ヘブル11章8~16節 「神の約束に生きた人」

ヘブル人への手紙11章から、「信仰」について学んでいます。知者は、信仰とは何ぞやということを述べた後で、信仰に生きた人たちを紹介しています。前回はアベルとエノクとノアについて見てきましたが、きょうは、信仰の父と称されているアブラハムの信仰から学びたいと思います。

 

Ⅰ.みことばに従う信仰(8-10)

 

まず、8-10節をご覧ください。8節をお読みします。

「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

 

ここにはアブラハム生涯について紹介されていますが、アブラハムの生涯について聖書が最初に告げているのは、彼の信仰についてであります。最近「自分史」を書く人々が増えてきておりますが、普通、自分史を書く時は、自分の生い立ちから始めるものですが、アブラハムの場合は自分の誕生からではなく、信仰から始まっているのは注目に値します。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

 

先ほども申し上げましたが、アブラハムは信仰の父と称されている人ですが、いつ、どのようにしてそのように呼ばれるようになったのかは定かではありません。しかし、ここにそのように呼ばれるようになったゆえんがあると思います。それは、彼が神から相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けた時、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行ったという点です。これはアブラハムがカルデヤのウルを出て、カランという地にいた時のことです。神はアブラハムにこう言われました。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろうものをわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1~3)

 

これはアブラハムについて語るとき、とても有名な箇所です。アブラハムはカルデヤのウルというところに住んでいましたがそこから出てハランというところに住み着いていました。しかし、彼が75歳の時、神様から、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。」との召しを受けたのですが、彼はそこで得たすべての財産と、そこで加えられた人々を伴って、神が示される地、カナンに向かって出発しました。当時は部族社会で、部族の人数によってその勢力の優劣が判断された時代です。したがって故郷と父の家は、アブラハムにとっては家族を守る一種の砦(とりで)のようなものであり、そこから出ることは大変危険で、不安要素が多い選択でした。しかし、アブラハムは神から召しを受けたとき、その命令に従って出て行ったのです。ということは、どういうことかというと、彼にとって神の命令は絶対だったということです。

 

しかもここには、「どこに行くのかを知らないで、出て行きました」とあります。これは、行く先を知らないでということではなく、それがどういう所であるのかをよくわからないのに、という意味です。彼は神が示される地がどのような所かをよく知らないのに、出て行ったのです。

 

ここに、信仰とは何かということがよく教えられているのではいかと思います。つまり、信仰とは、人間の常識で行動することではなく、神の御言葉に従うことであるということです。多くの信仰者が信仰生活においてよく失敗するのは、神の言葉よりも自分の思いや常識を優先させてしまうところにあります。よくこのように言うのを聞くことがあるでしょう。「確かに聖書にはそう書いてあるけれども、現実はそうはいかないよね・・・」とか、「頭ではわかっているけどさ、そんなの無理に決まっているじゃない・・・」それは言い換えれば、聖書にはそう書いてあるけれども、実際の生活では無理だということです。現実の生活では、神様は働くことができないと言っているのです。つまり、信仰がないのです。頭ではわかっていても、それを実際の生活の中で働かせることができないのです。実際の生活においては神様よりも自分の考えの方が確かになるのです。もしからし種ほどの信仰があれば、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言えば、そうなるのです、とイエス様は言われました。問題は神様にはできないということではなく、私たちが信じられないということです。

 

これから先どうなっていくのかがわからないというのは不安なことですが、わかってから行動するというのは、信仰ではありません。信仰とは、これから先どうなるのかがわからなくても、神が行けと言われれば行くし、行くなと言われるなら行かないことです。つまり、自分の知識や経験を元にして造られた常識よりも、神が持っておられる知識の方がはるかに完全であると確信して従うことなのです。それこそ、信仰によって生きた人の根底にある考え方です。ですから、信仰によって生きるということは、危なっかしいものであるどころか、これ以上確かなものはないのです。いつまでも変わらない神の言葉に従って生きるのだから、これほど確かなものはないのです。アブラハムは、神から約束の地に行けとの命令を受けたとき、それに従い、そこがどういう所なのかわからなくても出て行きました。

 

さあ、神の約束に従って出て行ったアブラハムはどうなったでしょうか。9節を見ると、「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」とあります。あれっとぉもぃませんか。神の約束を信じて出て来たのに約束の地を所有することができるどころか、その地に天幕を張って住まなければなりませんでした。何ということでしょう。神が祝福するというのでそれに従って出て来たのに、定住することさえかなわなかったのです。ほら、見なさい、やっぱり無理じゃないですか・・・。考えてみると、これはおかしなことです。神が与えると約束された地に来たのであれば、どうしてその地に定住者として住むことができなかったのでしょうか。確かに、創世記を見てみると、12章では、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる者にしようとは仰せられましたが、土地のことについては、それほどはっきれと言及されてはいませんでした。土地についてはっきりと言われているのは、その後アブラハムがエジプトに下り、そこから再び約束の地に戻ってからのことです。創世記13章14~17節にこうあります。

「ロトがアブラハムと別れて後、主はアブラハムに仰せられた。さあ、目を上げて、あなたがいるところから北と南、東と西を見渡しなさい。私は、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることが出来よう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」

 

ここにはっきりと、「この地をあなたとあなたの子孫に与える」と言われているのですから、アブラハムはその地に定住することができたのです。しかし、それなのに彼は定住しませんでした。なぜでしょうか。それは10節にあるように、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都は神によって建てられた天の都です。アブラハムはこのように揺らぐことのない天の都を待ち望んでいたので、そのような天幕生活にも耐えることができたのです。

 

ある人たちはここから、クリスチャンは自分の土地とか家を持つべきではないと考える人たちがいます。アブラハムだって天の都を待ち望んでいたので、天幕生活をしたのだから、クリスチャンもそうすべきであって、一生涯借家生活をすべきだと言う人たちがいるのです。そういう生き方が決して悪いというわけではありませんが、それを他の人にまで強制し、そうでない人は信仰によって生きていないと言うのは、あまりにも極端な解釈だと言わざるをえません。確かにアブラハムやイサクやヤコブは、土地を取得したり、家を建てたりしないで、天幕生活をしていましたが、それは、家を建ててはならないということではないのです。現にイスラエルも、エジプトを出てからは約束の地に入り、その土地を自分たちのものとして所有しました。そして、そこに石造りの立派な家を建てて住んだからです。そして、そういう生き方をした人も、信仰の人として、後にその名前が出てくるからです。たとえば、ダビデはそうでしょう。彼は信仰の王様でしたが、立派な王宮を建てるようにと神様から命じられ、その子ソロモンが完成させました。ですから、この箇所からだけ、借家住まいこそ信仰的であるというのは、かなり偏った考え方だと言えるのです。

 

土地を持っていても、家を持っていてもいいのです。問題は、そこをあたかも永遠の住まいででもあるかのように思って生きることです。どんなに立派な家であっても、またどんなにみすぼらしい家であっても、また持ち家であっても借家であっても、私たちの永遠の住まいはこの地上にあるのではなく、天にあるのだということが一番重要なのであって、そのような考え方を持って生きていくのなら、それは信仰によって生きているのだということが言えるのです。

 

私たちの本当の住まいは天にあります。ここではそれを、「都」と呼んでいますが、それは神によって設計され、建設されたのですから、確かな住まいなのです。世界的に有名な建築家でも欠陥住宅を造ることがありますが、神が造られたものは完璧です。私は以前福島で会堂建設をしたことがあります。大きな立派な会堂です。その会堂を建設する際、私は一つのことだけ建築屋さんに頼んだことがあるのです。それは、絶対雨漏れしない建物を作ってくださいということでした、というのは、それまで私が住んでいた牧師館は雨漏れがしてひどかったのです。ですから、どうせ新しく造るなら絶対雨漏れだけはしんい建物にしてほしいと思ったのです。ところがです。できて数か月後に雨漏れがしたのです。新しく作ったばかりなのにどうして雨漏れがするのかと不思議に思ったというか、がっかりしましたが、人間がすることは、必ずどこかに欠陥があるのです。しかし、神が設計し、神が建設してくださった建物には欠陥はありません。それこそ、私たちが目指す所であります。

 

この世にあって、外国人のように天幕生活をしたということは、ある意味でいろいろな不便さや不都合さや困難があったということを意味しています。つまり、クリスチャンが旅人のようにこの地上で生活をしていこうとすれば、そこには必ず困難が伴うということです。しかし、それに耐えることができるのは、私たちの確かな住まいが天に用意されていることを知っているからです。その確かな住まいのことを、ここでは、「堅い基礎の上に建てられた都」と言っています。それは決して揺らぐことのない土台の上に建てられた住まいです。地震などによって壊れてしまうようなこの地上の住まいとは違い、この天にある住まいはどんなことがあっても決して壊れることがない確固たる住まいです。この地上において堅固な家に住もうと思えば、それこそかなりの資金が必要でしょう。けれども、この天にある確かな住まいは、そうした資金など全く必要なく、ただ信仰によって持つことができるのです。

 

アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。それは、必ずしも彼が望んでいたような安易な生活ではなかったかもしれませんが、彼にとってそんなことは全く問題ではありませんでした。状況がどうであれ、彼にとって神の命令は絶対でした。彼は自分の人生の方向と目標を立てるとき、自分の思いを捨てて、神の選択と意思に完全に従ったのです。これが信仰です。アブラハムが信仰の父と称されるゆえんは、ここにあります。それは神に従っていけば楽な生活をすることができるということではなく、でも、どんなことがあっても神が助け、守り、導いてくださるという信仰だったのです。

 

あなたはいかがですか。神様があなたに与えておられる召しは何ですか。もしそれが神からの召しであるなら、たとえどこに行くのかを知らなくても、たとえそこにどんなことが待ち構えているのかがわからなくてもこれに従うこと、それが信仰なのです。

 

Ⅱ.不可能を可能にする信仰(11-12)

 

次に11節と12節をご覧ください。ここには、「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」とあります。

 

ここには年老いたサラのことが語られています。サラが神から約束の子を授かると言われた時に、彼女は子供を宿すために必要なことが止まっていたので、それは人間的には考えられないことでしたでしたが、最後まで神の約束を信じ、子を宿す力が与えられました。どのくらい年老いていたのかというと、何と89歳になっていました。彼女が89歳の時、三人の使いが彼女のところに現れて、こういうのです。「あなたに子どもが授かります」そんなこと言われても本気に信じる人は信じないでしょう。サラも同様に信じることはできませんでした。それで心の中で笑ってこう言いました。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(創世記18:12)それは彼女の不信仰による笑いでした。

 

しかし、その後、彼女は信じました。たとえ自分の年を過ぎた身であっても、神は約束したことを守られる真実な方であり、それを成就する力があると堅く信じて、疑いませんでした。なぜそのように言えるのかというと、このヘブル人への手紙でそう言っているからです。そして、その言葉のとおり、その一年後に約束の子イサクが生まれました。彼女は最初は信じられなくて笑いましたが、最後は、その笑いは喜びの笑いに変わりました。それは彼女が信仰によって、神には約束してくださった方は真実な方なので、必ずそうなると信じたからです。

 

それはアブラハムも同じでした。ローマ人への手紙4章19節を見ると、「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」とあります。だから、それが彼の義とみなされたのです。

アブラハムも初めは信じられませんでした。そして笑って、心の中で言いました。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」(創世記17:17)しかし、その後彼が100歳になったとき、彼は神を信じ、不信仰によって神を疑うようなことはせず、反対にますます信仰が強くなって、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じました。そのようにして、彼はイサクを得たのです。これは一つの型でした。それは、信仰によって義と認められるということです。アブラハムは、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じたので、それが彼の義とみなされましたが、それは彼のためだけでなく、私たちのためでもありました。つまり、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。その信仰とは、神は死んだ人をもよみがえらせることができるという信仰です。つまり、神は不可能を可能にする方であるという信仰であります。その信仰のゆえに、12節にあるように、アブラハムから天の星のように、また海辺の砂のように、数えきれない多くの子孫が生まれたのです。

 

宗教改革者のマルチン・ルターは、「神様を神様たらしめよ」と言いました。私たちが陥りやすい過ちの一つは、神を小さくしてしまうことです。神様を自分の考えに閉じこめてしまい、小さなことだけを行われる方として制限してしまい、その全能の力を認めないのです。しかし、神様はこの天地万物をお言葉によって創造された方であり、私たちに命を与えてくださった全能者です。神にとって、不可能なことは一つもありません。ですから、たとえ私たちには考えられないことであっても、神にはどんなことでもできると信じ、神の約束を待ち望む者でありたいと思います。

 

Ⅲ.天の故郷にあこがれる信仰(13-16)

 

第三に、アブラハムの信仰は、天の故郷にあこがれる信仰でした。13~16節をご覧ください。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

 

アブラハムとサラ、またイサクとヤコブの生涯を見ると、彼らに共通していたことは、彼らは約束のものを手に入れることはできなくとも、はるかにそれを見て喜び、この地上ではほんのしばらく過ごす旅人にすぎないことを自覚していたことです。それは、彼らが天の故郷を慕い求めていたからです。もしこれがこの地上の故郷のことであったなら、帰る機会はいくらでもあったでしょう。しかし、彼らは、さらにすぐれた故郷、天の故郷にあこがれていたので、なれない文化と習慣の中で、天幕生活を続けることができたのです。この地上での生活において嫌なことがあっても、じっと耐えることができました。このようにさらにすぐれた故郷、天の故郷にあこがれ、それを一点に見つめて離さない人は、この地上でどんなことがあっても感謝をもって生きられるのです。

 

昨年、寺山邦夫兄が天に召されましたが、その証には、76歳の8月11日に、医師から「胃癌と肝臓癌です。肝臓の周りにも腹水がたまっています」と告知されとき、一度も落ち込まなかったと言います。一度も落ち込むことなく、日々平安で、冗談を言いながら、笑いながら過ごすことができました。嘘でしょうと思われる方もいるかもしれませんが、そういう方は後で寺山姉にお聞きになられたらいいと思います。これは本当で、私がご自宅を訪問して一緒に祈った時も、満面の笑顔で、「もうすぐ天国に行けると思うとうれしくて・・」とおっしゃっておられました。どちらが病気なのかがわからないくらい、元気に見えました。いったいどうしてか?証にはこう綴られています。「永遠の命をイエス様から戴いて、主の御元に行くと分かっているからです。」死んでも永遠の命を頂いて、イエス様のもとに行くことができるということを、確信して疑わなかったからです。寺山兄は天の故郷にあこがれていたのです。

そこで「じゃ、祈りましょう」と祈っているとき、私がふと目を開けてみると、寺山兄は両手を手にあげ、涙を流しながら、「主よ。」と祈っておられました。それは決して悲しみの涙ではなかったはずです。これまでずっと慕い求めてきた天の御国、イエス様のもとにもうすぐ行くというその状況の中で、ご自分の思いのたけをすべて主に注いで祈っておられたからだと思います。私は、そんな寺山兄の姿を見て、「ああ、寺山さんは本当に天国を信じているんだぁ」と思わされました。

 

皆さん、この地上での歩みには実に様々なことがありますが、それは、神の永遠の目から見たらほんの点にすぎないのです。そのほんのわずかな期間に執着し、本当に大切なものを見失っているとしたら、それほど残念なことはありません。信仰によって生きる人は、この世ではなく永遠の御国に臨みを抱きます。世の財産や成功に執着するのではなく、御国の喜びと栄光に目を向けるなら、あらゆる試練を乗り越え、聖なる望みを実現するようになるのです。アブラハムやイサクやヤコブは、絶えず天の故郷を目指して進みました。足は地を踏んでいても、目はいつも天に向いていました。地上の富や栄光に執着せず、やがて帰るべき「さらにすぐれた故郷を見上げました。この世に心を奪われるより神に集中するとき、神の御国の相続者となれるのです。

 

16節には、「それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥じとなさいませんでした。」とあります。これは、本当に慰め深い言葉ではないでしょうか。信仰をもって生きる人を、神はこのように評価してくださるからです。

私たちは、これまで何度も何度も主に背き、主に怒りを抱かせるようなことをしてきたにもかかわらず、主を見上げ、主の御言葉を信じて生きて行こうとする人の神と呼ばれることを、神は恥じとはされないのです。

 

アブラハムも主の御心に背き、失敗をしました。約束の地カナンに入った時にききんに見舞われると、神の約束の地を離れ、さっさとエジプトに逃げて行ってしまいました。エジプトでは自分の妻サラを自分の妹であると偽り、自己保身的なことをしました。またゲラルでも懲りることなく同じ失敗を繰り返しました。サラを自分の妹だと偽ってアビメレクという王に召し入れたのです。

それにもかかわらず、彼らの生き方の根幹には、神の約束への御言葉への信仰がありました。だから、神は彼らの神と呼ばれることを、少しも恥じとされなかったのです。それは私たちも同じです。私たちも失敗を繰り返すような弱い者ですが、それでも、その生き方の根幹に神の約束の御言葉への信仰があれば、それでいいのです。神は私たちの神と呼ばれることを恥じとはされません。このことは、あなたにとっても大きな、慰めではないでしょうか。