ヤコブ4章1~6節 「なぜ戦いや争いがあるのか」

きょうは、ヤコブの手紙4章から「なぜ戦いや争いがあるのか」というテーマでお話します。

以前、こんな質問を受けたことがあります。それは、どうしてこの世の中から戦争がなくならないのか、という質問です。そして、その方が言うには、世の中にはいろいろな宗教があるから戦争も起こるのではないのかということでした。確かに宗教が原因で戦争が起こったこともあります。

しかし、宗教が原因となった戦争は、ある方々が主張しているほど多くはありません。「Encyclopedia of Wars」という戦争に関する百科事典によると、歴史上には1,763件の戦争が起こりましたが、そのうち宗教的なことが原因で起こった戦争は123件(6.98%)であったとされています。ですから、歴史上の大きな戦争は、宗教とは無関係に起こっているのです。ではいったいどうして戦いや争いがあるのでしょうか。

 

Ⅰ.争いの原因(1-2a)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」

 

「あなたがたの間に」の「あなたがた」とは、この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンのことを指しています。ですから、これは教会の外での争いのことではなく、教会の中での、クリスチャンの間にあった争いのことなのです。彼らはイエス・キリストを信じて救われていました。なのに、そうした彼らの間にも戦いや争いがあったのです。信仰を持ったら争いが無くなるのかというとそうではなく、人が集まるところにはどこででも争いが起こるのです。いったい何が原因でこうした戦いや争いが起こるのでしょうか。

 

ヤコブはここでその原因を次のように言っています。「あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」こうした戦いや争いの原因は私たちの外側にあるのではなく私たちの内側にあるのであって、私たちのからだの中で戦う欲望が原因であるというのです。どういうことでしょうか。

 

2節には、「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」とあります。私たちは他の人がいい生活をしているのを見ると、「ああ、いいなぁ。自分もあんな生活をしてみたいなぁ。」とうらやましく思ったり、自分もそういう生活をしてみたいと思ってもできないと、急にひがんでみたり、ねたんだりするようになります。すると不思議なことに、そういう人を見ると嫌な気持ちになったり、敵対心を抱くようになったりするのです。やがて太刀打ちできないということがわかるとその人がいないところで悪口を言ってみたり、うわさ話をして、その人の評判を落とそうとすることさえあります。つまり、そうした自分の中で戦う欲望が外側に表れて、それが争いや戦いになるのです。

 

私は今でこそあまりありませんが、ちょっと前までは、いい車に乗っている人を見ると、「どうしてあんなにいい車に乗れるのだろうか。」とか、「あの人どういう生活をしているんだろう」と思ったものです。別にいい車に乗りたいとは思わないけれども、そういう生活をしてみたいという思いが働くのでしょう。でも、そんな生活ができるわけがないので結局のところあきらめるわけですが、ただあきらめるだけならいいものを、言わなくてもいいようなことまで言ってしまいます。「意外とああいう車にに乗っている人は見栄を張っているだけで、実際は貧しい人たちだ」とか・・。その人がどんな生活をしようと自分とは関係ないのに、自分の中に戦う欲望が、いろいろな思いを引き起こし、それが戦いや争いとなって現われるのです。

 

でもちょっと待ってください。世の中の人々ならわかりますが、クリスチャンはそういうことはないでしょう。この世の中の人々は神を知っているわけではなく、イエス様を信じているわけでもありませんから、生まれながら肉なる者であり、そのような思いを抱くのは当然かもしれませんが、イエス様を信じて救われた人たちがそのような思いを抱くなんて考えられません。クリスチャンはイエス様を信じて新しく生まれ変わった者であり、キリストのために生きていきたいと願っている者たちであり、そうした欲にも勝利しているのではありませんか。

 

確かに、クリスチャンはイエス様を信じたとき、聖霊によって新しく生まれ変えられました。古い自分はキリストともに十字架につけられたのです。私がいまこの世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。しかし、その一方で、まだ肉の性質が残っているのです。肉というのは自分のことです。自分の思いのままに生きていきたい、自分が願うように、自分の満足のために、自分の喜びのために、自分の、自分のという思い、それが肉の思いです。そうした肉の性質が残っているため、欲に引かれて、おびき寄せられ、誘惑されるのです。

 

たとえば、夫婦のことを考えてみてください。まだ結婚していない方は友人との関係でもいいです。なぜ争いが起こるのでしょうか。自分はこうしたいと思っているのに、相手はそうではないからです。自分の思いや利益と相手の思いや利益が一致しないからです。一致していればこうした問題は起こりません。しかし、誰の利益ともぶつからない欲望などはあり得ないわけですから、自分は、自分はという自分の思いが強ければ強いほど、自分の中に戦いや葛藤が生じてくるのです。そしてそれが戦いや争いとなって外側に現れてくるのです。これはクリスチャンであってもノンクリスチャンであっても同じです。確かにクリスチャンであるなら、自分というのは十字架に付けられたので死んでいるはずですから、本当に死んでいれば自分ではなく御霊が支配しているのでその傾向は少ないはずですが、御霊によってではなく肉によって歩むならノンクリスチャンと全く変わらない生き方となってしまうのです。夫婦や友人関係でもそうなのですから、そういう人たちが何人も集まっている教会の中でこうした戦いや争いが起こることは避けられません。

 

ですから、重要なのは、どうしたらこうした戦いや争いを解決することができるかということです。というのは、キリストを信じて救われたクリスチャンが互いに争ったり、戦ったりするのは、神のみこころではないからです。神のみこころは、私たちが互いに愛し合うことです。ですから私たちは、私たちのからだの中で戦うこの欲望に対して、どうしたら対処することができるのかを学ばなければなりません。

 

Ⅱ.神に願い求める(2b-3)

 

いったいどうしたらこの問題を克服することができるのでしょうか。2節後半から3節までをご覧ください。ここには、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。

 

ヤコブはここで、あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからだと言っています。何かをほしいと思い、うらやむのは、その根底に自分があって、自分でそれを手に入れようという思いがあるからです。そこには、「神」は存在していません。したがって、祈ることもないわけです。けれども、神は惜しみなく与えてくださる方です。ですから何かを願うなら、それを神に願い求めなければなりません。神に願って、神に祈って、神により頼むなら、神が与えてくださいます。あなたがたのからだの中で戦う欲望の解決は、まずあなたが神に向かい、神に祈り、神にすべてをゆだねることから始まります。

 

イエス様はマタイの福音書7章7~11節のところで、こう言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

だれでも、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ここでも同じです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。どうしてあの人ばかり与えられるのか。それに比べて私はちっとも与えられないと、ひがんではいませんか。求めてください。願ってください。祈ってください。そうすれば、主は豊かに与えてくださいます。

 

そんなこと言われても、それは他の人のことであって、私の祈りなどちっとも聞いてくださいません、という方はおられますか。そうではありません。神はあなたの祈りも聞いてくださいます。

 

何度かお話ししたことがあるかと思いますが、私が福島で会堂建設に携わった時、いろいろな先生方が来られて信仰のチャレンジをしてくださいました。どの先生も言うのは、会堂建設の時には神様が不思議なことをしてくださるので、神様に祈ってくださいということでした。でもそれは他の教会のことであって、私たちの教会では無理だと思っていました。私たちの教会には若い人たちばかりで経済的に余裕のある人など一人もいなかったからです。

しかし、奇跡的に土地が与えられいよいよ会堂本体の工事に入ろうとした時に、一つの問題が生じました。銀行から予定していた金額の借入れができないと言われたのです。そこで、翌週の礼拝後にみんなで話し合いました。そして、本体をもっと小さくして建築費を押さえようと決めかかった時、ちょうど札幌から引っ越してきたばかりの札幌から引っ越してきたばかりの一人の韓国の姉妹が、「はい」と手を上げたのです。すると彼女はこう言いました。「日本人は何でも小さく考えます。でも神様は全能です。それが本当に必要ならば与えてくださるのではないでしょうか。だから祈りましょう。神様が与えてくださると信じて祈りましょう。」一瞬、皆の顔が凍り付きました。もう十分捧げたので、これ以上は無理だと思っていたからです。私もそうでした。しかし、彼女が言われるように、それが本当に必要なら神様が与えてくださるはずです。ですから、信じて祈ることになりました。

すると本当に不思議なことが起こりました。そのことがあって数か月後に東北電力の方が来られ隣のタイヤの工場で電気を引きたいので教会の上空を通してほしいと言われ、その為電線の下の土地の価格の評価が下がるのでその保証として多額の保証金が与えられたり、いつもの年よりもたくさんの結婚式があったりして、予定していた1年後に必要が満たされたのです。問題は祈らないことです。神に祈り求めないことです。求めるなら、与えられるのです。

 

ヤコブはこのことをただ概念として勧めていたのではありません。それは彼自身の経験からにじみ出た確信でした。ヤコブは、「らくだの膝を持つ人」と言われていたそうですが、なぜそのように言われていたかというと、彼の膝がらくだのように堅くなっていたからです。歳をとって堅くなったのではありません。彼はいつも膝をついて祈っていたので堅くなったのです。彼は祈りの人でした。その祈りの中で神に願い求めたのです。そして、神は聞いてくださるという確信を持っていたのです。

 

中国の奥地伝道のパイオニア、ハドソン・テーラーはこのように言いました。「あなたがたは、膝をついて前進しなければならない。」膝をついて前進したらろくに進めないのではないかと思うかもしれませんが、でも膝をついて前進するというのは祈って前進しなければならないということです。祈りなしに神の前に出ることはできません。祈りなしに前進することはできません。祈りこそミニストリーの原動力であり、祈りによらなければ何も生まれないというのが、ハドソン・テーラーの確信だったのです。

 

それじゃ、どうしてあなたが祈っても与えられないのでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。動機が間違っていれば聞かれません。神の栄光のためにではなく自分のために、自分の快楽のために使おうとして悪い動機で願うなら、与えられないのです。神様は私たちの必要を満たしてくださいますが、私たちの欲しいものを与えるわけではありません。自動販売機のように欲しいものを押せば出てくるというものではないのです。もしあなたが祈りとはそのようなものだと思っているなら失望するでしょう。というのは、祈りとは自分の願いが叶うことではなく、神のみこころがなることだからです。みこころが天で行われているように、地でも行われるようにと祈ることです。もちろん、神はご自身の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいますが(ピリピ4:19)、私たちは、私たちの願いではなく、あなたのみこころがなるようにと祈られたイエス様のように祈らなければなりません。これが祈りの神髄です。私たちの願いを祈ることも良いことです。「神さま、私はあれが必要なのです。どうか助けてください。」と祈るなら、神はその祈りを聞いてくださいます。神はあなたのささいなことにも関心を持っておられます。だから必要なことを祈るということは大切なことですが、もっと大切なことは、私の願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてくださいと祈ることなのです。神が望まれることは私たちのベストだからです。であるとしたら、神様はベスト以下の何ものも与えないはずです。ですから、神があなたに与えようとしておられるのは何かを知ることはもっといいことであり、すばらしいことなのです。あなたが祈っても与えられないとしたら、それが神のみこころであり、あなたにとってのベストであるかもしれないからです。であれば、もう悩む必要もありません。今まではあれもほしいこれもほしいと、与えられないことをひがんでみたり、ねたんだりしていたものを、祈っても与えられないことでこれが神からの答えだということがわかれば、私たちは平安を持つことができるからです。だから、神に祈ること、神に願うことは重要で、私たちのからだの中にある欲望に対処する大切なステップです。

 

詩篇34篇10節には、「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を訪ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」とあります。すばらしい約束ではないでしょうか。主を訪ね求める者には、良いものに何一つ欠けることはありません。そう信じて神に向かい、神に願うなら、神はあなたに良いもので満たしてくださるのです。

 

Ⅲ.神の御前にへりくだる(4-6)

 

第三のことは、神の御前にへりくだることです。4~6節までをご覧ください。4節には、「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」とあります。

 

「貞操のない人たち」とは、直訳では、「姦淫を行う人たち」です。口語訳では「不貞のやからよ」と訳しています。すごいですね。「不貞のおからよ」「やから」とは、仲間のこと、あるいはよくない連中のことです。不貞を行う仲間よ、という意味です。ヤコブはこれまで祈りを込めて、「私の愛する兄弟たち」と呼んでいたのに、ここでは「不貞のやからよ」と呼んでいるのです。いったいなぜそのように呼んだのでしょうか。それは、世を愛することは神に敵対することだからです。それは霊的姦淫の罪を犯すことなのです。なぜなら、この世はキリストを拒絶する悪の世であってこの暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊が支配しているところだからです。神などいなくても自分たちには何でもできると思っています。人間中心の世界です。このような考えはこの世の芸術、文化、教育、スポーツ、科学、医学など、ありとあらゆる世界に入り込んでいます。神がいなくても自分たちは何でもできると思い込んでいます。神を無視する世界、神に敵対する世界なのです。ですから、こうしたこの世を愛することはひとえに神に敵対することであり、霊的に姦淫を犯すことになるのです。

 

いいえ、私はこの世を愛していますが神も愛しています、という方がおられるでしょうか。そういうことはできません。なぜならイエス様は、だれも、ふたりの主人に仕えることはできないと言われたからです。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじで他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

ですから、世の友となりたいのか、神の友となりたいのかの、どちらかしかありません。そして、ここでヤコブが言っているように世の友なりたいと思うなら、その人は自分を神の敵としているということを肝に銘じておかなければなりません。

 

5節をご覧ください。ここには、「それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに下っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」

この「」のことばはゼカリヤ書1章14節のみことばの引用です。ゼカリヤ書では、「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」とありますが、ここでは、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」になっています。どちらにも共通していることは、神はねたまれる方であるということです。神の民であるイスラエルが自分以外の偶像に走って行ったら、神はどのような思いを持たれるでしょうか。ねたみです。本当に愛しているからねたむのです。どうでもよければねたみは起こりません。神は私たちが救い主イエス・キリストを信じたとき、私たちにご自分の御霊を与えてくださいました。私たちは福音を聞きそれを信じたことで、新しく生まれ変わりました。神の子として、天の御国を受け継ぐ者とされたのです。その保証として神は、ご自身の御霊を与えてくださいました。それは、私たちがやがて天の御国を受け継ぐことの保証でもあります。それはちょうどマンションを借りる時と同じです。いいマンションが見つかってそこに住みたいと思うなら、不動産を通して契約書にサインし手付金を払います。そうすることで、やがて契約の日が来たらそこに住むことができます。御霊も同じで、それは私たちが天のマンションにやがて住むことができるという手付金なのです。それまでの間、神の御霊が私たちの中に住んでくださり、イエス様を信じるように導き、神を愛することができるように助けてくださいます。本当に罪に汚れた者を聖めてくださり、キリストのご性質にあずかる者としてくださり、この地上にあってキリストの栄光を現すことができるようにしてくださるのです。

それなのに、まことの神以外のものを愛するとしたら、神の敵であるこの世を愛するとしたら、神がどれほどねたまれるでしょう。神は昔エルサレムとシオンとをねたむほど激しく愛したように、今は私たちの中に住んでおられる神の御霊を、ねたむほど慕っておられるのです。

 

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、結論は6節にあります。「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 

ここでは、「しかし、神は」が強調されています。たとえ私たちが、神が用意しておられるベストを受けそこなっても、世の友となって神の敵となってしまっても、それで終わりではありません。それでも、神の恵みは尽きることはありません。いや、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。これは福音なのです。グッド・ニュースです。本当に私たちは愚かな者です。自分では神に従っているようでもいつの間にかこの世の友となっていることがあります。しかし、神はそんな者さえも憐れんでくださり、さらに恵みを与えてくださいます。

 

ローマ5章20節には、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。」とあります。それじゃ、もっと罪を行おうということではありません。私たちは罪を犯さずには生きていけないほど愚かな者なのです。わかっているようでわからない。どこまでも自分中心で、貪欲の塊(かたまり)でしかありません。にもかかわらず神は、そんな私たちを赦し恵みを注いでくださいます。

 

でから、こう言われるのです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」どうしたら恵みを受けることができるのでしょうか。へりくだることです。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになります。イザヤ書66章2節にはこうあります。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

神が目を留められる者はどういう人でしょうか。へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。高ぶっている人は神に向かいません。神に頼らなくても、神に祈らなくてもやっていけると思っているからです。そのような人は神の恵みを受けることはできないのです。神の恵みを受ける人は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。

 

私たちも、私たちのからだの中にはまだ古い性質が残っていて神のみこころよりも自分の意志を通そうとして、それが原因で争いや戦いを引き起こすことがありますが、そのような者をも愛し、赦してくださる主の御前にへりくだり、主ご自身を求めましょう。主のことばにおののく者でありたいと思います。それこそ、私たちのからだの中で戦い欲望に打ち勝つ最大の力なのです。