申命記26章から学びます。まず1節から4節までをご覧ください。
1.初物のいくらかを捧げなさい(1-4)
「あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地にはいって行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地にはいりました。きょう、あなたの神、主に報告いたします。」と言いなさい。祭司は、あなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、主の祭壇の前に供えなさい。」
モーセはこれまで、イスラエルが約束の地に入ってからどうあるべきかについて具体的に語ってきました。まず5章から11章までのところで神に対する基本的なあり方として、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主を愛することが語られ、12章からはその具体的な適用について詳細に語られてきました。今回の箇所は、その最後の部分となります。
イスラエルの民は今、ヨルダン川の東側にいますが、もうすぐ神が約束してくださった相続地に入ります。そして約束の地に入れば、これまでの荒野での生活とは異なり、その土地からの産物を収穫できるようになります。そうしたら収穫するその地のすべての産物の初穂をいくらか取って、かごに入れ、主の御名が置かれた場所、これは神の祭壇のことですが、そこへ持って行かなければなりませんでした。なぜでしょうか。主の祭壇に供えるためです。それは主にささげる礼拝の供え物としてささげられました。神はこのようにして、イスラエルの民が神の恵みに感謝するようにされたのです。3節の報告は、カナンの地に入ってから、最初の収穫を得たことへの神に捧げる感謝の告白とともに、最上のものを主にささげるという信仰の表明でもあったのです。というのは、初穂は最上のものだからです。(出エジプト23:19,34:26)私たちも、私たちの持っている一番良い物で、神に感謝をささげましょう。すべてのものに、神を第一とする訓練を積みたいものです。
2.神を知ること(5-11)
次に5節から11節までをご覧ください。
「あなたは、あなたの神、主の前で、次にように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。」
ここには、初物を捧げる時に唱えなければならない内容が記述されています。それは極めて簡略化されたイスラエルの歴史として、エジプトに下ったヤコブから始まり、神が、どのようにしてエジプトの奴隷生活から解放してくださり、約束の地カナンに導いてくださったのかということです。それは神の一方的な恵みによるものでした。彼らが主に叫ぶと、主はその声を聞いてくださり、彼らの窮状と労苦と圧迫をご覧になられ、その力強い御手と、恐ろしい力、しるしと、不思議をもって、彼らをエジプトから連れ出し、この約束の地カナンへと導いてくださいました。それをその地の産物の初穂とともに主の前に供えて礼拝しなければなりませんでした。そのように唱えることによって神がいかに真実な方であり、恵み深い方であるかを思い起こし、その神を喜び、礼拝したのです。
私たちはどれほど神によって与えられた恵みと奇跡を思い起こしているでしょうか。神に願う時には必至に祈っても、それがかなえられた瞬間に「ああ、良かった」と思いとともに、神様のことをすっかり忘れているということが多いのではないでしょうか。それは神を求めているからではなく、自分の祝福を求めているからです。しかし、イスラエルが神から祝福されたのはその祝福のためではなく、その祝福によって、神がいかに真実な方であり、恵み深い方であるかを知るためでした。私たちは自分が祝福されるために神を求めるのではなく、神を求めるならば神は祝福してくださるということを信じて、神を知ることを求めて行かなければなりません。
3.十分の一をささげなさい(12-15)
次に12節から15節までをご覧ください。
「あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足りたとき、あなたは、あなたの神、主の前で言わなければならない。「私は聖なるささげ物を、家から取り出し、あなたが私に下された命令のとおり、それをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えました。私はあなたの命令にそむかず、また忘れもしませんでした。私は喪のときに、それを食べず、また汚れているときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私たちに下さった地、乳と蜜の流れる地です。」
神は、初物を捧げるだけでなく、レビ人、在留異国人、やもめに与えるために、その収穫の十分の一をささげるように命じられました。この十分の一は、各自が住んでいる町に集められ、在留異国人、みなしご、やもめに分け与えられました。それは「贈り物」と呼ばれ、主の前に区別してささげられました。そのようにして十分の一をことごとく主の前に持って来た者は、15節にあるように、「御民イスラエルとこの地を祝福してください。」と大胆に祈ることができました。感謝と喜びをもって神の命令に従うとき、私たちは神の恵みと祝福を期待することができるのです。
また14には「そのいくらかでも死人に供えたこともありません。」とありますが、当時カナンの地でも日本と同じように、死者に供え物をする習慣があったようです。生きている時に家族を大切にするのではなく、死んでから死者のためにたくさんのお金をかけます。しかし、聖書の神は、生きている者の神であり、生きている人々を大切にされます。死んだ人についてはすべて神の御手の中にあるので神にゆだね、生きている人々に慈善を行なうことが求められているのです。
このように神への礼拝は、他の人々への思いやり、愛の業となって表れます。神を礼拝するということは神のいのちに生きることによって、そのいのちを人々に分かち合うことでもあるのです。神の愛がその人のうちにとどまっていなければ、その礼拝は形式だけのものであり、死んだものです。礼拝をとおしてキリストの愛に駆り立てられて、それが具体的な行いへと向かっていくのです。勿論、この順序は大切です。まず神への礼拝があって、そこから隣人への愛の業が生まれます。私たちの礼拝はどうでしょうか。キリストの愛に駆り立てられて、それが困っている人々への思いやりとなって表れているでしょうか。
4.主の宝の民、聖なる民(16-19)
最後に、16節から19節をご覧ください。
「あなたの神、主は、きょう、これらのおきてと定めとを行なうように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行なおうとしている。きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。」
ここには、「きょう」という言葉が3回も繰り返されています。これは、モーセがヨルダン川の東側モアブの荒野でイスラエルに語ったみことばですが、そこで語られた日のことを指しています。それはモーセを通して語られた神のおきてと定めとを守り行うと彼らが宣言した日のことです。その応答に対して神は彼らを「主の宝の民」、「主の聖なる民」であると宣言してくださいました。つまり、イスラエルは、主のすべての命令を守り行うと誓うことによって主の宝の民とされ、主の所有とされているということです。これは旧約時代のイスラエルだけでなく、新約時代におけるクリスチャンにも言えることです。イエス様はこう言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)私たちがイエス様にとどまり、イエス様のことばが、私たちのうちにとどまっているなら、何でもほしいものを求めなさい・・・と。それがかなえられるのは、私たちがイエス様にとどまっていることによって、イエス様のいのちと祝福に与ることができるのであって、そうでなかったらそれらを期待することはできません。
イスラエルは主のいましめと定めとを守り行うと宣言したことで、主の宝の民、聖なる民となりました。私たちも神の定めとおきてである聖書にとどまり、これを守り行うとき、主の聖なる民、宝の民になるのです。私たちが主に愛され、罪から救われたことがわかるなら、それはもはや義務ではなく、心からの喜びとなるはずです。
ペテロはこう言いました。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」(Ⅰペテロ2:9-10)私たちは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。そのことがわかると、神のみことばに従うことは喜びとなるのです。