申命記32章

きょうは、申命記32章から学びます。

 

 Ⅰ.ひとみのように守られる主(1-14

 

 まず1節から14節までをご覧ください。1節から4節までをお読みします。

「天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。私が主の御名を告げ知らせるのだから、栄光を私たちの神に帰せよ。主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」

 

 モーセは、イスラエルの全会衆に聞こえるように、神のことばを歌によって語りました。その内容がこの章に記されてあります。1節には、「天よ。耳を傾けよ。地よ。聞け。」とあります。30:19節や3128節にも、天と地が証人として立てられるとありました。天と地が神とイスラエルの間に結ばれた契約の証人です。それは、これからモーセが歌う内容がいかに重要であるかを示しているものです。

 

 2節には、モーセの教えは、雨のように、露のようにしたたり、若草の上の小雨のように、青草の上の夕立のように下る、とあります。これは、これからモーセが語ることが、雨のように、また露のように、さらには若草の上の小雨のように、また青草の上に下る夕立のように必ず下ることを表わしています。

 

 3節では、主の御名を宣言し、栄光を神に帰すように言っています。なぜ主に栄光を帰さなければならないのでしょうか。それは4節にあるように、主は岩のように堅く、変わることがなく、強いので、本当により頼むことができる方だからです。また、その道は正しく、真実であられるからです。

 

それに対して人間はどうでしょうか。5節と6節をご覧ください。

「主をそこない、その汚れで、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。あなたがたはこのように主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。」

 

イスラエルは(人間は)神に向かって悪を行い、「主の子らではない」よこしまで曲がった世代です。また、彼らは愚かで知恵のない民です。なぜなら、彼らは主によって造られたのに、その主を見捨ててしまうからです。

 

ですから、そんなイスラエルに求められていたことは何かというと、昔のことを思い出すことです。そうすれば、主がどれほどあわれみ深い方であり、真実な方であるかがわかるからです。

 

7節には、「昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。」とあります。「昔の日々」とは、イスラエルがエジプトから救い出された日のこと、また、その後40年間荒野を通ってここまでやって来たその全行程のことです。そのことを思い起こし、そのことを彼らの先祖に問うなら、彼らは次のようにあなたに話してくれるだろう、というのです。8節から14節までをご覧ください。

 

「いと高き方が、国々に、相続地を持たせ、人の子らを、振り当てられたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、国々の民の境を決められた。主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い、牛の凝乳と、羊の乳とを、最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、小麦の最も良いものとともに、食べさせた。あわ立つぶどうの血をあなたは飲んでいた。」

 

ここには、主がいかにイスラエルを守って来られたのかがふんだんに語られています。まず、主は彼らとの契約に従って相続地とそれぞれの部族に割り当ての地が与えられます。それがもうすぐ起ころうとしているのです。ヨルダン川の東側の一部は既に分割されました。しかし、これからがその中心です。それも確実に行われようとしているのです。

 

そればかりか、イスラエルがここに来るまで、主はずっと彼らを守ってくださいました。主は獣のほえる荒野で彼らを見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られました。11節には、神の守りを、あたかも鷲が自分のひなを育てて、ひなが巣立ちすることができるように行なう飛行訓練にたとえています。親鷲は、巣をゆすって、ひなが巣から落ちるようにさせると、ひなは必死になって羽をばたつかせますが、それを追いかけて、ひなが地面に落ちる前に自分の翼を広げてこれを取り、守ります。そのように神は、イスラエルを守って来られたと言っているのです。これらすべてのことは、神がお一人でなされたことです。そして13節と14節では、将来カナンの地でイスラエルが、どのように豊かな神の供給を受けるかを預言しています。「岩からの油」というのは、岩地に生えているオリーブの木のことす。イスラエルでは今も、岩がごろごろしているところに、オリーブの木がたくさん生えています。主はこのようにしてイスラエルを守り、導いてこられたのです。まことに主は岩です。そのみわざは完全であり、主の道はことごとく正しいのです。

 

それなのに彼らはどうしたでしょうか。15節から18節をご覧ください。

「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。彼らは異なる神々で、主のねたみを引き起こし、忌みきらうべきことで、主の怒りを燃えさせた。神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ。あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。」

 

「エシュルン」とは、古来のイスラエルの名称です。そのエシュルンが、約束の地における主からの祝福によって、おいしい食べ物を食べ、赤いぶどう主を飲んで肥え太ったとき、彼らは、これを与えてくださった神に感謝するどころか、神を捨て、自分の救いの岩を軽んじるようになります。そして偶像の神々に仕え、神のねたみを引き起こし、彼らを産んだ創造主なる神をおろそかにするのです。彼らは真実な神の前に出るより、この異邦の神、憎むべき偶像に仕えるのです。貧しさや苦しみの中にいる時よりも、豊かさの中にいる時の方が、神を忘れやすくなるのです。

 

それは私たちにも言えることではないでしょうか。人は豊かさの中で、神の恵みを忘れ、この世の偶像に走ってしまう傾向があります。自分の救いを軽んじてしまいやすいのです。そういうことがないように、いつも神のご性質を覚えておかなければなりません。そのためには、自分たちが昔どのような状態であったのか、そして、そこから神がどのようにして救い出してくださったのかを思い出さなければなりません。親鷲がそのひなを育てる時に胸に抱いて育てるように、私たちを大切に守り、育ててくださったことをいつも思い出し、主の恵みに留まっているなら、神を捨てることは起こらないのです。

 

Ⅱ.神の怒り(19-33


 そのようなイスラエルに対して、神はどのようにされるでしょうか。19節から33節までをご覧ください。まず25節までをご覧ください。

「主は見て、彼らを退けられた。主の息子と娘たちへの怒りのために。主は言われた。「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。わたしの怒りで火は燃え上がり、よみの底にまで燃えて行く。地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。わざわいを彼らの上に積み重ね、わたしの矢を彼らに向けて使い尽くそう。飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきば、これらを、地をはう蛇の毒とともに、彼らに送ろう。外では剣が人を殺し、内には恐れがある。若い男も若い女も乳飲み子も、白髪の老人もともどもに。」

 

イスラエルが神を捨てたので、神も怒りに燃えてイスラエルを捨てられました。20節では、「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。」と言っておられます。神がこのように言われるのは、イスラエルがまことの神を裏切り、まことの神に対して誠実でなかったからです。また、彼らが神ではないもの、すなわち偶像の神に走ったので、神のねたみを引き起こし、主をそこなうむなしいことで、主の怒りを燃えさせたからです。その怒りの火はよみの底まで燃えて行き、地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払うことになります。その怒りによってイスラエルには飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきばといったものを、地を這う蛇の毒とともに彼らに送り、国の内外に殺戮と恐れが溢れるようになるのです。イスラエルの歴史の中で、このことが起こりました。B.C.586年にはバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民として連行されました。また、A.D.70年にはローマによって滅ぼされ、世界中に散らばる離散の民となりました。

 

捨てられるということは悲しいことです。私たちは、時々親に捨てられた子供たちの話を聞きます。幼い頃、家族から受けた傷のせいで一生を暗闇の中で過ごした人の話も聞きます。また、職場や学校で仲間はずれにされたという話も聞きます。聖書の話は捨てられた人たちの話です。家族から捨てられ、友達から捨てられ、人々や弟子たちからも捨てられた人たちの話がいっぱい書かれているのです。そして、イスラエルも自分たちの罪のために神に捨てられました。しかし、神はそんな彼らを捨てて終わりではありません。その回復の道をも用意してくださいました。それが救い主イエス・キリストです。イエス様は、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来たのです。」(マルコ2:17と言われましたが、イエス様の愛はいつも捨てられた者たちに向かって流れ、失われた人たちに向かって広がっています。イエス様の愛は家族に捨てられ、友達から疎外され、社会から隔離された人たちに向かっているのです。イエス様こそ私たちにとっての神の知恵であり、また、義と聖めと、贖いとなられたのです。(Ⅰコリント1:30

 

そんな神の愛は、神を捨て、自分勝手な道を歩んだイスラエルにも向けられています。26節から33節をご覧ください。

「わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。・・彼らの仇が誤解して、「われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。」と言うといけない。まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。 ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。」

 

神はイスラエルを粉々にし、彼らを人々の記憶から消し去ってしまうことはありません。つまり、神は彼らを滅ぼし尽くされることはないのです。なぜなら、もしそんなことをしたら、敵が誤解してこういうようになるからです。「われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。」27)ですから、イスラエルが正しいからではなく、ご自分の真実さのゆえに、イスラエルを滅ぼし尽くすことをせず、イスラエルに対する約束を実現されるのです。

 

28節の「彼ら」とは「イスラエルの民」のことです。「彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。」なぜなら、もしも彼らに知恵があったら、彼らは自分の終わりのことを悟ることができたであろうからです。しかし、できませんでした。知恵がなかったからです。

それは私たちも同じです。私たちも何度も同じ過ちを犯してしまうのは、知恵がないからです。いつも目先のことしか考えられません。自分が行なっていることの結果をよく考えていたのなら、偶像を拝むとか、神を捨てるといった愚かなことはしなかいでしょう。それなのに、すぐにそのことを忘れてしまうため、それが愚かなことだとわかっていても繰り返してしまうのです。

 

また、もし私たちが何かで成功したり、祝福されたりすると、すぐにそれを自分の手柄であるかのように思い込んでしまいます。しかし、それはその背後に主がおられ、主が勝利をおさめておられるからなのに、そのことも忘れてしまいます。30節には、「彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。」とあります。ギデオンが数万人のミデアン人に対して300人の兵士だけで勝つことができたのは、また、ヨナタンと道具持ちが、たった二人で、ペリシテ人の陣営に入り込むことができたのは、主がともにおられたからです。イスラエルが周囲の敵に勝利することができたのは、主が彼らを売らず、主が彼らを渡さなかったからなのです。そのことは敵も認めていることです。敵も、イスラエルの神のほうが、自分たちよりもずっと力強いということを知って、認めています。それなのに、イスラエルはそのことを忘れ、自らわざわいを招いてしまうのです。彼らの中に毒ぶどうがあったり、そのふさに苦みがあったり、そのぶどう酒が蛇の毒であったりするのはそのためです。

 

とても遠い道のりを歩いて来た人に新聞記者たちが、一番苦しかったことは何ですか、と尋ねました。

「一番苦しかったことは、暑い太陽の下で、水のない荒野を一人で歩くことでしたか。」

「いいえ、違います。」

「それでは、最も急で険しい道を苦労しながら上ったことですか。」

「いいえ、違います。」

「それでは寒い夜を過ごすことでしたか。」

「違います。」

するとその旅人はこう答えました。

「そんなことは全然苦になりませんでした。実際、私を一番苦しめたのは、私の靴の中に入っていた小さな砂でした。」

私たちを苦しめるのは何か大きな罪の行いよりも、私の中で解決されずに残っている小さなくずのようなものなのです。神を神とせず、自分の思いで突っ走って行こうする思いなのかもしれません。それが大きなわざわいをもたらすことになるのです。ですから、自分の中に主を認めようとしない思いはないかどうかを、時間を割いて点検しなければなりません。そして、それをきれいにすっかり洗い流してしなわなければなりません。

 

Ⅲ.神のあわれみ(34-52

 

しかし神は、そんなイスラエルをいつまでも捨ておかず、やがて回復してくださると約束されます。34節から52節までをご覧ください。34節から43節までをお読みします。

「「これはわたしのもとにたくわえてあり、わたしの倉に閉じ込められているではないか。復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。主は言われる。「彼らの神々は、どこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。彼らのいけにえの脂肪を食らい、彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、あなたがたの盾とならせよ。今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。まことに、わたしは誓って言う。「わたしは永遠に生きる。わたしがきらめく剣をとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは仇に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いよう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食わせよう。刺し殺された者や捕われた者の血を飲ませ、髪を乱している敵の頭を食わせよう。」諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。」

 

34節から35節までの「」のことばは、神ご自身が直接語っておられることばです。神はそんなイスラエルを懲らしめるために他の異邦の民族を用います。しかし、そんな彼らに対しても責任を問われ、復讐される時が来るのです。主は、「復讐と報いはわたしのもの」35)と言われ、「主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。」36)と言われます。彼らの力が失せ、これまで自分が頼みとしていたものがあてにならないということがわかり、本当にへりくだって、主に立ち返るとき、イスラエルの民はまことの神が主であるということを知るようになるのです。

 

「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。」(39

 

そして主は敵に復讐をし、ご自分の民の贖いをされるのです。神は怒りの中にあっても、ご自分の民を忘れるような方ではなく、あわれんでくださる方なのです。これはイスラエルの歴史の中で成就した預言ではありますが、最終的にはキリストの再臨によって成就します。その時キリストは敵に対してことごとく勝利され、この地上における千年間の間統治される神の王国をもたらされます。

 

Ⅳ.いのちのことば(44-52

 

44節から47節までをご覧ください。

「モーセはヌンの子ホセアといっしょに行って、この歌のすべてのことばを、民に聞こえるように唱えた。モーセはイスラエルのすべての人々に、このことばをみな唱え終えてから、彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」

 

モーセとヨシュアは、これらの歌をイスラエルの民に聞かせた後、イスラエルの民に、これらのことばを心に納めるように命じ、このみおしえのすべてのことばを守らせるように言っています。(46)なぜならこれは彼らにとってむなしいことばではなく、彼らにいのちを与えることばであるからです。まさにこれはいのちのことばなのです。

 

そして48節から52節までには、このすべてのことばを語り終えたモーセに対して、主が命じられたことが記されてあります。

「この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。」

 

それは、ネボ山に登り、神がイスラエルに与えて所有させようとしているカナンの地を見るように、ということでした。彼はそこで死に、イスラエルの民に加えられます。彼はカナンの地を見ることができましたが、そこに入ることはできませんでした。それは、イスラエルがかつてエジプトを出てツィンの荒野をさまよっていたとき、メリバデ・カデシュの水のほとりで、主に対して不信の罪を犯し、主を聖なるものとしなかったからです。

 

この出来事についてはすでに何度も触れてきましたが、モーセが、主から、「岩に命じなさい」と言われた時、一度ならず二度も打ってしまったことです。それはモーセがイスラエルの民の不平不満に対して憤ったからであり、神の命令に背いて、罪を犯したからでした。

 

私たちの感覚からすれば、たった一度の間違いで、約束の地に入ることができなかったというのはあまりにも厳しいのではないかと思えますが、それが律法です。律法は一点でも違反すれば、律法全体を違反したことになります。(ヤコブ2:10)モーセはこの律法の代表者でした。ですから、このモーセがイスラエルにもたらしたものが何であるかがわかると、このことも理解できます。つまり、確かに神の律法は良いものですが、それは私たちを神の元へと導く養育係であって、この律法によって救われることはできないということです。ですからモーセは、約束の地にはいることができなかったのです。

 

では、誰が約束の地に導くのでしょうか。それは彼の後継者ヨシュアでした。ヨシュアはキリストの型です。ヨシュアをギリシヤ語にすると「イエス」になります。すなわち、約束の地に入るためには律法の行ないによってではなく、この救い主キリストを信じる信仰によってであり、それは神の一方的な恵みによるのです。