ヨシュア記1章

きょうからヨシュア記に入ります。きょうは、ヨシュア記1章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 Ⅰ.モーセの従者、ヌンの子ヨシュア(1-9

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 

私たちは、これまでモーセ五書から学んできました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記です。これらはみな、モーセによって書かれたものであり、イスラエル人の信仰生活の土台となる書物です。そのモーセが死に、今新しくイスラエルの指導者が立てられます。それがヨシュアです。ここには、「モーセの従者、ヌンの子ヨシュア」とあります。彼は偉大な先達者モーセの後継者であるということです。すぐれた人物の後に続く、いうならば「二番煎じ」です。ここには、「主のしもべモーセは死んだ」ということが繰り返して書かれてあります。どういうことでしょうか。先達者が偉大な人物であればあるほどその後を継ぐ者のプレッシャーは大きいものです。しかし、そのモーセは死にました。ヨシュアにはモーセとは違う、彼自身に与えられた使命を実現してくことが求められていたのです。

 

ではその使命とは何でしょうか。それはイスラエルの民を約束の地に導き入れることでした。モーセは偉大な指導者でしたが、彼らを約束の地に導き入れることはできませんでした。ヨシュアにはその使命が与えられていたのです。そしてそれはまた、律法ではなく福音によって約束を受けることの象徴でもありました。モーセは律法の代表者でしたが、そのモーセは死んだのです。モーセはイスラエルの民を約束の地に導くことができませんでした。約束の地に導くことができたのはヨシュアです。ヨシュアとはギリシャ語で「イエス」です。そうです、約束の地に導くのは律法ではなくイエスご自身であり、イエスを通してなされた神の御業を信じる信仰によってなのです。

 

そのヨシュアに対して主が語られたことは、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ということでした。

 

ここで重要なことは、「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」ということばです。また、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ということばです。この「与えようとしている」とか「与えている」という言葉は、完了形になっています。つまり、これは確かに未来の事柄ではありますが、神にとっては確実に与えられているということです。もう既に完了しているのです。信仰の内に既にそのことが完了していることを表わすために、未来のことであっても完了形で書かれているのです。神の約束が与えられたなら、それはもう実現しているも同然のことなのです。

 

それと同時に、2節には、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り」とあります。これは、神の約束の実現の前には、ヨルダン川を渡らなければならないということが示されています。つまり、神の約束が与えられたからといって、何の苦労もなく自然に、いつの間にか成就されるということではないのです。むしろその約束の実現の前には困難と試練が横たわっており、それを乗り越える信仰が求められるのです。すなわち、このヨルダン川を渡った時に初めて約束のものを得ることができるということです。ヨルダン川を渡らずして、ヨシュアはあのカナンの地に入ることはできませんでした。ヨルダン川という試練と困難を経て、足の裏で踏むという信仰の決断を経てこそ、彼はカナンの地に入って行くことができたのです。これは霊的法則なのです。ですから、私たちはすばらしい主の約束の実現のために、ヨルダン川を渡ることを臆してはならないのです。私たちの前にふさがるそのヨルダン川を信仰と勇気をもって渡って行くならば、大きな神の祝福を受けることができるのです。

 

5節をご覧ください。ここには、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」とあります。ここには、神がともにいるという約束が語られています。信仰を持ってヨルダン川を渡って行こうとしても、やはりそこには恐れが生じます。しかし、この戦いは信仰の戦いであって、自分の力で敵に立ち向かっていくものではありません。主はモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいると約束してくださいました。主がともにおられるなら、だれひとりとして彼の前に立ちはだかる者はいません。主の圧倒的な力で勝利することができるのです。

 

それゆえ、主はこう言われるのです。「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(6-9

 

ここで主はヨシュアに、「強くあれ。雄々しくあれ。」と同じことを三度繰り返しています。なぜでしょうか。ある聖書学者はこう分析しています。ヨシュアは年齢が若く、したがってモーセほどの実力を持っていなかったので、イスラエルの民が自分に従ってくれるかどうか非常に恐れていた。それで主はこれを三度も語って励ます必要があったのだ、と。もちろん、それも一理あると思います。しかし、ヨシュアのこれから先に起こることを考えると、主がそのように言われたのも納得できます。つまり、主は、これからのヨシュアの生涯が戦いの連続であるということをご存知でしたので、「強くあれ。雄々しくあれ。」と何度も繰り返して語る必要があったのです。確かに荒野においてヨシュアはモーセとともに戦いました。しかしそのモーセは死んだのです。モーセが死んだ今、自分一人で戦わなければならない時に、頼るべきものは主なる神だけです。神に聞き従いつつ、自分自身が先頭に立って様々な困難と闘っていかなければならないのです。そんなヨシュアにとって、「わたしはあなたとともにいる」という約束の言葉はどれほど力強かったことかと思います。確かにヨシュアの生涯は戦いの連続でした。しかし、共にいましたもう主の導きの中で、勝利を勝ち取ることができたのです。

 

これは私たちの信仰の生涯も同じです。それは戦いの連続であり、激しい戦いを通らなければならないことがあります。しかし、主はそのような時にも共にいて、勝利を取ってくださいます。それが私たちの信仰なのです。主イエスの十字架は、私たちの罪の赦しのためです。しかしそれ以上に、十字架は悪魔に対する勝利の力であり、悪魔の罠をも勝利に転換させる大いなる力なのです。この十字架の勝利の信仰のゆえに、どんな戦いにも勝利することができるのです。一時的には敗北と見えるようなことがあったとしても、私たちにはやがて必ず勝利するのです。なぜなら、十字架においてすでに主が勝利をとっておられるからであり、その勝利の陣営に私たちはいるからです。

 

私たちクリスチャンは信仰をいただいたからといって、戦いが全くなくなるというわけではありません。困難がなくなる訳ではないのです。この世に住む以上、常に戦いの連続であり、そのような人生を歩まざるを得ません。しかし感謝なことは、私たちは勝利が確実な戦いを戦っているということです。小手先の所ではもしかすると敗北しているように見えるかもしれません。小さな所では破れていることもあります。。しかし大局的には、最も重要な所では、もう既に私たちは勝利しているのです。

 

アラン・レッドパスという霊的指導者はこのように言いました。「クリスチャンは勝利に向かって努力するのではなく、勝利によって働き続ける者なのです。」

そうです。私たちは勝利のために、勝利に向かって懸命に戦う者ではなく、もう既に与えられている勝利をもって、勝利の中を戦い続けていくものなのです。それゆえに、その勝利の信仰をいただいて、大胆に信仰と勇気をもって人生を歩んでいきたいものです。

 

Ⅱ.全員で戦う(10-15

 

 次に10節から15節までをご覧ください。

「そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。ヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、こう言った。「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主は、あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える。』と言ったことばを思い出しなさい。あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、彼らを助けなければならない。主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与え、彼らもまた、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側、日の上る方にある、あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる。」

 

ヨシュアは民のつかさたちに、「糧食の準備をするように」と命じました。それはもう三日のうちに、ヨルダン川を渡って、神が所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしていたからです。

これは、ある意味で、それ以前彼らがイスラエルの荒野で天からのマナとうずらを食べたという出来事と対照的に語られています。以前は、一方的な神の恩寵によって、上から与えられる食べ物によって彼らは生きてきました。しかし、これからは自分の手によって食物を得るようにと命じられているのです。つまり、父なる神に対するある種の甘えや、依存心から脱却して、自分自身の手によって、食べ物を獲得していきないというのです。

 

いったいどのように糧食の準備をしたらいいのでしょうか。12節から15節までのところには、その一つについて語られています。すなわち、全員で戦うということです。ここでヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、戦いに参加するようにと命じています。覚えていますか、ヨルダン川の東岸、エモリ人が住んでいたところは、すでにモーセによって占領していました。そこに、ルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族が、ここを所有地にしたいと願い出ました。モーセは初め怒りましたが、彼らのうち成年男子が、イスラエルとともにヨルダン川を渡り、ともに戦うと申し出たので、モーセはそれを許し、彼らにその地を相続させたのです。それで今、彼らが約束したように、彼らに民の先頭に立って戦うようにと命じられているのです。

 

これらの諸部族は、すでにヨルダン川の東側を所有し定住していたので、わざわざヨルダン川を渡って戦う必要はありませんでした。確かにかつて東側を所有するにあたり勢い余ってそのように宣言をしたかもしれませんが、今では戦いに参加するという意欲は失われていたのでしょう。そんな彼らに対して、彼らも立ち上がって戦いに参加するようにと命じられているのです。なぜなら、一つでも欠けることがあれば戦いに勝つことができないからです。彼らが一つとなって戦うところに意味があります。そこに神の力が発揮されるからです。その中には、全面的に参加する者もいれば、部分的参加する者もいたでしょう。また最前線で戦う者もいれば、後方で支援する者もいたに違いありません。しかし、それがどのような形であっても、各々が皆同じように戦略的には尊い存在なのです。そうした仲間が一つとなって戦うことによって、神の力が溢れるのです。

 

Ⅲ.ただ強く、雄々しく(16-18

 

次に16節から18節までをご覧ください。

「彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。」あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」

 

ここでは、イスラエルの民がヨシュアにあることを求めています。それは、自分たちはモーセに従ったようにヨシュアにも従うので、ただ強く、雄々しくあってほしいということです。これは指導者に対する条件です。つまり、敵との戦いのために、指導者は強く、雄々しくなければならないということです。指導者にとって誠実であることは重要なことですが、それにもまさって強さ、雄々しさが必要なのです。やさしく親切で、思いやりがあることは大切ですが、それにもまさって強く、雄々しくあることが求められているのです。特に戦いにあっては、その指導者の強さが勝敗を決定するといっても過言ではありません。

 

いったいこのヨシュアの強さはどこから来たのでしょうか。第一にそれは、天性のものではなく天来のものであり、肉によるものではなく霊によるものでした。ヨシュアが強く雄々しかったのは、神の霊が彼に注がれ、神の霊が彼の内側に宿っていたからです。

 

ヨシュアが強かった第二の理由は、彼は明確な召命観を持っていたことです。私はよく牧師に必要なのは何ですかと尋ねられることがありますが、それに対して迷うことなく、「神からの召命です」と答えます。神が自分を選び、この務めに任じてくださった。自分の願いからではなく、神が目的をもって自分を用いようと召してくださったという召命があれば、どんな問題も乗り越えることができるからです。ヨシュアはこの召命を持っていたので、強く雄々しくあることができました。自分がこの務めに資格があるかないかとか、適任であるかどうかということは関係ありません。それよりも、自分がその目的のために召されているのかどうか、神がそのことを自分にせよと命じているのかどうかが重要なのです。それは牧師に限ったことではありません。どんな小さな働きのように見えるものであっても、主の働きに求められているのは、主からの召命意識なのです。たとえ自分に力がなくとも、弱さや欠点を持っていようとも、私たちは強くなることができるのです。

 

ヨシュアが強くあることができた第三の理由は、彼が神の約束の言葉に信頼していたからです。彼には神の約束の言葉が与えられていたので、いかなることがあっても失望しませんでした。主なる神は約束されたことを守られる方であると信じていたからです。それゆえに神はヨシュアに、7,8節で、律法を守り行うこと、これを離れて右にも左にもそれてはならないということ、この律法の書を口から離さず、昼も夜も口ずさまなければならない、と命じられたのです。そうです、ヨシュアの強さはこの神のことばに信頼することからくる確信だったのです。それは私たちも同じです。私たちも神のみことばに信頼し、主が約束してくださったことは必ず実現すると信じ切るなら、主の強さと確信がもたらされるのです。

 

私たちもヨシュアのように神の強さをいただくために、神の霊を宿し、神からの召命を確認しながら、神の約束に信頼するものでありたいと思います。そして、ヨシュアが主の力によってイスラエルを約束の地へと導いていったように、信仰によって前進していきたいと思います。