きょうは、ヤコブの手紙の後半の箇所から「生きた信仰」というタイトルでお話します。ヤコブは1章で、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて、みことばを実行する人になりなさい、と勧めました。そして、その具体的な実践の一つとして、人をえこひいきしてはいけないということを取り上げました。きょうのところでも、信仰が生きたものとなって全うされることを勧めています。ここには、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(24)とあることから、信仰による義を強調していた宗教改革者マルチン・ルターは、このを「藁の書」と言ったほどです。しかしここでは、信仰か行いか、どちらかということを述べているのではなく、本当のクリスチャンの信仰生活には、信仰も行いもあるはずだということが強調されているのです。きょうは、行いが伴った本当の信仰、生きた信仰についてお話ししたいと思います。
Ⅰ.死んだ信仰(14-17)
まず、14節から17節までをご覧ください。ここでヤコブは死んだ信仰について語っています。
「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」
私たちの間に、実質の伴わない、言葉だけの信仰話がしばしばなされることがあります。ヤコブはここで、「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と言っています。ここで重要なのは、「自分には信仰があると言っても」の「言っても」です。「私は神を信じています」と言うことと、実際にその人に信仰があるかどうかは、別問題なのです。
このことについて、イエスさまは次のように警告されました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)また、ヨハネの福音書2章にも、「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。」(ヨハネ2:23-24)とあります。ということは、イエスさまを信じても、イエスさまがご自身をお任せになれないような信じ方があったということを示唆しています。しかもここには「多くの人々が」とありますから、多くの人々がそのような信じ方をしているということなのでしょう。神との関係が確かなものであれば、それがその人の中に働いて、必ず悔い改めにふさわしい実を結びますが、そうでないと、それが実となって現われることはないのです。
ヤコブはその具体的な例として、15節から17節までのところで次のように言っています。
「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」
ここでも、「と言っても」が問題となっています。「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えないなら、何の役にも立ちません。そのような信仰は死んでいる信仰なのです。すなわち、それは無きに等しい信仰であり、全く無意味なのです。
ちょっと待ってください。私たちは何かをしたから救われたのではなく、神の恵みのゆえに、信仰によって救われたのではないのですか。パウロはエペソ人への手紙の中で、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と言っています。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。それなのに、そのような信仰は無意味だとか、死んでいるというのはおかしいのではないでしょうか。
確かにパウロは、私たちが救われるのは神の一方的な恵みによるのであり、行いによるのではないことを強調しています。私たちが神に受け入れられるのはキリストの義を土台にしているのであって、私たちの行いによるのではありません。それが聖書の真理です。しかし、そのようにして始められた救いの御業は必ず行いとなって現われるのであって、行いが伴っていないとすればその信仰は死んだものであるか、その信仰に何らかの問題があるかなのです。というのは、パウロはそのエペソ人への手紙の中で続いてこう言っているからです。
「私たちは神の作品であった、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:20)
パウロは、私たちは恵みのゆえに、信仰によって救われると述べた後ですぐに、それは良い行いをするためだと言いました。つまり、パウロもヤコブも同じ行いの伴う信仰について語っていたのです。勿論、身体的、精神的、その他の理由でしたくてもできない場合もあります。しかし、そうしたケースは別として、自分には信仰があると言っても、それが単なる口先だけの、言葉だけの信仰であるとしたら、そのような信仰は死んだものであり、全く意味がないものなのです。
Ⅱ.見せることができない信仰(18-19)
次に、18節と19節をご覧ください。
「さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
ヤコブはここで、次の話題に入っています。それは、見せることができる信仰についてです。信仰そのものは、目に見えないものですが、信仰の行いは見ることができるのであって、もし見せることができないとしたら、その信仰は偽善的な信仰なのです。
多くの人が、信じているけれどもその信仰を見える形で示すことはできないと言いますが、それは正しくありません。というのは、その信仰は行いによって現わされるからです。たとえば、皆さんは今安心して椅子に座っていますが、なぜ安心して座っていることができるのでしょうか。そう信じているからです。この椅子は絶対に壊れないと疑うことなく信じているからこそ座っているのであって、もし壊れるかもしれないと思っていたら怖くて座ることができないでしょう。壊れないと信じているからこそ座るのです。つまり、座るというその動作の中に、その人の信仰が現われているのです。言い換えるならば、その人の行いを見れば、その人が何を信じているかがわかるということです。信仰には、行いをもたらす力があるからです。ですから、その人が何を信じるかということはとても重要なことなのです。
これはたとえ話ですが、世界的に有名な天才的な綱渡り師がいるとします。彼はこれまでどんな困難なところでも一度も失敗したことがなく渡ることができました。そして、今、目の前の崖から崖に一本の綱が張られていて、それをだれかをおんぶして渡るとします。彼は見ている人に聞きます。「向こう側に渡れると思う人?」すると全員が手を上げます。そこで彼は続いてこう尋ねます。「それでは自分におんぶしてもらってもいいと言う人?」すると誰も手を上げません。なぜなら、もし誤って落ちてしまったら自分のいのちはないからです。すなわち、信じているようでも、本当に信じていないのです。本当に信じるとは、実際に彼におんぶしてもらうという行為に現れます。本当に信じているなら、その信仰を見せることができるのです。
そして、見せることができない信仰とはどのようなものかを、ヤコブは19節でこう言っています。「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」
「神はおひとりだと信じています。」これは申命記6章4節のみことばです。そこには、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)とあります。これはユダヤ人の信仰告白です。ユダヤ人は今でもこのみことばを安息日ごとに告白しています。これはユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙ですから、ヤコブはあえてこのみことばを取り上げたのでしょう。それは私たちで言うならば、イエスがキリストであり、救い主であると告白するようなものです。このように告白することはすばらしいことです。なぜなら、そのように心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。
しかし、驚くなかれ、悪霊どももそう信じているのです。悪霊どもは確かに神の存在を信じており、またキリストが神の子であることも信じています。マルコの福音書3章11節、12節には、「また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、あなたは神の子です、と叫ぶのであった。」とあります。そればかりか、「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」(ルカ8:31)とあります。つまり悪霊は、キリストがさばき主であり、最終的な刑罰の場所があることも信じているのです。そして悪霊どもはそう信じて、身震いしているのです(マルコ1:23-24)。
しかし、信じて身震いすることと、神の救いを受け入れて救われていることとは全然違います。本当の信仰とは、神の救いについての正しい知識を得て、それを受け入れることです。パウロはこのことを新しい創造と呼んでいます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)つまり、新しく生まれ変わる新生の体験なのです。
前回の申命記の学びで、「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(申命記30:6)というみことばを学びました。いったいイスラエルはどうすれば心を尽くし、精神を尽くして、主を愛し、主に従うことができるのか。それは彼らの心を包む包皮を切り捨てることによってです。心を包む包皮とは、肉体の割礼に対する心の割礼のことです。イスラエルの民は、彼らが神の民であることのしるしとして、生まれて八日目に割礼を受けました。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることです。それはユダヤ人にとっては神の民であることのしるしとしてとても重要なものでした。それは、ユダヤ教に改宗する人たちにも求められていました。けれども、彼らがどんなに肉体の割礼を受けても意味がありません。なぜなら、それはただ形式的なことであって、それだけで心を尽くして神に従うことなどできないからです。彼らが神に従うためにはそうした肉体の割礼ではなく、心に割礼を受けなければなりませんでした。心を包む皮を切り捨てなければならなかったのです。
それは私たちにも言えることです。私たちがバプテスマを受けても、それがただの形式的なものであるならば救われることはなく、私たちが救われるために必要なのはキリストを信じる信仰によって、私たちの心が神の御霊によって新たく生まれ変わることによってなのです。それが心の割礼であり、新しい創造なのです。そのような新しい創造を体験した者は、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)とあるように、全人格的、全生涯的にキリストを受け入れて生きるようになるのです。
「行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。」と言われても、死んだ信仰にはいのちがないのですから、見せようにも見られません。しかし、ヤコブはここで、「私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」と言っています。それは決して高慢になって行っているのではなく、そうした偽善的な信仰に対する彼のチャレンジであり、悔い改めと神への従順を求める神からのメッセージなのです。
Ⅲ.生きた信仰(20-26)
次に、20節から26節までをご覧ください。
「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」
信仰と行いを分離して、一方がなくても他方があるからと反対する人たちに向かって、ヤコブは、信仰と行いとは不可分のものであることを旧約聖書の二人の人物を取り上げて、さらに説明を加えています。その二人とはアブラハムとラハブです。
ユダヤ人にとって、アブラハムは信仰の父でした。ヤコブによると、そのアブラハムが義と認められたのはいつのことであったかというと、彼がその子イサクを神にささげた時であったと言っています。彼はその行いによって義と認められたというのです。
しかし、創世記を見ると、アブラハムが義とみなされたのは創世記15章6節の時点であって、その時なはまだイシュマエルもイサクも生まれていませんでした。人間的に考えれば、アブラハムに子どもが生まれ、その子孫が天の星のようになるという神の約束が実現することが、全く考えられない時でした。それにもかかわらず、アブラハムは神の約束を信じたのです。主はそれを彼の義と認められました。ローマ4章3節やガラテヤ3章6節でパウロが言っている「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」ということばは、この時のことです。
しかし、ヤコブが「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」(21)と言っているのは、それから三十年も後の創世記22章の出来事なのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。これは、創世記15章6節で、その信仰が義と認められたということばが、22章のイサクをささげたという行いによって実証されたということです。ですから、行いによって義とされたということが救われるための条件としてではなく、義と認められる信仰は、行いによって証明されるということを意味しているのです。
22節を見ると、「彼の信仰は彼の行いとともに働いた」とありますが、それはこのことを表わしています。元々、アブラハムが生まれ故郷のウルの町を出た時も、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)という神の召しに応答してのことでした。アブラハムの信仰はただ神を信じるというものでしたが、それは生きた神との交わりを通して育まれ、行動となって現われていきました。彼はたくさん失敗もしましたが、それでも神が恵みをもって祝福してくださったので、神への信頼が増していきました。その結果として、神からあなたの愛するひとり子をささげなさいと命じられた時も、神はイサクをよみがえらせることができると信じて、その命令に従うことができたのです。
ここには、「彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ」とありますが、これは、彼の信仰がその行いによって証明されたという意味です。アブラハムの信仰は、イサクをささげるという神への全き服従によって全うされたのです。このように全うされる信仰とは、神の約束のことばを土台として、そのみことばを受け入れ、そのみことばに生きることによって、捨て身になって神に信頼する信仰なのです。その時に、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼が神の友と呼ばれたように、私たちの中にも神の義が全うされるようになるのです。
そして、もうひとりの人は遊女ラハブです。彼女については次のように紹介されています。25節です。
「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。」
彼女については、ヨシュア記2章に記されていますが、彼女について特筆すべきことは、彼女がカナン人、つまり異邦人であったこと、しかも遊女であったということです。神の救いは決して、その人の素性や行いによって妨げられるものではないことがわかります。しかし、いったいなぜここでわざわざ遊女ラハブのことが取り上げられているのでしょうか。アブラハムならわかります。彼は信仰の父であり、神の友と呼ばれた人物です。しかし、彼女は異邦人であり、遊女でした。そんな彼女がわざわざ取り上げられているのには一つの理由があります。それは、彼女がアブラハム同様、行いによって義と認められた者であるということです。つまり、行いによって、その信仰が全うされた、証明されたということです。いったい彼女はどのようにその信仰を全うしたのでしょうか。
25節には、彼女は、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、とあります。彼女は自分の命の危険を冒してイスラエルの使者たちを招き入れ、招き入れただけでなく、別の道から送り出しました。いったいなぜ彼女はそこまでしたのでしょうか。ヨシュア記によると、彼女はイスラエルにはまことの神がおられ、その神がカナン人を滅ぼされる計画を持っておられるということを知っていたからでした。つまり、彼女は、その方こそ救い主であると信じていたので、その使者たちをかくまい、自分と自分の家族を救ってほしいと頼んだのです。その信仰がそうした行いとなって現われていたのです。
結論として、ヤコブはこう言っています。26節をご覧ください。
「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」
死とは、からだからたましいが離れることです。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は死んでいるのです。
皆さんの信仰はどうでしょうか。たましいを離れたからだのようにはなっていないでしょうか。私たちは、神の一方的な恵みによって救われました。しかし、本当に神の恵みによって救われたのなら、そこには必ず行いが伴うはずです。もっと神を愛し、神に従い、神のみ旨にかなった歩みをしたいという思いが溢れてくるはずなのです。もしそうでないとしたら、もう一度自分の信仰を吟味し、本当に救いの信仰を持っているのかどうかをよく調べてみる必要があるのではないでしょうか。
「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(Ⅱコリント13:5)
そして、行いの伴った信仰、救いに至る信仰を全うしようではありませんか。