申命記23章

 きょうは、申命記23章から学びます。まず1節と2節をご覧ください。

 

 1.主の集会に加わることができない者(1-8

 

「こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者は、主の集会に加わってはならない。不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、主の集会に加わることはできない。」

 

「こうがんがつぶれた者」とか、「陰茎を切り取られた者」とは、男性の性器をとった者のこと、つまり、去勢した男性のことです。そのような者は、主の集会に加わることができませんでした。また、不倫の子も集会に加わることができませんでした。その十代目の子孫であってもです。なぜ主の集会に加わることができなかったのでしょうか。なぜなら、主は完全な方であり、欠けたところが何一つない方だからです。そして、なによりも、神は、イスラエルの子孫からキリストをお送りになられました。キリストは、「女の子孫」とも呼ばれていますが、この子孫とは、「種」、つまり精子とも訳すことができる言葉で、生殖器官に欠陥があったり、不倫などの汚れを持っているとすれば、そのような中から救い主がお生まれになるということはふさわしくなかったのです。ですから、そうした者が主の集会に加わることができませんでした。

 

しかし、このような箇所を見ると、いかにも神は排他的であり、人を差別しているかのように感じます。人にはいろいろな事情があるし、それぞれの置かれた背景はみな違います。中には自分が望まなかったのにそのようにして生まれてきた人もいるでしょう。それなのに、どうして主はそうした人たちが主の集会に加わることができないと命じたのでしょうか。しかし、ここではそのようなことを言っているのではなく、あくまでも主は完全な方であり、律法も聖なるものであるということを示しているのであって、そのような主の集会に加えられる者も完全でなければならないということを示しているのです。ですから、そういう意味では私たちはみなこうがんがつぶれた者であり、不倫の子でしかないのです。というのは、聖書には「義人はいない。ひとりもいない。」とあるからです。そのような者が神の集会に加えられることがあるとしたら、それは神のあわれみでしかありません。

 

「肉においては無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求を全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4

 

つまり、神は肉においては無力な者を、ご自分の御子によって、ご自分の御子を信じる者を義としてくだり、ご自身の集会に加わることができるようにしてくださったのです。すなわち、救いは神の一方的な恵みによるということです。ですから、ここで神は決して人を差別しておられるのではなく、ご自分の聖さ、完全さをお示しになることによって、不完全な私たちがどのようにしてご自分に近づくことができるのかを示しておられるのです。

 

次に3節から6節までをご覧ください。ここには、アモン人とモアブ人は主の集会に加わることができない、とあります。なぜでしょうか。なぜなら、彼らはイスラエルがヨルダン川の東側を北上しているときに、イスラエルにパンと水を与えることを拒んだからです。また、モアブの王バラクは、ベオルの子バラムを雇いイスラエルを呪わせようとしたからです。勿論、神はそんなバラムの呪いを聞こうとはされませんでした。その呪いを祝福に変えてくださいました。神はイスラエルを愛しておられるからです。その神が愛してやまないイスラエルに敵対したり、呪ったりするなどもってのほかであって、そのような者が主の集会に加わることはふさわしいことではなく、そんな彼らのためには決して平安も、しあわせも残されてはいないのです。かつて主はアブラハムに、「あなたを祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる。」(創世記12:3と言われましたが、モアブ人たちにそのとおりのことが起こったのです。

 

ところで、このあとに登場するモアブ人ルツは、イスラエルの集会に加えられただけでなく、救い主の系図の中にも出てくる敬虔で、美しい女性です。もしモアブ人を主の集会に加えてはならないというのであれば、ルツがそのように救い主の系図に加えられていることはおかしいことになりますが、そのように彼女が救い主の系図にも出てきているということはモアブ人だから一概にだめだということではなく、イスラエルに敵対する人たちを加えてはならないということなのです。たとえモアブ人であってもルツのようにイスラエルの神を求める者であれば、イスラエルの中に加えていただくことができたのです。

 

次に7節と8節をご覧ください。ここには、「エドム人を忌み嫌ってはならない。」とあります。なぜなら、彼らは「あなたの親類だから」です。また、「エジプト人を忌みきらってはならない。」とあります。なぜなら、イスラエルはエジプトで在留異国人だったからです。

 

エドム人は、ヤコブの兄でした。兄弟であるのだから、親類なのだから、忌みきらってはいけないのです。しかし、エジプト人を忌みきらってはならない、というのは不思議な命令です。というのは、イスラエルはかつてエジプトの奴隷としてしいたげられていたからです。そのエジプトを忌みきらってはいけないというのは、彼らがそこで「在留異国人」だったからでしょう。つまり、イスラエルは、自分にされた仕打ちを仕返しするのではなく、彼らは今、自分たちのところで在留異国人になっているのだから、優しくしてあげなければならないということなのです。イエス様は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44と言われましたが、ゆるしの原則、また敵を愛する原則がここに見られます。だったら、なぜアモン人やモアブ人にもそのようにしないのかと不思議に思いますが、恐らく、彼らはイスラエルを呪うようなことをしたからでしょう。

 

2.陣営をきよく保つこと(9-14

 

次に9節から14節までをご覧ください。「あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。もし、あなたのうちに、夜、精を漏らして、身を汚した者があれば、その者は陣営の外に出なければならない。陣営の中にはいって来てはならない。夕暮れ近くになったら、水を浴び、日没後、陣営の中に戻ることができる。また、陣営の外に一つの場所を設け、そこへ出て行って用をたすようにしなければならない。武器とともに小さなくわを持ち、外でかがむときは、それで穴を掘り、用をたしてから、排泄物をおおわなければならない。あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。」

 

ここには、イスラエルの陣営をきよく保つことが命じられています。すなわち、彼らが戦いのために出陣している時には、すべての汚れたことから身を守らなければなりませんでした。たとえば、彼らの中で、夜、射精して身を汚した者がいれば、その者を陣営の外に行かせなければなりませんでした。その者は、日が暮れるころ、水を浴び、身をきよめてからでないと、陣営の中に戻ることができませんでした。 また、お便所は陣営の外に設けなければなりませんでした。そこに小さな穴を掘り、そこで用を足したら、土をかけてそれを覆わなければならなかったのです。なぜなら、神が、彼らの陣営を歩まれるからです。主がその中で汚れたものを見て、彼らから離れることがないようにしなければならなかったのです。これはどういうことかというと、その戦いは主の戦いであるということです。神がともにおられるなら、敵がどのような者であっても勝利することができますが、神がともにおられないなら、人間的にどんな戦術を施しても勝利することはできません。彼らにとって最大の勝利の秘訣は、勝利者であられる主がともにおられるかどうかということだったのです。そのために、彼らから汚れを取り除かなければならなかったのです。

 

 それは私たちも同じです。私たちにとって最大の勝利の秘訣は、主がともにおられるかどうかであって、私たちの力とは全く関係ありません。その主が私たちとともに歩いてくださるために、いつも汚れを取り除き、自分自身をきよく保たなければなりません。それはまさに御霊なる主の働きによるものですから、私たちはいつも自分自身を主に明け渡し、心を尽くし、思いを尽くして、力を尽くして、私たちの神である主を愛する者でありたいと思います。

 

3.神のあわれみを示すこと(15-16

 

次に15節と16節をご覧ください。「主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。」

 

当時、逃げてきた奴隷はその主人に引き渡すことが慣例となっていましたが、主はそれに反し、そのように逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してしならず、その奴隷を、彼らの町囲みのうちのどこでも望む場所に住まわせてやり、決して虐待してはならないと命じられました。なぜでしょうか。それは、イスラエルもかつては奴隷であったからです。彼らもその苦しみを知っています。だから、彼らは自分たちが奴隷の時に受けた苦しみを彼らに与えるのではなく、逆に助けることによって慰めてやらなければならなかったのです。これはその苦しみを経験した者でなければわからないことです。主はそんな彼らをあわれみ、その中から救い出してくださいました。ですから、彼らもまた奴隷して苦しんでいる人をあわれみ、そこから助けてやらなければならないのです。

 

17節と18節をご覧ください。神殿娼婦とか神殿男娼というのは、異教の宮で売春をしていた女性、男性のことです。異教の宮ではこのようなことが平気で行われていました。しかし、主は聖なる方であって、その神殿に汚れたものを入れることを忌みきらわれます。こうしたものを取り除かなければなりませんでした。そればかりでなく、そのようなことによって得たお金を、主の宮に持って行って、捧げてはならないと命じられました。それは主が忌みきらわれることです。なぜなら、その手段が汚れているからです。神を礼拝するという目的のためであるならどんな手段であっても構わないというわけにはいきません。たとえ目的が良くてもその手段が悪ければ、主を喜ばせることにはならないのです。

 

次に19節と20節をご覧ください。ここには、お金や物を貸したときの利子を取ることについて教えられています。そして、外国人からは利子をとってもいいが、同胞から取ってはならないと命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、彼らが入って行って、所有しようとしている地で、彼らの神、主が、彼らの手のすべてを祝福されるからです。これは、すばらしい約束ではないでしょうか。神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは与えられるのです。

 

このことについては、既にレビ記2535節から38節までのところで学んだとおりです。「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。わたしはあなたがたの神、である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。」とあります。

 

もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、彼を在留異国人として扶養しなければなりませんでした。在留異国人として扱うというのは、異邦人として扱うということではなく、土地を持たない寄留者のように、旅人のようにもてなすということです。生活が成り立たなくなった人が奴隷としてではなく旅人のように、寄留者のように扱うというのは、まさに神のあわれみなのです。なぜそのように扱わなければならないのかというと、それは、主がエジプトからイスラエル人を連れ出してくださったからです。主がイスラエルを奴隷の中から解放してくださったのに再び奴隷になるようなことがあるとしたら、それこそ、神の恵みに泥を塗るようなことです。彼らに求められていたことは、神を敬うことでした。神の命令に従うことだったのです。そうすれば、主が彼らを祝福してくださるからです。

 

5.主に誓願をするとき(21-23

 

次に21節から23節までをご覧ください。「あなたの神、主に誓願をするとき、それを遅れずに果たさなければならない。あなたの神、主は、必ずあなたにそれを求め、あなたの罪とされるからである。もし誓願をやめるなら、罪にはならない。あなたのくちびるから出たことを守り、あなたの口で約束して、自分から進んであなたの神、主に誓願したとおりに行なわなければならない。」

 

もし主に誓願をするなら、それを果たさなければなりません。誓願をしてもそれを果たさないとしたら、それは罪とされるからです。約束は破るためにあるのではなく、誠実に果たすためにあるのです。最初から果たせないような誓約はしないことです。それでも私たちが誓約をするのは、誓約をしてでも自分の祈りを主に聞いてほしいという願いがあるからです。ですから、もし誓約をするなら、それを果たさなければなりません。

 

士師記の登場するエフタは、アモン人との戦いにおいて、もし主が敵に勝利させてくださるなら、敵に勝利して無事に家に帰ったとき、戸口から自分を迎えに出てくる、その者を主のものといたします、と誓ったら、何とそれは自分の娘でした。彼は非常に悩み、苦しみましたが、それが主への誓いであり、どんなことがあっても守らなければならないと信じ、そのようしました。ヘブル書11章にはこのエフタが信仰の勇者として紹介されていますが、何ゆえに彼が信仰の勇者として数えられているのかというと、このように主への誓いを誠実に果たしたという点で、彼は称賛されているのです。

 

イエス様は、「決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足代だからです。」(マタイ5:34-35と言われましたが、それはここに書かれてあることを否定しているのではなく、むしろ補強しているのです。誓うというのは、簡単に言うと、「自分で言ったことは実行する」ということです。「私は、これこれのことをします。」と言っておきながら、それを行なわなければ、それは偽りの罪になります。ですから、行なわないなら、行ないません、と正直にはっきりと言ったほうが良いのであって、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさい、と言われたのです。

 

6.隣人のぶどう畑について(24-25

 

最後に24節と25節を見て終わります。「隣人のぶどう畑にはいったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。」

 

これはどういうことかというと、だれかが食べるものがなく困っており、ひもじい思いになっているとき、隣人のぶどう畑、もしくは麦畑に入って食べても良いということです。しかし、かごに入れてはいけません。かまを使ってはいけません。それはお持ち帰りということであって、盗むことになるからです。お腹がすいてどうしようもないときに隣人の畑に入って食べることは許されていたのです。たとえば、マルコ2章を見ると、イエスの弟子たちが麦畑を通って行ったとき、道々穂を摘み始めたとあります。お腹がすいたからです。そのような時に麦畑に入り、麦の穂を摘むことは問題ではありませんでした。そこで食べることはできたのです。でもかまを使ってはいけません。かごに入れてはいけません。

 

ここには神のあわれみというか、神の惜しみなさが示されています。神はお腹を空かせて苦しんでいる人が、ぶどう畑や麦畑に入って食べることをいちいち禁止してはいないのです。盗むのは禁じられていますが、そのように飢えで苦しんでいる人に対しては、むしろあわれんでやらなければならないのです。

 

イエス様は、「与えなさい。そうすれば与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ6:38と言われました。日本人はとかく、義理人情の世界で、受け取ったものをお返しする習慣の中に生きています。ですから、自分から与えるということが、苦手なのです。ただで何かを与えるとなると、ただほど怖いものはないと言って警戒されたり、それじゃいくらいくらと言うと、あまりいい顔をしません。自分が価値を見出したものにはいくらお金を出しても惜しいとも思わないのですが、そうでないことに自分から与えるということはあまりしません。それはこの神がいかにあわれみ深い方であるかを知らないからです。私たちの神は与える方であり、その愛はご自身のひとり子をこの世に与えることによって表してくださいました。神はご自身の愛を惜しみなく注いでくださいました。神はそのような方なのです。であれば、その神を信じ、その神の民とされた私たちもまた喜んで与える者でなければなりません。それは神がいかにあわれみ深く、ご自分を与える方であるかを知ることによって生まれてくる性質なのです。この神によって贖われ、神の民とされた私たちも、隣人をあわれみ、惜しみなく与える者でありたいと願います。