ヘブル人への手紙12章18~29節 「揺り動かされない御国」

きょうは、「揺り動かされない御国」というタイトルでお話したいと思います。御国とは天国のことです。私たちにはこんなにすばらしい天国が約束されているのですから、感謝をもって歩もうではありませんかということです。

 

私たちの信仰生活はマラソンのようなものだということをお話ししてきましたが、長いマラソン競争の中にはいろいろなことが起こってきます。しかしそれがどんなことがあっても弱り果ててしまうことがなく最後まで走り続けるために、この手紙の著者はいろいろな勧めをしてきました。前回の箇所ではその一つがすべての人との平和を追い求めなさいということであり、聖い生活を追い求めなさいということでした。また、この世のものにしか関心がなく、信仰のことにはまったく関心がなかったエサウのようにならないように注意しなければならないということでした。

 

今日、私たちが学ぼうとしている箇所には、その理由が述べられています。新改訳聖書には訳されていませんが、実は18節の文章の最初には、原文で「なぜなら」という言葉があって、その理由が述べられているのです。なぜ平和を追い求めなければならないのか、なぜ聖い生活を追い求めなければならないのか、なぜエサウのようにこの世のことばかりに関心を持っていてはならないのか、なぜなら、私たちにはほんとうにすばらしい天の御国に入るという特権が与えられているからです。私たちがマラソンをする上で重要なことはどこに向かって走っていくのかということです。それがわかっていればどんなに苦しくてもそれを乗り越えて進んで行くことができますが、そうでないとちょっとした困難にぶつかっても「や~めた」と言って途中でリタイヤすることになってしまいます。そこでこの手紙の著者は、私たちの信仰のゴールである天国がどれほどすばらしいものであるかを見せることによって、その信仰にしっかりと留まるように励ましているのです。それでは、天国とはどういうところでしょうか。

 

Ⅰ.すばらしい天国(18-24)

 

まず、18節から24節までをご覧ください。ここには旧約聖書に出てくるシナイ山と比較して、天国はそのようなものとは全く違うものであると述べられています。18節と19節には、「あなた方は、手でさわられる山、燃える火、黒い雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。」とあります。

 

これはどういうことかというと、昔イスラエルがエジプトを出てから十戒が与えられたあのシナイ山に近づいた時のことを指しています。神が臨在していると言われていたシナイ山に近づこうとしていた時、それはどのようなものだったでしょうか。「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができず、その光景があまりにも恐ろしかったので、イスラエルの民は皆、震えおののいていました。つまり、あの十戒はどのようにして与えられたのかというと、恐れの中で与えられたのです。神様はあまりにも聖いお方なので、罪に汚れた人間が近づこうものならばたちまち滅ぼされてしまったのです。

 

それは人間の罪がいかに恐ろしいものであるかを教えるためには必要なことでした。神は全く聖い方なので、少しでも罪を持っていたり汚れた人間が近づくことはできませんでした。すなわち、神の律法がモーセによって与えられたのは、人間がいかに罪深い者であり、自分の力では到底律法には従えない存在であることを自覚させるためだったのです。ですから、それが与えられた時の状況も、当然それにふさわしい雰囲気であったわけです。厳かな感じです。軽くありません。日本の国家はそんな感じですね。とても厳かです。あまりにも厳かすぎて沈みそうになります。十戒が与えられたのはそのような厳かな雰囲気の中で、神に近づこうものならたちまち打たれてしまうような恐ろしさがあったのです。

 

しかし、私たちが行こうとしている天国は、決してそのような所ではありません。それは、私たちの罪がイエス様の十字架の死によって取り除かれたからです。ですから、神は全く聖く、威厳のある方ですが、私たちは何の恐れもなく大胆に神に近づくことができるのです。22節から24節までをご覧ください。ここには、「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルよりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。」とあります。

 

これが神の恵みよって、クリスチャンに与えられている行き先です。それはシナイにある山ではなく、シオンにある山です。地上のエルサレムではなく、天にあるエルサレムです。そこは、生ける神が臨在しているところなのです。それはこの書の11章に出てきたアブラハムやイサク、ヤコブといった信仰に生きた人たちが待ち望んでいた都でした。ヨハネの黙示録21章に出てくる幻は、まさにこの神の都、天国の光景だったのです。

 

その神の都、天のエルサレムの特徴は、シナイ山における恐ろしいさばきではなく、無数の御使いたちによる大祝会です。イエス様は、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)と言われましたが、そうした無数の天使たちの喜びが沸き起こっているところ、それが天国なのです。この天国が私たちに近づいているのです。やがて私たちはこの天のエルサレム、永遠の都に住むようになるのです。

 

そして、そこには天に名が登録されているすべての聖徒たちがいます。パウロやペテロといった聖書に登場している人もいれば、最近死んだクリスチャンの肉親や友人たちもいます。そこにはイエス様を信じて、天に名が書き記されたすべての聖徒たちがいて、主をほめたたえているのです。

 

私が初めて韓国の教会を訪問したのは1993年のことでしたが、ホーリネス教会では世界で一番大きいと言われている光林教会での礼拝を今でも忘れることができません。そこには何千人もの礼拝者がいましたが、礼拝が始まると礼拝堂の両脇のカーテンが自動的に閉まると、何百人で構成されたオーケストラが讃美歌を奏でたのです。するとこれまた何百人の聖歌隊が現れて、一緒に「来る朝ごとに」という讃美歌を歌いました。体が震えるほどの荘厳さと感動を覚えました。でも、天国での賛美はそんなものではありません。無数の御使いたちとともに何千、何万の聖徒たちが賛美をささげているのですから、ものすごい喜びと感動にあふれていることでしょう。

 

そればかりではありません。そこには私たちをそこに入ることができるようにしてくださった新しい契約の仲介者であられるイエス様がおられます。天国が恐ろしいところではなく喜びに満ち溢れた所であるのは、もっぱらそのイエス様がおられるからなのです。なぜなら、イエス様はその血によって私たちの罪を贖ってくださった方だからです。イエス様の血によって私たちのすべての罪が赦されました。もはやあなたの罪が思い出されることはありません。ですから、あなたは何も恐れることなく大胆に神のみもとである天国に行くことができるのです。

 

この「近づいている」という言葉は、そのことを表しています。原文では完了形といって、もうすでに起こった決定的なことを意味しています。そうです、イエス様が十字架で私たちのために死なれ、私たちのために血を流してくださったので、私たちの罪は取り除かれ、大胆に神のみもとに行けるようになりました。確かに今はまだこの地上にあってさまざまな問題で悩みで苦しまなければなりませんが、神の聖霊が私たちの心の中に住んでおられるので、この聖霊によって、そうした問題に悩まされることがあっても、さながら天国のような喜びにあずかることができるのです。そのことをペテロはこう言っています。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いまは見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことができない、栄に満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

何とすばらしい約束でしょうか。私たちはイエス・キリストを見たことはないけれども、このイエスを信じたことで、その中に入れていただきました。そして、ことばに尽くすことができない栄えに満ちた喜びに踊っているのです。

 

皆さんは、この喜びに踊っていますか。皆さんが近づいているのは恐ろしいシナイの山でしょうか、喜びにあふれたシオンの山でしょうか。だれでもイエス・キリストを信じるなら、この天国に名が書き記されるのです。そして何の恐れもなく、大胆に神のもとに近づくことができるのです。私たちが見なければならないのはこの天の御国です。天国を見れば希望が与えられます。そして、目の前にどんな問題があってもそれを乗り越えて走り続けることができるのです。

 

Ⅱ.天国の一員として(25-27)

 

第二のことは、天国がそれほどすばらしいところであるならば、その一員としての自覚と責任を持たなければならないということです。25節から27節までをご覧ください。

「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」

 

どんな場合でも、すばらしい特権にあずかれば、必ずそれに伴った責任があります。それは、どのような場合でも同じです。多くの子どもたちは早く大人になりたいと思っています。大人になれば何でも自由で、自分の思うように出来ると思っているからです。しかし、大人になれば自分の思うように出来ると同時に、自分のすることに対して責任を持たなければなりません。最近では必ずしもそうではないようですが、しかし多くのサラリーマンは社長になりたいと思っています。社長になればあれも出来る、これも出来ると、何でも出来ると思っているからです。送り迎えは運転手付きの車で、混雑した通勤電車に乗らなくても済みます。しかし、社長ほど大変な立場はないのです。というのは、社長には大きな責任があって、自分が下す決断いかんによっては、社員とその家族の生活がかかっているわけで、まかり間違うと、彼らを路頭に迷わしかねません。そういうことを考えると、オチオチ眠ってなどいられないのです。

 

それは私たちクリスチャンも同じで、クリスチャンにも大きな特権が与えられていて、その特権というのは大人になるとか社長になるといったものとは比べものにならないくらいすばらしいものです。神が永遠に共におられる天国へ行くことができるのですから。これほどすばらしい特権はありません。天国のすばらしいさがわからない人にとっては、それは絵に描いた餅のようなものでしかないかもしれませんが、そのすばらしさが少しでもわかっている人にとっては、道草を食ったりしないで、一目散に天国へ向かって行きたいと思うほどです。

 

しかし、そのような特権にあずかっているのに道草を食っている人がいるので、この手紙の著者はこのように語りかけているのです。「語っている方を拒まないように注意しまさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」

 

どういうことでしょうか。イスラエルの民は、エジプトを出てから荒野を旅している間、モーセを通して神のことばを聞いていましたが、彼らは繰り返し、繰り返しそれに従わず、つぶやいたり、不平不満を言って神に逆らったがために、エジプトを出た時に成人していた六十万人の中で約束の地に入ることができたのはたった二人しかいなかったのです。それはヨシュアとカレブという人だけで、他の人たちはみな、荒野で死ななければなりませんでした。約束の地に入ることができなかったのです。それは、彼らが神の仰せに従わなかったからです。であれば、神そのものであられるイエス様が仰せになられたことに従わなかったら、どれほど大きな罰を受けるかは明らかなことです。昔イスラエルが約束の地に入ることができなかったように、神が約束してくださった天の御国に入ることはできないのです。それが、天国へ行く私たちクリスチャンに与えられている責任なのです。昨日の信仰があすの信仰を保証するわけではありません。神の前ではきょう真実であることが重要なのです。ですから、語っておられる方を拒まないように注意しなければなりません。

 

「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。』兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」(ヘブル3:7-14)

 

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

 

皆さんはいかがでしょうか。イエス様の御声を聞いて、それに従っておられるでしょうか。それとも、悪い不信仰の心になって生ける神から離れているということはないでしょうか。「きょう」が大切です。「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないように注意しましょう。そして、もし神から離れているなら、神に立ち返らなければなりません。それが悔い改めるということです。悔い改めてもう一度、あなたの人生の主人としてイエス様をお迎えすればいいのです。そうすれば、主はあなたを赦してくださいます。この確信を最後までしっかりと保ちたいと思います。そうすれば、私たちはキリストにあずかる者となるのです。

 

26節と27節をご覧ください。「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。」どういうことでしょうか。

 

「あのとき」というのは、あのシナイ山で神が語られた時のことです。あのときは、神の御声が全地を揺り動かしましたが、今度は、地だけでなく、天も揺り動かすと、神は言われます。何のためでしょうか。決して揺り動かされることのないものが残るためです。これは何のことを言っているのかというと、この世の終わりのことです。聖書はこの世には終わりの時があって、その時にはすべてのものが滅ぼし尽くされると書かれてあります。天地万物のものがふるいにかけられるのです。ペテロ第二の手紙3章をご覧ください。1節から14節に次のように記されてあります。

「愛する人たち。・・・当時の世界は、その水により、洪水に覆われて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。・・しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象はくずれて去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。・・・しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」

 

このように聖霊はペテロを通してお語りになりました。万物が揺り動かされる時が来るのです。ペテロは個人的にも揺り動かされました。神殿も揺り動かされて壊れました。なぜでしょうか。本物が残るためです。本物が残るためにすべてのものが揺り動かされて、ふるい落とされるのです。

それが近くなればなるほど悪がはびこります。今、ほんとうに悪がはびこっています。それは、主がもう近くまで来ているという証拠でもあります。私たちが見ているものはすべて崩れ去ってしまいます。しかし、これらすべてが揺り動かされても、決して揺り動かされないものがあります。決して滅びないものがあるのです。それが天の御国です。神は私たちのために新しい天と新しい地とを用意しておられるのです。そして、私たちクリスチャンは、この神の国の一員とされている者なのです。何とすばらしい特権でありましょう。

 

Ⅲ.揺り動かされない御国を受けているのですから(28-29)

 

ですから、結論は何かというと、28節です。

「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。」

 

すべてのものが揺り動かされ、崩れ落ちる日が来ます。それはちょうどノアの日のようだとイエス様は言われました。人々が平和だ、平和だと言っているような時に、突然、盗人のように襲ってくるのです。しかし、私たちには盗人のようにはきません。私たちはそのことをすでに神の言葉を通して知っています。そして私たちは、その恐ろしい日に会うことはありません。どうぞ安心してください。キリストを信じている人はさばきに会うことがなく、死から命へ移っているからです。私たちは決して揺り動かされることのない神の国に入れられ、キリストとともに共同相続人とされているからです。ですから、私たちは感謝しようではありませんか。恐ろしいところに近づいているのなら感謝などできません。そこにあるのはただ恐れだけでしょう。しかし、私たちは恵みに近づいているのです。神の国に近づいているのです。そここそ、私たちのゴールなんです。やがてそこから主が来られます。だから私たちは感謝しようではないか、というのです。

 

元々罪人であった私たちは、最後の日に万物がふるいにかけられるときには、到底それには耐えられない者でした。ただ恐れて、震えるしかない者でした。しかしそんな私たちが決して揺り動かされることがないように、神はご自身の御国に入れてくださいました。それは本当に感謝なことです。

 

そして、慎みと恐れをもって、神に喜ばれるように奉仕することができるのです。私たちは救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われました。良い行いによるのではありません。信じるだけで救われました。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。すべての人にこの恵みが提供されています。でもこの恵みを拒み続けるならば、最後のところに書いてあるように、私たちの神は焼き尽くす火です。罪が残れば、その罪のゆえにさばかれてしまいます。神の前に隠すことは誰も、何もできません。でも神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。

 

ですから滅びることがないように、神は私たちを愛して御子を遣わしてくださったのです。神が御子を世に遣わされたのは世をさばくためではなく、御子イエス・キリストによって世が、あなたが救われるためです。そのようにヨハネの福音書3章17節に書かれてあります。神は私たちを救いたいのです。御子を与えてくださったほどに愛してくださいました。このキリストを信じるようにというのが、聖書のメッセージなんです。そして信じた者は、この神の愛から引き離そうとする者に気をつけなさいということを、この手紙の著者は繰り返し、繰り返して言っています。罪の誘惑があります。苦難もあります。迫害もあるでしょう。そうしたものを私たちは避けて通れません。だから、信仰の先達者たちを見なければなりません。彼らはそのような中にあっても最後まで信仰の道を走り通しました。何よりも私たちが見なければならないものは、信仰の創始者であり完成者であるイエス様です。この方を見なければなりません。この方から目を離してはなりません。そこには苦難はたくさんありましたが、みな栄光のゴールに入りました。キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、危険も、このキリスト・イエスにある神の愛から引き離すものはないのです。私たちはしっかりとイエス・キリストにとどまり続けましょう。