ヤコブ3章1~18節 「舌を制御する」

きょうは、ヤコブの手紙3章から学びます。ヤコブは2章で、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(17)と、行いが伴った信仰、生き方信仰について語りました。今回の箇所では、その行いの伴った信仰の一つとしてことばの問題を取り上げられています。

 

Ⅰ.ことばで失敗しない人がいたら(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」

 

ヤコブはここで、「私の兄弟たち。多くの者が教師となってはいけません。」と言っています。多くの注解者はこの「教師」を神の御言葉を語る教師のこと、つまり「牧師」のことだと解釈していますが、必ずしも牧師だけのことではありません。勿論、牧師は神の言葉である聖書を神の言葉として解釈し語るわけですから、非常に厳粛さが求められるのは確かです。しかし、それは必ずしも牧師や教師のことだけでなく、栄光の主イエス・キリストを信じたクリスチャンのすべてを指していると考えるのが自然です。というのは、ヤコブはこれまですべてのクリスチャンに対して行いの伴った信仰、生きた信仰とはどのようなものかを語ってきているからです。

 

こうした教師をはじめとするクリスチャンに求められていることは何でしょうか。舌を制御することです。2節には、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」とあります。ヤコブがこのように多くの人が教師になってはならないと語るのは、日本語でも「口は災いの元」ということわざがあるように、人は口から発することばで失敗することが多いからです。ここには、「もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」とありますから、ことばで失敗しない人はいないということでしょう。「それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちてい」(8)るのです。

 

誰しも、この舌を抑えられたなら失敗しなかったのに、ということがあるのではないでしょうか。これだけ言ったらおしまいだと思っているにもかかわらずついついポロッと口から出てしまったばかりに家族ばかりか親類までも巻き込む問題になったり、上司に言った一言が原因で会社を辞めるはめになってしまうことさえあります。舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちているのです。いったいどうしたらこの舌を制御することができるでしょうか。そのためにはまず自分の舌がどんな災いをもたらすかその影響の大きさをまずしっかり自覚し、本気になって解決の道を探っていく必要があります。

 

Ⅱ.舌のもたらす影響の大きさ(3-12)

 

そこで、次に4節から12節までをご覧ください。ここには、舌のもたらす影響がどれほど大きいのかを、いくつかのたとえを用いて説明されています。まず馬とくつわのたとえです。3節をご一緒にお読みましょう。

「馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。」

 

馬は大きくてものすごい力があります。それは力を表す単位として「馬力」が使われていることからもわかります。しかし、そんなに大きくて力のある馬でも、口にくつわをかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。私は実際、馬に乗ったことがありませんが、手綱を右の方に引っ張ると右の方に行き、左の方に引っ張ると左の方に行きます。そして両方引っ張ると止まります。くつわは本当に小さなものですが、そのくつわを口にかけるとどんなに大きくて力がある馬でも御することができるのです。

 

次のたとえは船とかじのたとえです。4節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。

「また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。」

 

この船は風で動く大きな帆船です。帆船は風が吹いてきたら、風になびいて進みますが、そんな時でもかじを取る人によって思いとおりに持って行くことができます。それは船全体に比べたらとても小さなものですが、たとえそれがどんなに小さくても、船全体を風に逆らっても動かすことができるのです。

 

いったいここでヤコブは何を言いたいのでしょうか。そうです、くつわにしても、かじにしても、それらは小さなものですが、馬全体を、船全体を動かす力があるということです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。

 

次に5節と6節をご覧ください。ヤコブが次に用いている例は大きな森と小さな火です。

「ご覧なさい。あのように小さい火があのように大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」

不注意な人が何気なく捨てた小さなタバコの吸い殻が大きな森を燃やしたという話を聞くことがありますが、何気なく、不用意に語ったことばが、その人の人生全体を、人格全体をダメにしてしまうことがあります。日本ではよく、大臣が放った一言によって辞任に追い込まれたり、夫婦でも絶対言ってはいけないことを言ったために、離婚に発展するケースもあります。

 

皆さん、なぜ舌を侮ってはならないのでしょうか。それは自分や他の人々の人生にこんなにも大きく、破壊的な影響をもたらすからです。ある人たちは日本語で「言葉」を言の葉と書くように、言が葉っぱのようにぱらぱらと落ちるイメージがあることから、「ことばは単なる音の響きだ」ととらえている人がいたり、一方、「言霊」(ことだま)と言って、発した言葉どおりの結果を現す力があると考える人もいます。

 

では、聖書では何と言っているかというと、創世記には、神はことばによって世界を造られたとあります。神が、「光よ、あれ」と言うと光ができました。また、預言者が神の呪いを発するとそのようになりました。逆に祭司が祝福を祈るとそのようになりました。つまりユダヤ人にとってことばは単なる響きではなく、そこには実体があると考えられていたのです。ですから彼らが「シャローム」とあいさつすると、「平安がその人に来る」と理解していました。それは私たちも同じで、ことばには重みがあるのです。たった一つのことばが、その人の人生全体に大きな影響を与えてしまうことになります。ですから、ことばが正しく用いられないと、自分や他の人々の人生を破壊してしまうことになるのです。

 

その舌を制御することについて7節と8節ではこう言っています。

「どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」

それは少しもじっとしていない悪であり、死のとげに満ちています。人間は器用に、あらゆる動物を飼いならし、自由に動かすことができます。サーカスを観に行くと、あの巨大な象が、サーカスの人によって上手に飼いならされています。百獣の王であるライオンも、飼いならされています。それなのに、なんとこの小さな舌は制御することができません。それはじっとしていない悪であり、死の毒に満ちているのです。

 

今、東京都で豊洲移転の問題で大きく揺れています。地下水に溜まっている汚水から基準値の79倍のベンゼンという発がん性物質が検出されたことで、それが人体に与える影響を考慮すると果たして豊洲に移転すべきなのか、すべきでないのかの検討がずっと続けられているのです。工場排水に含まれる害毒には敏感でありながら、自分の口から出る毒に満ちたことばを垂れ流しにしたままでよいのでしょうか。私たちは、自分の舌がどんな災いをもたらすのか、その影響の大きさをまずしっかりと自覚し、本気になって解決の道を探っていく必要があるのではないでしょうか。

 

それは9節から12節に書かれてある泉と木のたとえも同じです。同じ泉から甘い水と苦い水がわきあがることがないように、いちじくの木がオリーブの実をならせることがないように、この唇は神を賛美するために造られたのであって、神をのろったり、神にかたどって造られた人をのろったりすべきではないのです。いったいどうしたらいつもきれいな水を出すことかできるのでしょうか。どうしたら舌を制御することができるのでしょうか。

 

Ⅲ.舌を制御する(13-18)

 

ですから13節から18節をご覧ください。13節と14節には、「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。」とあります。

 

ヤコブはここで、「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはなりません。」と言っています。つまり、口から出てくることばの源になっている「心」が問題だと言っているのです。私たちの心にひそかにたまっていることが口から出て、人の心をぐさっと傷つけるのです。そこに目を向け解決されない限りは、ことばの問題、人間関係の問題は解決しません。もしあなたの心の中に、苦々しいねたみや敵対心や憎しみや恨みがあると、言ってはならないようなことを言ってしまったうことになるのです。それは話し方教室に通うだけではどうしようもない問題なのです。ねたみや敵対心があるとき、私たちは悪しき者の影響を受けてしまうのです。確かに、そういう思いで心が一杯になっているとき、自分のコントロールから外れてしまうと思わないでしょうか。普段だったら絶対に言わないようなことを言ってしまったり、やらないようなことをやってしまったりします。カーッとなって思わず手が出てしまったり、たまたま打ち所が悪ければ大変なことになってしまいます。

 

まさかあの人がと言われるような事件の数々は、決して他人事ではありません。またそのような時には、どうやって相手を苦しめようかという知恵もどんどん出てくるものです。「そのような知恵は、上から北ものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや邪悪な行いがあるからです。」そのようなものにしはいされてはなりません。そのために、私たちは上からの知恵、神の知恵に満たされなければなりません。なぜなら、17節にあるように、「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」だからです。私たちの心が整えられて平安であるとき初めて、私たちは自分の舌を制することができるようになり、良い人間関係を築いていくことができるようになるのです。

 

このことについて、イエス様は何と言っておられるかを見てみましょう。マタイの福音書12章34,35節をご覧ください。

「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが癒えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」

また、マタイの福音書15章18,19節でも、「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出てくるのからです。」と言われました。つまり、口と心はつながっていて、口は心で思っていることを語るということです。であれば、私たちは口やことばを直す前に、心が癒され、良い物で満たされる必要があります。では、そのためにはどうしたらいいのでしょうか。

 

二つのことが必要です。一つのことは、イエス・キリストを信じて、霊的に新しく生まれ変わることです。キリストを信じるなら、キリストの平和があなたの心を支配するようになるからです。良い物は良い倉から出てくるのです。キリストによって新しく生まれ変わり神の愛に満たされた良い心からは、だんだん良いことばを話すようになります。それは道徳とか倫理の問題ではありません。あなたの霊、あなたのたましいが罪から救われてきよめられているかどうか、そして、あなたの心が神の愛とキリストの平和で支配されているかどうかの問題なのです。

 

もう一つのことは、キリストの新しい性質を身に着けることです。自転車でも、水泳でもそうですが、どうしたら身に着けることができるでしょうか。実際にやってみることによってです。どんなに教室で自転車の乗り方や泳ぎ方を学んでも、それだけでは実際に乗ることはできません。そのためには何度も何度も失敗しながら、実際にやってみなければなりません。そして一旦からだで覚えたら、意識しなくてもできるようになります。それは舌を制御することも同じことで、そのためには、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないことを実践しなければなりません。

 

Ⅰペテロ310,11にはこうあります。

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを言わず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」

もし、あなたが幸いな日々を過ごしたいと思うなら、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないようにしなければなりません。私たちは常日頃、たくさんの誘惑にさらされています。悪いことをされたり、ばかにされたり、自尊心を傷つけられたりします。そのようなとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか。これまでは条件反射的に、悪いことばや攻撃することばを言い返していました。「目には目を。歯には歯を」です。口には口です。しかし、これからは違います。キリストの愛が私たちを取り囲んでいます。聖霊の助けによって舌を押さえて悪を言わないようにするのです。何度か失敗もするでしょうが、その度ごとに聖霊に信頼して何度も何度も実践するのです。そうすれば、それが習慣となり、やがて、舌を押さえることができるよううになるのです。

 

ヤコブは2節のところで、「もしことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」と言っています。この「完全な人」というのは、「大人の人」とか、「成熟した人」という意味です。つまり、初めから舌を制御できる人のことではなく、そうした訓練によって習慣化し、それを身に着けることができるようになった人のことを言っているのです。

 

ケネス・ヘーゲンと言う人は、「愛、勝利に至る道」でこう述べています。生活をエンジョイして、幸いな日々を送り、長生きする秘訣は、『自分の舌に悪をやめさせること』です。愛は、悪を言うことをいつも慎みます。愛は人々に対して欺瞞や悪を語りません。また神のご性質の愛は、すべての人との平和を求めます。」他の人を批判することは簡単なことです。しかし、同じ環境のもとで、私たちはその人ほど立派に行うことができるでしょうか。ですから、その人を裁くのではなく、その人を愛さなければなりません。愛は多くの罪を覆うからです。愛こそ、勝利に至る道なのです。

 

ヤコブは舌のもたらす破壊力について語っていますが、同時に、舌が持つ力についても教えています。もし私たちが舌を正しく制御するなら、私たちの人生をも変えることができるはずです。私たちはことばが持つ力についてあまり意識していません。何かが起こるとすぐに、「ああ、最悪だ」と言ってしまうのです。でも本当に最悪なのでしようか。また、ある人たちは病気がなかなか治らないと、「このままだと死んでしまう」と言ってしまいます。また、ある人たちは「何をやってもうまくいかない。俺の人生はどうせこんなもんだ」と言います。もし私たちがこのような投げやりで破壊的なことばを自分に向かって発するなら、本当に最悪なことが起こり、体はますます悪くなり、失敗を重ねる人生になってしまいます。なぜなら、ことばには力があるからです。自分が発したとおりになってしまうのです。ですから、私たちに求められていることは、神様のみこころにかなったことばを語り、それを実践することです。そうすれば、そのとおりになります。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

舌を制御することはだれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。けれども、イエス・キリストを信じて、聖霊によって心を支配していただき、力の限り、私たちの心を見守るなら、そこからいのちの泉が湧き出るのです。私たちも神のみこころにかなった言葉を発することができるように、上からの知恵に満たされて、自分の唇を制御できるように求めていきましょう。