Ⅰペテロ1章13~17節 「救いの恵みに生かされて」

きょうは「救いの恵みに生かされて」というタイトルでお話しします。13節には、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」とあります。「ですから」とは、これまでペテロが語ってきたことを受けての勧めなり、結論です。これまでペテロは救い素晴らしさについて語ってきました。それはある日ふって沸いたような話ではなく永遠の昔から神によって定められていたものであり、最初の人アダムが罪に陥ってからは、多くの預言者によって預言されたいたことです。そして今や、それがキリストによって表されました。永遠の救いの御業がイエス・キリストによって成し遂げられたのです。そして、天から送られた聖霊によって福音を語った人々を通して、新約時代の人々ばかりか、今の私たちにも告げ知らされたのです。ですから、このような救いを受けている者はどのように歩むべきなのかが勧められているのです。 きょうは、このような救いを受けているクリスチャンの歩みについて、三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.救いの恵みをひたすら待ち望みなさい(13)

まず第一に、救いの恵みを受けた者は、この恵みをひたすら待ち望みなさい、ということです。13節をご覧ください。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

恵みとは何でしょうか。恵みとは、受けるに値しない者が受けることです。ここでは「たましいの救い」のことを言っています。この救いは、神の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによってもたらされました。それは私たちの行いによって勝ち得たものではなく、神に一方的な恵みによるものです。この恵みを、待ち望みなさいというのです。

ちょっと待ってください。私たちは既に神の恵みによって救われたのであればどうして再び待ち望まなければならないのでしょうか。確かに、私たちは神の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、その死の中からよみがえられたことによって新しく生まれ変わったことによって、生ける希望を持つようになりました。けれども、この救いはまだ完成していないのです。この救いが完成するのは、私たちのからだが贖われ、朽ちないからだ、栄光のからだに復活する時です。それはイエス・キリストが再び来られる時にもたらされるものです。ですからここに、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みとあるのです。キリストが再び来られるとき、私たちのからだもよみがえり、栄光のからだをいただき、いつまでも主とともに生きるようになるのです。これが、救いの完成の時です。そのときもたらされる恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。

皆さんは、いかがでしょうか。その救いが完成する時を待ち望んでいるでしょうか。「私は毎日忙しくて、そんなこと考えている暇などないの」と、目先のことに振り回されてはいないでしょうか。しかし、そのときもたらされる恵みのすばらしさを知ったら、それがいかに愚かな考えであったかがわかります。それは何にも変えがたい喜び、栄光の輝きです。私たちはそれを待ち望まなければなりません。

どのように待ち望めばいいのでしょうか。ここには三つのことが勧められています。第一に、「心を引き締めて」ということです。心を引き締めるとはどういうことでしょうか。口語訳では、「心の腰に帯を締め」と訳しています。「腰に帯を締める」とは面白い表現ですね。当時ユダヤ人が着ていた服は一枚の布をかぶったようなものだったので、そのままでは服が邪魔になって仕事になりませんでした。そこでいざという時にすぐに身動きできるように、着物の腰に帯を締め、裾をまくりあげて整えたのです。

かつてイスラエルがエジプトを出て行くにあたり、過越の祭りが制定されましたが、それを食べる時、腰の帯を引き締め、足に靴をはき、手に杖を持ち、急いで食べるようにと命じられました。なぜなら、時間がなかったからです。急いでエジプトを出なければなりませんでした。すぐに動けるように腰には帯を締め、足には靴を履き、手には杖を持たなければならなかったのです。そんな恰好で食べていたら、「あなたは落ち着きがないですね」と言われそうですが、いつでも旅立てるように準備してかなければなりませんでした。同じように、イエス様が来られ、神の怒りから私たちを救ってくださるのですから、しっかりと心を引き締め、イエス様がいつ来てもいいように備えていなければなりません。

パウロはエペソ人への手紙6章の中で、悪魔の策略に対して立ち向かうことができるため、神のすべての武具を身に着けるようにと言っていますが、その最初に出てくるのが帯を締めるということです。「ではしっかり立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け」(エペソ6:14)とあります。悪魔の策略に対して立ち向かうためには、まず真理の帯を締めることが必要なのです。これがないと動けません。

ヨハネの福音書8章32節には、「真理はあなたがたを自由にする」とあります。神の真理によって自由になりなさい、神の真理によって準備を整えておきなさいということです。人の考えやこの世の考えでは不自由になってしまいます。そうした考えに縛られて身動きできなくなってしまうのです。しかし、真理はあなたがたを自由にします。この真理の帯を締めなければなりません。

皆さんはどうでしょうか。どのような帯を締めていますか。この世の凝り固まった考えという帯をしていませんか。そうではなく、真理の帯を締めなければなりません。

第二に、身を慎まなければなりません。身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、待ち望まなければなりません。「身を慎む」とはどういうことでしょうか。この「身を慎む」と訳された言葉は、「しらふである」とか、「お酒に酔っていない」という意味です。お酒を飲むとどうなりますか。大抵の場合、酔っぱらって無感覚になり、判断力が鈍ります。その結果、自分を制御することができなくなってしまいます。よく酒を飲んで泥酔し、自分がやったことを全然覚えていないというニュースを聞きますが、何をしているのかがわからなくなってしまうのです。ですから、身を慎むとは、いつも冷静でありなさい、用心深く、慎重でありなさいということなのです。私たちは問題が起こるとすぐに心を騒がせ、慌てふためく者ですが、そのような時でも冷静であるように、また、この世の情報に振り回され惑わされるような時があっても、そうした情報に酔うことなく、用心深く、慎重でなければなりません。

ペテロはこの「身を慎み」という言葉を、この手紙の中で他に2回用いています。4章7節と5章8節です。4章7節には、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」とあります。また、5章8節では、「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。世の終わりが近くなると、いろいろな情報が錯綜し、何が真理なのかわからなくなって惑わされてしまうことがあります。そのような時こそ祈りのために、心を整え、身を慎まなければなりません。また、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。その悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩きまわっています。ですから、その悪魔に立ち向かうために、目を覚ましていなければなりません。今どんなことが起こっているのかを悟り、身を慎み、慎重に歩まなければならないのです。これをペテロが言っていることころがおもしろいですね。彼は以前、イエス様を三度も否定しました。

「あなたはあのナザレ人と一緒にいたでしょう。」

「知らない。全然知らない。何の話かな。」

と、何も考えないで反応しました。身を慎んでいませんでした。その結果、彼は失敗してしまいました。私たちも身を慎んでいないと、ペテロのように、悪魔の策略に陥ってしまいます。心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストの現われを待ち望まなければなりません。

第三に、ひたすら待ち望まなければなりません。ここに、「ひたすら待ち望みなさい」とあります。ひたすら待ち望むとはどういうことでしょうか。この「ひたすら」と訳された言葉は、「完全に」とか、「全面的に」という意味です。やがて再び来られる主を、少しも揺らぐことなく、待ち望みなさいということです。ここに希望を置きなさいということなのです。

皆さん、イエス・キリストが再び戻って来られるということよりも良い知らせはありません。それはお金が儲かることよりも、宝くじが当たることよりも、不治の病がいやされることよりも、事業に成功することよりも、商売が繁盛するよりも、何よりも良いことです。なぜなら、死んでも新しいからだをいただいて、永遠に主とともに生きるようになるからです。この世の人にはそれがありません。彼らはただ死を待っているだけです。この世でどんなに繁盛しても、死んだら灰となってすべてが終わってしまいます。ただ死んで朽ちていくだけなのです。それはあまりにも空しいではないでしょうか。

しかし、私たちは違います。この地上では何の報いも受けないような者でも、イエス・キリストを信じてたましいの救いをいただき、神の子とされたので、やがてイエス・キリストが迎えに来てくださいます。たとえ死んで灰になっても、やがて復活の新しいからだをいただき、イエス様と同じ姿となって、天において永遠に生きることができるのです。これほどの希望はほかにありません。この望みを捨ててはなりません。この望みは失望に終わることはありません。失望に終わることがない希望、それこそ本当の希望です。この希望をひたすら待ち望まなければならないのです。それが神の恵みによって、イエス・キリストを信じた者として、この世にあってあるべき姿なのです。

Ⅱ.聖なる者とされなさい(14-16)

第二のことは、聖なる者とされなさいということです。14節から16節までをご覧ください。

「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」

神の恵みによって救われた者にとって必要な第二のことは、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなさいということです。聖なる者とされるとは、神のために聖別されたとか、分離された、分けられたという意味です。イエス様はヨハネの福音書17章14節から17節のところで、弟子たちのためにこう祈られました。

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪いものから守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」

私たちは真理のことば、福音を聞いてイエス・キリストを信じ、罪から救われました。それでこの世から分離されました。この世に生きていますが、もはや私たちはこの世に属しているのではなく、神に属する者とされたのです。そして、神に属する者とされた者は、キリストを信じる以前の行いと、その行いが変えられます。私たちが救われるためには行いは関係ありません。イエス様を信じる信仰だけで救われます。しかし、本当に信じたのなら、信じて救われたのなら、その行いが以前とは変えられるのです。皆さんどうでしょうか。キリストを信じる以前と今とではずいぶん変わったなぁと思いませんか。

私は18歳で信仰を持ちました。それ以前はごく普通の高校生というか、よく授業をさぼって、部室や近くの喫茶店で時間をつぶしていました。朝ごはんを食べてもすぐにおなかが空くので、授業をさぼってそういうところで弁当を食べていたのです。朝から晩までバスケットボールに明け暮れ、バスケットボールのために学校に行っているようなものでした。ですから、高校3年生になって部活動が終わったときは何もすることがなくなって、毎晩友達の家に行って遊びほうけていました。まあいい加減というとか、何か満足するものを求めていたんじゃないかなぁと思いますが、その満足がわからなくて、何をしても心の深いところではいつも虚しさを感じていました。しかし、知り合いに誘われて教会に行きイエス様を信じて変えられました。

「だれても、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

イエス様を信じたら、もっと聖書のことを知りたいと思うようになり、一生懸命聖書を読むようになりました。それまでは本を読むという習慣がほとんどなく、ギデオン協会からもらった聖書を大切に本棚にしまっておくだけでしたが、もっとイエス様のことを知りたいと思うようになってむさぼるように読むようになりました。そして、私の人生の中心にイエス様がいてくださるのがわかりイエス様中心の生活へと変えられていきました。よくBeforeとAfterと比較されることがあります。それ以前とそれ以後がどのように変わったのを比較するわけですが、私はイエス様を信じて全く変えられました。今でもこんなにひどい人間なのですから、以前どれほどひどかったかを想像することができるでしょう。神は、そんな者を全く変えてくださいました。イエス様を自分の罪からの救い主として信じた瞬間から、神の御霊がキリストに似た者に変えてくださったのです。

では、キリストを信じた者はどのように変えられるのでしょうか。その特徴は何でしょうか。ペテロはここで、「従順な子どもになり」と言っています。イエス・キリストを信じて神の子どもとなった者は、神に対して従順な子どもになります。これがクリスチャンの特徴の一つです。神のことばに聞き、そして神に、キリストに従います。しかし、信じていない人はどうでしょうか。信じていないわけですから、従いません。聞いても従いたくありません。いや、従えないのです。生まれながら人は神に対して不従順です。パウロはそのことをエペソ2章3節でこのように言っています。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

私たちもそうでした。以前は神に対して不従順でした。なぜですか。無知だったからです。ペテロはここで、「以前あなたがたが無知であったときのさまざま欲望に従わず」と言っています。何に対して無知だったのでしょうか。神について無知でした。まことの神がただおひとりであることを知りませんでした。いろいろな神々がいると思っていました。それは人が作ったものであることを知っていたのに、本気でそのようなものを拝んでいたのです。そして、まことの神が天地の創造主であり、自分たちをお造りになられた方であるということも知りませんでした。そして、その神が私を愛していることも知りませんでした。霊的に無知だったので、さまざまな欲望に従い、自分の好き勝手に歩み、もやりたい放題でした。これが以前の生活です。

しかし、今はどうですか。今は真理を知りました。イエス・キリストを信じて新しく生まれ変わりました。神の子どもとされました。神の子どもの特徴は何ですか。従順です。ですから、今は以前のような不従順な子どものようなさまざまな欲望に従って歩むのではなく、15節にあるように、聖なる方にならって、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなければなりません。私たちを救ってくださったのは聖なる方、神ご自身です。それは私たちが従順な子どもとなり、あらゆる行いにおいて聖なる者となるためです。どうしたらあらゆる行いにおいて聖なる者とされるのでしょうか。あなたがたを召してくださった聖なる方にならうことによってです。エペソ5章1節には、「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」とあります。神にならう者となりなさい。私たちの模範は、神ご自身です。私たちが神にならうなら、だれでも神のように変えられます。

いったいなぜ私たちはあらゆる行いにおいて聖なる者とされる必要があるのでしょうか。16節にはこうあります。「それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。

まだ子供たちが小さかったとき家族でアメリカに行きました。そのころは家内の両親も元気だったわけですが、おじいちゃんの姿を見て、「あっ」というのです。「どうしたの」と尋ねると、「マミー、グランパーそっくり」と言うのです。その歩く姿が父親そっくりだというのです。どれどれとよく見てみると本当に似ているのです。DNAというのは受け継ぐんだなぁと思いましたが、ただDNAを受け継いでいれば似るというわけではありません。一緒にいて関わりがないと、全然似てないということもあるのです。一緒にいて関わっていると、どんな人でも似てくるのです。

私は時々だれかから「奥様にそっくりですね」と言われることがあります。私は日本人で、家内はアメリカ人ですよ。私はうさぎで家内は亀のような性格ですから、似ても似つかわしいと思いますが、どうも似ているらしいのです。本当かなぁと思ってよく考えてみると、確かに考え方において似ているなぁと思いました。先日結婚34周年を迎えましたが、ずっと長い間一緒にいると、考え方が似てくるのです。だから、誰と一緒にいるか、だれと関わるのかということはとても重要なことなのです。子どもが親に似せられるのは親との関わりを持っているからであって、その親がどういう人であるかは子どもの将来にとってとても大きな影響を与えることになるのです。そして、私たちは神の子どもとされました。神の子どもとされたのであれば、当然神のようになるはずです。神はどのような方ですか。神は聖なる方です。ですから、私たちも聖なる者でなければならないのです。

ペテロは、それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」と言っています。聖書にそう書いてあるので、そうでなければならないと言っているのです。どこに書いてあるのでしょうか。レビ記です。レビ記は、奴隷から救われたイスラエルの民が約束の地においてどのように生きるべきかを教えています。以前彼らは奴隷でした。でも彼らはそこから救い出されました。ですから、彼らは新しい約束の地に行ったときどのように生きるべきかを知る必要がありました。その基準が書かれてあるのがレビ記です。神が約束してくださった地はとても潤った土地でした。ところがそこに住んでいる人たちは神を知らない邪悪な人たちでした。ですから神は彼らを追い払うように、そして、彼らの生き方をまねないように、以前の生き方をしないで、新しい生き方をするように勧める必要があったのです。それはあらゆる行いにおいて聖く生きるということでした。なぜなら、神は聖なる方ですから、神の民であるイスラエルもそうでなければならなかったからです。

同じように、私たちも以前は罪の奴隷として生きていましたが、神のあわれみによってイエス・キリストを信じてその罪から救われました。その救われた者にとって必要なことは従順な子どもとなり、以前無知であったときのあらゆる欲望に従って生きることではなく、私たちを召してくださった聖なる方にならって生きることです。その方は聖なる方なのですから、私たちも聖でなければならないのです。私たちがあらゆる行いにおいて聖くされること、それが神のみこころなのであって、イエス・キリストに似た者とされること、それが私たちのゴールなのです。

Ⅲ.神を恐れかしこんで(18)

第三のことは、神を恐れかしこんで生きるということです。18節をご覧ください。

「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」

キリストの恵みによって救われた人の人生は、神を畏れかしこんで生きる人生です。この「神を恐れかしこむ」というのは、神を恐れの対象としてブルブル震えながら生きるということではありません。神を恐れかしむというのは、神が常に自分の前におられると信じ、この神を意識して生きるということです。自分の前にいつも神がおられるので、そのことを意識して話し、行動し、その瞬間、瞬間を生きるのです。

なぜクリスチャンはそのようにして生きなければならないのでしょうか。それは、人をそれぞれのわざに従ってさばかれる方を父と呼んでいるからです。神はそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方です。昔から、地震、雷、火事、おやじと言われてきました。父親はそれほど威厳がある存在だったのです。しかし、今ではそれが薄れてきました。父親を父親として敬う子どもが少なくなってきました。その結果、家庭の中にいろいろな問題が起こるようになったのです。それは神に対しても同じで、神を恐れない人は悪に走るようになります。それはたとえキリストを信じていてもそうです。神を信じていると言っても健全に恐れていないと、未信者のような行動をとってしまうことになるのです。

いったい私たちの父はどのような方なのでしょうか。ここには、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方とあります。私たちの神は、私たちの行いに応じて公平にさばかれる方です。これは私たちの行いによって救われるということではありません。私たちはすでにイエス・キリストを信じたことで救われています。もう罪のさばきはありません。イエス・キリストを信じた者はみな永遠のいのちを受けます。しかし、信じた者がみな同じ報いを受けるのかというとそうではなく、その行いに応じて報いが違うのです。

ローマ人への手紙2章6,7節にはこうあります。「神は、ひとひとりに、その人の行いにしたがって報いをお与えになります。忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下さるのです。」

また、Ⅱコリント5章10節には、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。

私たちがこの地上で行ったことに応じて、神様は正しく評価してくださるのです。ですから、神を恐れかしこんで過ごさなければなりません。ペテロはここで、「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を」と言っています。私たちは、いつまでもこの地上に住んでいるのではありません。この地上の時はしばらくの間にすぎません。やがてこの地上でのいのちを終えて永遠の住まいへと帰って行きます。イエス・キリストを信じたのであれば神の国に入れられますが、そうでなければ神のいない所に入れられます。あなたはどこで永遠を過ごしたいですか。イエス・キリストを信じて神とともに永遠に過ごしたいと思いませんか。そして、そこで主イエスが戻ってこられることを待ち望むのです。その時、私たちが待ち望んでいたものが現実のものとなります。私たちのからだも復活し、朽ちないからだ、栄光のからだとなって、いつまでも主と共に過ごすようになるのです。ですから、私たちのこの地上にとどまっているしばらくの間の時を、神を恐れかしこんで過ごさなければなりません。

私たちは、神の恵みによって生ける望みを持つようになりました。ですから、私たちは心を引き締め、身を慎み、主が戻って来られるときにあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。従順な子どもとなり、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなければなりません。それは、神が聖であられるからです。ですから、私たちも聖でなければなりません。そして、主は正しくさばかれる方なのですから、その主を恐れかしこんで良い業に励みましょう。そして、やがて神から豊かな恵みを受けることを待ち望み、日々主に信頼して歩ませていただきましょう。