申命記7章

きょうは、申命記7章から学びます。モーセは、イスラエルが約束の地に渡って行って、そこで彼らが行うためのおきてと定めを語っています。前回のところでは、親が子どもに教える内容とその理由を語りました。それは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでした。なぜなら、主は彼らをエジプトから救い出された方であられるからです。それがイスラエルの根源にあることで、新約の時代に生きる私たちにとっては十字架と復活による罪の贖いを指しています。私たちを罪から贖ってくださった主に従うことを、自分の子、孫、そしてその子孫に語り告げなければならないのです。そして、きょうのところには、異邦人を追い払うことについて教えられています。

 

1.互いに縁を結んではならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。」

 

 イスラエルが、入って行って、所有しようとしている地には、多くの異邦の民がいます。ここにはその七つの民が列記されています。それはヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人です。これらの民はイスラエルよりも圧倒的に多く、強い民ですが、主が彼らを追い払ってくださるので恐れる必要はありません。何と力強い宣言でしょうか。この新しい一年が、力強い主の約束に守られてスタートできることを感謝します。

 

しかし、主がそのように先住民族を追い払われるとき、イスラエルの民が注意しなければならないことがありました。それは、主がそのように彼らを打つとき、彼らを聖絶しなければならないということです。彼らと何の契約も結んではならないし、容赦してはなりませんでした。

また、彼らと互いに縁を結んでもなりませんでした。それは具体的にどういうことかというと、彼らの娘をその地の息子に与えはならないし、その地の娘を彼らの息子にめとってはならないということです。なぜでしょうか?それは彼らの息子が主から離れることによってしまうからです。そうなれば、主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主はたちどころに彼らを根絶やしにしてしまわれます。ですから、彼らはその地の住民の祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければなりませんでした。

 

パウロはこのことについて、コリント人への手紙第二でこう言っています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」(Ⅱコリント6:14-15

 

これは、不信者との関わりを一切持ってはいけないということではありません。むしろ、神の愛を伝えていくために彼らと積極的に関わっていくべきです。けれども、そのことによって自分たちが立っているポイントを見失うことがないようにしなければなりません。光と闇とに全く交わりがないように、キリストと悪魔には何の交わりもないのです。度を越えた交わりは命取りとなってしまいます。それが不信者との結婚なのです。結婚は神が定めたもっとも親密な関係であるがゆえに、不信者と縁を結ぶなら、その根本が崩れてしまうことになります。つまり、まことの神から離れてしまうことになるのです。「いや、たとえ信仰が違っても別に問題はない」と言う人がいますが、本当でしょうか。そのようなことは決してありません。相手があなたに合わせているか、あなたが相手に合わせているかであって、最も深いところで一つになることはできないのです。それどころから、あなたは確かに信仰に歩んでいるようでも、もっと深く入っていこうものなら相手のことが気になってブレーキをかけてしまうことになるでしょう。つまり、同じ土俵に立てないのです。その結果、神との関係が弱くなってしまうか、離れてしまうことになってしまいます。

 

Ⅱ.主があなたがたを愛されたから(6-16

 

いったいなぜ主は異邦の民と縁を結ぶことについて、そんなに厳しく命じておられるのでしょうか。その理由が6節から16節までのところにあります。

 

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。私が、きょう、あなたに命じる命令・・おきてと定め・・を守り行なわなければならない。それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。」

 

異邦の民を根絶やしにしなければいけない理由は、彼らが主の聖なる民だからです。「聖」というのはある一定の目的のために分離されるという意味です。彼らが分離されて、聖なる神のものとされたということです。それをここでは「ご自分の宝の民とされた」と言われています。神によって造られた民はこの地上に数多くあれども、主は、この地の面のすべての国々の民にうちから、彼らを選んでご自分の宝の民とされたのです。これはものすごいことです。この世界には何十億という人が住んでいますが、その中で私たちを神の民、宝の民としてくださったのです。それはどのくらいのパーセントの確率かというと、この日本では1パーセント以下の確率です。その中に私たちも入れさせていただきました。主の宝の民とされたのです。これはものすごいことではないでしょうか。ですから、その密接な関係を壊すような要因をすべて破壊するように、というのです。

 

いったいなぜ主はイスラエルをご自分の宝の民として選ばれたのでしょうか。7節からのところらその理由が記されてあります。それは彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。力があったからでもない。ただ愛されたからです。ん、どういうことですか?そういうことです。主がただ愛されたから・・・。つまり、私たちに何か選ばれる根拠があったからではなく、神が一方的にただ愛されたからです。これが聖書に描かれている神の選びです。つまり、神の選びは、神の一方的な主権的な選びなのです。

 

パウロは、この神の主権的な選びについてこう言いました。「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:15-16

 

しばしば、ユダヤ人が選民思想を持っていると言ってユダヤ人を批判する人がいますが、そもそも選民思想というのはそのようなものではありません。選民とは、神が一方的に自分たちを選び、一方的に関わりを持たれ、一方的にご自身の御業を成してくださることです。私たちが何かすぐれているから愛されているのではなく、ただ愛したいから愛されているのです。自分には愛されるような資格がないのに、にもかかわらず愛されることなのです。それが神の選びなのです。自分に愛される資格がないのに愛されるのは気持ちが悪いものですが、でもほっとします。自分が根本的に愛されていることを知ると、自分のありのままの姿、罪深いその暗やみの部分も見る勇気が与えられるからです。イスラエルが試されて、ここまで罪性が明らかにされてもなお、主が彼らを見捨てておられないように、私たちもとことんまで自分の罪深さが示されても、主がなお愛されていることを知ることができるのです。

 

 彼らの神、主は、そのような方です。この主だけが神です。他に神はいません。そして、この神が彼らと結ばれた、おきてと定めがこれなのです。これというのは十戒であり、また、その中心である神だけを愛しなさいということです。それ以外のものが入ってきてはいけません。これは神の恵みの契約なのです。これを守り行うなら、主が彼らを愛し、祝福し、その恵みの契約を千代までも守られますが、主を憎む者には、主はたちどころに彼らを滅ぼされます。その祝福の内容が12節から16節まで書かれてあります。特に16節には、「彼らをあわれんではならない」とありますが、神から祝福される力は、この不信者と交わらないという聖別にあることがわかります。私たちがどれほど立派に信仰に生きていても、たくさんの人々に福音を語っても、もしこの真理に立っていなければ、そこには力がありません。それがあなたへのわなとなることがあるからです。

 

Ⅲ.恐れてはならない(17-26

 

「あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう。」と言うことがあれば、彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、主は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、主が同じようにされる。あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。あなたの神、主は、これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。あなたは彼らをすぐに絶ち滅ぼすことはできない。野の獣が増してあなたを襲うことがないためである。あなたの神、主が、彼らをあなたに渡し、彼らを大いにかき乱し、ついに、彼らを根絶やしにされる。 また彼らの王たちをあなたの手に渡される。あなたは彼らの名を天の下から消し去ろう。だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。自分のものとしてはならない。あなたがわなにかけられないために。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌みきらわなければならない。それは聖絶のものだからである。」

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入って行くにあたり、そこには当然、恐れが生じます。敵は自分たちよりもはるかに多く、強いわけですから、どうやって彼らを追い払うことができるのでしょう。そのために主は、かつてエジプトでパロに対してなされたことを思い出させています。それと同じように、主は彼らが恐れているすべての国々対して成されます。だから彼らを恐れてはなりません。

 

ここでも、やはりエジプトにおける主のみわざが出発点となっています。クリスチャンも同じように、キリストが十字架で死なれ三日目によみがえられたという主の圧倒的な救いの御業がすべての勝利の原点にあります。それによって、「神はわたしたちとともにおられる」ことが現実のものとなり、何も恐れる必要がなくなったのです。私たちはキリストの御業によって罪から贖われたにもかかわらず、いつも恐れを抱きながら生きる者です。自分の肉の弱さのゆえに、いつも罪に打ち負かされてしまう弱さがあります。そのことでいつもおびえているような者ですが、しかし、死者の中からキリストをよみがえされてくださった神が、私たちのうちにすでに住んでおられるのです。復活させる力があることを信じるその信仰によって、私たちのうちで復活の力が働くのです。そして肉の行ないを殺すことができるのです。

 

しかし、それはすぐにということではありません。22節には、「徐々にあなたの前から追い払われる」とありますが、私たちの肉の思いや行ないも、一挙になくなるのではなく、御霊に導かれつつ、徐々に克服されていくものなのです。ですから、たとえ今はそうでなくても、このキリストのいのちをいただいている者として、やがて完成へと導かれていくことを信じて、ここに希望を置きたいと思うのです。

 

25節と26節には、聖絶のものを欲しがったり、それを家に持ち込んではならないと教えられています。聖絶されたものを自分のところも持ち込むというのは、神が葬ってくださった罪を、また掘り起こすこととを意味しています。そのようなことを行なえば、私たちの状態は初めのときよりも悪くなってしまうと、使徒ペテロは話しています(Ⅱペテロ2:20)。ですから、そのようなことがないように注意しなければなりません。

 

 このように、主は私たちをご自分の宝の民としてくださいました。それは私たちかに何か愛される資格があったからではなく、主がただ愛されたからでした。私たちに求められていることは、この主が与えてくださった定めとおきてを守り、心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして主を愛することです。それがすべてです。主はそのような者を祝福してくださいます。何も恐れてはなりません。なぜなら、全能の主があなたとともにおられるからです。私たちに必要なことは、ただこの主を愛し、主と共に歩むことなのです。この新しい一年がそのような一年でありますように。