ヘブル6章13~20節 「神の約束は変わらない」

今日は、「神の約束は変わらない」というテーマでお話しします。きょうの箇所は6章13節からの箇所です。この手紙の著者は5章10節までのところまで話を進めてくる中で、11節から急に話を変えます。彼らの心がかたくなだったので、このまま話を進めていっても解き明かすことが困難だと判断した著者は、「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目ざして進もうではないか」と勧めるのです。そのテーマのまとめがきょうの箇所で、7章から再びメルキゼデクの話に戻るのです。このところで著者がいいたかったことは何かというと、神の約束は変わらないということです。

 

皆さんは、皆さんの人生の中に「確かなもの」を持っておられるでしょうか。「私の夫や妻は誠実で真面目な人だから大丈夫だわ。絶対に信頼できる」どうでしょうか。「私の会社は何かあったときに、絶対に自分を守ってくれる」どうでしょう。確かにそのようなものはあなたを守ってくれるかもしれませんが、絶対かどうかはわかりません。「それなら何も信じないわ。信じられるのは自分だけ」どうでしょう。それが一番危なかったりして・・・。私たちほどいい加減な者はないからです。すぐに心変わりしてしまうような不確かな者であることは、だれよりも自分自身が一番よく知っているはずです。たとえば、あのペテロでさえ、「今夜、鶏が泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」とイエス様から言われたとき、「何を、ご冗談を。主よ、たとい、あなたと一緒に死ななければならないとしても、私は、決してあなたを知らないと申しません」と言ったのに、何と彼はその日のうちに三度も立て続けに、イエスを否んでしまいました。私たちが住んでいるこの世の中は、まことに不確かなものなのです。

 

では、この不確かな世の中にあって、本当に信頼できる確かなものはあるのでしょうか。あります。それが聖書であり、この世を造られた創造主なる神であり、神が約束してくださった救い主イエス・キリストです。聖書には、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)とありますが、神はいつまでも変わらない方です。イエス・キリストは、きのうもきょうもいつまでも、同じなのです。この天地が滅びようとも、神のみことばは決して変わることはありません。どんなに時代が変わっても、どんなに人の心が変わっても、決して変わらないもの、それが神なのです。この神こそ私たちが信頼することができる唯一の方です。私たちはここに希望を置いて、日々平安で確かな生活を送りたいと思います。きょうはそのことについて三つのことをお話したいと思います。

 

Ⅰ.約束のものを得たアブラハム(13-15)

 

まず13節から15節までをご覧ください。

「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」

 

ここに「アブラハム」という人物が出てきます。クリスチャンならだれでもわかるくらい有名な人ですが、なぜアブラハムなのでしょうか?

それは、この箇所のすぐ前の11節と12節のところで、こう言われていたからです。

「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心を示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

その信仰と忍耐によって約束のものを相続した一人の模範がアブラハムだったのです。彼は信仰と忍耐によって、最後まで神に信頼しました。その結果、神が約束したものを相続することができたのです。いったい彼はどのようにして神の約束のものを得たのでしょうか。

 

アブラハムはイスラエル民族の始祖です。イスラエル民族が始まった最初の人物ですね。イスラエルという民族がどのようにして始まったかご存知でしたか。実はこのアブラハムから始まりました。当時、彼はカルデヤのウルという所、今のイラクですけれども、そこに住んでいました。その時、神様からこう告げられたのです。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1~3節)

 

これは簡単に言うと14節にある内容です。つまり、神はアブラハムを祝福し、彼の子孫を大いにふやすという約束です。

アブラハムがこの約束を受けた時、彼は75歳の時でした。しかし、彼にはなかなか子供が生まれませんでした。それで彼は神様にこう申し上げるのです。

「自分たちには子供が生まれそうもないので、あのダマスコのエリエゼルという忠実で信仰深いしもべがいますから、彼を跡継ぎにしましょう。」すると主は、「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」(創世記15:4)と言われました。そして彼を外に連れ出して、天の夜空を見させこう言いました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(同15:5)

それでアブラハムはまだ子供がいませんでしたが、主が言われたことを信じ、主はそのアブラハムの信仰を受け入れてくださいました。

 

しかし、それから10年経ってもアブラハムにはまだ子供が与えられていませんでした。あれから10年ということは、アブラハムはもう86歳になっていたということです。妻のサラも76歳になっていました。皆さん、どうですか。86歳と76歳ですよ。頑張って子供を産みましょうという歳ではありませんね。常識的に考えたら無理です。それでアブラハムはどうしたかとうと、サラの提案によって、彼女にはエジプトから連れて来ハガルという女奴隷がいたので、彼女によって子供を作り、その子供を跡継ぎにしようと考えたのです。なかなかのグッドアイデアです。常識的には無理なんだから、それに代わる方法はないかと考えた結果、そうだ、この手でいこう!となったのです。これが人間の考えることです。しかし、その結果はどうだったでしょうか。

 

サラの提案はすぐに受け入れられ早速実行に移され、アブラハムとハガルとの間に男の子が生まれました。「イシュマエル」です。このイシュマエルは今のアラブ民族の始祖です。中東におけるイスラエル民族とアラブ民族との戦いは今に始まったことではなく、実はこの時から始まっていたのです。これは神のご計画を人間の考えで達成しようとしたアブラハムの肉が招いた結果でした。皆さん、私たちの問題の原因はいつもここにあります。神の御思いよりも自分の思いが優先してしまうことです。結局、イシュマエルが生まれると女奴隷ハガルが主人サラを見下げるようになってしまったので、そこに大きな争いが引き起こされてしまいました。しかし、こうしたアブラハムの失敗にもかかわらず、神の約束とご計画が変わることはありませんでした。アブラハムが100歳、サラが90歳の時に、彼らに約束の子イサクが生まれたのです。それは実に神がアブラハムに約束した時から25年目が経っていました。それで、15節に戻ってください。

 

「こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」

 

アブラハムはどのようにして約束のものを得たのでしょうか。ここには、「こうして」とあります。つまり、神の約束を聞き、それを信じ、そこに希望を持ち、忍耐して、最後までそれを待ち望んだことによってです。

 

このことをパウロはローマ人への手紙の中でこう言っています。4章19~21節です。

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

アブラハムは百歳になって、人間的には不可能で、どうしようもない状況になっても、あきらめませんでした。彼の信仰は弱まるどころか、ますます強くなって、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じたのです。「こうして」です。

 

この著者はいったいなぜこんなことを語っているのでしょうか。それはこの手紙の受取人である当時のユダヤ人クリスチャンが、イエスをメシアと信じたことでユダヤ人社会かに締め出され、相当の苦しみを受ける中で、中にはかつての生活に、キリストなしの律法の世界に藻道路とする人たちがいたからですつるしかし、そこには救いはありません。救いはイエス・キリストにあるのです。このイエスにしっかりと留まっていなければなりません。その最後まで忍耐してこの信仰にととまったのがアブラハムだったからです。

 

皆さん、歳をとると、歳とともに、このような信仰を持つことは難しくなることがあります。若いうちには「まだなんとか・・」という希望があっても、歳をとると、体力の衰えとともに、「ちょっと無理だ」とか、「大変だわ」と言って、あきらめてしまうのです。でもアブラハムは違いました。彼は百歳になって、もう自分のからだが死んだも同然であり、妻のサラも同様であることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。むしろ、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。皆さん、私たちもそうなりましょう。私たちが何歳になっても神の約束に信頼し、最後まで信仰と忍耐をもってこの希望を告白しようではありませんか。

 

Ⅱ.神の約束は変わらない(16-18)

 

次に16節から18節までをご覧ください。

「確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、・・神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。・・前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。」

 

ここで語られているのは「誓い」についてです。よく私たちは「誓い」をしますね。たとえば、高校野球でも「選手宣誓」をします。「宣誓、私たちはスポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦うことを誓います。」結婚式でもその中心は何かといったら、この「誓約」です。「・・兄弟、あなたは今、この方と結婚し、夫婦になろうとしています。あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信し、神の教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、留める時も、貧しき時も、いのちのち日の限り、堅く節操を守ることを誓いますか。」

すると新郎新婦が「はい、誓います」と答え、牧師が「この男女が夫婦であることを宣言します」と宣言するわけです。

 

しかも誓う時は自分よりもすぐれた者をさして誓います。たとえば、高校野球の時は大会会長の前で誓いますし、結婚式ではもちろん神の前で誓うわけです。でもいったいなぜわざわざ誓うのですか。約束しただけではだめなんですか?約束しただけでもいいんです。そもそも誓いというのは約束なんですから・・・。それならば、なぜわざわざ誓うのですか?それは、ここに書いてあるように確証のためです。今約束したことは本当です。今、約束したことは絶対に破りません。そういう意味で誓うのです。本来、約束は破るためにするのではなく、守るためにするものです。「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」であって、それ以外のなにものでもありません。しかし、それだけでは不十分なのです。その約束が本当なのかどうかを確かなものとするために誓いをするのです。その約束は確かです。誓ってそうします。皆さん、そう言われたらどうですか?「嘘つけ」なんて誰も言えません。誓いというのはそれだけ重いのです。一旦誓ったら、だれもとやかく言うことはできません。

 

なぜこんな話をしているのかというと、神の約束がどれほど確かなものであるかを示すためです。神は人間と違うわけですから、神は本来、誓いなどいりません。神は真実な方ですから、「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」なのです。「はい」が「いいえ」になることは絶対にありません。それは約束を破ることになりますから。神は決して約束を破ることはありません。だから常に「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」なのです。

 

ところが13節を見ると、「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分を指して誓い、」とあります。ここで神が誓っておられるのです。神は真実な方ですから約束だけで十分であって誓う必要なんて全くないのに、ここで誓われたのです。なぜでしょうか。それは、その約束が絶対に変わらないことを示すためです。17節、「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。」ご自分の計画が絶対に変わらないということを、この約束と誓いという二つの事柄をもって保証されたのであります。

 

ということはどういうことでしょうか。ということは、神の約束は絶対に変わらないということです。神のご計画はどんなことがあっても必ず実現するのです。このことが本当によく分かると、聖書の中に約束されている神の約束は確かに自分のものとなるのだということが分かります。信仰によって神の約束の御言葉を自分のものとして体験することがどんなに大きな祝福であるかがわかるのです。それはアブラハムだけでなく、今日の私たちにも全く同じことが言えるわけです。

 

多くの人は、目に見えるものこそ確かなものだと思っています。しかし、目に見えるものはやがて過ぎ去ってしまいます。

「人はみな草のようで、その栄は、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

このことが本当に分かると、変わりやすく不確かなこの世のものに捕われず、確かな永遠の神の御言葉に根を下ろして生きるようになると思います。

 

クリスチャンでない方にとっては、クリスチャンほど哀れな人たちはいないと思われるかもしれません。だって天国だとかつかみどころのないものを当てにしながら生きているからです。人間の知恵や常識からすれば、確かにつかみどころがないかもしれません。しかし、そのつかみどころがないものを、神が保証してくださっているのです。ですから、これ以上確かなものはないのです。ノンクリスチャンは自分の考えに自信をもっていかもしれません。しかし、そうした自信といったものがどれだけ確かなものであるかは、この震災が物語っているのではないでしょうか。あれからもうすぐ5年が経とうとしていますが、私たちはこのことから教訓を受けなければなりません。人間がどんなに知恵や知識をもってしても、そうしたものは大震災の時には何の役にも立たないということを。本当に必要なのは、私たちを守り、助けてくれるのは、神の約束の御言葉であって、それ以上に確かなものはないのです。

 

Ⅲ.神に錨を下ろして(19-20)

 

ですから、結論は、神に錨を下ろしてということです。19節と20節をご覧ください。

「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」

 

ここには、この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たしとあります。錨というのは、船が港や沖合いに停泊する時、流れに流されないようにするためのものです。普通、鋼鉄の綱に付けられ、海底に下ろされますが、海底があまりにも深い場合には、海底まで届かなくても、動くことのない深海に沈めておきます。そうすると、どんなに海面が荒れて、波打っても、船は錨によって、しっかりと固定されているので、びくともとません。流されたり、ひっくり返ったりしないのです。イエス・キリストに対する希望はこの錨のようなもので、この方に錨を下ろすならば、決して揺れ動くことはありません。それは私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たすのです。どんなに世相が変わり、人の心が変わっても、神の中に信仰の錨を下ろしていれば、動くことのない平安な日々を歩むことができるのです。あなたの錨はどこに下ろされていますか。イエス・キリストに置かれていますか。もしイエスの上に置かれているなら安心です。なぜなら、イエス・キリストは岩なる方なので、この方につながっているなら、この方にとどまっているなら、あなたのたましいには、いつも安らぎがあるからです。この方は真実な方なので、その約束を最後まで守ってくださいます。

 

その約束とは何でしょうか。その約束とは、幕の内側に入るということです。これは天の至聖所のことです。神が臨在しておられるところ、天の御国のことです。必ずそこに入れていただけます。そのためにイエス様は私たちの先駆けとして、そこに入ってくださいました。天の聖所に入り、永遠にメルキデゼクの位に等しい大祭司となられたのです。

 

ですから、私たちの信仰が確かで不動なものであるのは、神の保証としての約束の御言葉とその誓いがあるからということと同時に、このようにイエス・キリストが私たちの先駆けとしてすでに天国に入っておられ、大祭司として私たちを助けようとしておられるからだということがわかります。それゆえ、神の臨在の中で歩む者には、恐れも悩みも思い煩いもありません。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができるのです。そこに、いつまでも変わらないイエス様がともにおられるからです。イエス・キリストは、昨日もきょうもいつまでも同じです。このイエス様が共にいてくださるなら、どんなことがあっても、あなたは揺るがされることはないのです。

 

ダビデはこのように言いました。

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、わたしはゆるぐことはない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:8-11)

 

おそらくこれは、ダビデがサウルから逃れているときの心境だったと思います。鳥が身の危険を感じたら山々に飛んでいくように、自分の身に命の危険を感じた彼は、遠くに逃げていけば良いのです。でもそのようにしなかった。なぜでしょう。なぜなら、彼は主ご自身に身を避けたからです。いつも自分の前に主を置きました。なぜなら、主が彼の右におられるなら、揺るぐことがないからです。主が彼とともにおられるなら、彼のたましいは喜び、楽しみ、安らぎます。主こそ彼の岩、彼の救い、彼のやぐらでした。彼のたましいは黙って、ただ神を待ち望んだのです。それゆえ彼は喜びに満ち、彼の右には、楽しみがとこしえにありました。これが私たちの信仰です。あなたの錨はどこにおろしているでしょうか。

 

昔からクリスチャンは迫害の時、自分たちがクリスチャンであることのしるしとして、魚の模様や錨の模様を描きました。ことにローマ帝国下で迫害に耐えてきたクリスチャンは、ローマにある地下墳墓で集会を持っていました。これはカタコンベと言って、今日でも残っています。地下に二層にも三層にもなっていて、所々に有力者たちが葬られたのではないかと思われる広場のような所があります。広場といってもせいぜい一坪か二坪の小さな所ですが、そういうところの壁に魚や錨が描かれているのです。いったいなぜそんな絵が描かれているのでしょうか。

魚はギリシャ語でイクスースと言いますが、これは、「神の子、救い主イエス・キリスト」というギリシャ語の頭文字を綴った単語です。それがイクスースになるからです。では錨はなぜかというと、そこに十字架があることからもわかるように、イエス・キリストに錨を下ろしているという彼らの信仰が表われているからです。

 

あなたの錨はどこに下ろされていますか。もしそれがイエス・キリストに、いつまでも変わらない神の約束に下ろしているなら、あなたのたましいも安全で、どんなことがあっても揺るがされることはないのです。神の約束はどんなことがあっても変わらないからです。