きょうは、申命記22章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。
1.知らぬふりをしてはならない(1-4)
「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。」
ここには、同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしてはならない、と教えられています。そのような牛や羊を見たら、その所有者のところに連れ戻さなければなりません。その所有者が近くの者でなく、それがだれのものであるかがわからない時には、それを自分の家に連れて来て、その人が捜している間、自分のところに置いて、保護しておかなければなりません。そして、所有者が見つかったら、彼に返してやらなければなりません。それは牛や羊だけでなく、ろばであっても、着物であっても同じです。つまり、隣人が自分の物を見失った時、見てみぬふりをしてはならず、その人のためになることをするように努めなければならないのです。
これは私たち日本人にはとても大切な教えです。というのは、日本人はどちらかというと自分のことばかり考えて、他の人のことを顧みることが苦手だからです。自分さえよければ良いという風潮の中にあって他の人が困っているのを見たら率先して助けてやることが、神の民にとってとても重要なことだからです。
先月、中国の教会を訪問したとき、どこでも盛大なもてなしをしていただきました。中には貧しい農家の方もおられましたが、出された食事はものすごく豪華なものでした。私が王さんに、「これは普通ですか」と尋ねると、中国では他の人のために自分を犠牲にして尽くしたいという思いがあるのでみんな同じようにしますと言いました。日本では自分の都合が悪いとできないとかとよく言いますが、中国では自分の都合が悪ければそれをキャンセルしてでもその人のために尽くすというのです。それは神の愛を受けた者にとって当然のことでしょう。神は私たち罪人をご覧になり、見て見ぬふりをせず、その救いのために御子をこの世に遣わしてくださいました。ここに神の愛が豊かに示されたのです。その愛を受けた私たちは、今度は同じように迷っている人のために尽くすのは当然ではないでしょうか。イエス様は、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」(ルカ6:31)と言われました。自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにすることが神のみこころであり、救われた私たちに求められていることなのです。
Ⅱ.混ぜ物をしてはならない(5-12)
次に5節から12節までをご覧ください。
「女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵がはいっていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけなさい。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないために。ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないために。牛とろばとを組にして耕してはならない。羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはならない。身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。」
どういうことでしょうか。女は男の衣装を身に着けてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。創世記1章には、神が人を造られた経緯が記されてありますが、神が人を造られた時、男と女とに造られました。それは男と女は違うように造られたという意味です。人間としては同等であり、同質ですが、それぞれ与えられた役割に違いがあるということです。人は神のかたちに造られ、神の栄光を現すために造られましたが、人がひとりでいるのは良くないと、神はアダムの助け手としてエバを造られました。そのようにして二人が互いに助け合って神の栄光を現すためです。ですから、男と女は同等、同質ですが、根本的な違いがあるのであって、その違いを認めつつも、それを混同してはならないのです。
それは男と女だけのことではありません。その後のところにはぶどう畑に二種類の種を蒔いてはいけないことや、牛とろばを組みにして耕してはならないとか、羊毛と亜麻糸を混ぜて織った着物を着てはならない、とあることからもわかります。これらを一言で言えば、「神が与えられた区別や種類を尊重しなさい。」ということです。創世記を読むと、神は区別をされる神であることが分かります。「神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」(創世1:4)とあります。「こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。」(創世記1:7)それぞれに区別があることによって、神の創造の秩序を見ることができ、秩序があるところに神の栄光が現われるのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。
ですから、ここでモーセが禁じているのも、そうした神の創造の秩序が基になっているのです。つまり、この創造の秩序を重んじ、男は男として与えられた秩序に従って歩み、女は女として与えられた秩序に従って歩まなければならないということです。パウロは、「すべてのおとこのかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」(Ⅰコリント11:3)と言っていますが、この秩序はとても大事です。男と女は一つであり、同等であり同質ですが、男が女のかしらになるように造られました。したがって、女が男のように見えたり、男が女のように見えたりするのは、神が忌みきらわれることなのです。最近では、男が女っぽくなってきたり、女が男みたいになることがもてはやされていますが、そのようなことはこうした区別することをないがしろにすることであり、神が忌みきらわれることなのです。
6節から8節までの勧めはユニークです。木の上に鳥の巣を見つけ、そこにひなか卵が入っていてそれを取ろうとする時には、母鳥がいないときにとるようにしなさいとあります。なぜでしょうか。もし母鳥が見たら悲しむことになるからです。そのような残酷なことをせず、ちょっとした配慮をすることは、たとえそれが動物であったとしても大切なことなのです。
同じように、新しい家を建てるときは、屋上に手すりをつけるようにとあります。万一、だれかがそこから落ちても、あなたの家は血の罪を負うことがないためにです。中東の家は屋上が平らの家屋になっているので、屋上にあがることがたくさんあるのですが、その時に手すりをつけなさいと落ちてしまう危険があります。そういうことがないように、ちゃんと手すりをつけなさいということですが、それが周りの人々に対する配慮でもあり、そうしたことを怠ってはならないのです。
また、ぶどう畑に二種類の種を蒔いてはならない、とあります。あなたが蒔いた種、ぶどう畑の収穫が、みな汚れたものとならないためにです。牛とろばとを組にして耕してはならないし、羊毛と亜麻糸とを混ぜて織った着物を着てはなりません。牛とろばを組にして耕してはならないというのは、同じくびきをかけてはならない、ということです。パウロはここから、「不信者とつり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(Ⅱコリント6:14)と言っています。私たちはこのような原則を守り、神のみこころにかなった者、聖なる者となることを求めていかなければなりません。
また、 身にまとう着物の四隅には、ふさを作らなければならない、とあります。民数記15章を見ると、これは、主の命令を思い起こし、それを行うためであり、神の聖なるものとなるためでした。すべての民が着る着物のすその四隅にあるふさを互いに見ながら、自分たちが神の民であることを思い起こし、神の恵みを思い起こすことができることはどんなに幸なことでしょう。これは現代でいう聖餐式を行う目的でもありますが、私たち常に神の民であることを思いお越し、神が私たちに成してくださった恵みを思い起こすものでありたいと思います。
Ⅲ.姦淫の罪に対する処置(13-30)
次に13節から終わりまでをご覧ください。まず13節から19節までの箇所です。
「もし、人が妻をめとり、彼女のところにはいり、彼女をきらい、口実を構え、悪口を言いふらし、「私はこの女をめとって、近づいたが、処女のしるしを見なかった。」と言う場合、その女の父と母は、その女の処女のしるしを取り、門のところにいる町の長老たちのもとにそれを持って行きなさい。その女の父は長老たちに、「私は娘をこの人に、妻として与えましたが、この人は娘をきらいました。ご覧ください。彼は口実を構えて、『あなたの娘に処女のしるしを見なかった。』と言いました。しかし、これが私の娘の処女のしるしです。」と言い、町の長老たちの前にその着物をひろげなさい。その町の長老たちは、この男を捕えて、むち打ちにし、銀百シェケルの罰金を科し、これをその女の父に与えなければならない。彼がイスラエルのひとりの処女の悪口を言いふらしたからである。彼女はその男の妻としてとどまり、その男は一生、その女を離縁することはできない。」
人が妻をめとり、彼女のところに入るとは、結婚して男女が性的関係に入ることです。ところが、結婚した後に彼女をきらうようになり、いろいろと口実を設けて男が女の悪口を言いふらした場合、どうしたら良いかが教えられています。男がその欲望から結婚しても、それがつまらないため離縁しようとしたケースは、聖書の他の箇所にもあります。たとえば、ダビデの息子アムノンは、ダビデの別の妻の娘であり、タマルのことが欲しくて、彼女を力づくで恥ずかしめ寝てしまいましたが、その後で、彼女を熱烈に恋したその恋よりも憎しみの方が大きかったとあります。アムノンは、「さあ、出て行け。」と言いましたが、タマルは、「それはなりません。私を追い出すことなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう悪いことです。」(Ⅱサムエル13:16)」と言いましたが、彼は力づくで彼女を追い出しました。このような時、男は往往にして自分を正当化するために女の悪口を言いふらしてしまうことがあります。ここではそれが、この女と結婚したが、彼女に処女のしるしを見なかったというものです。つまり、離縁するために正当な理由付けを見つけようとするのです。もし彼女が本当に処女ではなかったら、死刑に処せられます。ですから、主は、そのような状況から彼女を守るために、彼女の両親が、その寝床のシーツを持ってきて、処女であるしるしを持って来て、それを町の長老たちの前にその着物を広げて証明するのです。そしてそれがこの男の嘘だということがわかったら男から罰金を取り、一生、その女と離縁することができないように定めました。
しかし、そのことが真実であり、その女に処女のしるしが見つからなかったとしたらどうしたかというと、その女を父の家の入口のところに連れ出し、その女の町の人々は石で彼女を打たなければなりませんでした。彼女は死ななければなりません。その女は父の家で淫行をして、イスラエルの中で恥辱になる事をしたからです。そのようにして、彼らのうちから悪を除き去らなければなりませんでした。これは婚前交渉も罪であるということです。夫のある女と寝ることも罪ですが、結婚する前に寝ることも罪です。それは神のみこころにかなわないことであり、それが判明した時には女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければなりませんでした。
23節と24節をご覧ください。「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。」
ユダヤ人の中では、婚約は結婚と同じように拘束力があったので、この時に罪を犯したら、それは姦淫の罪と同じように罰せられました。
「もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。」
これは強姦された時のケースです。その場合は、男だけが死ななければなりませんでした。女には死刑にあたる罪はありません。それは、ある人が隣人に襲いかかり、いのちを奪ったのと同じだからです。その女がどんなに叫んでもだれも助けてくれる人がいなかったとしたら、彼女にはどうすることもできないからです。不品行を犯すことは神にとっては重大な罪ですが、しかし、どうしようもないことまでも理不尽にさばくことは決してなさいません。
「もしある男が、まだ婚約していない処女の女を見かけ、捕えてこれといっしょに寝て、ふたりが見つけられた場合、女と寝たその男は、この女の父に銀五十シェケルを渡さなければならない。彼女は彼の妻となる。彼は彼女をはずかしめたのであるから、彼は一生、この女を離縁することはできない。」
もし、まだ婚約していない女を見つけ、これとネタ場合、男はその責任を取って女を妻としなければなりませんでした。そうした肉体関係を持ってしまった責任を結婚することによって果たすことになるからです。また、「だれも自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。」これは、自分の母ではない父の妻がいて、その母をめとることによって父をはずかしめてはならないということです。
このように、イスラエルが約束の地に入りそこに定住するようになるといろいろな問題が起こることが予想されますが、ここではそうした問題一つ一つにどのように対処しなければならないかを教えています。そして、ここに貫かれていることは「聖」であるということです。こうしたことは異教社会では当たり前のように行われていたことかもしれませんが、神に贖い出され、神の民とされた者にとってそうしたものに妥協することなく、神のみ教えに従って歩まなければならないということです。この世と妥協してはなりません。彼らから出て行き、彼らと分離しなければなりません。そうすれば、神は私たちを受け入れてくださり、神の民として生きることができます。それこそ、どこにいても、勝利ある人生を生きる力となるのです。
また、このような聖なる者となるのは私たちの行いによるのではなく、神の子イエス・キリストの贖いによるということを忘れてはなりません。ヨハネの福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女何と言われるかとの律法学者とパリサイ人たちの問いに、イエス様はこう言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)すると、年長者たちから初めて、ひとりひとり出て行きました。するとイエスはその女に言いました。「婦人よ。あのひとたちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」「わたしもあなたを罪に定めなさい。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(同8:10-11)
私たちはだれひとり罪に定められることはありません。イエス・キリストが私たちのすべての罪を贖ってくださいました。イエス様はその罪の罰のすべてを受けてくださいました。そのうち傷のゆえに、私たちは許されたのです。このイエス様の赦しがなければ、私たちはここに立ち続けることはできません。しかし、イエス様が私たちのために死んでくださったので、私たちは今もここにいることができるのです。このイエスの愛によって、私たちは神のものとなり、その歩みを続けていくことができるのです。ですから、このことをいつも思い起こし、こんな罪深い者が赦されたことを感謝して、ますます聖なる者としての歩みを続けさせていただきたいと思うのです。