きょうは、申命記5章から学びます。 モーセはこれまで、エジプトから出てモアブの地に至るまでの経緯を話しましたが、ここからは具体的に、守るべき、おきてと定めを話し始めます。
1.おきてと定めとを守らなければならない(1-5)
まず、1節から5節までをご覧ください。
「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。」
モーセは再び、イスラエルの民を集めて語ります。「聞きなさい」ということばは、この申命記のキーワードの一つです。それだけ重要な内容であるということです。「きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。」と。その内容は、かつて彼らがホレブにいたとき、そこで神と結ばれた契約についてです。主はあの山で、火の中から彼らと顔と顔とを合わせて語られました。これは、主がイスラエルに個人的に語られたということです。主がいかにイスラエルの民を愛し、この民と婚姻関係のような、一体化した結びつきを持ちたいかを表しているのです。主は、私たちに対しても、個人的にお語りになりたいと願われています。私たちは、個人的に語られる神の御声を聞くことによって、神との関係を持つことができるのです。
2.主のおきてと定め(6-21)
次に6節から21節までをご覧ください。
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。・・そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
モーセはこれから、十戒について語りますが、その前提になっているのは、主がイスラエルをエジプト贖い出されたお方であるという事実です。律法が与えられたのは、それを行なって救われるためではなく、エジプトから救われ、贖われた者だから、その贖ってくださった方の命令として行うのです。だから、罪が贖われた者でなければ、本当の意味で神の律法を行うことはできません。この戒めのベースにあるのは愛なのです。
先日、近藤先生ご夫妻とお話している中で、よくクリスチャンが日曜日教会に行かなければならないのは束縛されるようで嫌だということを聞くけれども、自分はそういうことがなかったので、そういう人の気持ちが理解できないとおっしゃっておられました。神に罪が救われた喜びで日曜日は教会に行きたくて、行きたくてしょうがなかったというのです。それはここで言っていることです。これから語られる戒めは決していやいやながら、強制されてするのではなく、主によって罪が贖われた者だから喜んで応答したいのです。
では、その内容を見ていきましょう。まず神の律法の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。主のみを神とし、他のものを神としてはいけないということです。これは単に木や石で作った神を神としてはいけないというだけでなく、神以外のものを神の位置に置いてはいけないということを意味しています。神以外に自分の仕事や家庭を、神以外に自分自身を置いてはいけないのです。それらを拝んでもなりません。仕えてもなりません。ただ神だけを礼拝し、神にだけ仕えなければならないのです。
12節から15節までには、安息日を守るように言われています。安息日とは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたので、この日を聖なる日とするように定められたものです。ところが、申命記には、スラエルの民がエジプトの地で奴隷であったが、神が力強い御手をもって、彼らを導き出されたので、そのことを覚えるために、この日を安息日として守るようにと定められています。つまり、モーセは今、新しい世代のイスラエルに、主がエジプトから導き出されたことを起点にして、その生活を営むように指導しているのです。
ここに、安息日とは何なのか、その意義を見出すことができます。それは、まぎれもなく、主のみわざが行なわれ、完成したので安息する、という意義です。主が天地を創造されたとき、その創造のみわざは完成し、七日目に休まれました。これは創造のわざからの安息です。そして、イスラエルがエジプトの奴隷状態から贖い出されましたが、これは主の救いのみわざの完成です。主は救いのみわざを終えられたので、安息されたのです。つまり、救いのみわざからの安息です。このように主のみわざが完成したところに憩い、とどまることが、安息日の意義なのです。それは主イエスによってもたらされた安息を指し示しています。主イエスは十字架の上で、「テテレスタイ」(完了した)と言われました。また三日目に死人の中からよみがえられたことによって、全人類を罪から救い出す神のみわざが完成したのです。ですから、私たちはこの主イエスのみわざの中に憩うことができるのです。つまり、私たちはいつでも、主イエス・キリストにあって真の安息を持つことができるのです。であれば、この安息日の規定はもはや律法ではありません。私たちを罪から贖い出して救いのみわざを成し遂げてくださった主の中に安息を得ているという喜びをもって、主の日に集まることは当然のことではないでしょうか。
そして次に、あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。と続きます。
ここで出エジプト記の記述と若干違う点は、最後の「隣人の妻を欲しがってはならない」です。出エジプト記には「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」とあり、その後に、「隣人の妻・・・」と続きますが、ここには、あなたの隣人の妻をとあって、家のことに関する記述はありません。いったいなぜでしょうか。おそらく、この後の7章に異邦人の妻のことが語られているので、そのことを意識していたからでしょう。イスラエルが約束の地に入ったときには、その地の住民を聖絶しなければなりませんでした。彼らと縁を結んではならなかったのです。それゆえ、イスラエルの隣人の妻を欲しがってはならなかったのです。ですから、この隣人の妻というのは単に隣人の妻というだけでなく、異邦人の妻のことも含んで語られていたのです。
3.主の御声を聞き続ける(22-27)
次に22節から27節までをご覧ください。
「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」
これらの戒めを、主はあのホレブの山で、火と雲と暗やみの中から、イスラエル全会衆に、大きな声で語られました。そして、それを二枚の石の板に書いて、モーセに授けられました。イスラエルの部族のすべてのかしらと長老たちとは、それを聞いてモーセのところに来て言いました。「私たちは火の中から御声を聞きました。」と。主の御声を聞いてもなお生きているとは考えられないことでしたが、彼らはそのようにして主と顔と顔とを合わせて、主の御声を聞いたにもかかわらず、滅ぼされることはありませんでした。これはすごいことです。天地万物を創造された大いなる神が、自分たちに個人的に直接、語られることなど、あまりにも信じがたいことだったのです。それで彼らは、主がモーセに告げられることばはみな聞いて、行いますと言いました。
28節から33節までです。
「主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令・・おきてと定め・・を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」
主は、イスラエルの決意をとても喜ばれました。そして、彼らの心がいつもこのようであって、いつまでも、主を恐れ、主のすべての命令を守るように、と仰せになられました。この時だけでなく、いつもこのようであるように、いつまでもこのようであるようにというのが、主の願いだったのです。私たちはある時主の御声を聞いて「アーメン」と言って従いますが、しばらく経つとその気持ちがいつしか失せてしまい、自分の思いが優先してしまうことがあります。そうではなくて、いつも、いつまでも、主に聞き従わなければなりません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。主の御声を聞き続けることです。主と顔と顔とを合わせてその御声を聞き、主をおそれることが求められます。そのことによってイスラエルは主との結びつきが始まりました。個人的に語られることなしに主と関係は持つことはできないし、またイスラエルも、主を恐れおののいて、その御声に聞き従うことなくして、神との関係を保つことはできません。私たちの信仰生活の土台は、この主との生ける結びつき以外にはないのです。
あのザアカイもそうでした。主がエリコの町にやって来られたとき、ザアカイはいちじく桑の木に登りました。そのザアカイに向かってイエスは御顔を向け、個人的に語られました。主がホレブでイスラエルに対してなされたようにです。すると彼は、自分の財産の半分を貧しい人に渡し、だまし取った物は四倍にして返す、と言ったのです(ルカ19:1-10)。いったいなぜ彼はそのように言ったのでしょうか。それは、彼がイエスの御声を聞き、イエスの聖さにふれて、自分の汚れが明らかになり、悔い改めたからです。彼はイエスと個人的な関係を持つことができたのです。そして、このように主と個人的な関係を持つとき、私たちは変えられていきます。聖なる主にお会いすることは恐れも伴いますが、そのような個人的な主との関係が、私たちをご自身へと近づけていくのです。
しかしモ―セに対して主は、「あなたは、わたしとともにここにとどまれ。」と言われました。この十戒の他にもイスラエルに教えなければならない、おきてと定めとを告げるためです。そして、これらをイスラエルが所有する土地で守り行なうようにと命じなければなりません。なぜでしょうか。それは彼らが生き、しあわせになるためです。私たちは主のおきとさだめを守ることが、そこから右にも左にもそれないで、その道を歩み続けることが、私たちの幸せとなり、私たちが生きる道でもあるのです。
きょうは、申命記5章から学びます。 モーセはこれまで、エジプトから出てモアブの地に至るまでの経緯を話しましたが、ここからは具体的に、守るべき、おきてと定めを話し始めます。
1.おきてと定めとを守らなければならない(1-5)
まず、1節から5節までをご覧ください。
「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。」
モーセは再び、イスラエルの民を集めて語ります。「聞きなさい」ということばは、この申命記のキーワードの一つです。それだけ重要な内容であるということです。「きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。」と。その内容は、かつて彼らがホレブにいたとき、そこで神と結ばれた契約についてです。主はあの山で、火の中から彼らと顔と顔とを合わせて語られました。これは、主がイスラエルに個人的に語られたということです。主がいかにイスラエルの民を愛し、この民と婚姻関係のような、一体化した結びつきを持ちたいかを表しているのです。主は、私たちに対しても、個人的にお語りになりたいと願われています。私たちは、個人的に語られる神の御声を聞くことによって、神との関係を持つことができるのです。
2.主のおきてと定め(6-21)
次に6節から21節までをご覧ください。
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。・・そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」
モーセはこれから、十戒について語りますが、その前提になっているのは、主がイスラエルをエジプト贖い出されたお方であるという事実です。律法が与えられたのは、それを行なって救われるためではなく、エジプトから救われ、贖われた者だから、その贖ってくださった方の命令として行うのです。だから、罪が贖われた者でなければ、本当の意味で神の律法を行うことはできません。この戒めのベースにあるのは愛なのです。
先日、近藤先生ご夫妻とお話している中で、よくクリスチャンが日曜日教会に行かなければならないのは束縛されるようで嫌だということを聞くけれども、自分はそういうことがなかったので、そういう人の気持ちが理解できないとおっしゃっておられました。神に罪が救われた喜びで日曜日は教会に行きたくて、行きたくてしょうがなかったというのです。それはここで言っていることです。これから語られる戒めは決していやいやながら、強制されてするのではなく、主によって罪が贖われた者だから喜んで応答したいのです。
では、その内容を見ていきましょう。まず神の律法の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。主のみを神とし、他のものを神としてはいけないということです。これは単に木や石で作った神を神としてはいけないというだけでなく、神以外のものを神の位置に置いてはいけないということを意味しています。神以外に自分の仕事や家庭を、神以外に自分自身を置いてはいけないのです。それらを拝んでもなりません。仕えてもなりません。ただ神だけを礼拝し、神にだけ仕えなければならないのです。
12節から15節までには、安息日を守るように言われています。安息日とは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたので、この日を聖なる日とするように定められたものです。ところが、申命記には、スラエルの民がエジプトの地で奴隷であったが、神が力強い御手をもって、彼らを導き出されたので、そのことを覚えるために、この日を安息日として守るようにと定められています。つまり、モーセは今、新しい世代のイスラエルに、主がエジプトから導き出されたことを起点にして、その生活を営むように指導しているのです。
ここに、安息日とは何なのか、その意義を見出すことができます。それは、まぎれもなく、主のみわざが行なわれ、完成したので安息する、という意義です。主が天地を創造されたとき、その創造のみわざは完成し、七日目に休まれました。これは創造のわざからの安息です。そして、イスラエルがエジプトの奴隷状態から贖い出されましたが、これは主の救いのみわざの完成です。主は救いのみわざを終えられたので、安息されたのです。つまり、救いのみわざからの安息です。このように主のみわざが完成したところに憩い、とどまることが、安息日の意義なのです。それは主イエスによってもたらされた安息を指し示しています。主イエスは十字架の上で、「テテレスタイ」(完了した)と言われました。また三日目に死人の中からよみがえられたことによって、全人類を罪から救い出す神のみわざが完成したのです。ですから、私たちはこの主イエスのみわざの中に憩うことができるのです。つまり、私たちはいつでも、主イエス・キリストにあって真の安息を持つことができるのです。であれば、この安息日の規定はもはや律法ではありません。私たちを罪から贖い出して救いのみわざを成し遂げてくださった主の中に安息を得ているという喜びをもって、主の日に集まることは当然のことではないでしょうか。
そして次に、あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。と続きます。
ここで出エジプト記の記述と若干違う点は、最後の「隣人の妻を欲しがってはならない」です。出エジプト記には「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」とあり、その後に、「隣人の妻・・・」と続きますが、ここには、あなたの隣人の妻をとあって、家のことに関する記述はありません。いったいなぜでしょうか。おそらく、この後の7章に異邦人の妻のことが語られているので、そのことを意識していたからでしょう。イスラエルが約束の地に入ったときには、その地の住民を聖絶しなければなりませんでした。彼らと縁を結んではならなかったのです。それゆえ、イスラエルの隣人の妻を欲しがってはならなかったのです。ですから、この隣人の妻というのは単に隣人の妻というだけでなく、異邦人の妻のことも含んで語られていたのです。
3.主の御声を聞き続ける(22-27)
次に22節から27節までをご覧ください。
「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」
これらの戒めを、主はあのホレブの山で、火と雲と暗やみの中から、イスラエル全会衆に、大きな声で語られました。そして、それを二枚の石の板に書いて、モーセに授けられました。イスラエルの部族のすべてのかしらと長老たちとは、それを聞いてモーセのところに来て言いました。「私たちは火の中から御声を聞きました。」と。主の御声を聞いてもなお生きているとは考えられないことでしたが、彼らはそのようにして主と顔と顔とを合わせて、主の御声を聞いたにもかかわらず、滅ぼされることはありませんでした。これはすごいことです。天地万物を創造された大いなる神が、自分たちに個人的に直接、語られることなど、あまりにも信じがたいことだったのです。それで彼らは、主がモーセに告げられることばはみな聞いて、行いますと言いました。
28節から33節までです。
「主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令・・おきてと定め・・を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」
主は、イスラエルの決意をとても喜ばれました。そして、彼らの心がいつもこのようであって、いつまでも、主を恐れ、主のすべての命令を守るように、と仰せになられました。この時だけでなく、いつもこのようであるように、いつまでもこのようであるようにというのが、主の願いだったのです。私たちはある時主の御声を聞いて「アーメン」と言って従いますが、しばらく経つとその気持ちがいつしか失せてしまい、自分の思いが優先してしまうことがあります。そうではなくて、いつも、いつまでも、主に聞き従わなければなりません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。主の御声を聞き続けることです。主と顔と顔とを合わせてその御声を聞き、主をおそれることが求められます。そのことによってイスラエルは主との結びつきが始まりました。個人的に語られることなしに主と関係は持つことはできないし、またイスラエルも、主を恐れおののいて、その御声に聞き従うことなくして、神との関係を保つことはできません。私たちの信仰生活の土台は、この主との生ける結びつき以外にはないのです。
あのザアカイもそうでした。主がエリコの町にやって来られたとき、ザアカイはいちじく桑の木に登りました。そのザアカイに向かってイエスは御顔を向け、個人的に語られました。主がホレブでイスラエルに対してなされたようにです。すると彼は、自分の財産の半分を貧しい人に渡し、だまし取った物は四倍にして返す、と言ったのです(ルカ19:1-10)。いったいなぜ彼はそのように言ったのでしょうか。それは、彼がイエスの御声を聞き、イエスの聖さにふれて、自分の汚れが明らかになり、悔い改めたからです。彼はイエスと個人的な関係を持つことができたのです。そして、このように主と個人的な関係を持つとき、私たちは変えられていきます。聖なる主にお会いすることは恐れも伴いますが、そのような個人的な主との関係が、私たちをご自身へと近づけていくのです。
しかしモ―セに対して主は、「あなたは、わたしとともにここにとどまれ。」と言われました。この十戒の他にもイスラエルに教えなければならない、おきてと定めとを告げるためです。そして、これらをイスラエルが所有する土地で守り行なうようにと命じなければなりません。なぜでしょうか。それは彼らが生き、しあわせになるためです。私たちは主のおきとさだめを守ることが、そこから右にも左にもそれないで、その道を歩み続けることが、私たちの幸せとなり、私たちが生きる道でもあるのです。