Ⅰペテロ1章18~21節 「キリストの贖い」

きょうは「キリストの贖い」というテーマでお話します。これまでペテロは神の救いの偉大さ、すばらしさについて語ってきました。それは永遠の昔から神によって計画されていたことであり、最初の人アダムが罪を犯した時から、預言者たちを通して預言されていたことです。それが時至ってイエス・キリストによって実現しました。そして、聖霊によって福音を語った人々を通して当時の人々、そして、私たちにも告げ知らされました。それは御使いもはっきりと見たいと思うほどすばらしいものです。ですから、そのような救いを受けた者は、イエス・キリストの現われのときにもたらされる救いの完成をひたすら待ち望むことが求められます。いったいどうしたら神を恐れて生きることができるでしょうか。

そこでペテロはここで贖いについて語ります。そのためにどれだけ尊い犠牲が払われたかを知れば、神の恵みの大きさ、すばらしさがわかり、心から神を恐れて生きることができるようになります。

Ⅰ.キリストの血による贖い(18-19)

 

まず18節と19節をご覧ください。

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

贖いとは何でしょうか。贖いとは、奴隷の状態にあった人を、お金を払って自由にすることです。あるいは、捕らえられていた人を、保釈金を払って解放することです。また、誘拐された人を、身代金を支払って取り戻すことを言います。聖書は、私たちは皆、罪の奴隷であったと教えています。そのような状態から解放するために神は代価を払ってくださいました。それが贖いです。

ある少年が、小さなおもちゃのボートを作りました。木材をカットし、型枠を作り、それを船底にボンドでくっつけました。帆柱を立て、マストを張って、やっとの思いで完成させて、それを湖に浮かべました。それはとてもいい出来で、大満足でした。ところが、突風が吹いてきて、湖に浮かんでいたボートが沖の方に流されてしまいました。せっかく作ったばかりだというのに、どこに行ってしまったのかわからなくなりました。しかし、数日後、この少年が街の中を歩いていると、おもちゃ屋の前をとおりかかったとき、そこに自分の作った船が置いてあることに気付きました。彼は急いで店の中に入ると店の人に、「これボクの船だよ、ボクが作ったんだ」というと、店の人は、「それは違う。これはね、ある人から買ったんだ。欲しければ売ってやるよ。そうすればキミのものさ。」それで少年は家に戻り貯金箱を割って、それまで貯めていたお金とありったけのお金を持って再び店に行きました。そしてお金を払って買い戻したのです。

これが贖いです。神は、ご自身から遠く離れて罪の奴隷となっていた私たちを買い戻すために代価を支払ってくださいました。どのような代価でしょうか。ここには、「あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷も汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。

当時、銀や金は最も価値あるものの一つでしたが、たとえそれがどんなに価値があっても、それらは朽ちるものであり、一時的なものでしかありません。永遠に続くものではないのです。ここでペテロは、あなたがたが贖い出されたのはそのような朽ちるものによってではないと言っているのです。では何によって贖いだされたのでしょうか。19節には、「傷もなく汚れることもない小羊のようなキリストの尊い血によったのです。」とあります。キリストの、尊い血によったのです。

ペテロは出エジプトの出来事を思い起こしていたのではないかと思います。かつてイスラエルの民は四百年の間、エジプトの奴隷として過ごしていました。そんな過酷な状態の中で主に助けを求めると主はモーセを遣わし、彼らを救い出してくださいました。しかし、エジプトの王がなかなか彼らを行かせようとしなかったので、神はエジプトに十の災いを下されました。その最後のわざわいは、エジプト中の初子という初子を打つというものでした。ただ傷のない小羊をほふり、その血を取って、家のかもいと二本の門柱に塗れば、神はその血を見てさばきを通り越すと言われたのです。そのさばきから免れる唯一の道は小羊をほふり、その血を塗るということだったのです。

ここで問題なのは、その身代わりとなった小羊とはどのようなものであったかということです。ここには、「傷もなく汚れもない小羊」とあります。それは全く罪がなかったことを表わしています。しかし、罪のない人などひとりもいません。人間であるということは罪を持っているということなのですから、罪のない人間などいないのです。罪がないとしたらそれは神だけであって、その神が人となってくださる以外に方法はありません。そこで神はそのひとり子をこの世に遣わし、その血によって罪の贖いを成し遂げてくださったのです。それがイエス・キリストの十字架です。ですから、バプテスマのヨハネはこの方についてこう証言したのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)

イエス・キリストこそ、私たちの罪を取り除くことができるまことの神であり、私たちの罪を取り除く神の小羊だったのです。本来ならば、私たちは自分の罪のために神にさばかれて永遠に神から切り離されなければならなかったのに、神はそんな私たちをあわれんでくださいました。神は私たちをさばくことをしないで救う方法を考えてくださったのです。そのためには代価が支払われなければなりませんでした。それが神の子イエス・キリストの尊い血だったのです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)

この血によって、私たちは罪の赦し、永遠のいのちを受けました。ですから、いつこの肉体が滅んでも、いつ死んだとしても、神の国に、天国に入れていただけるのです。これはすばらしい特権ではないでしょうか。あなたは、この特権を受けているでしょうか。あなたの罪は赦されていますか。私たちはいつも過去を振り返って、なぜあんなことをしたんだろう、こんなことをしたと後悔しながら生きています。人生をもう一度リセットすることができるものならそうしたいと思っていてもできません。しかし、イエス・キリストを信じるなら、あなたの罪はすべて赦され、永遠のいのちが与えられるのです。しかも、ただです。そのために多くのお金を支払ったり、もっと教育を積まなければならないとか、そのために何か修行しなければならないということはありません。それはすべて神の恵みによるのです。よく教会で何かの催しをするとき、「入場無料です。お気軽にお越しください。」とチラシに書きますが、「無料です」というと、何だか安っぽいイメージがありますが、そういう意味ではありません。それはこの世の金銀のすべてを支払っても買うことができないほど価値があるもので、そのためには、神のひとり子のいのちが支払われたのです。それほど価値があるものなのですが、それをただで受けるのです。

それは言い換えると、あなたが神の前にどれほど価値があるかを意味しています。神はあなたを買い戻すために、ご自分のいのちを支払ってくださいました。それほどあなたは価値があるのです。イザヤ書43章4節で、神はこう言っておられます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

私たちは自分では価値ある者だなんて思えません。何か優れた能力を持っているわけではありませんし、すばらしい経歴を持っているわけでもありません。いったい何のために存在しているのかさえわからなくなる小さな者です。しかし、神はそんな者を、「あなたは高価で尊い」と言ってくださる。だれか他の人の目でそう見えるかからではなく、神の目で、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している、と言ってくださるのです。それは決して口先だけのことではありません。なぜなら、そのために最も高価な代価を支払ってくださったからです。神は私たちをそれほど価値あるものと見ておられるのです。私たちの罪を赦すのは、イエス・キリストの血以外にはありません。神の子の尊い血によって私たちは罪から贖われ、神のものとされたのです。

Ⅱ.世の始まる前から定められていた贖いの御業(20)

次に20節をご覧ください。それでは、このキリストの血による贖いは、いつ定められたのでしょうか。「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。」

「世が始まる前から」とは、この世界が創造される前からということです。神はこの救いの計画を最初の人アダムとエバが創られる以前から、この世界の基が置かれる前からあらかじめ定めておられたのです。どういうことでしょうか。これは罪の贖いですから、この世界に罪が入って来た時から計画されたことではないのですか?違うんです。私たちはしばしば、神が創造したこの世界が罪に汚れてしまったのでイエス・キリストによってこの世界を救い出すように考えることがありますが、そうではなく、世界が創造されるずっと前からあらかじめ定められていたことだったのです。神は創造者であられると同様、永遠の贖い主であられるのです。そのことが、エペソ1章3節から5節までにこうあります。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにゆって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

私たちがイエス・キリストにあって神の子としていただくことは、あらかじめ定められていた神のご計画であり、その計画は世界の基の置かれる前からのものだったことがわかります。ですから、最初の人アダムが罪を犯したとき、「こんなはずじゃなかった」と、神は驚かなかったのです。そのようなことがあることを始めから知っておられました。知っておられたうえであえて彼に選択権を与えられたのです。それは彼が自分の意志で神を愛し、神に従うようになるためです。自分の意志で自由に選ぶことができないとしたら、それは本物の愛ではありません。ロボットのように、「わ・た・し・は、この・人・が・好き・で・す」みたいになってしまいます。自分の意志で選んでこそ心から愛することができるわけで、神はそのようにされたのです。

しかし、そこには常に危険が伴うのも事実です。心から神を愛することもできますが、失敗して神の命令に背くこともありますから・・。でも神は人間に自由意志を与え自発的に愛することができるようにされました。そして、そのことをあらかじめ知っておられた神は、ずっと昔から救いの計画を持っておられたのです。そして、最初の人アダムが失敗したときすぐに、あらかじめ定めておられ救いの計画を実行されました。それは創世記3章15節にあるように、女の子孫から救い主を遣わすということでした。メシヤ、キリスト、救い主が来て、贖いの代価として自分のいのちを与えるということだったのです。

それが、「この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。」終わりの時とは、イエス・キリストの現われとともに始まりました。ユダヤ人はこの終わりの時をこの先の未来のことと考えていましたが、使徒たちはこの終わりの時はすでにキリストとともに始まったと考えていました。彼らは終わりの日に聖霊が注がれると理解していて、ペンテコステの時にそれが成就したと考えていたのです。永遠の初めからおられた方が、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。それが今から二千年前の受肉という出来事です。神が人となって生まれたクリスマスの出来事です。

ヨハネは、このことをこう言っています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。ひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)目に見えない神が、目に見える形で現われてくださいました。ことばが人となって来てくださいました。この方は栄光に満ちておられました。それはひとり子としての栄光です。私たちはこの栄光を見たのです。それはひとり子としての栄光であり、私たちの救い主イエス・キリストです。

いったいこの方は何のために来られたのでしょうか。ここに、「あなたがたのために」とあります。イエス様はあなたのために来られました。あなたを罪から救ってくださるために、あなたを罪から贖うために来てくださったのです。そのことが、ガラテヤ書4章4~5節では次のように言われています。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、この結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」このために来てくださったのです。神の律法によってはだれも義と認められることはありません。そのような者を贖うために、この方が律法の下にある者となって、私たちの刑罰を代わりに十字架で受けてくださいました。それゆえ私たちはその律法から解放され、子としての身分を受けることができたのです。

ですから、十字架の上でキリストはこのように叫ばれたのです。「完了した。」(ヨハネ19:30)あなたが罪のために支払わなければならない代価は完了しました。完済しました。住宅ローン等で苦労しておられる方も多いかと思いますが、結構厳しいですよね。精神的にズッシリきます。全部支払いが終わったらどんなに楽になるかと思います。イエス様は私たちの罪のために支払わなければならない債務を完済してくださいました。あなたの救いは完成したのです。この罪の贖いを信じるものは、だれでも罪が赦され、神の子とされるのです。

Ⅲ.キリストをよみがえらせた神(21)

第三のことは、この贖いの保証です。それは神がこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださったということです。21節をご覧ください。「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」

ペテロはここで、キリストがよみがえられたことを強調しています。なぜでしょうか。キリストの贖いがどれほどすばらしいものであったのかを語ればそれで十分だったのではないでしょうか。いいえ、そうではありません。もし罪の贖いの代価がどれほどすばらしいものであったとしても、キリストがよみがえらなかったとしたら、その罪の贖いは不完全なものであったということになります。支払い不足ということになるのです。私が払っておきますと言っておきながら、お金が足りませんでしたということにもなりかねないのです。なぜなら、それで十分であったのかどうかを知ることができないからです。死んだだけであればすべてが終わりであって、本当にそれが完全な贖いであったかどうかを知ることなどできないからです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださいました。そのことによって、この罪の贖いが完全であったことを証明してくださったのです。バークレーという注解者のことばで言うと、「キリストの勝利を論じないで、キリストの犠牲を語る人はほとんどいない。」(聖書注解シリーズ14、P246)のです。ペテロはこの復活の証人でした。キリストが復活したということは、この贖いが完全であったということの証明でもあったのです。ですから、ペテロは復活の主イエスと出会い、自分のいのちをかけて本気でキリストを伝えたのです。「本当です!キリストは私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。この十字架は私たちの罪を贖うための完全な代価であって、永遠の昔から神が定めておられたことだったんです。このイエスを救い主と信じるなら、あなたも救われます。なぜなら、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださったからです。本当です、本当です。」と、本気になって伝えたのです。私たちの信仰と希望は、このキリストをよみがえらせてくださった神にかかっています。イエスの十字架での死によって、私たちは罪の奴隷と死の束縛から解き放たれました。そして、イエスがその死からよみがえられたことによって、イエスご自身と同じいのち、永遠のいのちにあずかるものとされたのです。

ペテロはここで、「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。」と言っています。「私は、神様を信じています」という人はたくさんいます。しかし、問題はその神がどのような神であるかということです。いわしの頭も信心からで、私たちは何でも神にしてしまう傾向があります。信じる者は救われる、何でもいいから信じることが大切だというのです。でも人が考えた宗教を信じても、そこに本当の救いはありません。そのような宗教は私たちの罪を贖うことはできないからです。私たちの罪を贖うことができるのは、人なって来られた神イエス・キリストだけです。キリストが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、三日目によみがえり、それが本当であるということを証明してくださいました。ですから、このイエスを信じるものは誰でも救われるのです。このキリストによらなければ罪の赦しはありませんし、神に近づくこともできません。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。ですから、私たちの信仰と希望は、このイエスを死者の中からよみがえらせてくださった神にかかっているのです。そしてこの希望は、絶対に失望に終わることはありません。これは生ける望みなのです。この望みを知れば知るほど、私たちに今どんな困難にあっても、それを乗り越える力が与えられます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかるので、栄に満ちた喜びに踊ることができるからです。

皆さんはいかがですか。皆さんは、どこに望みを置いておられますか。このイエスを死者の中からよみがえらせてくださった主こそ、私たちの希望です。この方はご自分のひとり子の血という代価を払って、私たちを罪の中から贖い出してくださいました。それほどまでに愛してくださいました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」のです。この贖いに感謝して、キリストをよみがえらせてくださった神に信頼して、イエス・キリストの現われのときにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みましょう。神を恐れて歩ませていただきましょう。