マタイの福音書2章1~12節 「博士たちのクリスマス」

Merry Christmas!救い主イエス・キリストのご降誕を心からほめたたえます。今年は12月25日が日曜日なので、こうしてクリスマスを教会で礼拝をもって迎えられることをうれしく思います。

私は、教会附属の保育園に行っていましたので、クリスマスにはいつも聖書のお話しや降誕劇、「きよしこの夜」の讃美歌に親しんできました。とは言っても、私の家はいわゆるクリスチャン・ホームではなく、仏壇や神棚がある普通の家庭でしたので、クリスマスというと、ケーキ屋さんで働いていた叔父が毎年クリスマスイブの晩に持って来てくれるケーキを食べお祝いしました。クリスマスは多くの人がそれなりの仕方でお祝いをしますが、聖書の中のキリスト降誕のストーリーを知っている人は日本にはそれほど多くありません。12月25日がキリストの誕生日であったかどうかは別として、というか、実際のところは別の日ですが、一般的に世界中でクリスマスにキリストの降誕が祝われていることは事実です。

きょうは、東方から来た博士たちが、幼子イエスを拝みに来たストーリーから、私たちがクリスマスを迎える心構えについて学びたいと思います。

 

Ⅰ.星に導かれた博士たち(1-3)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」

 

お気付きのように、イエス・キリストの誕生のストーリーには歴史的事実と超自然的な出来事が織り込まれています。ここには、「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき」とあります。これは歴史的な事実です。このヘロデとはヘロデ大王のことで、紀元前37年から紀元後4年までユダヤを統治していた王でした。当時イスラエルはローマ帝国の属国でしたが、ローマ帝国は、ヘロデにイスラエルの統治を委託していたのです。彼はローマとの協調関係を築きながら、エルサレム神殿の大改築をするなど、多くの建築物を残したことで有名です。また、猜疑心がとても強く身内を含む多くの人を抹殺しました。その時代にキリストは生まれました。これはまぎれもない歴史的な事実です。

 

一方、ここには、このヘロデ王の時代に、東方の博士たちが星を見て、ユダヤ人の王が誕生したことを知り、その方を拝みに来たと告げています。この「博士」とはギリシャ語で「マゴス」という言葉で、天文学を研究していた学者たちか、あるいは、占星術、星占いをしていた者たちであったと考えられていますが、彼らは星の動きを研究している中でユダヤ人の王が生まれたことを知り、その星に導かれてエルサレムのヘロデのところへやって来たのです。おそらく彼らは、旧約聖書のダニエル書や他の預言書からイスラエルに救い主が誕生することを知っていたのだと思いますが、その星に導かれてエルサレムにやって来たのです。これは何十年に一度見られるハレーすい星だったのではないかと考える学者もいますが、これを

科学的に解明するのには無理があります。なぜなら、このように星が導くということは考えられないことだからです。これは彼らをエルサレムまで導くために神が用いられた超自然的な星だったのです。

 

このようにキリストの誕生の経緯は、歴史的事実と超自然的な出来事といういわゆる横の糸と縦の糸によって見事に織り込まれているのです。ですから、この話を黙想する人たちに、今も不思議な感動を与えてくれるのです。そして、ここにいる私たちも、その不思議な星に導かれて、きょうここにいるのではないでしょうか。すなわち、博士たちが不思議な星に導かれてキリストに出会ったように、私たちも人それぞれその方法は違いますが、不思議な方法でキリストのもとに導かれているということです。

 

先ほども申し上げたように、私は教会附属の保育園に行ったことで、小さい頃から自然にイエス様のことを聞いていました。両親が共働きだったのでどこか私を見てくれるところがないかと探したところ、たまたまそれが教会の保育園だったのです。なぜ私を教会保育園に入れたのかとあとで母に訪ねたことがありますが、「なんでって、なんでだべね、わがんね。そごしがながったがらない」という返答でした。でも、私は、そこしかなかったからではなく、そこに不思議な神の導きがあったからだと思っています。なぜなら、そのようにして教会保育園に入れてもらったことで、キリスト教対する違和感が全くなかったというだけでなく、あこがれさえ抱いていたからです。神は超自然的な星に導かれて私を教会保育園に連れて来てくれたのでした。

 

同じように、皆さんがきょうここに導かれたのも、その背後に不思議な神の深いご計画と導きがあったからなのです。ある人はだれかに誘われて来たという方もおられます。ある方はたまたま何らかのイベントに参加したのがきっかけで来られたという方もおられると思います。それがどのようなきっかけであっても、あなたはきょう、不思議な神の導きによってここに来られたのです。

 

そのようにしてキリスト教に触れた私は、しばらく教会とは無縁の生活を送っていました。そんな私が再び教会に引き戻されたのは、一人の宣教師との出会いがきっかけでした。それは私が高校3年生の秋のことでした。私は高校時代バスケットボール部に所属していましたが、インターハイが終わるとそれまで打ち込んでいたものが無くなり、心にポッカリ穴があいた日々を過ごしていました。大学進学を目指していたのにその道が閉ざされたので就職することになりましたがすぐに大手の会社に就職が決まると、何もすることがなくなったのです。「そうだ、あの人に手紙を書こう」と、その夏交換留学生として来日したアメリカ人のことを思い出したのです。しかし、高校時代まったく勉強しなかった私は英語で手紙を書くことができなかったので、同じ町の高校に英語の教師として来日したばかりの宣教師の家を訪ねました。それが今の家内です。今の家内でとは言っても、他に家内はいませんが、とにかく彼女に英語の手紙を直してもらおうと言ったのです。すると家内は、片言の日本語で、「教会に来ませんか」と誘ってくれました。私は特にやることもなかったので、また、キリスト教に対して違和感がありませんでしたし、社会勉強のつもりで行くことにしたのです。

 

すると、日曜学校の先生が温かく迎えてくださり、後で1枚のはがきをくださいました。「ああ、教会の人って優しいんだなぁ」と思って続けて行くようになると、その方が、「ちょうど良かった。今度のクリスマスに降誕劇をするので手伝ってもらえませんか。あなたは悪役です。」とお願いされました。それで私は、悪役で役者デビューをすることになりまはこんなことしているんだろう」という思いもありましたが、まあ他にやることもなかったし、キリスト教がどのようなものなのかを知りたいと思って教会に続きました。

 

そのような時でした。卒業式までもう少しという時、高校で一つの問題が起こりました。担任の先生から、もしかするとあなたは卒業できないかもしれないと言われた時、ここまで来て卒業できなかったらどうしようという思いで目の前が真っ暗になりました。その時、クリスマスのプレゼントに家内からもらった聖書をむさぼるようにして読んだのです。すると、第二コリント5章17節にこう書いてありました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

だれでもキリストを信じるならすべてが新しくなるという言葉を読んだとき、私はこれまでの人生をリセットして、新しい人生をスタートさせたいと強く思い、イエス様を私の罪からの救い主として信じ受け入れました。

 

本当に不思議ですね。もし教会の保育園に行っていなかったら、もし家内と出会っていなかったら、もしあの問題が起こっていなかったら、私はここにいなかったかもしれません。しかし、東方の博士たちが星に導かれてエルサレムにやって来たように、私も不思議な神の導きによってイエス様のもとにやってくることができました。

 

そんな彼らがイエスのもとに導かれたのは、聖書のみことばによってでした。5節と6節には、旧約聖書にある預言の言葉を通して彼らは救い主はベツレヘムで生まれたということを知り、幼子のイエスのもとへ行きました。私たちも不思議な出会いを通して教会に導かれ、その中で聖書のことばを通してキリストへの信仰へと導かれることがわかります。

 

あなたはいかがですか。神は今も不思議な方法によってあなたの人生をも導いておられます。いろいろな人との出会いや出来事を通して、あなたをイエスのもとへと導いておられるのです。あなたのスターは何ですか。あなたの星となってあなたを導いてくれた人は誰でしょうか。あなたも博士たちのようにその星を見て単純に喜び、その星に導かれるように、あなたの人生を神様にゆだねておられるでしょうか。

 

Ⅱ.この上もなく喜んだ博士たち(3-10)

 

次に、3節から10節までをご覧ください。3節には、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れまどった。エルサレム中の人も同様であった。」とあります。

 

こうした博士たちの行動とは裏腹に、キリストの誕生を快く思わなかった人たちもいました。それはヘロデ王であり、エルサレム中の人々です。ここには、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った」とあります。そして、7節と8節にあるように、彼は、博士たちをだましその幼子の情報を得て、その子をなき者にしようとしました。いったいなぜヘロデは恐れ惑ったのでしょうか。それは、自分の上に支配者がいることを望まなかったからです。彼はこの幼子が成長した時、自分の王としての立場や地位が奪われるのではないかと心配したのです。それは何もヘロデに限ったことではありません。それは、人の上に立つ立場にある人ならだれでも受ける誘惑でしょう。自分の立場や地位を守るという動機で、いろいろなことを言ったりやったりします。このヘロデ王はそれが特に強く、彼は五回も結婚していましたが最初の妻(ドリス)と二人の息子、二番目の妻(ミリヤム)と二人の息子をも抹殺して、自分の立場を守ろうとしました。当時、ヘロデよりも豚の方が安全だとささやかれたほどです。

 

一方ここには、「エルサレム中の人々も王と同様であった」とあります。ヘロデならばわかりますが、なぜエルサレム中の人々も王と同様に恐れたのでしょうか。それは、自分たちの現状が変わることを恐れたからです。人は自分の現状が変わることを極端に恐れます。それは新しいものへの不安でもありますが、今ある現状を手放さなければならないと思うと、恐れを抱くのです。多くの場合変わりたいのに変われないのは、変わりたいという自分の考えよりも、これまでの現状を変えたくないという気持ちによってブレーキがかけられているからです。どんな状況であろうとも、誰にとっても、現状が自分の知り得る範囲での最も安全な領域であり、現状の考え方が、今の自分に一番馴染んでいるという思いがあるのです。このように、変化を恐れる気持ちは誰の中にもあります。

 

さらに、ここにはもう一つの種類の人たちが登場しています。それは民の祭司長たちと学者たちです。4節を見てください。

「そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」

彼らは、ヘロデ王から、キリストはどこで生まれるのかと問いただされたとき、「ユダヤのベツレヘムです。」と答えています。預言書にそう書かれてあったからです。この預言書というのは、今日の旧約聖書のことですが、そこにはキリストがユダヤのベツレヘムという町に生まれることが、前もって、預言されていたのです。言い換えれば、聖書の民と呼ばれていたユダヤ人には早くからキリスト誕生が預言されており、ほとんどの人がそのことを知っていたということです。それなのに、彼らはその知らせを耳にしても、ちっとも動こうとはしませんでした。なぜでしょうか。関心がなかったからです。聖書のみことばを知っていても、実際には信じていなかったのです。

 

このように、キリスト誕生の知らせを聞いても、人によって反応はさまざまでした。それは二千年前も今も変わらない事実です。しかしごく少数ですが、このキリストの誕生を感動的に体験した人たちもいました。それはこの博士たちです。9節、10節をご覧ください。

「彼らは終えの言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

 

キリスト降誕の知らせを耳にして、ヘロデやエルサレムの住民が不安を感じたのに対して、幼子のような純粋な心を持って、まっすぐにイエス様の生まれたところへと向かって行った東方の博士たちの姿は何と対照的でしょうか。彼らはこの上もなく喜びました。その喜びは、お金や物によって得られるものではない、幼子のような信仰からあふれ出る説明のできない感動的な喜びです。今日も、世界中で多くの人たちがこの喜びを体験しています。あなたもそのおひとりでしょうか。

 

Ⅲ.幼子を礼拝した博士たち(11-12)

 

最後に、幼子イエスのもとに導かれた彼らが何をしたかを見て終わりたいと思います。11節と12節をご覧ください。

「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」

 

星に導かれて、そしてまた、聖書の預言の言葉に確信を得て、ついに幼子イエスのいるところまでやって来たのは、不思議なことに聖書に約束されていた神の民ではなく、異邦の民、東方の博士たちでした。彼らは母マリヤとともにおられる幼子を見ると、ひれ伏して拝みました。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのです。

 

黄金は言うまでもなくとても高価で貴重なものです。それは王にふさわしいものです。ここで博士たちが黄金をささげたというのは、キリストが王の王であることの信仰の告白でもありました。

そして乳香、乳香は香料の原料です。その色が乳白色の色であることから乳香と呼ばれていますが、その原料を焚いて香として、神にささげるのです。つまり、この乳香はキリストの神性を表していたのです。

そして、没薬ですが、没薬は、古代エジプトではミイラ作りのために欠かせない薬品で、強い殺菌力と芳香を兼ね備えたものです。没薬はキリストが十字架で、私たちの罪の身代わりとして死なれる贖い主であることを表していました。もちろん、博士たちはそんなつもりで持ってきたわけでなく、ただ高価な贈り物を贈っただけでしょうが、奇しくもそれが、この幼子が私たちの罪のために死なれる救い主であることを表していたのです。

 

彼らはこうしたささげ物をささげ、ひれふして拝みました。いったいなぜ彼らはこのようにしたのでしょうか。いったいなぜそんなに遠いところから、おそらく千数百キロはあったでしょう、今のように新幹線や飛行機があったわけでもなかったのに、そんなに遠い所から長い年月をかけてやって来たのでしょうか。相当の犠牲があったことと思いますが、なぜ彼らは、このような高価な贈り物をまでして、キリストを礼拝したのでしょうか。

 

それは彼らにそれだけの喜びがあったからです。その星が幼子のおられるところまで進んで来たとき、彼らはこの上もなく喜んだとあります。その喜びは、それだけのお金と時間を使っても惜しくないと思えるほどの喜びでした。その喜びが感謝となって内側からあふれ出て、礼拝となって表れたのです。

 

東方の博士たちと、ヘロデ大王やエルサレム中の人々、あるいはユダヤ教の宗教的指導者たちの違いはどこにあるのでしょうか。それは、救い主の誕生を心待ちにしていたか、そうでないかの違いです。自分にとって、救い主が意味のあるお方なのかそうでないかの違いと言ってもいいでしょう。
大切な人の誕生日なら、その日を喜んでお祝いするでしょう。別にどうでもいい人の誕生日なら、どうでもいいと思うはずです。敵の誕生日なら、呪いたくなるかもしれません。自分にとって大切な人が生まれたからこそ、博士たちはお祝いにやってきたのです。ここが最も重要なポイントです。  私たちにとって、イエス様はどのような方でしょうか。クリスマスがどういう日であるかは、私たちとイエス様との関係次第で決まります。あなたにとって、クリスマスはどういう日でしょうか。素敵なディナーでロマンチックな雰囲気を味わう日ですか?あるいは、特別なイベントで盛り上がる日でしょうか?それとも、どうでもいい日?むしろ疲れる、クルシミマス?こうしたこともいいですが、しかし最も大切なのは、クリスマスはイエス様に対する感謝と喜びにあふれる日であるということです。なぜなら、イエス様は私たちを罪ののろいから救ってくださったからです。勿論、東方の博士たちは、イエス様が自分たちを罪ののろいから救ってくれる救い主だとは思っていなかったでしょう。自分たちの先祖を救ってくれたユダヤ人への感謝の思いから、はるばる遠い東の国からやって来ただけかもしれません。けれども、私たちはこうした彼らの姿からクリスマスこそイエス様の誕生をお祝いし、この方をこの世に送ってくださった神に感謝して、ひれ伏して拝む時であるということを知ることができます。だからこそ、クリスマスを迎えるのに最もふさわしい迎え方は、心からの感謝をもってキリストに礼拝をささげる日であるということです。このクリスマスイエス様に対して、あふれる感謝を込めて礼拝しましょう。