もう罪の贖いは必要なくなりました。主イエスの十字架の血によって、私たちと神との間を隔てていた壁は取り除かれたのです。そして、大胆に、神の御座に地区づくことができるようになりました。これはすごい恵みです。

 

マタイの福音書27章51節を見ると、イエスさまが十字架にかかって死なれ、息を引き取られたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたとありますが、それは、神と人との関係を隔てていた罪の幕が取り除かれたということです。イエスさまの血によって、イエスさまが私たちの罪に身代わりとなって十字架で死んでくださったので、その隔ての壁が完全に取り除かれたのです。ですから、このイエスさまを信じる人はだれでも、いつでも、どこでも、自由に、大胆に、神のもとに行くことができるようになったのです。これがもろもろの天を通られたという意味です。

 

 ですから、このイエスを信じる者はだれでも救われるのです。あなたがキリストを信じるなら、あなたのすべての罪は赦されます。過去に犯した罪ばかりでなく、現在の罪も、未来の罪も、すべて赦されるのです。なぜなら、聖書には「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)とあるからです。これはものすごい恵みではないでしょうか。

 

 先日、大久保茂美姉のバプテスマ式を行いました。いろいろな事で不安を抱え夜も眠れない苦しみの中でイエス様に助けを求めて教会に来られました。そして、キリストの罪の赦しを信じたとき、心に平安が与えられたと言います。イエス様が平安を与えてくださいました。それは罪の赦しから来る平安です。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところへ来なさい。」と言われるイエス様の招きに応答して、イエス様の十字架の贖いを信じたことで、大久保さんのすべての罪がゆるされ、神にゆだねて祈ることができるようになったのです。何という恵みでしょうか。

 

 昔、アメリカにチャールズ・フィニー(Charles Grandison Finney、1792年1875年)という伝道者がいました。彼は「最初のアメリカ人リバイバリスト」と呼ばれた人ですが、彼がある町で伝道していたとき、人相の悪い男が彼のところにやって来て、「今晩、わしの店まで来てくれ」と言ったので行ってみると、その男は突然ピストルを取り出してこう言いました。「昨晩あんたが言ったことは本当か」「どんなことを言いましたか。」と言うと、「キリストの血がすべての罪から聖めるっていうことさ。」するとフィニーは、「それは私のことばではなく、神のおことばです。本当です。」と答えると、彼は自分の身の上話を始めました。

「実は、この酒場にある秘密のギャンブル場で、おれは多くの男から最後の1ドルまでもふんだくり、ある者は自殺に追いやった。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「はい、すべての罪はキリストの血によってきよめられると書いてあります。」

「ちょっと待ってくれ。通りの向こうの大きな家に、わしの妻と子供たちがいるが、わしはこの16年間全く家族を顧みず、妻をののしり続けてきた。この前は幼い娘をストーブのそばに押し倒し、大やけどを負わせてしまったんだが、こんな男でも神は赦してくれるというのか。」

 するとフィニーは立ち上がり、その男の手を握ってこう言いました。

「これまで聞いたこともないような恐ろしい話を聞きましたが、聖書には、キリストの血がすべての罪を赦し、きよめると書いてあります。」

 するとその男は、「それを聞いて安心した」と言って自分の家に帰って行きました。

 彼は自分の部屋に幼い娘を呼び寄せて、ひざの上に乗せると、「パパはおまえを、心から愛しているよ」と言いました。何事が起ったのかと部屋の中をのぞいている奥さんの頬に、涙が伝わり落ちました。彼は妻を呼んで言いました。

「昨晩、今まで聞いたことのない、すばらしい話を聞いた。キリストの血は、すべての罪からきよめると・・・」

そして彼は酒場を閉め、その町に大きな恩恵をもたらす者になったのです。

 

皆さん、すばらしい知らせではないですか。キリストの血は、どんな罪でも赦し、聖め、私たちを神と和解させてくれます。キリストの愛はどんな人でもその人を内側から変え、神の平安で満たしてくださるのです。あなたもこの平安をほしいと思いませんか。イエスさまはもろもろの天を通って神の右の座に着かれました。あなたもこのイエスを信じるなら、罪の赦しと永遠のいのちを受けることができます。イエスは、もろもろの天を通られた偉大な大祭司なのです。

 

 Ⅱ.私たちの弱さに同情してくださる大祭司(15)

 

 次に15節をご覧ください。一緒に読みましょう。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

 

 ここには、私たちの大祭司についてもう一つのことが言われています。それは、私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではない、ということです。私たちが苦しむとき、その苦しみを十分に理解し、同情することがおできになられます。それはもう他人事ではありません。自分の痛み、自分の苦しみ、自分の悲しみとして、共に負ってくださるのです。

 

聖書に「良きサマリヤ人」の話があります。彼は、旅の途中、強盗に襲われ死にそうになっていた人を見ると、かわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋につれて行き、介抱してやりました。次の日、彼はデナリ硬貨を二つ取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

このサマリや人はなぜこのようなことができたのでしょうか。それは、この傷つき、苦しんでいた人の隣人になったからです。彼は傷つき、苦しんでいた人を見たとき、とても他人事には思えませんでした。それを自分のことのように感じたのです。だから彼はそのような行動をとることができたのです。

 

それはイエス様も同じです。イエス様は罪によって苦しみ、傷ついている私たちを見たとき、それを自分の苦しみとして理解することができました。なぜなら、イエス様は私たちと同じような肉体を持って来られ、私たちが経験するすべての苦しみ、いやそれ以上の十字架の苦しみに会われたからです。先週はクリスマスでしたが、クリスマスのすばらしいことは、ことばが人となってくださったということです。神は高いところにいて、そこから救おうとされたのではなく、私たちと同じ姿をとって生まれてくださいました。私たちが経験するすべての苦しみを経験されたのです。

 

先日のアンビリバボーで、理由もなくたった一人の息子を殺された市瀬朝一さんという方の、人生をかけた壮絶な敵討ちが紹介されました。その敵討ちとは息子を殺した犯人を殺すことではなく、同じように家族を殺された人たちを経済的に救うべく、犯罪被害者の保障に関する法律を作るということでした。その働きは、朝市さんが過労で失明するという壮絶な戦いでしたが、奥様に助けられながら運動を続け、ついに国を動かすことに成功し、息子さんが殺されてから12年後の1977年にその法案が成立したのです。それは朝市さんが亡くなってから三日後のことでした。いったいそれほどまでに朝市さんの心を動かしたものは何だったのでしょうか。それは、朝市さんが朝市さんと同じように愛する家族を失った人たちの悲しみに触れて、経済的に困窮している人たちの現実を知ったからでした。朝市さんは自分の息子が殺されたことで、同じような苦しみにある人たちのことを十分思いやることができたのです。

 

 確かに、私たちは痛みを経験してはじめて人の痛みを理解することができます。貧しさを経験してはじめて人の貧しさを理解し、同情することができます。しかし、私たちはひとりで、すべての痛みや苦しみを経験することはできません。したがって、すべての人を理解することは不可能なのです。しかし、私たちの大祭司は、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われました。ですから、私たちの弱さを十分すぎるほど理解することができ、また同情することができるのです。そればかりではありません。私たちの大祭司は、そうした弱さや試みから助け出すことができる方です。

 

 Ⅲ.おりにかなった助けを与えてくださる大祭司(16)

 

 第三のことは、だから、大胆に恵みの御座に近づこうということです。16節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 

 旧約聖書の時代には、だれもが神に近づけるというわけではありませんでした。近づくことができなかたのです。神に近づこうものならば、たちまちにして滅ぼされてしまいました。神に近づくことが許されたのは神に選ばれた大祭司だけで、しかもそれは一年に一度だけのことでした。しかも大祭司にも罪があったので、彼が神の前に出る時にはまず自分自身と家族のためにいけにえをささげなければならないという、念入りさが求められました。

 

 けれども、今は違います。今は神の御子イエス・キリストが完全ないけにえとして十字架で死んでくださり、私たちのすべての罪を贖ってくださったので、大胆に神に近づくことができるようになりました。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。

 

 この「大胆に」という言葉は、1955年版の口語訳聖書では「少しもはばかることなく」と訳されています。「はばかることなく」というのは「遠慮しないで」とか、「ためらわないで」ということです。遠慮しないで、ためらわないで、大胆に恵みの御座に近づこうではないかというのです。

 

 しかし、どうでしょうか。実際にははばかってしまいます。躊躇して、遠慮して、なかなか神のもとに行こうとしません。なぜでしょうか。その理由の一つは、こんな罪深い者が神のもとに近づくなんておこがましいと思っているからです。自分の罪がそんなに簡単に赦されるはずがないと思っているのです。それが悪魔、サタンの常套手段でもあります。悪魔は偽善者であり、告発者なので、絶えず私たちを訴えてきます。あなたはあんな罪、こんな罪を犯したではないか、その罪がそんなに簡単に赦されるとでも思っているのか、あなたのようなひどい人間が神様に愛される資格があるとでも思っているのか、あなたが神に祈る資格があるとでもいうのか・・。そうやって責めてくるわけです。告発者ですから。そうやって責められると、大抵の場合は、「そうだ、私の罪は大きくてそんなに簡単に赦されるはずがない」と思ってしまいます。そして、神に近づくことにブレーキをかけてしまうのです。

 

またこのような自分自身の弱さとは別に、それにつけ入るサタンの働きもあります。ちょっと前にテツ&トモという漫才コンビが歌う「なんでだろう」という歌がブームになりました。なんでブームになったのかというと、その歌に共感できる人が多いからです。確かに私たちの人生には、「なんでだろう」というようなことがよく起こるのです。その理由がわからなくて、神が信じられなくなってしまったというケースも少なくありません。要するに、そこには自分の力を超えた力が働いているのです。

 

しかし、そうした弱さや破れというものを感じながらも、なおイエスさまの恵み深さにすがりついていくことが、私たちの信仰なのです。何の闇もなく、破れもないところを行くのではなく、そうした弱さを抱えながらも、そうした愚かさを持ちながらも、そんな不十分な者として、とても信仰者だなんて思えないような者でありながらも、なおこのような者をあわれみ、恵み、おりにかなった助けを与えてくださるイエスさまにすがりつくこと、それが私たちの信仰なのです。

 

それはイエス・キリストがあの十字架で、私たちのあらゆる恐れ、あらゆる不幸、あらゆる悲しみの根源である罪と死に打ち勝ってくださったからです。そのようにして私たちと神とを結び付けてくださいました。私たちは、このような偉大な大祭司を持っているのです。それだから、私たちは自分の弱さの中に留まり続けるのではなく、そこから一歩踏み出して、神様に近づくことができるのです。苦しい時は「神様、助けてください」と叫び求めることができるのです。今も天で大祭司であられるイエス・キリストが、私たちの信仰を支え、導いておられるのです。あなたのために祈り続けておられるのです。

 

 あなたはどんなことで弱さを覚えておられますか。子どもたちのこと、夫婦のこと、人間関係のこと、仕事のこと、学校のこと、将来のこと、いろいろと思い煩うことがあると思いますが、どうかそれを自分の中にためておかないで、いつでも、どこでも、おりにかなった助けを受けるために、主イエスのもとに、その恵みの御座に近づいていこうではありませんか。