ヘブル11章30~31節 「いのちがけの信仰」

きょうは、「いのちがけの信仰」というテーマでお話します。このヘブル人への手紙11章には、信仰に生きた人たちのことが語られています。これまでアベルとエノク、ノアの信仰について、そして次にアブラハムとその子イサク、そしてその子ヤコブ、ヨセフの信仰が取り上げられました。そして前回はユダヤ人にとって最も偉大な存在であるといっても過言ではないでしょうモーセの信仰について語られました。きょうは、エジプトを脱出したイスラエルが約束の地に入るにあたって直面したエリコの城壁の陥落と、そのエリコに住んでいた遊女ラハブの信仰から学びたいと思います。

 

Ⅰ.みことばに従った人々(30)

 

まず30節をご覧ください。「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。」

 

これはヨシュア記6章に出てくる内容です。エジプトを出たイスラエルは四十年にわたる荒野の旅をするわけですが、その後、モーセの次の指導者ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、約束の地に入ります。そこで彼らが最初にしなければならなかったことは、エリコの町を攻略することでした。このエリコという町はあの取税人ザアカイが住んでいた町として有名ですが、世界最古の町として知られています。現在はヨルダン川西岸にあるパレスチナ自治区にありますが、かつてこの町にはかなり強固な城壁が巡らされていました。考古学者の発掘によると、この町の城壁は高さが7m~9m、厚さが2m~4mもあったと言われています。そんな城壁が彼らの行く手にはそびえ立っていたのです。そして、彼らが約束の地に入って行くためには、その壁を突破していかなければなりませんでした。いったい彼らはどのようにして突破したのでしょうか。

 

ヨシュア記を見ると、それは常識では考えられない方法、アンビリーバボーな方法でした。それは、一日に1回七日間、七日目には七回城壁の回りを回り、ときの声を上げるというものでした。すると城壁はくずれ落ちました。すなわち、彼らは武力によってではなく、信仰によって攻略したのです。彼らが神のことばに従って行動したので、神が御業を成されたのです。もし、彼らが神のことばに従わなかったらどうだったでしょうか。城壁はずっとそこにそびえ立ったままで、約束の地に入って行くことはできなかったでしょう。しかし、彼らは神のことばを額面通りに受け入れ、それに従って行動したので、壁は崩れ落ちたのです。これが信仰の働きです。たとえそれが自分の理性を越えたことであっても、あるいは今まで全く経験したことがないことであっても、神が示されたことであればそれに従うこと、それが信仰なのです。信仰によって、神のことばに従うなら、どんなに強固な城壁でも崩れるのです。

 

あなたにはどのような城壁がありますか。自分の息子や娘のとの間に越えられない壁があるでしょうか。自分の親、兄弟との間に、あるいは、職場の同僚、上司との間に、友人、知人との間に人間的には超えることが不可能だと思えるような壁がありますか。しかし、それがどんな壁であっても、神は崩すことがおできになるのです。それは、あなたがだれかと相談したからではなく、あるいは、そのためにあなたが一生懸命に努力したからでもなく、ただ神のことばに従うなら、神がそれを崩してくださるのです。それはあなたが思い描いたような方法やタイミングではないかもしれません。けれども、神様は完全であって、その神の完全な時と方法によって最善に導いてくださるのです。ですから、私たちは神の最善を信じて、忍耐して祈り続けなければなりません。そうすれば、ちょうど良い時に神が働いてくださるのです。このようなことを、これまで私たちは何度か経験したことがあるのではないでしょうか。たとえば、これまでいくらイエス様のことを語ってもかたくなに受け入れようとしなかった人が急に心を開かれて信じるように導かれたとか、自分の力ではどうすることもできない問題が、不思議に解決したということが・・・。

 

ローマ人への手紙9章16節にはこうあります。「したがって、事は人間の願いや努力によるの ではなく、あわれんでくださる神によるのです。」

別に、人間の努力が必要ないと言っているのではありません。努力することに何の意味もないと言っているのでもないのです。けれども、私たちの人生には、自分の力ではどうすることもできないことがあるのです。しかし、神はおできになります。神にはどんなこともできるからです。その神に働いていたたくために私たちは自分を神に明け渡し、神が命じられたことに従わなければなりません。自分の思いや考えではなく、神のみことばに従わなければなりません。そうすれば必ず壁は崩れ、神の約束の実現に向かって大きく前進することができるのです。

 

Ⅱ.一致した信仰(30)

 

第二のことは、一致した信仰です。ここには、「信仰によって、人々が七日間エリコの城の周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」とあります。だれか特別な人の信仰によってではなく、人々が七日間エリコの城壁の周囲を回ることによって、人々の一致した信仰によって城壁は崩れたのです。

確かにそこにはヨシュアという強力なリーダーシップがあったのは事実ですが、ヨシュアのリーダーシップだけではなく、そのリーダーに従い、神のことばに従ったイスラエルの人々の一致した信仰があったので、エリコの町の城壁はくずれたのです。もしその中のだれかが、「そんなことしたって無駄だよ。崩れるはずがない。そんなの馬鹿げてる!」「くだらない。俺はそんなことをしている暇なんてない!」と言ったとしたらどうだったでしょうか。壁は依然としてそこにそびえ立っていたことでしょう。イスラエルの人々の一致した信仰がこのような神の御業を引き出したと言っても過言ではありません。

 

エペソ4章13節にはこうあります。「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

神が私たちクリスチャンに求めておられることは信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達することです。人それぞれ考えが違います。しかし、その違いを信仰によって乗り越えなければなりません。自分がどう思うかではなく、神は何と言っておられるのかを聞かなければなりません。そして、神のみこころにおいて一致しなければならないのです。そうすることによって、私たちは完全におとなになって、キリストの御丈にまで達することができるからです。

 

ですから、あなたが霊的に成長したいと思うなら、成長してキリストのようになりたいと願うなら、キリストのからだである教会につながっていなければなりません。なぜなら、私たちはキリストのからだである教会の一員として召されているからです。いいえ、私は結構です、私は自分で聖書を読み、自分で祈り、自分で礼拝するので教会に行く必要はありません、ということがあったら、そういう人は真の意味でキリストの御丈にまで達することはできません。私たちがいくら自分で聖書を勉強しても、いくら信仰書を読んでも、どんなにセミナーに参加しても、私たちがキリストのからだである教会の一員として召されている以上、その中で養われ、育まれていかなければ、健全に成長していくことはできないからです。イエス様は、ふたりでも、三人でも、わたしの名によって集まるところに私もいると言われましたが、どんな小さな教会でも、キリストによって召された神の教会を通して、神はご自身の栄光を現してくださるのです。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところなのです。

 

ですから、霊的に完全なおとなになりたいと思うなら、神の教会につながって、そこでキリストの満ち満ちた身たけにまで達することを求めなければなりません。そこで信仰において一致するということが不可欠なのです。

 

ピリピ1章27節にはこうあります。「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、」

 

福音のために心を一つにして共に奮闘しましょう。たとえそれが自分の思いや考えとは違っても、あるいは、自分がこれまで経験したことと違っていたとしても、クリスチャンは心を一つにすることが求められているのです。それがキリストの福音にふさわしい生活なのです。一人でぐるぐる回っていてもダメです。キリストのからだの一員として心を一つにして祈り、福音の前進のために助け合い、支え合って、ともに奮闘しなければなりません。その時、壁は崩れるのです。

 

日本にプロテスタントの宣教師が来て宣教を開始して160年が経ちますが、未だに1パーセントの壁を越えられないのはどうしてなのでしょうか?その要因はいろいろありますが、その中でも最も大きな要因はここにあるのではないかと思います。すなわち、キリストの福音のためにともに奮闘することです。それぞれが自分の考えがあるでしょう。けれども、キリストとその福音のために自分を捨てる覚悟がなければなりません。福音が全地に満ちるために自分の思いではなくイエス様の思いを持ち、イエス様の心を心として、イエス様のことばに従ってともに奮闘しなければなりません。それはこのヨシュアの時代のようにエリコの町を行進しなければならないということではないのです。それはその当時の、その状況の中で、神が示されたことであって、現代においても同じようにぐるぐると回れということではありません。回るか回らないかということではなく、神のことばに従って、福音のために心を一つにしなさいということなのです。

 

あなたも、この信仰の行進に招かれています。あなたも福音のために、心を一つにして、主の御名の栄光のために共に立ち上がろうではありませんか。それは信仰がなければでません。主よ、あなたが仰せになられることなら何でもします。どうか、この私を用いてくださいと、主の前に祈り求めるものでありたいと思います。

 

Ⅲ.いのちがけの信仰(31)

 

最後に、31節をご覧ください。ここには、遊女ラハブの信仰について語られています。

「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。」

 

イスラエルがこのエリコの町を占領し、そこに住んでいた人々を皆殺しにした時、遊女ラハブは助かりました。なぜでしょうか。それは彼女が、「偵察に来た人たちを穏やかに受け入れた」からです。これはヨシュア記2章にある出来事です。ヨシュアはこのエリコを攻略するにあたり、エリコの町を偵察するために二人の斥候を遣わしたのですが、彼らが向かったのがこのラハブの家でした。そのことがエリコの王の耳に入ると、エリコの王はこの二人を連れ出すためにラハブの家に人を送りました。その時ラハブはどうしたかというと、ふたりの斥候をかくまい、追って来た人に、「その人たちは確かにやって来ましたが、その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。さあ、後を追ってごらんなさい。もしかすると、追いつけるかもしれません。」と言って、助けてあげたのです。

 

このとき、彼女には二つの選択肢がありました。彼らを受け入れる道と、拒む道です。もし彼女が自分たち家族の目先のことを考えたなら、拒んだ方が安全だったでしょう。けれども彼女はもう一つの道を選びました。それはかなり危険な道でもありました。もしそれが発覚したら、それこそ彼女と彼女の家族はエリコの町の敵として糾弾され、裁かれなければならなかったでしょう。場合によっては死刑にならないとも限りません。それでも彼女は、後者の道を選択しました。どうしてでしょうか。それは、彼女がイスラエルの神こそ唯一まことの神であることを知っていたからです。それを知った以上、この神に従い、この神を信じている人々と行動を共にすることが正しいことであると判断したからです。ヘブル書ではそれを「信仰によって」と表現しています。信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れたのです。その時のことを、ヨシュア記には次のようにあります。

 

「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」(ヨシュア2:9-11)

 

そして彼女はさらにこう言いました。「どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」(ヨシュア2:12)

このようにして、彼女は彼らを逃してやりました。彼女は自分のいのちがけで彼らをかくまい、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れたのです。ここでは、その信仰が称賛されているのです。

 

それにしても、このヘブル人への手紙11章には信仰に生きた人たちの名前が記されていますが、その中に彼女の名前が出ているのは不思議なことです。というのは、彼女はエリコの町に住んでいた異邦人で、しかも遊女だったからです。そのような女性が信仰の殿堂入りを果たすということなど考えられないことだからです。ここには17人の人たちの名前が出てきますが、そのうち15人が男性で、女性はたった2人しかいません。しかもそのうちの一人は、あの信仰の父と言われているアブラハムの妻サラです。アブラハムが信仰の父ならば、サラは信仰の母と言っても過言ではないでしょう。そういう女性ならわかりますが、ラハブはそれとは全く比べものにならない立場の女性です。そういう人がこの中に紹介されているというのは本当に首をかしげたくなります。しかも、このヘブル人の手紙はだれに書かれたのかというとユダヤ人クリスチャンに対して書かれました。当時迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンがその信仰に堅く立ち続けるようにと励ますために書かれたのです。そしてユダヤ人の社会においては女性が称賛されることはまずありません。ですから、ここに異邦人の、しかも女性が称賛されていることは驚くべきことなのです。しかし、どのような身分、立場であっても、神のことばを聞いて生けるまことの神を信じ、いのちがけで主に仕えるなら、だれでも信仰の殿堂入りを果たすことができるということがわかります。彼女はこの信仰によって称賛されたのです。

 

このラハブの信仰でも際立っている言葉は、ヨシュア記2章21節のことばではないかと思います。それは、「おことばどおりにいたしましょう。」という言葉です。ふたりの斥候が、イスラエルが城壁を破壊してエリコの町に入って来たときには、それがラハブの家であることがわかるように、彼らを吊り降ろした窓に赤いひもを結び付けておくように、そして家族の者は全部、家の中にいるように、もし戸口から外に出るものがあれば、その者はこの誓いから外れる、また、このことをだれかにしゃべってもならないと言うと、彼女は、「おことばどおりにいたしましょう。」と答えたのです。

 

この言葉は、かつてイエス様の母マリヤも発した言葉です。御使いガブリエルがやって来て彼女に救い主の母になると告げられたとき、「どうしてそのようなことがこの身になるでしょう」と戸惑っていると、御使いが、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1:35)と告げました。するし彼女はこう言うのです。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)このようにしてマリヤは、救い主の母となったのです。

 

ここに登場しているラハブも同じです。彼女もふたりの斥候から告げられると、「おことばどおりにいたしましょう。」と言ってすべてを主にゆだねました。いいえ、そればかりではなく、この信仰によって彼女は救い主の系図の中に加えられたのです。その後、彼女はユダ族のサルモンという人と結婚しボアズを出産します。このボアズはルツと結婚し、あの有名なダビデ王の祖父オベデを生みます。そしてこの子孫から救い主イエスが誕生するのです。すなわち、ラハブが救い主の系図の中に加えられているということです。あり得ないことです。異邦人の、しかも女性で、売春婦であった人が救い主の系図に入っているなんて考えられないことです。しかし、救い主の系図の中に彼女の名前がちゃっかりと記録されているのです。マタイの福音書1章を見るとわかります。ここには四人の女性の名前が記されてありますが、大半は異邦人の女性です。タマル、ルツ、ラハブです。そしてもう一人がイエスの母マリヤですね。たとえ異邦人であっても、ラハブのようないのちがけの信仰があるなら、私たちも救いの中に招き入れられるだけでなく、偉大な信仰の勇者としてその名が神の記憶の中に刻み込まれるのです。

 

私は先週まで中国を訪問しましたが、ラハブのようにいのちがけで主に従っているクリスチャンとお会いし、本当に驚きとともに励まされて帰ってきました。この老姉妹はC先生といって、Oさんの教会の創設者の奥様で、家の教会の指導者のひとりです。現在87歳になられアルツハイマーで入院しておられるので、病院を訪問してお話しを伺いました。C先生が神学校を卒業した1950年頃でしたが、その頃は毛沢東による文化大革命が始まろうとしていた頃でした。神学校を卒業して南の島に赴任したその日にご主人は捕らえられ投獄されました。「さぞお辛かったことでしょう。その時どんなお気持ちでしたか。」とお尋ねすると、C先生はこう言われました。「イエスの弟子にとって苦しみを受けることは当たり前のことです。神学校で学んだ一つのことは、キリストの弟子は苦しみを受けるということです。その苦しみを呑み込むことでイエス様の弟子に加えられると思うと、むしろそれは光栄なことでした。」と言われました。ご主人が何度も捕らえられる中、家族を支えるために羊の世話からいろいろな仕事をしなければなりませんでしたが、イエス様の十字架の苦しみに比べたら、それはたやすいことだと思いました。ものすごい信仰です。

やがてC先生御夫妻はK市に移り、そこで家の教会を始めます。最初は6畳と台所、それに2階を足したような小さな家で始めましたがそこに入りきれなくなると、近くのマンションに移り礼拝を始めました。それがこの写真です。そこも入り切れなくなると政府と交渉してK市の北部のお墓の跡地に教会を建てる許可を受けました。それがこの会堂です。このように中国の家の教会が会堂を持つことは非常に珍しいことで、ほとんどは政府の圧力によって閉鎖に追い込まれますが、この教会は神様の奇跡的なご介入によって今も立ち続けています。しかし、もっとすごいのは、そこに脈々と流れ続けているキリストのいのちです。

 

これは私たちが中国に到着した日に空港からまっすぐ向かった家の教会です。私たちが来るということで、この家のご夫妻が美味しい中華料理を作ってもてなしてくださいました。この方は農家の方でそんなに裕福ではないように見えますが、私たちのために自分たちにできる最高のおもてなしをしてくださいました。

夜の集会はここでやるのかと思ったらそうではなく歩いて3分くらいの別の場所でやるということで移動しましたが、私たちは外国人ということもあり、教会が海外の教会とつながりがあることが判明すると危害が加えられる恐れがあるということで、万が一のことを考えて小さな車に乗せられて移動しました。

そこは石作りの倉庫のようなところで150人くらい入れるくらいのスペースがありました。この集会はこの家の御夫妻が30年前から5人で始められてずっと続けられてきた集会でした。これまでどれほどの危険を乗り越えてこられたかわかりませんが、そのようなことは微塵も感じさせないほどの喜びが満ち溢れていました。集会の合間にこのようにお茶をついでくれでもてなしてくださいました。

集会は7時から始まって9時まで続き、最初に祈りと賛美を30分くらいした後で、5人の人が使徒の働き8章26節から39節のみことばから教えられたことを証し、最後に長老がまとめるというものでした。そして 主の祈りをして解散しましたが、そこには生ける主が臨在しているかのようでした。

この家の集会では火曜日の夜の他に日曜日の午後、木曜日の夜にも集会が行われていて、その他は総教会で行われている日曜日の礼拝と水曜日の祈祷会、土曜日の夜の福音集会に参加しているため、週に5回は集会に参加しているとのことでした。ほとんどイエス様を中心とした生活をしているとのことでした。

 

木曜日の夜は、街の中で持たれている家の教会の集会に参加しました。それはマンションで行われていましたが、どうやって狭いマンションで集会が持てるのかと不思議に思っていましたが、実際に行ってみてわかりました。中が広いのです。日本のマンションと比べたら倍くらいの広さがありありました。50人くらいが座れるスペースです。また建物もしっかりしていて音が隣に漏れることもないようでした。これがこのマンションの持ち主です。そして、こんな感じで集会が持たれていました。内容は火曜日に訪れた集会とほとんど同じです。この日はヘブル11章23節から28節までのみことばからの説明や証が続きましたが、この箇所は、私が中国に来る前に説教した箇所でもあったのでよく覚えていましたが、私よりもずっとよく聖書をよく読んでいるなぁと感心しました。

 

そして、土曜日の夜は福音集会といって、新しい人たちのための集会がありました。それもすべて役員を中心とした信徒たちによって導かれた集会でした。祈りと賛美の後で4人の方々が福音について15分くらいずついろいろな角度から説明したり、証をしたりしました。集会の最後に今晩イエス様を信じたい人は最後の賛美歌を歌っている時に立ってくださいと促されると、40人くらいの人が立ち上がりました。これが毎週土曜日に行われているのです。単純に計算しても月に百人くらい、一年で五百人くらいの人たちが救われることになります。

 

これは日曜日の礼拝の様子です。礼拝堂に八百人くらいの座席がありますがそこは一杯で、その他のスペースに椅子が並べられ、モニターで礼拝していました。おそらく千五百人くらいの人が集っていたのではないかと思います。

 

いったいどうしてこのようなことが起こっているのでしょうか。勿論、これらのことはすべて神の御業なのです。しかし、いのちをかけて主に従ったC先生御夫妻の信仰に主が働かれ、御力を現してくだったからです。

 

しかし、それは中国だけのことでありません。私たちも信仰によって神のことばにいのちかけで従うなら、同じような事が起こると信じます。それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるからです。しかし、そのためには私たちを完全に神に明け渡さなければなりません。私たちがどう思うかではなく、神がどのように思われるか、その神のみこころを知り、みこころに従わなければなりません。そうすれば、堅く閉ざされたエリコの城壁が崩れ落ちたように、この日本を覆っている霊的な壁は必ず崩れ落ちるのです。そして、ラハブが救い主の系図の中に記録されたように神のすばらしい祝福の中へと招き入れられるのです。

 

あなたはラハブのような覚悟がありますか。もし見つかれば自分のいのちの保証はないという危険の中でもいのちがけで主に従っていくという覚悟ができているでしょうか。神が喜ばれることは私たちが何をするかではなく、死に至るまで忠実であるということです。いのちがけで主に従いましょう。そして、主がなしてくださる御業を待ち望もうではありませんか。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。