申命記20章

 きょうは、申命記20章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 1.恐れてはならない(1-9

 

「あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」つかさたちが民に告げ終わったら、将軍たちが民の指揮をとりなさい。」

 

ここには、イスラエルが約束の地に入ってから現実に直面する一つの問題、すなわち、戦いについて言及されています。イスラエルが入って行こうとしている地は、彼らがエジプトで奴隷としている間に多くの民が住み着いていたので、そこに入りその地を所有しようとすれば、戦いは避けられませんでした。そこで、そのような戦争が起こったとき、彼らがどのように戦いに臨まなければならないのかが語られています。

 

それはまず、「あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。」ということでした。なぜなら、彼らをエジプトの地から導き上られた彼らの神、主が、彼らとともにおられるからです。エジプトで430年もの間奴隷として捕らえられ、苦役に服していた彼らにとってその中から救い出されることは人間的には全く考えられないことでした。しかし、全能の主が彼らとともにおられたので、彼らはその中から救い出され、約束の地へと導かれたのです。主が共におられるなら何も恐れることはありません。

 

私たちの問題は、すぐに恐れてしまうことです。仕事がうまくいかないので、このままでは倒れてしまうのではないか、職場をリストラになったが、この先どうやって生活していったらいいのだろう、職場や家庭、友達との関係に問題が生じたが、これから先どうなってしまうのだろう、最近、起きると半身がしびれるが、もしかしたら脳に腫瘍でもあるのではないか、そのように恐れるのです。戦いにおいて恐れは禁物です。恐れがあれば戦う前にすでに勝敗は決していると言ってもいいでしょう。ではどうしたら恐れに勝利することができるのでしょうか。

 

2節から4節までをご覧ください。「あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。

「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。うろたえてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」

ここでモーセは、イスラエルの兵士の士気を高めるために、彼らの目を主に向けさせました。向かってくる敵を見ておびえるのではなく、主を見て、主が自分たちのために戦ってくださることを信じて、勇敢に戦いなさい、というのです。

 

少し前に青年や学生たちとネヘミヤ記から学びましたが、ネヘミヤも同じでした。エルサレムの城壁再建に取り組むもそれに批判的であったホロン人サヌバラテとかアモン人トビヤといった者たちが、非常に憤慨して工事を妨げようとしました。しかし、イスラエルの民に働く気があったので工事は順調に進み、その高さの半分まで継ぎ合わされました。

すると反対者たちは非常に怒り、混乱を起こそうと陰謀を企てました。するとイスラエルの民はみな意気消沈してこう言いました。「荷を担う者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」(ネヘミヤ4:10)これは言い換えるとこういうことです。「もう体力の限界にきているというのに問題だらけだ。これでは城壁を築くことはできない・・・」つまり、彼らは意気消沈したのです。これこそ敵の思うつぼでした。やる気を失わせたのです。

そこでネヘミヤが取った行動は、彼らの目を神に向けさせることでした。ネヘミヤはおもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々にこう言いました。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(ネヘミヤ4:14)すると彼らは奮起され、片手で仕事をし、片手に投げやりを堅く握って工事を進めたので、わずか52日間で城壁工事を完成させることができたのです。

 

ここでも同じです。イスラエルが敵と戦うために出て行くとき、あなたよりも馬や戦車や多くの軍勢を見て、とても自分たちの力では戦えないと恐れてしまうこともあるかもしれない。しかし、彼らを恐れてはいけません。うろたえてはならないのです。あなたが敵と戦って勝利を得させてくださるのはあなたがたの神であり、その神があなたがたとともにおられるのだから。問題はどのように戦うのかではなく、だれが戦うのかです。私たちと戦ってくださるのは主であり、この主がともにおられることを覚えて、恐れたり、うろたえたり、おじけたりしてはならないのです。

 

5節から9節までをご覧ください。ここには、彼らが戦いに出て行くとき、つかさたちはこれらのことを民に告げるようにと言われています。これはどういうことでしょうか。これは自分の生活のことで心配事がある人は、戦いに行ってはならないということです。なぜなら、戦友たちの士気が下がってしまうからです。新しい家を買った者は、その家のことが気になって戦いに影響をきたします。ぶどう畑にたくさんぶどうの実が結ばれていたら、そのぶどうのことが気になって戦いに集中することができません。婚約している人は、彼女のことが気になってしょうがないため、戦うことができません。そして、悪いことにそうしたことが同じように戦っている兵士の士気を下げてしまうのです。

 

主イエスはこのように言われました。「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。『私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。』すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』イエスは別の人に、こう言われた。『わたしについて来なさい。』しかしその人は言った。『まず行って、私の父を葬ることを許してください。』すると彼に言われた。『死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。』別の人はこう言った。『主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。』するとイエスは彼に言われた。『だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」(ルカ9:57-62

 

主の弟子となるということは、主だけに思いを集中して従うということであり、他のことで思い煩わないということです。そうでないと、戦友の心までもくじけてしまうことになるからです。主の弟子として生きていく上には多くの戦いが生じますが、それがどのような戦いであっても共通して言えることは、恐れてはならないということです。なぜなら、主がともにおられ、主が勝利を得させてくださるからです。

 

2.聖絶しなさい(10-18

 

 次に10節から18節までをご覧ください。

 

「町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。あなたの神、主が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。」

 

ここでモーセは、どのように約束の地を攻略するかを語っています。そして、イスラエルが町を攻略しようと、その町に近づいたときには、まず降伏を勧めなければなりませんでした。そして、降伏に同意して敵が門を開くなら、その中にいる者は、みな、イスラエルのために、苦役に服しました。しかし、もし、敵が降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲して戦い、その町の男をみな、剣の刃で打たなければなりません。しかし、女、子ども、家畜、またその町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ることができました。それを利用することができたのです。ここで女や子どもを殺さなかったというのは人道的な理由からであると考えられます。イスラエルの敵は彼らに襲い掛かってくる者たちであって、その妻や娘たち、子どもたちではないからです。そのような者たちは、ある意味でイスラエルのために仕えることができたからです。

 

しかし、16節をご覧ください。主が相続地として与えようとしておられる次の国々、すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の町々では、必ず聖絶しなければなりませんでした。なぜてしょうか。18節にその理由が記されてあります。「それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。」

この場合の主に対する罪とは、異教の神々を拝む偶像礼拝の罪であり、主が忌みきらうべき異教的風習に生きることです。そのようにして、主に対して罪を犯すことがないように、必ず聖絶しなければなりませんでした。

 

「聖絶」とは、聖なる神の名のもとに敵を攻撃することですが、このような言葉を聞くと、多くの人は、「なぜ愛の神が、人々を殺すような戦争をするように命じられるのか。」という疑問を持ちます。イエスは、「敵をも愛しなさい」と言われたではないか・・・」と。その疑問に対する答えがここにあります。それは、一般的に言われている聖絶のとらえ方が間違っていることに起因しています。ここで言われていることは、もし彼らが主に対して罪を犯すようなものがあるなら、それを徹底的に取り除くべきであって決して妥協してはならないということであって、むやみやたらに異教徒と戦って彼らを滅ぼすことではないということです。つまり、ここで教えられていることは、私たちの魂に戦いを挑む肉の欲との戦いのことなのです。

 

Ⅰペテロ211節には、「愛する人たち、あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」とあります。これがこの地上での生活を旅人として生きるクリスチャンに求められていることです。クリスチャンはこの世、この社会でどのように生きていけばいいのか、どのように振舞うべきなのか、それは、「たましい戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」ということです。この肉の欲を避けるというのは、肉体の欲望を抑えて、禁欲的な生活をしなさいということではありません。この「肉」というのは、人間が持つあれこれの欲望のことを言っているのではなく、堕落した人間の罪の性質のことを指しています。すなわち、たましいに戦いを挑む肉の欲とは、人間の中にある罪そのもののことなのです。人間は様々な欲望を持ちますが、そのような罪の支配を避けることこそが肉の欲を避けるということです。この世の中で生きている私たちには、たましいに戦いを挑む肉の欲が次から次へと襲ってきます。そのような中で「たましいに戦いを挑む肉の欲」を避け、「立派に生活する」ことが求められているのです。欲望に負けることなく清い生活に励むことを目指すならこの世の生活から遠ざかって、自分たちと同じような考えを持つ人たちだけで閉鎖的な集団を形成する方が楽かもしれません。けれどもペテロは、そうではなくて、「異教徒の間で立派に生活しなさい。」と勧めています。それは、努力して自分の力で倫理的な、清い「立派な生活を行うこと」ではなく、主イエス・キリストによって目に見える事柄やこの世における幸福よりももっと大事なことを見つめて生きることです。

 

パウロは、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5と言いました。偶像礼拝は何も、目に見える偶像だけではありません。地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。これらのものこそ、たましいに戦いを挑む肉の欲なのです。ここでは、そうしたものに対して殺してしまいなさいと言われています。うまく共栄共存しなさいとは言われていません。殺してしまいなさい、と言われているのです。それらと分離しなければなりません。それが聖別という意味であり、その戦いこそが聖戦であり、聖絶なのです。

 

3.木を倒してはならない(19-20

 

 最後に、19節と20節を見て終わりたいと思います。

 

「長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。」

 

どういうことでしょうか。これは面白い教えです。彼らが町を攻め取るため包囲するときに、そこにある木をむやみに切り倒してはならないとうのです。どういうことかいうと、その町を攻略するのに何の益にもならないことをしてはならないということです。よく戦闘状態にあると興奮してしまい、やらなくてもいいことまでやってしまうのです。この場合は、木を切り倒してしまうということです。しかし、戦争だけでも荒廃をもたらすというのに、それ以上のことを行ったらどうなってしまうでしょうか。何もなくなってしまいます。まさか野の木が包囲から逃げ出すわけがないので、そうした無駄なことはしないようにという戒めなのです。そこには、人間の中にある過酷さを戒め、自然に対する優しさに配慮するようにという神の意図が表れています。

 

けれどもさらに面白いのは、実を結ばない木は切り倒してもよい、という命令です。神さまは非常に実際的な方であることがここで分かります。イエス様も、一度、実を結ばない木をのろわれて、枯らしてしまわれたことがありました。イエス様がベタニヤにおられたとき、お腹をすかして、いちじくの木に実がなっていないか見ておられたら、葉ばっかりで、全く実がないのを見て、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」(マルコ11:12-25)と言われました。すると、翌朝、その木が根まで枯れていました。それは、外見ばかりで中身のない律法学者たちに対する警告だったわけですが、ここでも同じです。イスラエルは、外見では神を信じているようでも、もし中身がなければ切り倒されてしまうのです。

これは、私たちクリスチャンにも言えることです。イエスさまは、「わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。・・・だれでも、わたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。」(ヨハネ15:5-6と言われました。神に対して実を結ぶことが、私たちに求められていることなのです。