ヘブル人への手紙13章1~6節 「主は私の助け手です」

いよいよヘブル人への手紙の最終章に入ります。この手紙の著者は、迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンたちに対して、彼らがなぜキリストの恵みにとどまり、信仰のマラソンを最後まで走り続けなければならないのかについて述べてきました。そしてそれは、彼らには揺り動かされない御国に入るという約束が与えられているからです。であれば、そのような特権に与ったクリスチャンはどうあるべきなのでしょうか。そこでこの手紙の著者は最後に、それにふさわしい生き方とはどのようなものなのかを語ってこの手紙を結ぶのです。その第一回目の今回は「主は私の助け手です」というテーマでお話ししたいと思います。

 

皆さん、私たちの生活は何を信じるかによって決まります。つまらないものを信じていればつまらない生活となり、すばらしいものを信じていればすばらしい生活になります。もし「この世の中は金次第だ」と思っていれば、人生はお金の奴隷のようなものになり、そこには何の潤いもない、すべはお金という尺度で測られるような生活になってしまいます。その結果家族の間には心の交流はなくなり、お金がすべてといった生活になってしまうのです。ですから、私たちが何を信じて生きるのかということは、私たちの生活を左右するとても重要なことなのです。

 

それは信仰生活も同じで、私たちが何をどのように信じているかによって、その生活のスタイルが決まります。ですから、この手紙の著者は、私たちが信じている信仰の内容とはどのようなものかを述べた後で、いよいよその信仰から出てくる生活について勧めるのです。そしてその中で最も大切な愛について語っています。

 

Ⅰ.兄弟愛をいつも持っていなさい(1-3)

 

まず、第一のことは、兄弟愛をいつも持っていなさいということです。1節から3節までをご覧ください。1節には、「兄弟愛をいつも持っていなさい。」とあります。

 

このヘブル人への手紙をはじめ、聖書全体でクリスチャンに対して強く言われていることは、互いに愛し合いなさいということです。この手紙の読者であったユダヤ人クリスチャンたちは、クリスチャンに回心したことで、これまでのようにユダヤ人としてその共同体の中で生きていくことが困難になっていました。そのような時に彼らに必要だったことは何かというと、互いに愛と善行を促すことです。ですから、10章24節には、「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」と勧められ、また、続く25節にも「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」勧められていました。そういう状況であったからこそ、ますます熱く愛し合うことが必要だったのです。

 

そして、ここには「いつも」と強調されています。調子がいい時だけでなくいつもです。以前は熱心に愛し合っていたけど、今は冷めてしまいましたというのではなく、いつもです。6章10節には、「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」とあります。彼らはかつて熱心に愛し合っていました。しかし、クリスチャンとしての歩みの中で迫害や苦難に会うと、いつしかその愛が冷めてしまっていたのです。

 

これは私たちにも言えることではないでしょうか。イエス様を信じて救われた時は喜びにあふれていました。何をしてもうれしいのです。教会に集まって一緒に賛美したり祈ったりすることが楽しくて、できるだけみんなと交わりたいと思っていました。しかし、長い信仰生活の中で人間関係に疲れたり、様々な問題に直面すると、いつしかそのような関わりを避け、自分の殻に閉じこもるようになります。それはちょうどガソリンスタンドで給油するようなものです。一週間の中でいろいろなことエネルギーを使い果たした人がガソリンスタンドにやって来て、そこでたまたま知り合いの人でガソリンの給油にやって来る人がいると、「あっ、お元気ですか。毎日大変ですね。」と言ってその場を去っていくようなものなのです。そこには他の人との関わりはありません。しかし聖書が教える教会とは、自分の好みや利益のために集まるような所ではなく、神が招き、共に生きるように導かれた信仰の共同体であり、神の家族なのです。ですから、イエス様はこの共同体を実現するためにこのように言われたのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:35)ですから、教会は私と神様という個人的な関係だけでなく、私たちと神様という関係であり、そうした関わりが求められるのです。

 

イエス様はアジアにある七つの教会に手紙を書き送りましたが、その中にラオデキヤの教会に対して次のように書き送りました。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、暑くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15-16)

ラオデキヤの教会はどういう点で熱くもなく、冷たくもなかったのでしょうか。自分のことしか考えていなかったという点においてです。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることを知らない。」(黙示録3:17)

彼らは自分の姿が見えませんでした。自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、他の兄弟たちのことが見ていませんでした。ですから、彼らに必要だったのは、他の兄弟が見えるようになるために、目に塗る目薬を買うということだったのです。

 

それは私たちも同じです。自分のことだけに向きがちな関心を、他の兄弟に向けなければなりません。パウロも、「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:4)と勧めています。兄弟愛をいつも持っていることは、神の愛によって救われたクリスチャンがまず第一に求めていかなければならないことなのです。

 

次に2節をご覧ください。ここには、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とあります。このような互いの愛は、具体的な行動になって表れてきます。その一つが、旅人をもてなすことです。

 

旅人をもてなすということは、当時の社会において非常に重要なことでした。というのは、当時は今のように宿泊施設が整っているわけではなかったからです。ですから、巡回伝道者や預言者、あるいは仕事で旅行しなければならなかったクリスチャンにとっては、何よりもありがたいことだったのです。

 

「ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とは、アブラハムのことです。アブラハムは三人の人が自分の天幕を通り過ぎようとした時、この見知らぬ人々を心からもてなしました。彼らは御使いで、そのうちの一人は主の使い、すなわち、受肉前のキリストでしたが、アブラハムは彼らを見ると地にひれ伏して礼をし、上等の小麦粉でパンを作り、また美味しそうな子牛を取って料理して、彼らをもてなしました。彼は、それが神の御使いだと知らずにもてなしました。それはアブラハムにとって特別のことではなく、板についていたというか、習慣になっていたのです。旅人をもてなすことは時間も労力もお金もかかるためかなりの犠牲を強いられますが、だからこそ私たちのためにご自身のいのちを犠牲にして愛してくださった主の愛にふさわしい応答でもあるのです。

 

特に外国の方々をもてなしましょう。言葉や文化が違う所で生活することは私たちの想像を超える困難があります。そのような中で温かく迎えてもらえることは本当に助かります。

私は今年の夏中国へ行きましたが、そこで受けたもてなしにとても感動しました。行く所、行く所、どこでも喜んで歓迎してくれました。「これはにわとり足ですがおいしいです。どうぞ食べてください。」「これは近くの川で今朝とった魚ですがおいしいです。どうぞ食べてください。」と、たくさんのお料理がテーブルに並べられてもてなしていただきました。中国の教会が成長しているのは、こうした生きた神の愛といのちが脈々と流れているからだということを強く示されました。

 

また、昨年の夏にアメリカのサンディエゴにいるスティーブ・ウィラー先生のお宅を訪問したときも、その心からのおもてなしに強く心が打たれました。ウィーラー先生のお宅には私たちのようなゲストが来ても泊まれるようにゲストルームが用意されてあり、そこにはトイレやシャワールームも完備されているので気兼ねなく泊まれるようになっています。また、広々としたガーデンを見渡せるデッキで食事ができるようになっていて、ゆっくりとくつろぐことができます。特に私たちが日本の教会の開拓に携わっているということで気を使ってくださり、滞在中はサンディエゴズーやサファリ―パーク、市内の観光にも連れて行ってくれました。本当に申し訳ないと思うほどのもてなしをしていただいて恐縮ではありましたが、キリストにある愛の深さを強く感じることができました。

 

中国でのもてなしにしても、アメリカでのもてなしにしても、それぞれ文化の違いもあり一様に同じではありませんでしたが、そこに流れていた精神は同じでした。それは兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れはいけません、ということです。ややもすると私たちは完璧なもてなしを求めるあまり言葉が通じなかったり、文化の違いがあるとどのように接したらいいかわからないと不安になり、接触を避ける傾向がありますが、本当の愛はどのようにもてなすかということではなく、兄弟愛をもって愛すること、旅人をもてなすということを実践することなのです。

 

もう一つのことは、牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい、ということです。これはどういうことかというと、信仰のために投獄されている人々を自分のことのように思うということです。この牢につながれている人々というのはキリストの名のゆえに投獄されている人々のことです。日本では、信仰のために投獄されている人はほとんどいないだろうと思いますが、世界には今でもそのような人たちがたくさんいます。先にも述べたように、当時クリスチャンは信仰のゆえにしばしば投獄され重い刑罰を科せられました。このような時、クリスチャンは祈ることはもちろんのこと、自分も牢にいる気持ちで思いやり、時には訪問したり、何かを差し入れたりして、具体的に助け合うことが求められました。なぜかというと、その人たちは同じキリストのからだである教会に属している器官だからです。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が喜べば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:26)私たちはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。私たちはそれぞれ一つのからだにつながっているので、一つの器官が苦しめば、すべての器官がともに苦しむのは当然のことなのです。

 

Ⅱ.結婚がすべての人に尊ばれるように(5)

 

第二のことは、結婚がすべての人に尊ばれるようにすることです。5節をご覧ください。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。」

 

皆さん、本来、結婚は尊ばれるものです。すべての人に、クリスチャンの人にも、ノンクリスチャンの人にも、すべての人に尊ばれるものなのです。それなのに、結婚はあまり尊ばれていません。結婚することにどんな意味があるのか、結婚して束縛されるのならもっと自由でいた方がいいと、あまり結婚したがらないのです。しかし、結婚は本来神が制定されたものであって、人類の幸福と繁栄のために与えられたものです。その結婚が尊ばれなくなってしまいました。なぜなら、それを破壊するものがあるからです。それが不品行であり、姦淫です。不品行とは性的なすべての罪のこと、姦淫とは、結婚関係以外に性的関係を持つことです。ですからここに、寝床を汚してはいけません、とあるのです。性的関係は夫婦の枠組みの中では尊いものであり、夫婦の関係を緊密にするものですが、その枠組みから離れたところで行われると喜びが台無しになってしまうどころか、汚れたものになってしまうのです。それはちょうど花壇の花のようです。花壇にはふわふわした柔らかな土がまかれ、そこに花が咲くととてもきれいですが、花壇の外に、たとえばリビングに柔らかな土をまいて花を咲かせても、それはきれいではありません。むしろ汚い限りです。花はやわらかな土が置かれた花壇に咲くときれいですが、それ以外のところにまかれると汚れてしまうのです。それと同じように性的な関係も夫婦という枠組みの中で行われると喜びであり、二人の関係が緊密にしますが、それ以外の枠組みで行われると汚れてしまうのです。

 

創世記2章24節には、結婚の奥義について次のように言われています。「それゆえ男は父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」

皆さん、二人はどうしたら一心同体になるのでしょうか。父母を離れ、つまりふたりは結婚して、妻あるいは夫と結ばれ、すなわち、性的な関係が持つことによって一心同体になるのです。この順序が重要です。男と女は結婚して、妻と結ばれ、そうした性的結合が持たれることによって、一心同体となる、すなわち、より親密な関係になるのであって、結ばれる前に関係を持つと、あるいは結婚してからその枠の外で関係を持つと、逆に自分自身を、夫婦の関係が滅ぼしてしまうことになるのです。

 

箴言6章27~29節、32~33節をご覧ください。

「人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。隣の人の妻と貫通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。」

「女と貫通する者は思慮に欠けている。これを行う者は自分自身を滅ぼす。彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去ることはできない。」

 

火というのは隣人の妻のことです。そのような者と貫通すると、罰を免れません。それどころか、自分自身を滅ぼし、そのそしりを消し去ることはできません。たとえば、ダビデがバテシェバと姦淫を行ったとき、その罪責感でのたうちまわった、その心はカラカラに渇ききっていたと告白しています。(詩篇32:3-4)ですからパウロは、Ⅰコリント6章18節のところで、「不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を犯す者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」と言っているのです。自分のからだに対して罪を犯すとはどういうことかというと、このように自分自身を滅ぼすということ、それがずっと消えないということです。だから不品行を避けなければならないのです。それが結婚の前であっても、後であっても、結婚という枠組みの外で行われるなら、それが自分を傷つけ、その傷がいつまでも残り、自分自身を滅ぼすことになってしまうのです。そして、夫婦関係を、家族関係を破壊することになるのです。そしてその結果、地域社会、社会全体が破壊しまうことになります。それはこの社会を見ればわかるでしょう。社会全体が病んでいます。

 

それでは、どうしたらいいのでしょうか。もしそのような関係にあるならば、私たちはどうしたらいいのでしょうか。幸いなことに、私たちが罪を犯したからといって神は狼狽することはありません。もう神は受け入れてくださらないということはありません。傷は一生残るかもしれませんが、神は回復させてくださいます。もう一度麗しい関係を持たせてくださるのです。もう赦されないということはありません。ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。聖書は悔い改めと実りある人生のために、次の四つのステップを踏むことを勧めています。

第一に、罪を告白して悔い改めることです。Ⅰヨハネ1章9節には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。私たちが罪を犯したならばそれが罪であったと認めて、悔い改めることです。それが砕かれるということです。自分が間違ったことをしたと認めることが砕かれるということです。これが最初にすべきことです。

第二のことは、その罪を捨てること、罪から離れることです。箴言28章13節には、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」とあります。どういう人があわれみを受けるのでしょうか。それを告白して、それを捨てる人です。自分のそむきの罪を隠す者は成功しません。

第三のことは、神の聖さを求めることです。詩篇51篇10節に、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」とあります。これはダビデのマスキールですが、彼はナタンによって罪が示されたときその罪の赦しを求めただけでなく、きよめられることを求めました。

そして第四のことは、悪魔の誘惑を避けることです。パウロは若き伝道者テモテに次のように書き送りました。「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(Ⅱテモテ2:22)罪から離れても、再び悪魔が誘惑してきます。誘惑自体は罪でも悪でもありません。問題はその誘惑に落ちてしまうことです。どうした誘惑に勝利することができるのでしょうか。ここでは二つのことが言われています。一つは情欲を避けるということ、そしてもう一つのことは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めるということです。そうすれば守られるのです。

 

バテシェバと姦淫して後悔と憂鬱の中に疲れきっていたダビデは、主に罪を告白し、悔い改めて、その罪を赦していただきました。その時彼はどのように告白したでしょうか。詩篇32篇1-2節です。彼はこのように賛美しました。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。」これは彼が罪を犯して悔い改め、その罪を捨て、離れることによって、罪をきよめていただいたダビデが歌った詩なのです。彼は、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」と高らかに賛美することができました。この「幸い」はHappyです。皆さんはHappyですか。その罪を赦していただきましたか。罪が赦され、罪がおおわれた人は何とHappyでしょうか。確かに自分の犯した罪に苦しむことはあっても、主がその罪を赦してくださったと言える人は本当にHappyなのです。そればかりか、詩篇51篇13節に、「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。」とあるように、その経験が、同じような罪で苦しんでいる人の助けとして用いられることもあるのです。ですから、罪を犯したからもう終わりだとあきらめないでください。神様はその罪を赦してくださいます。そして、あなたをきよめて、ご自身のご栄光のために用いてくださるのです。

 

Ⅲ.金銭を愛する生活をしてはいけません(5-6)

 

第三のことは、金銭を愛する生活をしてはいけないということです。5節と6節をご覧ください。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしはけっしてあなたを離れず、また、あなたを捨てなさい。そこで、私たちは確信してこう言います。「主は私の助けです。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

 

金銭を愛することは、神を愛することに逆行することです。イエス様も、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と言われました。神を愛するのではなく、金銭を愛することが問題です。Ⅰテモテ6章9節にも、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」と言われています。金銭そのものが問題ではなく、金銭を愛することが問題です。この金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです。ですから、争いごとの多くは大抵お金が絡んでいるのです。人はお金があれば幸せになれると思っていますが、実際にはお金を愛することで自分自身を亡ぼすことになってしまうのです。

 

以前、イタリアでもひとりの男の死が話題になりました。彼は公営の賭博で3億円を当て、かつては「イタリアで一番幸福な男」と言われた人物でしたが、「一度当たって二度当たらぬはずがない」とその後ギャンブルに手を染め、ついには一文無しになってしまったのです。

彼の最期は悲劇でした。子どもたちに里帰りの列車の指定席代も払ってやることができなかった彼は、自由席を確保しようと、ミラノ駅構内でまだ止まりきらない列車に飛び乗りました。そして線路に落ち、列車の下敷きになって死んでしまったのです。

彼の死は国中で話題になりました。大金を手にして金に目がくらみ、最後は一番大切ないのちまでも失った彼の人生は、はたして本当に「イタリアで一番幸福」だったのでしょうか。

 

ですから、金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなければなりません。なぜなら、主ご自身がこう言われるからです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てなさい。」これがどのみことばからの引用なのかはわかりません。イエス様は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われましたが、「あなたを離れず、あなたを捨てなさい。」と言われたとは書かれていないからです。おそらくこれは旧約聖書からの引用でしょう。申命記31章6節やヨシュア記1章5節にそのような約束のことばがあります。しかし、ここで重要なことはどこからの引用であるかということではなく、この金銭を愛する生活をしてはいけないということが、このことと深いつながりがあるということです。すなわち、もしあなたがイエス様としっかりつながっていて、イエス様と親しい関係にあれば、あなたはもう不満足であるということはないということです。でももしあなたがイエス様から離れていて、イエス様との関係がなければ、何をしても不満であり、いつまでも満足することはできないということです。だから不満になるとお金やモノで心を埋めようとするのです。あなたがイエス・キリストに近ければ近いほど、あなたの心は満たされるのです。イエス様との関係が、あなたの心の満たしのバロメーターになるということです。主は決してあなたから離れず、あなたを捨てないと約束しておられます。にもかかわらずその主から離れてしまうと、人との関係やビジネスとの関係を優先してしまうのです。そうすると、いつまでも心が満たされることはありません。イエス様がいれば十分満足なはずだからです。

 

それはちょうど新婚時代のようです。新婚時代のことを思い起こしてください。皆さんにも新婚の時代があったはずです。それははるか昔、もう忘れてしまったわという方もおられるかもしれませんが、その感覚は覚えているでしょう。もう何も無くても幸せでした。あなたと二人、同じ屋根の下に一緒にいるだけで幸せだったはずです。別に高級な車がなくても、大きな家に住んでいなくても、そんなに贅沢な暮らしなんてできなくても、もう十分満足でした。それなのに結婚してしばらくすると、ちょっとしたことでも嫌になって文句を言うようになります。その愛から離れているからです。愛があれば必ず満足することができるのです。

 

ですから、聖書は確信に満ちてこういうのです。6節の「」のことばをご一緒に読みましょう。「主は私たちの助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」このような確信はどこから与えられるのでしょうか。聖書のみことばです。聖書のみことばを通して、私たちは確信に満ちてこういうことができるのです。聖書のみことばをベースにして生きるなら、たとえ問題があっても、たとえ不安なことがあっても、私たちはこういうことができるのです。「主は私たちの助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

 

皆さん、人を恐れるとわなにかかります。しかし、主を恐れる者は守られるのです。主は私の助け手です。人間は、私に対して何もすることができません。だから何も恐れる必要はありません。あれがない、これがない、今月の支払いが間に合わない、リストラされたらどうしよう、パートの時間が減らされた、子供の学費をどうしようと心配するのはやめましょう。そういうのは神様を信じていない人です。神様を信じている人は、神が私の助け手ですと確信に満ちているので、何も恐れる必要がないのです。現代は不安の時代だと言われています。先が見えなくてみんな不安になっています。それはこの確信がないからです。心配すれば恐怖で暗くなりますが、この確信に満たされていれば、心がパッと明るくなり、安心感を持つことができます。

 

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、迫害によって財産までも奪われていました。彼らは、すべてを彼らは失ってしまったのです。けれども、彼らには信仰がありました。それは、主が彼らとともにおられるということです。彼らはすべてを失いましたが、一番大事なものを持っていました。それはイエス・キリストでした。イエス・キリストを持っているということはすべてを持っているということだからです。なぜなら、それは永遠のいのちを持っているということだからです。その一方でこの地上ですべてのものを持っていたとしても、もしいちばん大切なもの、永遠のいのち、イエス・キリストを持っていなのならば悲惨です。なぜならこの地上のものはすべて一時的なものであって、どんなものでもすべて過ぎ去ってしまうからです。この主がともにおられることこそ、私たちが勝利ある人生を歩んでいく秘訣なのです。

 

星野富広さんの詩の中に、「いのちよりも大切なもの」という詩があります。

「いのちが一番大切だと 思っていたころ

生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日

生きているのが嬉しかった」

ここで星野さんが言っている「いのちよりも大切なもの」とは何でしょうか。よく人間にとって一番大切なものは「いのち」だと言われますが、そのいのちよりも大切なものがあるというのです。それはイエス・キリストであり、イエス・キリストを信じることによってもたらされる永遠のいのちです。星野さんはかつて中学校の体育の教師として健康な肉体と、体育の能力にもすぐれた人でしたが、それらを一瞬のうちに失い、絶望の淵に落ちました。その苦しみと試練は過酷でありましたが、入院中に聖書に出会い、そこから本当の生きる希望と喜びを見出だしたのです。

 

あなたはこのイエス様を信じていますか。そして、イエス様にしっかりつながっておられるでしょうか。イエス様があなたとともにおられるなら、あなたはそれで十分です。イエス様があなたを助けてくださるからです。

これが、クリスチャンの人生観の根底にあるものです。ですから、私たちはどんな思い煩いからも解放され、何が真の満足であるかを悟りながら、この世を旅することができるのです。このようないのちを与えてくださった主に感謝します。そして、いつも主がともにおられることを信じて、主とともに歩んでまいりましょう。