Ⅰペテロ2章1~3節 「乳飲み子のように」

きょうは、ペテロ第一の手紙2章1節3節までのみことばから、「乳飲み子のように」というタイトルでお話しします。

 

乳飲み子は不思議なもので、誰からも教えられていなくても必死になってお母さんのおっぱいを求めます。特にお腹が空いている時などは大泣きをしながら訴えます。そして、おっぱいを口にあててもらうと、一心不乱に飲み始めるのです。その吸う力には驚かされます。ひとたび口にくわえたら、どんなことがあっても離しません。娘がまだ乳飲み子だったころ、それがどのくらい強いかをみようとそのほっぺに人差し指を当てて引き離してみたことがありますが、それは相当の力でした。ちょっとやそっとでは口から離すことはありませんでした。ここには、そんな乳飲み子のように、霊の乳飲み子である私たちも、神のことばである聖書を一生懸命に慕い求めるようにと教えられています。

 

Ⅰ.捨てるべきもの(1)

 

まず1節をご覧ください。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、」

 

ここには、「ですから」という言葉で始まっています。それは、前の箇所とのつながりで語られているということです。前回のところでペテロはどんなことを語ってきたのでしょうか。22節には、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」と勧めました。そして、そのようなたましいの救いはどのようにしてもたらされたのですか。23節にはこうありましたね。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わるこのない、神のことばによるのです。」この世の種はみな朽ち果ててしまいますが、私たちが新しく生まれたのは朽ちない種、生ける、いつまでも変わらない神のことばによるのです。「ですから・・」です。

 

この事実に基づいてペテロは、「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」と言っているのです。ここには神の言葉によって新しく生まれた者はどうあるべきなのかの前に、そのような者が捨てるべきものは何かを述べています。それは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口です。この「捨てて」と訳された言葉は、「脱ぎ捨てて」という意味の言葉です。真理のことば、神のことばによって新しく生まれた者は、泥まみれの汚い衣服を脱ぐように、ふさわしくない古いものを脱ぎ捨てなければなりません。

 

それはまず「すべての悪意」です。ペテロはここで、すべての悪意を捨てるようにと言っています。悪意とは何でしょうか。悪意とは、他人に害を加えようとする悪い心のことです。そのことが恨みやねたみ、敵意や不平不満など、あらゆる悪へと広がっていきます。イエス様はマルコの福音書7章20節で、「人から出るもの、これが、人を汚すのです。」と言われました。「内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:21~23)内側にあるものが外側に表れます。その内側にある悪の根こそ悪意であり、そこからすべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口といったものが出てくるのです。

 

このような悪意があるとどうなるでしょうか。当然、互いに愛し合うことができなくなってしまいます。ですから、悪意というのは教会の交わりを損なわせる原因となのです。ですから、ペテロはここで互いに愛し合うためにはまず、すべての悪意を捨てなければならないと勧めているのです。

 

真理のことばによって新しく生まれたクリスチャンが捨てなければならない二番目のものは、「すべてのごまかし」です。ごまかしと訳された言葉は、釣り針にえさをつけるという言葉から来ています。釣り人はどうやって魚を釣るのでしょうか。釣り針にえさをつけて、「これはおいしいですよ。どうぞパクリと食べてください」とだまして釣ります。そのように他人をだますこと、それがごまかしです。最初の人アダムとエバが罪に陥ったのも、悪魔の巧妙なごまかしによりました。「神さまは、ほんとうに食べてはならないと言われたのですか。」と疑いを起こさせると、「あなたが食べても死にませんよ」と神のことばを否定し、「あなたが食べるその時、あなたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言ってだましたのです。そのようにもっともらしく見せかけて人をだますこと、それがごまかしです。こうしたごまかしは自分の信用を失うばかりか、人との信頼関係をも壊します。ですから、このようなごまかしを捨てなければなりません。

 

次に、いろいろな偽善を捨てなさいとあります。「偽善」とは役者を演じることです。役者は自分でない自分を演じます。本当の自分を隠して他人を演じるのです。よくテレビのドラマなどを見ていると、よくできるなぁと感心させられます。最近見たドラマに「小さな巨人」という番組がありましたが、その役者さんはものすごい迫力でしたね。ちょっとやりすぎじゃないかと思うくらいの演技力でした。役者は自分の心とはかけ離れた顔で、真の感情とは全く異なった言葉でその人になりきるのです。テレビのドラマは一つの作品なのでいいのですが、そうした偽善が私たちの日常生活で行われると相手に対して壁を作ってしまい、親しい交わりができなくしてしまいます。ですからここでは「いろいろな」とあるのです。そのいろいろな偽善を捨てなければなりません。

 

クリスチャンが捨てなければならないもう一つのものは、ねたみです。ねたみとは、相手が成功したり祝福されているのを見てうらやんだり、苦い思いを持つことです。ねたみはクリスチャンになってもなかなか抜けない性質の一つです。キリストの弟子たちですら、だれが一番偉いかと最後まで議論していたほどです。しかし、こうした性質は互いに愛し合うことを妨げ、良い人間関係を築き上げていくことを破壊してしまいます。

 

最後にクリスチャンが捨てるべきものとしてペテロが挙げているのは、すべての悪口です。悪口とはだれかのことを引き下げて話すこと、その人を非難中傷することです。そういう人はたいてい人と話すとき、「あの人はすごいよね」という会話になったとき、「まあ、確かにそうだけど、でもね、本当はね、こうなんだよ、ああなんだよ」と、その人をどうにか引き下げようとする思いが働きます。それは、大抵の場合、心の中のねたみが原因となっています。こうした悪口やうわさ話はだれもがあとになって悔やみ、悪いということを認めているものの、同時にほとんどすべての人が楽しむものでもあるのです。しかし、まず陰口や悪口ほど問題を引き起こし、相手の心を痛めさせ、兄弟愛やクリスチャンの一致を破壊するものはありません。それゆえに、ペテロはここで悪口を捨て去るようにと勧めているのです。

 

そしてこれらの言葉に「すべて」とか「いろいろな」いう言葉が付けられていることに着目してください。つまり、どんな種類のものでもいけないということです。生ける、いつまでも変わることのない神のことばによって新しく生まれたクリスチャンはまず、こうした古いものを脱ぎ捨てなければなりません。

 

Ⅱ.みことばの乳を慕い求めなさい(2)

 

では、霊的に新しく生まれたクリスチャンが積極的に求めていかなければならないものは何でしょうか。2節をご覧ください。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

 

ここから教えられることは、私たちはまだ最終的な救いに達していないということです。確かに神の恵みにより、イエス・キリストを信じたことでたましいの救いをいただくことができましたが、それは救いが完成したということではなく、私たちの中に救いが始められ、その救いの中に置かれているということなのです。ですから、パウロはピリピ人への手紙の中で、「自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)と勧めているのです。私たちは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス様を信じたことで完全に救われました。しかし、一方では、その救いというのは私たちの一生をかけて完成されていくものでもあるのです。神が真理のみことばによって始めてくださった救いの業を、私たちが聖霊の恵みに信頼することによって達成していくという面があるのです。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださいます。神は私たちに働いて救われたいという思いを与え、その救いの種を植え付けてくださいました。しかし、それはまだほんの始まりにすぎません。その救いの芽を大きく育てていかなければならないのです。いったいどうしたら成長していくことができるのでしょうか。

 

ペテロはここで、そのためには「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」と言っています。それによって成長し、救いを得ることができるからです。

 

なぜなら、それは何の混じりけのない「純粋な」神のことばだからです。私たちが日ごろ食べている食物にはいろいろな添加物が混じり込んでいて、何が本物なのかわかりにくくなっています。そのため混ぜ物をした方がおいしく感じてしまうことがあります。今はそういう時代です。純粋なみことばに、いろいろな物を混ぜた方がおいしいと感じてしまうのです。いつの時代でも、福音宣教においては、こうした人の口に合うように何らかの混ぜ物をしようとする試みがなされてきました。しかし、神のことばは純粋で、ピュアなものです。この純粋なみことばの乳によってこそ、私たちの信仰は養われていくのです。

 

私たちの教会では聖書通読を重んじています。毎週の礼拝と個人の礼拝、デボーションを大切にしていきたいと願っています。それは、この神のみことばが私たちを救い、成長させてくれると信じているからです。毎日、少しずつでもこのみことばの乳を飲んでください。そうすれば、この純粋なみことばの乳によって私たちの考え方や、生活が変えられていくのです。このみことばの乳を慕い求め、毎日飲む習慣を身に着けていただきたいものです。ではどのようにこれを求めたらいいのでしょうか。

 

ここには、「生まれたばかりの乳飲み子のように」とあります。皆さんも、生まれたばかりの乳飲み子がお母さんのおっぱいを吸うのを見たことがありますか。それは必死というか、ものすごい勢いで飲みます。まだ目が見えない時から、お母さんのおっぱいを探し当て、すごい勢いで飲むのです。まだ他のことは何もできないのに、あの小さな体のどこに、そんな力があるのかと不思議に思うほどです。まるでそのことに生死がかかっているかのようです。周りで見ている者にとっては、そんなにあわてなくても大丈夫よ、と声をかけてあげたくなるほどです。しかもそれを2~3時間ごとに繰り返します。おっぱいを飲んでやっと寝たかと思うと、またすぐにおっぱいが欲しいと泣き叫びます。すると、またしても変わらぬ勢いでゴクゴクと飲み始めるのですから驚いてしまいます。それは元気な証拠ですから、親にとっては嬉しいことですが、そのあまりの頻繁さに、夜中に何度も起こされて「もう勘弁してよ!まだ飲むの?」と思ったことがある母親も多いのではないでしょうか。

 

このたとえによってペテロはどんなことを言いたかったのでしょうか。それはこの乳飲み子のように、生まれたばかりのクリスチャンもみことばの乳を慕い求めるようにということです。乳飲み子は母乳が与えるのをじっと待ってはいません。母親がそれを口に流し込んでくれたら飲みますよ、という態度ではなく、ミルクが欲しいという思いを体全体で表し、かつありったけの声を出して、必死に求めます。そしてそれが与えられると一生懸命に、ただそのことだけに集中して飲み続けるのです。私たちのみことばに対する態度はどうでしょうか。赤ちゃんがこのようにお乳を飲まなかったら、それはその体のどこかがおかしいということです。どのようにお乳を飲むかによって、健康なのか、あるいは不健康なのかがわかるのです。であれば、私たちのみことばに対する姿勢によって、私たちの霊的健康の度合いも知ることができます。私たちは、純粋な、みことばの乳によって、与えられたいのちが養われ、それを成長させ、救いのゴールに向かって力強く前進して行くことができるのです。

 

詩篇42篇1節には、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」とあります。鹿が谷川の流れを慕い喘ぐという表現はどこかのどかで、美しい情景が思い浮かべますが、実際はそのようなイメージとはほど遠く、飲み水を求めて谷川の水を激しく慕い求める鹿の姿が描かれているのです。パレスチナには雨季と乾季があって、乾季にはまったくと言ってよいほど雨が降らないため、多くの川は干上がってしまいます。そのような中で鹿にとっての唯一の水源は、谷川を流れる水溜りのような水だったのです。その水を求めて鹿は、もはや川とは呼べないような谷川の水を、激しくむさぼり飲んだのです。

 

生まれたばかりの乳飲み子が乳を慕い求める姿と、鹿が谷川の流れを慕い求める姿に共通していることはどんことでしょうか。どちらも必死であるということです。そのようにクリスチャンも、純粋なみことばの乳を慕い求めなければなりません。それによって成長し、救いを得ることができるからです。

 

今から200年ほど前、イギリスの田舎の小さな家に、メリー・ジョーンズという10歳の女の子がいました。日曜の朝になると、メリーは両親と一緒に4キロほど離れた村の小さな教会へ出かけます。教会では聖書のお話を熱心に聴きました。学校で読み書きを習い、聖書が読めるまでになりましたが、教会に行かないと聖書を読むことができません。その頃、聖書はとても高価で貴重なものだったのです。「もっと聖書を読みたい」メリーは、自分の聖書が欲しいと思うようになりました。メリーの家はとても貧しく、靴も買えないような暮くらしぶりでしたが、メリーは聖書を買うために一生懸命、お金を貯ためました。

6年が過ぎ、ようやく聖書が買えるほどのお金を貯めることができました。でもどこで聖書が買えるのでしょう?聖書を探すメリーは、バラという町に聖書を数冊持っている人がいると教えられました。欲しかった聖書が手に入ると聞き、彼女は40キロも離れたバラの町まで歩いて行くことを決心をしました。果てしなく思えるような長い道のりを、メリーは裸足で進んで行きました。多くの小道を抜け、谷や小川を渡り、丘を越えて、ようやく町に到着しました。 そして、人々に道をたずねて、とうとう教会に着きました。

「聖書が欲しいんです。」玄関のドアが開くと、メリーはチャールズ牧師に頼みました。ところが、チャールズ牧師は困った顔をして言いました。「聖書は全部売れてしまったんだ。残っている3冊も友だちにやると約束したものなんだよ。」これを聞いたメリーは全身の力がぬけて泣き出しました。チャールズ牧師はそれを見みてしばらく考えこんでいましたが、やがて隣の部屋から聖書を手に戻ってきました。「メリー、きみの聖書だよ。」チャールズ牧師はなんと3冊ともメリーに手渡したのです。「きみの町に住む人たちにも分けてあげるといい。」チャールズ牧師は1冊分のお金しか受け取りませんでした。メリーは真新しい聖書を手にすると、飛び上がって喜び、心から感謝をしました。「チャールズさん、イエス様、ありがとう!」

メリーは喜んで家に帰っていきましたが、聖書を求めて裸足で旅してきたこの少女のことがチャールズ牧師の頭から離れませんでした。「もっと大勢の人々が聖書を手にできるようにしなければならない。」チャールズ牧師は、多くの有名人にメリーとの出来事を訴えました。それから4年、メリーの話に感動した人々の協力によって、世界最初の聖書協会がイギリスに設立されました。「誰もが買える価格で聖書が読めること」、「人々が普段使っている言語で聖書を読めるようにすること」、これが聖書協会の働きの出発点となりました。

 

聖書を手に入れることにこんな苦労をしていた時代と比べて、私たちはなんと恵まれていることでしょうか。かりそめにも、聖書を読むことが義務感からということの無いようにしたいものです。聖書は、神様が私たちに与えて下さったラブレターです。本当に愛し合っている男女がラブレターを放って置くはずがありません。どんなことが書かれているのか、期待と興奮をもって読むはずです。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めましょう。

 

Ⅲ.主のいつくしみを味わっている(3)

 

第三のことは、なぜそのようにみことばを慕い求めるのか、その理由です。3節をご覧ください。ペテロはその理由をこのように言っています。「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」

 

どういうことでしょうか。ペテロはここで、「あなたがたは、主が恵み深い方であることを、すでに味わい知っているのだから、このようにすべきである。」と言っているのです。このようにというのは、みことばの乳を慕い求めることです。私たちがみことばを求めるのはどうしてなのかというと、みことばによって、主の恵み深い方であることを、すでに味わい知っているからなのです。

 

私たちはみことばによって何を味わったのでしょうか。私たちが味わったのはまず救いの恵みです。パウロが言っているように、私たちの救いは、自分の力ではどうすることもできませんでした。変わりたいけれど変われない、止めたいけど止められない、したいけどできない、ほんとうにみじめな人間でした。しかし、自分にはできないことを神はしてくださいました。神はキリストを遣わし、私たちの罪のために十字架で死んでくださることによって、この罪を処罰してくださいました。ですから、私たちはこのキリスト・イエスにあるいのちと御霊の原理によって、罪と死の原理から解放されたのです。私たちはこの救いの恵みを味わいました。罪が赦されるというほど大きな喜びはありません。私たちは、この罪の赦し、永遠のいのち、救いの喜びを味わったのです。

 

しかし、私たちが味わったのは救いの喜びだけではありません。私たちが日々この地上で生きていく上でも、多くの恵みを受けています。神の恵みは尽きることがありません。それは朝毎に新しいのです。

哀歌3章22~23節には、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝毎に新しい。あなたの真実は力強い。」とあります。

イスラエルが荒野を旅した時も、神は天からのパンをもって日々彼らを養ってくださいました。何日も前のパンではなく、その日、その日に必要なだけのフレッシュなパンです。それは朝毎に新しい恵みなのです。同じように、神は天からのマナをもって、私たちの糧を与えてくださいました。私たちには霊的な必要や物質的な必要ばかりでなく、肉体的や精神的なものも含めいろいろな必要がありますが、神はそうしたすべての必要も満たしてくださいました。祈りがかなえられるということもそうです。これまで何度も自分の力ではどうすることもできないということがありましが、不思議に神が助けてくださり、その道を開いてくださいました。治るはずじゃない病気が治ったり、受かるはずじゃなかった大学に受かったり、通るはずじゃなかった試験に通ったりといったことがたくさんありました。それはたまたまそうなったのではなく、そこに神が働いてそのようにしてくださったのです。すべては神の恵みなんです。私たちはそうした神の恵みを味わったのです。危険から守られるのもそうです。皆さんもこれまで何度かヒヤッとした経験をされたことがあるのではないでしょうか。あと1秒遅かったら、もしあの電車に乗っていたら、ということがありました。しかし、神はそうした危険からも守ってくださいました。いろいろな祝福もありました。入学や就職、結婚や出産、家族が守られたこと、住まい、健康など、私たちは当たり前だと思っていますが、実はそうではなく、これらすべて神の恵み、神の祝福なのです。私たちが受けるに値するから受けたのではなく、神の恵みによって与えられたのです。私たちはすでに、その主の恵みを味わっているのです。主がそれほどいつくしみ深い方であることを味わっているのですから、私たちは悪いものを捨て、私たちにとって良いもの、私たちのたましいを救い、成長させてくれるもの、神のみことばを慕い求めなければならないのです。

 

詩篇34篇8節には、「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」とあります。主のすばらしさを味わい、これを見つめる人はなぜ幸いなのでしょうか。なぜなら、その人は主に身を避けるようになるからです。

 

あなたはこの恵みを味わっているのです。そして、その恵みは尽きることがありません。ですから、さらにこの恵みを味わいましょう。それは純粋な、みことばの乳によってもたらされます。生まれたばかりの乳飲み子のように、このみことばの乳を慕い求めようではありませんか。それによってあなたは成長し、救いを得ることができるのです。