ヤコブの手紙1章1~4節 「さまざまな試練に会うときは」

あけましておめでとうございます。新しい年をどのような思いで始められたでしょうか。この新しい年も主のみこころに歩めるように、みことばから共に学んでいきたいと思います。きょうからヤコブの手紙に入ります。それでは早速見ていきましょう。

 

Ⅰ.この上もない喜びと思いなさい(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

この手紙を書いたのは、ヤコブです。ここには、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」とあります。聖書には「ヤコブ」という名前の人が四人出てきます。一人はゼベダイの子ヤコブです。彼はイエスの弟子で、ヨハネの兄弟でしたが、サマリヤの人たちがイエスさまを受け入れないと、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)と言ったことから、「ボアネルゲ」(雷の子)というあだ名が付けられました。このヤコブではありません。他にイエスの弟子でアルパヨの子ヤコブ(ルカ6:15)という人がいますが、彼でもあません。もう一人、イエスの弟子でユダという人がいますが、彼をイスカリオテ・ユダと区別するために「ヤコブの子ユダ」(ルカ6:16)と紹介していますが、このヤコブでもありません。ということは、このヤコブというのは、イエスの実の兄弟ヤコブのことです。兄弟といっても、イエスさまは聖霊によって処女マリヤから生まれましたが、このヤコブはマリヤが結婚してヨセフとの間に生まれた子どもでしたので、異父兄弟ということになります。彼は初めイエスさまを信じていませんでした(ヨハネ7:5)が、イエスさまが復活されてから彼に直接現われてくださったことで、イエスさまを信じ、キリストの弟子となりました。そして教会の指導者の一人として重んじられるようになり、使徒の働き15章に出てくる第一回エルサレム会議では、異邦人も割礼を受けなければ救われないのか、という議題において、最終的な決定を下しました。ガラテヤ書2章9節でパウロは、「柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネ」と言っているように、彼はエルサレム教会の柱として重んじられていたことがわかります。

 

それほど重んじられていた人物であるならよほど偉い人だったのではないかと思われますが、彼は自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と紹介しています。彼はイエスの異父兄弟でしたから、自分を「神の子イエス・キリストの実の兄弟であったヤコブより」と紹介することもできました。あるいは、「エルサレム教会の初代牧師です」ということもできたはずです。それなのに彼は自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と言ったのです。なぜでしょうか。それは彼がキリストに対して正しい理解を持っていたからです。確かに彼は主イエスの実の兄弟だったかもしれない。約30年の間同じ家で生活し、一番近くで人間イエスをつぶさに見て来たかもしれません。しかし、このイエスがどのような方であるのかをはっきり知ったのは、イエスさまが復活して彼に直接現われてくださったことによってでした。それまでは信じられなかった。イエスがどのような方であるのかを全く理解していませんでした。イエスさまが直接彼に現れてくださったことによって、イエスが初めてわかった。そして、復活されたイエスは神であるということ、それは父なる神と等しいお方であるということです。

 

イエスさまは、「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と言われました。また、「わたしを見た者は父を見た」(ヨハネ14:9)と言われました。でも、それがどういうことなのかがさっぱりわからず、この人は気が狂っていると思っていたのに、イエスが復活されたことでこれまでイエスさまが語っておられたことが自分の中で全部つながったのです。そして、この方はまことに神であったということがわかったのです。この方は神と等しい方であり、この方こそ救い主であるということがわかったのです。そして、この方がどのような方であるかがわかったとき、彼は確かにイエスさまとは異父兄弟であり、エルサレム教会の柱として重んじられていた者ですが、そんな自分の立場とか、環境などといったことは何の関係もない、ただのしもべにすぎないということを自覚することができたのです。この「しもべ」という言葉は、ギリシャ語で「デューロス」という言葉ですが、それは奴隷、しかも最も低い奴隷のことを意味しています。彼は、キリストがすべての人を救う救い主であると理解したことで、自分はその方に仕えるしもべにすぎないと思ったのです。

 

このヤコブが、国外に散っている十二の部族に書き送っています。この国外に散っている十二部族とは、ユダヤ人クリスチャンたちのことを指しています。初代教会の時代、神のことばが、ますます広がって行き、エルサレムで、弟子たちの数が非常に増えて行くと、多くのユダヤ教の祭司までもが次々に信仰に入りました。これはまずいとユダヤ教の指導者たちがいろいろと議論をふっかけてくるのですが、弟子たちは知恵と御霊によって語っていたので、また、それに伴う数々の不思議なわざやしるしも行ったので、全く太刀打ちすることができませんでした。そのような中で最初の殉教者が出ました。それがステパノです。ユダヤ教の指導者たちは民衆をそそのかし、彼がモーセと神を汚すことを聞いたと言わせて、石打ちにしたのです。それでエルサレム教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました(使徒8:2)。散らされた人たちはみな、みことばを宣べながら、巡り歩きました(使徒8:4)。このようにしてユダヤ人クリスチャンたちは国外へと散らされて行ったのです。そして、彼らは行く先々でも激しい迫害に会い、苦難を余儀なくされました。それはこれまで学んできたヘブル人への手紙でも見たとおりです。そこでヤコブは、迫害によって国外に散っているユダヤ人クリスチャンを励ますためにこの手紙を書き送ることにしたのです。この手紙はペテロの手紙、ヨハネの手紙、ユダの手紙と合わせて「公同書簡」と呼ばれていますが、その時代の人々ばかりでなく、今の時代に生きている私たちクリスチャンたちに対する励ましでもあるのです。

 

その国外に散っている十二の部族に宛てて、ヤコブは何と言って励ましているでしょうか。2節をご覧ください。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

「私の兄弟たち」という言葉は、「愛する兄弟たち」「兄弟たち」という言葉と合わせ、ヤコブが好んで使っている言葉です。この手紙の中に19回も使われています。恐らく彼は、このように言うことで、主にある兄弟として、自分も同じ立場にあるということを伝えたかったのではないかと思います。私たちも自分と同じ立場にある人から言われると、「ああ、私だけじゃないんだ」「自分と同じようにみんな辛い経験をしているんだ」という気持ちになって慰められることがあります。しかし、彼はそのように呼びかけて彼らに同情を示すだけでなく、彼らが前に向かってしっかりと進んで行くことができるように、具体的な励ましも語っています。

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

ここでヤコブは、「もしさまざまな試練にあうときは」と言わないで、「さまざまな試練に会うときは」と言っています。それは、クリスチャンは必ず試練に会うということを前提に、そのようなときはどうしたら良いのかを述べているのです。信仰を持ったら苦難に会わないということはありません。問題が全く起こらないということはないのです。それは、非常に聞こえはいいですが現実的ではありません。聖書が教えていることは、「試練に会うときは」です。しかもその試練というのは一つや二つの試練ではなく、「さまざまな試練」と言われています。仕事や勉強がうまくいくこともあれば、うまくいかない時もあります。人間関係はどうでしょうか。平和な時もあれば、誤解されたり、裏切られたり、争ったりすることもあります。健康でもそうです。体調が良くて快適に過ごせる時もあれば、病気やガンにかかったりすることもある。また交通事故に会ったり、階段から落ちてケガをすることもあります。愛する人と死別するということもあります。長く生きれば生きるほどいろいろな苦難や問題に会うのです。これが、私たちが生きているという現実なのではないでしょうか。キリストも「あなたがたは、世にあっては患難があります。」(ヨハネ16:33)と言われました。パウロも「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)と言いました。

私たちはこうして新年最初の日を迎えていますが、本当にすがすがしい気分になります。すべてが新しい。今年こそ日記を書くぞと思いますが、三日も過ぎればすっかり忘れます。新鮮な思いを脅かすような試練が襲ってくるのです。

 

それでは、こうしたさまざまな試練に会うとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか。ここでヤコブはこのように言っています。「それをこの上もない喜びと思いなさい。」何か書き間違ったのではないかと思うような内容です。試練に会うとき、私たちは辛く、悲しく思います。心が折れて落胆します。人生が終わってしまったのではないかと思う人もいます。ある人は、神がいるならどうしてこんな辛い目、苦しい目に遭わせるのか。神は私を愛していないのか、私がどうなっても構わないというのかと思う人もいるかもしれません。試練は、それほど辛く悲しく思われるものなのです。それなのにヤコブはここで「それをこの上もない喜びと思いなさい」と言いました。いったいどうしてでしょうか。

 

Ⅱ.信仰がためされると忍耐が生じる(3)

 

3節をご覧ください。「信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」どういうことでしょうか。これは、クリスチャンがこうしたさまざまな試練に会うのには目的があるということです。その目的とは何かというと、信仰がためされると忍耐が生じるということです。

 

ある若い牧師が年配の牧師に言いました。「先生。忍耐が身に着くように、私のために祈ってください。」

するとその年配の牧師が彼のためにこう祈りました。「神さま。どうかこの人に病気を与えてください。人間関係の問題も。あ、そうです、それだけでなく経済的にも困難を与えてください。貧しさを通ることができますように。ありとあらゆる苦しみを与えてください・・・。」

すると、その若い牧師が言いました。「先生、そうじゃなくて、私が祈ってほしいのは忍耐が身に着くようにということです。」

するとその年配の牧師が言いました。「忍耐は試練を通して身に着くものなんだよ。」

何とも含蓄のある言葉ではないでしょうか。長く生きた人の経験からにじみでてくる知恵です。忍耐は試練を通して養われ、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な人になることができるのです。

 

皆さん、大人と子どもの違いは何ですか。それは忍耐できるか、できないかということです。子どもは忍耐することができませんが、大人はできます。こうして毎週忍耐して私の話を聞いてくれていますが、大人だなぁと思います。その忍耐をいったいどうやって身につけることができるのでしょうか。試練です。信仰がためされることによってです。

 

忍耐という時にすぐに思いつくのは、旧約聖書に出てくるヨブです。このヤコブ5章10節、11節には、「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によってかたった預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられるということです。」とあります。ヨブは忍耐の人でした。彼がどのように忍耐したのか、その結末はどうだったのかをよく見るようにと言っています。ヨブはどのように忍耐したのでしょうか。

 

彼は神の祝福によってあらゆる面で豊かさを受けた人でした。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。七人の息子と三人の娘がおり、羊は七千頭、らくだは三千頭、牛五百くびき、ろば五百頭を所有し、非常に多くのしもべを持っていました。それで彼は東の人々の中で一番の大富豪でした。ところがある日、サタンが神のところにやって来て、こう言いました。「神さま。ヨブはあなたを信じているように見えますけどあればうわべだけです。彼があなたを信じているのはあなたが彼を祝福しておられるからで、もし試練に会ったらたちまちあなたを信じなくなるでしょう。だすから、どうぞ彼の財産を打ってください。そうしたら、彼はあなたをのろうに違いありません。」

「いや、ヨブはそのような人ではない。彼は心からわたしを信じている。だから、わたしを呪うようなことは絶対にない。」

「だったら神様、私に試させてください。」

「では、彼のすべての無持ち物をおまえの手に任せよう」ということで、サタンはまず彼の財産を奪います。しかし、サタンは財産だけでは足りないと、今度は子どもたちも奪っていきます。ヨブは当然嘆き、悲しみ、着物を引き裂きながらも、神の前にひれ伏して、こう言いました。

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。するとサタンは、今度は悪性の腫物でヨブの全身を打ちます。足の裏から頭のてっぺんまで、悪性の腫物ができて、もう体中かゆくて、かゆくてしょうがなく、土器のかけらで自分の身をかくほどで、体中が傷だらけになってしまいました。それを見た彼の妻はこう言いました。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ2:9)

ひどい妻ですね。こういう時こそ助けてほしいのに、神をのろって死になさいなんて、とんでもないことを言います。それでなくともさまざまな試練で苦しいのに、こうした妻のことばはどれほど彼を打ちのめしたかと思うのですが、それでも彼はこういうのです。

「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けたのだから、わざわいをも受けなければならない。」(ヨブ2:10)

そう言って、彼はそのようになっても、罪を犯すようなことをしませんでした。

すると、今度は友達がその様子を見て最初は同情的だったのですが、だんだんヨブにこんなに試練が襲いかかるのは、ヨブに何か問題があるからた、と言います。だれでも考えることですが、このような考え方はもっと自分を苦しめることになります。

しかし、それでもヨブは忍耐して神に従うと、最後に神ご自身が来られて彼に語りました。するとヨブは主に答えて言いました。

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(ヨブ42:5-6)

ヨブは自分がなぜこうなったのかわかりませんでした。最後まで分からなかった。なぜわからなかったのかというと、今まではうわさでしか神のことを聞いていなかったからです。しかし、今は違います。今はこの目で神を見ました。この耳で神のことばを聞きました。ヨブは、様々な試練を通して忍耐を学び、神がどれほど慈しみ深い方であるのかを体験を通して知ったのでした。

すると神は、ヨブを祝福しました。主はヨブの祈りを受け入れられ、彼の所有物も二倍に増やされました。主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福してくださったのです。

聖書は、このヨブの結末を見て、主が彼にしたことがどういうことだったのかを見なさいというのです。耐え忍んだ人は幸いなのです。

 

それは私たちの人生も同じです。いろいろな問題が起こります。さまざまな試練に会います。聖書には、イエスさまを信じたら試練がなくなるとは書いてありません。もし試練に会うならではなく、会うと言っているのです。いろいろなことが起こってきます。でも、神がヨブにした結末を見て、忍耐するようにと励ましているのです。試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。このことからもわかるように、神が私たちに試練を与えるのは、私たちを苦しめるためではありません。私たちがそれを通って忍耐を身に着け、完全な者となること、つまり、私たちの信仰の成長のためなのです。試練に会うことで私たちは自分の弱さを知ります。それまでは、自分は何でもできると思っています。しかし、試練に会うことで、自分にはどうすることもできないことがたくさんあるということを知るのです。その時私たちは何に信頼したら一番幸せなのかを学ぶことができます。そして神に信頼し始めるのです。問題の解決のために祈り始めます。そして、神からの解決を得ようと神のことばである聖書を開き始めるのです。もっと神に近づこうとします。そうすることで神は、私たちを霊的に強くしてくださるのです。

 

Ⅲ.完全な者となります(4)

 

最後に、その試練の結果を見て終わりたいと思います。4節をご覧ください。

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

試練の目的は信仰が試される時、その信仰が本物であるかどうかを証明することでした。信仰が本物だから救われるのではありません。救われるのはイエス・キリストを信じる信仰によってです。あなたがイエスさまを自分の罪からの救い主、人生の主として信じたのであれば、あなたは救われるのです。だんだん救われるのではありません。信じたその瞬間に救われます。死んだらすぐに天国行きです。そこで神の国を相続するのです。この事実は変わりません。もしあなたがイエスを信じたのであれば、あなたはもう救われているのです。そして、だれも父の手からあなたを奪い去る者はありません。神はその保証として御霊を与えてくださいました。エペソ1章14節にそのように約束されてあります。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」ですから、神の御霊、聖霊を受けているなら、必ず御国を受け継ぐのです。そして救われている者は、この神の聖霊によってどんな試練に会っても耐え忍ぶことができるのです。なぜなら、忍耐は御霊の実であるからです。忍耐は生まれながらの人にはありません。でもキリストを信じるなら、忍耐する力が生まれてきます。私たちは弱く、自分の力では忍耐することができませんが、私たちの内側におられる聖霊の力によって忍耐する力を与えてくださるのです。

 

その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者になることができます。ここにある「完全な者」とは全く罪のない人になるということではありません。完璧な人になるということでもありません。ここで言われている完全な者になるというのは、成熟した者という意味です。言い換えるならば、それは大人のクリスチャンになるということです。皆さん、私たちはどうしたら成熟した大人のクリスチャンになれるのでしょうか。信仰がためされることによって生じた忍耐を完全に働かせることによってです。そうすれば、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になるのです。

 

それはちょうどスポーツマンのようです。スポーツマンは練習量が多いと「嫌だな」と思うものですが、コーチの言うことを信じて忍耐しながら練習に励むことによって、以前の自分よりもはるかに強くなっていることがわかると、勝利を得る厳しい道に自分がしだいにふさわしい者になっていくと確信できるのでうれしくなります。それはクリスチャンも同じです。クリスチャンも信仰がためされることによって忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、自分が救いにふさわしい者であることがわかり、自分の信仰が強められていることを実感できるので喜びに溢れます。サタンは人を最悪に落とすために誘惑しますが、神は人から最善を引き出すために試練を与えるのです。ですから、ペテロが言っているように、信仰の試練は、火を通して精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの表れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかるのです。

 

イエスさまは、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10~12)と言われました。

ヤコブの教えは、イエスさまが教えられたことがベースになっています。イエス様は、義のために迫害されている者は幸いだ、と教えられました。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。そのことによって、その人が天の御国の民にふさわしい人であることがわかります。だから、喜びなさいと言われたのです。いや、喜び踊りなさいと言われました。

皆さんは喜んでいますか。喜び踊っていますか。皆さんが試練に会うとき、皆さんは天の御国が与えられていることを知ることができます。神の子とされ、神の国の相続人とされていることをはっきりと知ることができるのです。すばらしいことではありませんか。だから、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思わなければなりません。

 

パウロは、ローマ書の中でこう言っています。

「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5:3-5)

 

すばらしい約束ですね。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出します。試練の目的は信仰をためすだけでなく、私たちの信仰の成長のためでもあるということ、大人のクリスチャンにするためでもあるのです。

 

ですから、私たちもどんな試練に会っても、主に信頼して前進していきましょう。この新しい一年の歩みの中でもさまざまな試練に会うでしょう。そのとき私たちはどうすべきでしようか。それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、私たちは知っているからです。その忍耐を完全に働かせましょう。そうすれば、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた、完全な者となることができます。この一年が信仰の成長を遂げる年となりますように。さまざまな試練に会う時、それをこの上もない喜びと思うことができますように。主イエスの御名によって祈ります。