ヘブル5章5~10節 「とこしえに救いを与える方」

きょうは、イエス・キリストこそとこしえの救いを与えることができる方であるということをお話したいと思います。まず5節と6節をご覧ください。

 

Ⅰ.神によって立てられたイエス(5-6)

 

5節には、「同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と言われた方が、それをお与えになったのです。」とあります。「同様に」というのは、その前のところで語られてきたことを受けてのことあります。その前のところ、すなわち、5章1節から4節までのところには、大祭司はどのようにして選ばれるのかについて3つのことが語られていました。すなわち、第一に、大祭司は人々の中から選ばれなければならないということでした。なぜでしょうか。なぜなら、大祭司は人々に代わって神にとりなしをする人ですから、その人々の気持ちを十分理解できる人でなければその務めを十分果たすことはできないわけです。

 

それから大祭司のもう一つの条件は何だったかというと、人々の弱さを十分身にまとっていなければならないということでした。自分自身も弱さを身にまとっているからこそ、人の痛みを十分理解し、そのために心から祈ることができるわけです。私は新年早々胆嚢摘出手術で一週間入院しましたが、中にはとても喜んでくださる方がおられまして、その喜びというのは「ざまあみろ」とか、「あっすっきりした」といった気持からでなく、どうも私は人からは強い人間に見られているようで、そんな私が一週間も入院したものですから、これで牧師も人の痛みが少しはわかったに違いないといった安堵心からのようでした。しかし、幸い、あれから大分自分の体をいたわるようになったためか、以前よりもぐっと調子がよくなった感じがします。こんなに調子がよくなるなら、もっと早く手術を受けていればよかったなぁと思っているほどです。

それから大祭司のもう一つの条件は何だったかというと、大祭司は自分でなりたくてもなれるわけではなく、神に召されて受けるのですということです。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、神によって召され、神よってそのように立てられたからこそその立場に着いておられるということです。

 

それは、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』という言葉からもわかります。これはいったい、だれが、だれに言った言葉なのでしょうか?これは旧約聖書の詩篇2篇7節の言葉からの引用です。このヘブル人への手紙の中には、この聖句が何回も何回も引用されています。それはイエスさまが、父なる神から、「あなたは、わたしの子」と呼ばれている、つまりイエスさまが神の独り子であることの宣言なのです。イエスさまは、旧約聖書の昔から神とともにおられたひとり子の神であり、人類を罪から救うために神によって遣わされたメシヤ、救い主であることとの証言なのです。イエス様はその辺のちょっとした偉大な人を超えた神のメシヤ、救い主なのです。そのことを表しているのがこの聖句です。

 

ここには、「きょう、わたしがあなたを生んだ。」ことばがありますが、エホバの証人の方はこの言葉が大好きで、「ほら、みろ。キリストは神によって生まれたと書いてあるではないか。神であるなら生まれるはずがないじゃないか、キリストはその神によって生まれた子にすぎないのだ」と言われるのですが、ここではそういうことを言っているのではありません。この「生んだ」という言葉は、神様がイエス様を「オギャー」と産んだということではなく、第一のものになるとか、初穂になるという意味なのです。つまり、イエスさまが死者の中からよみがえられたことによって、イエスが神の御子であられることが公に示されたのです。もしイエスが死んで復活しなかったらどうでしょうか。それは私たちと何ら変わらない人間の一人にすぎないということになります。確かに偉大なことを教え、すばらしい奇跡を行ったかもしれませんが、所詮、それまでのことです。しかし、キリストは死者の中からよみがえられたので、彼が神の子であることがはっきりと証明されたのです。つまり、これはキリストが神の子、メシヤ、救い主であることの照明でもあるのです。イエスは神の子であり、全く罪のない方であり、私たちの罪を完全に贖い、私たちを神のみもとに導くことができる方なのです。

 

それゆえに、このイエスについて別の箇所でこう言われているのです。6節、

『あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。』」

 

「メルキデゼクの位に等しい祭司」であることについては7章のところに詳しく出てくるのでそこで取り上げたいと思いますが、ここではただ一つのことだけを申し上げたいのです。このメルキデゼクという人物はエルサレムの王であり、祭司でもあった人で、アブラハムの時代にいた人物であるということです。大祭司というのはアロンの時代に初めてその職に任じられたわけですから、それよりもずっと先の時代の人であったということです。つまり、このメルキデゼクという人はアロンよりもすぐれた大祭司であり、ちょっと不思議な大祭司であったということです。そして、ここでは神の子イエスがメルキデゼクの位に等しい大祭司であると言われているのです。ここには、彼は「とこしえに」祭司であると言われていることから、キリストはそのような類な大祭司であるということがわかります。つまり、キリストは、私の罪も、あなたの罪も、完全にあがなうことがおできになられる方であって、そのために神によって立てられた方なのです。

 

このような方がいたら、あなたも助けを求めたいと思いませんか。人間は一見強そうでも、ちょっとしたことですぐに右往左往するような弱い者でしかありません。きょうは何でもなくても明日はどうなるかさえわからない不確かな者なのです。しかし、人間を超えた確かな神、メルキデゼクの位に等しい大祭司に支えられながら生きれらるということはどんなに幸いなことでしょう。私たちにはこのような支えが必要なのです。あなたは、それをどのように持っておられるでしょうか。

 

Ⅱ.涙をもって祈られたイエス(7)

 

次に7節をご覧ください。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

 

どういうことでしょうか。大祭司であるためのもう一つの条件は、人々を思いやることができるということでした。まさに、ここにはそうした大祭司イエスの姿が描かれているのです。4章15節にも、「私たちの弱さに同情することがおできになられるのです。どのようにおできになられるのでしょうか。ここには、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことができる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。

 

確かにイエス様の生涯をみると、それは祈りの生涯でした。しかしその中でも、死を目前にしたゲッセマネでの祈りは、私たちの想像をはるかに超える激しい祈りでした。イエスは十字架の死を前にして、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と三度も祈られました。それはこけまでひと時も離れたことがなかった父と離れることの苦しみを表していたからです。ルカは「汗が血のしずくのように地におちた。」と記録しています(同22:44)。それほど激しい祈りの葛藤でした。

しかし、それはゲッセマネの園での祈りだけではありません。というのは、ここに「キリストは人としてこの世におられたとき」とあるからです。この原文を直訳すると、「キリストは、ご自分の肉の日々において」となります。つまり、これはイエス様の地上生活の中のある特定の日のことを指しているのではなく、イエス様がこの地上で生活をしておられた間中のことなのです。ですから、イエス様はゲッセマネの園での祈りだけでなく、いつも涙を流して叫び続けておられたのです。あなたのために涙をもって祈っておられるのです。

 

一体どこのだれがこの私のために、あなたのために、涙を流して祈ってくれたでしょうか。イエス様以外にはおられません。主イエス様以外に、あなたのために涙を流して祈ってくれる方はいないのです。しかも、イエス様はいつもそのように祈っていてくださいます。この地上におられた時だけでなく、天におられる今も、父なる神に私たちのためにとりなしていてくださるのです。なんという大きな恵みでしょうか。

 

旧約聖書にサムエルという預言者が登場しますが、彼はイスラエルが神制から王制に移行していく際に大きな貢献を果たした人物です。なぜ彼がそれほどの貢献を果たすことができたのでしょうか。その背後に母ハンナの涙の祈りがあったからです。ハンナは夫のエルカナに愛されていましたが、残念ながら、なかなか子どもが与えられませんでした。その当時、妻の最大の役目は跡継ぎを産むことでしたから、それが彼女にとってどれほど屈辱的なことだったかわかりません。しかも、夫のエルカナには、ペニンナというもう一人の妻がいて、彼女には何人かの子供が与えられていたので、そのことでペニンナからも辛く当たられ、ハンナの苦しみは更に増すばかりでした。とうとうハンナは、食事もできないほどに悲しみに暮れるようになりました。

そんなある日、ハンナは、夫エルカナと共に神殿に上り、そこで、子どもを授かることを願って熱心に祈りました。彼女は主に祈って、激しく泣いたとあります。

ハンナが主の前であまりにも長く祈っていたので、祭司のエリはそれを見て心配になりました。くちびるが動くだけで、その声が聞こえなかったからです。それで、もしかしたら酔っぱらっているのではないかと思ったのです。

「いいえ、祭司様。私は酔っぱらってなんていません。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、酒も飲んではおりません。私はただ主の前に心を注いで祈っていたのです。」

そのようにして与えられたのがサムエルです。そうした母の涙の祈りはサムエルが生まれた時だけではありませんでした。彼が成長し、やがて主のために用いられるようになってもずっと続きました。そうしたサムエルの働きの背後には、こうした母の涙の祈りがあったのです。

 

それはサムエルだけではありません。このキリスト教の歴史を振り返ると、偉大な働き人の背後にはいつもそうした涙の祈りがあったことがわかります。

たとえば、皆さんもよくご存知のアウグスティヌスもそうでした。アウグスティヌスは4世紀最大の教父といわれ、その思想と信仰は今でもローマ・カトリック教会でも、プロテスタントでも支持されています。そして最後はヒッポの監督にまでなりました。しかし、彼の若い時はそうではありませんでした。

アウグスティヌスは若い時に神から離れて享楽的な生活に浸り、熱心なキリスト教徒のお母さんモニカを悩ませました。また彼は当時の新興宗教であったマニ教にもはまるのです。どうしたらいいかわからず悩んだ母モニカは、彼が悔い改めて神のもとに帰るようにと祈りました。そしてある日、教会で祈っていたとき、その教会の神父がその様子を見て、こう言いました。

「子供は必ずあなたのところに帰ってきますよ、涙の子は滅びないと言いますから」

その言葉に慰められた母モニカは勇気を得て、いよいよ熱心に祈りました。しかし、その祈りが応えられたのはアウグスティヌスが32歳のときでした。彼がイタリアのミラノの庭園で木陰に身を寄せていたとき、隣の家の庭で遊んでいた子供たちの清らかな声が聞こえてきました。「取りて読め、取りて読め」。これを聞いたとき、彼は急いで部屋に入り聖書を手にして開いたところが、ローマ書13章12~14節の箇所でした。そこにはこうありました。

「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

彼の心は震え、やがて静まり、そしてやがてほのかな光と平安が彼の心に差し込んできたのです。そしてキリスト教に入る決心をしたのです。これがアウグスティヌスの劇的回心のときでした。そして「神よ。わが魂は、あなたのもとで安らぎを得るまで揺れ動いています。」という後世に残る有名な言葉を残したのです。

そして34歳の復活祭の日に、アンブロシウスによって洗礼を受けたのでした。これをいちばん喜んだのは言うまでもなく母モニカでした。「涙の子は滅びない」という言葉が現実になったのです。しかし母モニカはそれから9日目に天に召されました。まさしく母モニカの一生は、アウグスティヌスの回心のために捧げられた生涯でした。

すばらしいですね。涙の子は滅びません。涙の祈りは答えられるのです。そして、私たちの主イエスは、私たちのためにいつも涙を流して祈っているのです。

 

ノアという賛美グループの曲に、「聞こえてくる」という賛美があります。  「聞こえてくる」 あきらめない。いつまでも イエス様の励まし 聞こえてくる 試練の中でも 喜びがある 苦しみの中でも 光がある ああ主の御手の中で 砕かれてゆく  ああ、主の愛につつまれ 輝く

 

私たちにはイエス様の涙の祈りがあります。イエス様はいつもあなたのために祈っています。あなたはそのように祈られているのです。よく「私なんで・・」という人がいますが、それは事実ではありません。そんなあなたでも祈られているのです。そのことをどうか忘れないでほしいと思います。そして、たとえ試練があっても、たとえ苦しみがあっても、あきらめずに進んでいこうではありませんか。

 

Ⅲ.完全な者とされたイエス(8-10)

 

ところで、涙をもって祈られたイエス様の祈りはどうなったでしょうか。7節を見ると、「その敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。イエス様が神の子であられるのなら、イエス様の祈りが答えられるというのは当たり前のことではないでしょうか。いいえ、そうではありません。それは、この地上に生きる人間がいかに神の御心にかなった歩みをするのが難しいかを見ればわかります。しかし、イエス様の祈りは、その敬虔のゆえに聞き入れられました。現代訳には、「父である神を畏れかしこむ態度によって」と訳されています。父である神を畏れる態度とは、もう少し別の言葉で言うと、こういうことです。8節から10節をご覧ください。

 

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」

 

キリストは本来、神の御子であられる方ですから、従順を学びというのは不思議なことです。こういう記述からエホバの証人の方は、「ほら、見てください。キリストは神の子ですが、神ではないということですよ。」と訳の分からないことを言うわけです。しかし、ここではそういうことを言っているのではありません。キリストが神に従うことを学ばれたのは、キリストが本来そのような性質を持っておられなかったからというのでのではなく、本来持っておられたにもかかわらず、なのです。それが神の「御子であられるのに」という言葉で表現されていることなのです。それなのに、ここでもう一度従順を学ばれたのは、それによってご自分の完全さを実証されるためであり、それゆえに、ご自分に従って来る人々に対して、とこしえの救い、永遠の救いを与える者となられるためだったのです。だから、このことはむしろキリストが本来そのような方であることを、むしろ強調している箇所でもあるのです。そのような方であるにもかかわらず、それをかなぐり捨てて、神に従われました。そのことを、ピリピ2章6~11節にはこう言われています。

 

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

 

それは、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。イエスこそキリスト、救い主です。イエスは自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 

皆さん、イエス・キリストこそ完全な救い主であられ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えることがおできになるお方なのです。キリストはあなたも完全に救うことができるのです。この方以外にはだれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。それゆえ、私たちはこの完全な大祭司であられるイエスの御名に拠り頼み、どこまでもイエスに従う者となろうではありませんか。

 

あなたは何に信頼しているでしょうか。どこに救いを求めておられるでしょう。あなたを助け、あなたにとこしえの救いを与えてくださる方は、あなたの罪を贖ってくださった救い主イエスです。このイエスから目を離さないようにしましょう。

 

先ほども申しげたように、私は先週まで一週間入院して胆石の治療にあたっていましたが、それは自分が想像していたよりも少し大変な手術でした。何が大変だったかというと、手術の前には浣腸して腸にあるものを全部出すのですが、それが看護ステーションの隣にある処置室でなされるのです。便の状態を確認しなければならないからとのことですが、全く慣れていないこともあって屈辱的に感じました。そして、手術中は全く何もわかりませんでしたが、終わってから尿に管がついていてあまり身動きできないんですね。動きたくても体中に管が巻き付いていて気になって眠れないのです。するとだんだん麻酔は切れてきますし、気持ちは悪くなるし、ああ、こんなにひどいのかと一瞬思ったほどです。時々見舞いに来てくれる永岡姉のお顔が天使のように見えるほど、ありがたく、また安心しました。

でも、私はこの手術に臨むあたり一つみことばが得られました。それは詩篇62篇621,2節のみことばです。

 

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」

 

浣腸の時も、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神

。神こそ、わが岩、わが救い。わがやぐら。私は決して揺るがされることはない。」と思う、不思議に平安が与えられるのでした。

 

皆さん、主こそあなたの救いです。あなたはっ決して揺るがされることはありません。この主に信頼して、この新しい年も前進させていただきましょう。