申命記21章

 

 きょうは、申命記21章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 1.だれが殺したのかわからないとき(1-9

 

「あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行なわなければならないからである。」

 

1)罪に対する責任(1-5

ここには、イスラエルの民が約束の地に入ったとき、そこで殺人事件が起こるも、だれが殺したのかわからないときどうしたらよいかにいて教えられています。その場合、その死体から一番近い町が、一時的な責任を負わなければなりませんでした。その長老たちは、まだくびきを負ったことがない雌の子牛を連れて来て、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水が流れている谷へ連れて行き、そこで首を折らなければなりませんでした。いったいなぜそのようなことが必要だったのでしょうか。

それは、一人の犯した罪に対して、その個人だけでなく、イスラエル全体がその責任を負わなければならなかったからです。罪を犯した人は勿論のこと、他の人にも、その罪に対する責任がないとは言えません。その罪に対する責任を痛感することが必要なのです。これが罪の処理における最初のステップです。

 

今年は戦後71年を迎えますが、この71年はいったいどのような時だったのでしょうか。それはちょうどイスラエルがバビロンに捕らえられて70年を過ごしたような、捕らわれの時だったのではないかと思うのです。勿論、主イエスによって罪から救われ罪の束縛から解放していただきましたが、戦時中にクリスチャンが犯した罪に対しては本当の意味で悔い改めがなされてこなかったのではないかと思います。それはあくまでもその時代に生きていたクリスチャンの責任であり、彼らが悔い改めなければならないことではありますが、それは彼らだけのことではなく、私たちの責任でもあるのです。

それは、たとえばネヘミヤ記1章に出てくる彼の祈りを見てもわかります。彼はエルサレムの惨状を耳にしたとき神の前にひれ伏してこう祈りました。

「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も父の家も罪を犯しました。・・」(ネヘミヤ1:6-11

ネヘミヤはイスラエルの罪を自分の罪として告白して悔い改めました。それは先祖たちが勝手に犯した罪であって自分とは関係ないこととして考えていたのではなく、自分のこととして受け止めて悔い改めたのです。

この箇所で教えられていることも同じで、それはだれが犯したのかわからなくても、それを自分の罪として、自分たち全体の問題として受け止めなければならないということなのです。

 

そればかりではありません。6節から9節までをご覧ください。ここには、その罪の贖いのために

まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうち雌の子牛を取って、まだ多賀谷貸されたことも種を蒔かれたこともない、きれいな水の流れている谷へ連れて行き、そこでほふるようにと教えられています。何のためでしょうか。その罪を贖うためです。だれが殺したのかわからない罪であってもそれを自分のこととして受け止め、贖罪がなされなければなりませんでした。そのとき彼らは、自分たちがその血を流さなかったことを証言し、罪の赦しを祈りました。そのようにすることによって罪が赦されたのです。

 

これはやがて完全な神の御子イエス・キリストの贖いを示すものでした。イエス様が私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださったので、その流された血によって私たちのすべての罪を赦してくださったのです。ですから、罪が赦されるためには神の小羊であられるイエス・キリストを信じなければなりません。あなたがイエス様を信じるなら、あなたのすべての罪は赦され、雪のように白くされるのです。そのようにしてイスラエルから罪を除き去らなければなりませんでした。そのようにして私たちも、私たちの群れから罪や汚れを除き去らなければならないのです。

 

Ⅱ.健全な家庭生活(10-21

 

次に10節から21節までをご覧ください。10節から14節には次のようにあります。

「あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕えて行くとき、その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところにはいり、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。」

 

ここには、イスラエルの兵士が戦争中捕虜の中に美しい女性を見つけ、その女性と結婚したいと思うなら、その女を自分の家に連れて行き、そこで女は髪をそり、爪を切って、自分の父と母のために、一か月の間、泣き悲しまなければならないとあります。その後で、彼は彼女のところに入り、彼女と結婚することができました。どうしてでしょうか。それは、たとえ捕虜であってもその女性の人格を尊重し、彼女の悲しみや憂いを大切に取り扱わなければならなかったからです。また、そのようにすることによって、イスラエルの道徳的純潔を守らなければならなかったからです。兵士が心から願うなら、そのような手続きを踏まなければなりませんでした。この1か月の間、女性が感情的な問題を解決し、同時に兵士が、この結婚をより真剣に考える機会としたのです。それが健全な家庭の基礎となるからです。

 

ですから、結婚して嫌になったからと言って簡単に離婚することは許されませんでした。もし離婚したい時には、彼女を自由の身にしなければなりませんでした。決して金で売ってはならないし、彼女を奴隷として扱ってはいけませんでした。なぜなら、彼女はすでに彼によってはずかしめられたからです。それほど彼は結婚について慎重に祈り求める必要があったのです。

 

そればかりではありません。次に15節から17節をご覧ください。

「ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである」

 

聖書は一貫して一夫一婦制を原則としています。一夫多妻制にはいろいろな問題が生じます。ある妻は夫からの愛情を十分に受け、一方の妻はそうでなければ、そこには憎しみが生じます。そればかりではなく、その憎まれている妻から長男が生まれれば、問題は一層複雑になります。というのは、当時、長子は二倍の遺産を受け継ぐことになっていたからです。けれども、父親というのは、自分が愛した妻から生まれた長男に、より多くの愛情を注ぎたくなるものです。この問題は、遺産相続の時に、より一層露骨に現われます。しかし、この問題に対して神は、感情にとらわれず、憎まれている妻が生んだ長子であっても原則を守るようにと、みことばをもって明らかにしてくださいました。私たちの家庭生活においても、私たちの感情ではなく、神のみことばに従うことが優先されなければならないのです。

 

Ⅲ.厳しい警告(18-23

 

次に18節から21節までをご覧ください。

「かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。」

 

ここには、かたくなで、両親に逆らう子に対してどのように対処すべきかが教えられています。その場合は、両親は彼を捕まえて、町の長老たちの所へ連れて行き、「私たちの息子は放蕩して、大酒のみです。」と言わなければなりませんでした。両親が扱うことができないことを認め、特別な対処を求めたのです。するとその息子は、町の長老たちから裁きを受けました。そして、町人たちはみな、彼に向かって石を投げ、死刑にしたのです。

 

何と恐ろしいことでしょうか。両親に逆らったくらいで石投げにされるというのではたまったものではありません。いったいこれはどういうことなのでしょうか。それは、このように一つの家庭で起こっていることはその家庭の問題だけでなく、イスラエルの共同体全体の問題として扱われたからです。彼が両親に逆らう息子であることが証明されたなら、彼は死ななければなりませんでした。それは神に対する罪でもあったからです。なぜなら、聖書には、「あなたの父と母を敬え」(申命記5:16)とあるからです。父母に対する反逆は殺人の罪と同じくらい怖い罪なのです。

 

今日、この神の命令をないがしろにされています。子供は親の言うことなど聞こうともしません。子供が親に従うのではなく、親が子供に従うというような逆転した状態になっています。やりたい放題で、歯止めが利かなくなっています。その結果、社会全体がおかくなっています。そのようなことはふさわしいことではありません。子どもを愛することと、子供に好きなようにされるのは全く違います。親は神のみこころを知り、子どもを訓練し、愛して、しつけなければなりません。そのようにしてイスラエルの中から悪を除き去らなければならないのです。それは、イスラエルがみな、聞いて恐れるためです。このような断固とした対応が、イスラエル全体の聖さを保つことになるのです。

 

最後に22節、23節を見て終わりたいと思います。

「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。」

 

ここでは、死刑にされた人のその死体に取り扱いについて語られています。死刑になった者の死体は、しばらくの間、木の上につるして置かなければなりませんでした。それは、その死体を見ることによって罪を畏れるようにするためです。聖書は、私たちに、罪と罪の本質について生々しい結果を見せてくれています。私たちは自ら犯した罪が、どのくらい醜いものであるのか、覚えなければなりません。罪が人をどれほど悲惨にさせるのか、私たちはいくらでも見ることができます。これらすべてのものは、私たちに対する厳しい神の警告でもあります。私たちは、罪を軽々しく考えてはならないのです。

 

ところで、パウロはこのみことばを引用して、イエス様が、この神ののろいを受けてくださったことを語っています。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13

いったいなぜキリストは神にのろわれたものとなって十字架で死なれたのでしょうか。それは、私たちのためでした。私たちは神にそむき、父母にそむき、自分勝手に生きるものでした。その結果、木につるされなければならなかったのです。それを見れば私たちがいかに醜いものであり、汚れた者であったかがわかります。しかし、イエス様はその汚れてのすべてを身代わりに受けて死んでくださいました。神ののろいとなってくださったのです。私たちは、このキリストにあって罪の贖い、永遠のいのちを受けることができました。であれば、私たちは律法によって義と認められようとする愚かなことがあってはなりません。御霊で始まった私たちの救いを、肉によって完成させるようなことがあってはならないのです。

 

このような真理をどのように理解し、受け止めているかが大切です。私たちも時として御霊で始められた救いを肉によって完成してようとしていることがあるのではないでしょうか。ペテロは、異邦人コルネリオをなかなか受け入れることができませんでした。しかし、夢を通して、「神が聖めたものをけがれていると言ってはならない。」日と示され、やっと受け入れることができました。それはペンテコステから約10年が経過してのことです。私たちに求められていることは、御霊によって始められた救いのわざを、御霊によって完成していくこと、すなわち、福音の正しい理解に立って、その中を生きることなのです。