申命記31章

 きょうは、申命記31章から学びます。

 

 Ⅰ.新しい指導者ヨシュア(1-13

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない。」と言われた。あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。主は、主の根絶やしにされたエモリ人の王シホンとオグおよびその国に対して行なわれたように、彼らにしようとしておられる。主は、彼らをあなたがたに渡し、あなたがたは私が命じたすべての命令どおり、彼らに行なおうとしている。強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 

モーセは、神がイスラエル人と結ばせた新しい契約のことばを宣言しました。それは、彼らの神、主を愛し、主の御声に従うならいのちと祝福をもたらし、もし、彼らが心をそむけて、主の御声に聞き従わず、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、死とのろいをもたらすというものでした。

 

それからモーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて言いました。2節です。

「私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、『あなたは、このヨルダンを渡ることができない』と言われた。」

「出入りができない」とは戦いができないという意味です。なぜでしょうか。神によって、このヨルダン川を渡ることができないと言われたからです。どうして主はモーセに、ヨルダン川を渡ることができないと言われたのでしょうか。それは彼が百二十歳という高齢になって体力がなくなったからではありません(34:7)。それは、過去において、あのメリバで水を求めたイスラエルの民に対して彼が怒りをあらわにし、神が岩を打ちなさい(一度)と命じたのにもかかわらず、二度も打ってしまい、神を聖なる者としなかったからです。(民数記20:1-13)彼は怒りのゆえに、神のみことばに正確に従わず、自分の思いのままに走ってしまいました。それで彼は約束の地に入れないと宣言されたのです。

このようなことが私たちにもよくあります。自分の感情に流され神のみことばからずれてしまうことが・・・。そういうことがないように注意しなければなりません。

 

しかし、たとえ、モーセがカナンの地に入って行くことができなくても、神が彼らの先に渡って行かれ、エモリ人の王シホンやオグになさったように、カナン人を滅ぼしてくださいます。それゆえ、彼らを恐れてはなりません。6節のみことばをご一緒に読みましょう。

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

本当に力強い言葉です。あなたが今、恐れていることはどんなことですか。不安に思っていることはどんなことでしょうか。それがどのようなことであっても恐れてはなりません。おののいてはなりません。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進んでくださるからです。

 

7節と8節をご覧ください。ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の前で、同じように言って、彼を激励しています。モーセはいなくなりますが、神の計画はヨシュアという新しい指導者が立てられ、彼をとおして成し遂げられていくのです。

 

次に9節から13節までを見てください。

「モーセはこのみおしえを書きしるし、主の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。そして、モーセは彼らに命じて言った。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、主の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行なうためである。これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」

 

モーセは、律法を記録して、それをレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちに授けました。ここで言うみおしえが、モーセ五書全部を指すのか、申命記の核心的な内容を意味しているのかは明らかではありません。しかし、一つだけ明らかなことは、この中には神との契約締結に必要な内容が全部含まれていることです。そしてモーセは、彼らがカナンの地に入って行ったら、七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、主を礼拝するためにやって来る時に、このみおしえの書を読んで聞かせなければなりませんでした。

 

仮庵の祭りは、イスラエル人がエジプトを出た後の40年間を荒野で過ごしたことを思い出し、無事に約束の地に入ることができたことを仮の住まいに住むことによって思い出すために行いました。そしてそれはまた、主イエスが地上に来てくださり、「仮庵となられた」ことを喜ぶものでした。それによって神と人との和解をもたらされたからです。

そしてそれはまた、その年のすべての収穫の完了を祝う祭りでもありました。救いの完成のひな型でもあったのです。それはキリストの再臨によってもたらされる千年王国を指し示すものでもあったのです。

 

ですから、仮庵の祭りは、エジプトで仮庵(テント)で暮らしたことの記念から始まり、この地上に住まわれ神との和解をもたらしてくださったキリストと、やがて千年王国が到来する喜び、そのすべてがつながっている喜びの祭りなのです。その祭りにおいて、このみおしえが読まれなければなりませんでした。それは、12節にあるように、男も女も、子どもも、彼らの町囲みの中にいる在留異国人もみな、このみおしえを読んで聞いて学び、彼らの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うためです。

 

私たちはどれほどこのみおしえを聞いて学んでいるでしょうか。このみおしえを喜び、これを守り行い、主を恐れているでしょうか。私たちは新年度も聖書通読に力を入れますが、それはまさにこのためであることを覚え、喜んで聞き従っていく者でありたいと思います。

 

Ⅱ.主のあかし(14-23


 次に、14節から18節までをご覧ください。

「それから、主はモーセに仰せられた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、ふたりで会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」それで、モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。主は天幕で雲の柱のうちに現われた。雲の柱は天幕の入口にとどまった。主はモーセに仰せられた。「あなたは間もなく、あなたの先祖たちとともに眠ろうとしている。この民は、はいって行こうとしている地の、自分たちの中の、外国の神々を慕って淫行をしようとしている。この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら、その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか。』と言うであろう。彼らがほかの神々に移って行って行なったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。」

 

ヨシュアを新しい指導者として立てたモーセは、ヨシュアとともに会見の天幕に立ちました。すると主は会見の天幕の雲の柱のうちに現れて仰せられました。それはイスラエルの民が外国の神々を慕って淫行(偶像崇拝)をしようとしていること、そしてそのようにして神と結んだ契約を破るなら、神の怒りが燃え上がり、彼らを滅ぼし尽くすというものでした。これはイスラエルの民の偶像崇拝を未然に防止するための神の警告でした。その日、イスラエルの民は、「これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからだ。」と言うようになりますが、それは反対です。神がおられるから、そのようなことが起こるのです。時として私たちも同じようなことを言ってしまうことがありますが、注意したいものですね。それは神がいないからではなく、神がおられるから、神がおられるから、そのようなことが起こるのだということを。

 

19節から22節までをご覧ください。

「今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。」

 

神は、イスラエルの民が、ご自分が言われたことを思い起こさせるのに、歌という方法を用いられました。それはイスラエル人に対する主のあかしです。彼らが約束の地に入り、そこで食べて満ち足り、肥え太り、ほかの神々のほうに向かい、神との契約を破り、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかるとき、それがこうした理由からだということを彼らが知るためです。

 

それにしても、モーセの死の直前の最後の仕事は歌を書き記すことでしたが、その歌はのろいがもたらされたことを思い起こさせるための歌でした。何とも悲しいことでしょう。しかし、私たちには、人にいのちを与えるところの務めが与えられていることを覚えて感謝したいと思います。

 

23節をご覧ください。

「ついで主は、ヌンの子ヨシュアに命じて言われた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」

最後に神は、カナンの地に入るヨシュアに対して、もう一度「強く荒れ。雄々しくあれ」と言って、励ましています。

 

Ⅲ.あなた道を主にゆだねよ(24-30

 

最後に24節から30節までを見て終わりたいと思います。

「モーセが、このみおしえのことばを書物に書き終えたとき、モーセは、主の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。「このみおしえの書を取り、あなたがたの神、主の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは主に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。あなたがたの部族の長老たちと、つかさたちとをみな、私のもとに集めなさい。私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語りたい。私は天と地を、彼らに対する証人に立てよう。私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行ない、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。」モーセは、イスラエルの全集会に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。」

 

モーセは、そのみおしえの書を書き終えると、契約の箱のそばに置くようにとレビ人たちに命じました。なぜでしょうか。それは、それが神との契約であったからです。そのようになさったのは、イスラエルの民がかたくなで、うなじのこわい民であることを神が知っておられたからです。神は、16節のところで既に、イスラエルの民が、モーセの死後に、神を捨てることを語られました。モーセもエジプトを出てからこのヨルダン川に至るまで、いやというほど、経験して、よく知っていました。ですから、モーセは最後に、彼らが堕落することと、道から反れて主を怒らせるようになることを預言しているのです。

 

これはイスラエルのことだけでなく、私たちにも言えることです。私たちもこれまでもそうでしたが、いつも主の道から反れて自分勝手に歩みやすいものです。いつも堕落して、神の道から離れてしまうのです。ひどいことに、そのことにすら気付かないことが多いのです。ですから、いつも自分の感情や思いではなく、主のみおしえに歩まなければなりません。

 

パイロットが飛行訓練学校で訓練を受けるとき、教官はつねにこう強調するそうです。「操縦席についたら、決して自分の感覚を信じるな。特に悪天候の中で飛行するときや高度が上昇するとき、それに空中で航路からそれてしまったときは、なおさらだ。そのときは計器を信じるんだ。」

あるパイロットが訓練を終えて実際の飛行をしていました。彼は飛行感覚については自信がありました。訓練によって飛行感覚を身に着けていたからです。ある日、飛行中に思わしくない天候にあい、前後の見境もつかないほどの深い霧の中に閉じ込められてしまいました。彼は自分の飛行知識のすべてをかき集めましたが、次第に五里霧中に陥ってしまいました。方向さえもわからなくなってしまったのです。そのとき、飛行学校で教官が言っていた言葉を思い出しました。

「計器を見ろ。計器を信じてそれに従え。」

自分の感覚と計器の表示はまるで違っていました。しかしこのパイロットは計器を見ながら方向と高度を把握し、落ち着いて操縦したので、すぐにその状況を抜け出すことができました。

私たちの人生にも、悪天候に見舞われることがあります。そんなとき、自分の知識と自分の感覚は問題解決の役には立ちません。かえってそのような慣れた経験が、その問題をさらに深みにはまり込ませてしまうことがあります。

私たちの人生の計器は私たちではありません。私たちの人生の正しい計器は、神のみことばなのです。今あなたが困難な悪天候に見舞われているなら、過去の経験を思い起こす前に、他の人たちの意見を聞く前に、奥まった部屋に入り、計器の数値を示してくださる神に祈り求めてください。そして、そのまま従ってください。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を 認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6