きょうは、互いに熱く愛し合うというテーマでお話します。たましいの救いのすばらしさ、偉大さについて語ってきたペテロは、13節のところから、そのようなすばらしい救いをいただいた者はどのように歩まなければならないのかについて三つのことを勧めました。第一に、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさいということ、第二に、15節にあるように、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさいということ、そして第三に、17節にあるように、この地上にとどまっているしばらくの間の時を、神を恐れかしこんで過ごしなさいというのです。では、そのためにはどうすればいいのでしょうか。
そのためには前回お話ししたように、そのためにどれほど尊い代価が支払われたのか、どれほど神に愛されているのかを知らなければなりません。それを知れば知るほど、神の恵みの大きさ、すばらしさがわかり、心から神を恐れて生きることができるようになるからです。
それでは、他の人に対してはどうあるべきでしょうか。ペテロはここであらゆる行いに対して聖なるものとされなさいと命じた後で、人との関わりにおいてどうあるべきなのかを教えています。それは、互いに心から熱く愛し合うということです。
Ⅰ.互いに熱く愛し合いなさい(22)
まず22節をご覧ください。
「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」
互いに愛し合うことは聖書の中心的な教えであって、イエス様ご自身も命じておられることです。たとえば、ヨハネの福音書13章34節には、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とあります。これはイエス様の命令であり、新しい戒めです。それは、イエス様が私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合わなければならないということでした。
また、マタイの福音書22章37~40節には、「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」という律法の専門家の質問に対して、イエス様は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これが題意の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37~40)と答えられました。つまり、神を愛し、隣人を愛することが、聖書の中のたいせつな戒めであり、聖書全体が命じている中心的なことであると言われたのです。
しかし、ここには単に兄弟を愛しなさいというのではなく、互いに心から熱く愛し合いなさい、と言われています。どういうことなのでしょうか。「心から」と訳された言葉は、下の欄外の説明にもあるように、「きよい心から」という意味の言葉です。おそらくその前にある「偽りのない兄弟愛」という言葉と対照しての「きよい心からの兄弟愛」ということなのでしょう。偽りのない兄弟愛とは、偽善的でないとか、見せかけでない、うわべのものでない、真実の愛という意味です。
使徒ヨハネは、この愛についてこう言っています。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(Ⅰヨハネ3:18)それは、ことばや口先だけではない、行いと真実をもった愛です。ヤコブは、国外に散っていたクリスチャンに宛てて、次のように書き送りました。
「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2:15-17)
この行いと真実をもった愛について教えてくれる実際にあった一つの話を紹介したいと思います。それは、ジョー&メイ・レムケというご夫妻に起こった驚くべき愛の物語です。
1952年、奥さんのメイはレスリーという六ヶ月の男の赤ん坊の世話を頼まれました。このときメイは52歳で、体力的には少し衰えを感じていが、レスリーは生まれつき脳に異常があり、言語障害と記憶障害を抱えており、その上早産のため網膜に問題があり、生後1ヶ月で眼球を摘出したことで、産みの母親は彼を育てることを放棄したため、「障害を持ったこの子を、助けたい」と引き取ることにしました。 メイはレスリーをわが子のように深い愛情で育てました。医者たちは、この赤坊は長くは生きられないと診断しましたが、メイは「この子を絶対に死なせない」と決心し、レスリーに大きな愛を注いだのです。そして、彼を普通の赤ん坊のように育て始めました。彼の頬の近くで大きな吸引音を出して、哺乳瓶から普通にミルクを飲めるように教えました。すぐに彼女はこの子の世話をするために仕事を止めました。彼女の友人たちは「あなたは自分の人生を無駄にしようとしている」と忠告してくれましたが、彼女はレスリーを育てることを止めませんでした。 生後、なんらかの成長がみられるまで、7年もの歳月がかかりました。その間、レスリーは言葉や動作、感情もありませんでした。事態は絶望的に見えました。しかし、メイは確信していました。「子どもは優しさと愛情があれば必ず治る。ずっと愛していく覚悟があれば大丈夫。私が信じている神様が、必ず助けて下さる。」 すると、12歳になってようやく立ち始め、15歳で歩くことができるようになりました。メイはレスリーのために祈り続けました。「愛する主よ、聖書には、神はすべての人間に才能を与えられた、と書かれています。どうか、この何もできなくて、ほとんど毎日横たわっているだけのこの男の子をあわれんでくださり、この子に与えられている才能を見出すことができますように助け下さい。」 メイはレスリーが、音楽に少し反応しているのを見逃しませんでした。そこで彼女は、夫のジョーと相談し、ピアノを購入し、ラジオやレコードを使ってあらゆる種類の音楽を聴かせました。レスリーは大きな関心を示している様子で何時間も音楽を聴いていました。
奇跡は、レスリーが16歳になったある日の朝早く起こりました。メイとジョーは突然鳴ったピアノの音で起こされました。すると、レスリーがピアノの前に座って、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を弾いていたのです。驚くことに、レスリーはそれまでにピアノのレッスンを受けたことはありませんでした。レスリーは突然才能を開花させたのです。それから彼は、クラシックやポップス、ジャズなど、非常に多くの曲を覚え、弾き語りも出来るようになりました。科学者たちは、どうしてそのような事が起こるのかは説明できないと言います。しかしメイは言います。「私には説明できます。これは神の与えた愛の奇跡です。心からの真実の愛に触れる時、人には不可能の扉を開き、才能を開花させることが出来るのです。」と。彼女の行いと真実をもった愛に、神が応えてくださったのです。
また、ここには「心から愛し合いなさい」というだけでなく、「熱く愛し合いなさい」、ともあります。熱く愛するとはどういうことでしょうか。ペテロの手紙を見るかぎり、随所にこのような表現があることがわかります。たとえば、13節には、「ひたすら待ち望みなさい」とありますし、また15節にも、「あらゆる行いにおいて」とあります。ある特定の行いにおいてというだけではなく、「あらゆる行いにおいて」です。そして、ここには「熱く」とあります。ただ愛し合うのではなく、熱く愛し合うようにというのです。これはどういう意味なのでしょうか。
「熱く」と訳された言葉は、本来「手足を伸ばす」という意味を持っています。よく「ストレッチ」という言葉を聞きますが、ストレッチとは、体のある筋肉を良好な状態にするために、その筋肉を引っ張って伸ばすことです。その張って伸ばすことから熱心という意味を持つようになりました。私たちの主イエスは、ゲッセマネの園で祈られたとき、「いよいよ切に祈られました」(ルカ22:44)。とあります。また、牢に入れられていたペテロのために、教会は神に熱心に祈り続けていました。(使徒12:5)そのように切に、熱心に、深く、全力で、愛さなければなりません。それは、神が求めておられる度合いがそれほど高いものであることを表わしています。その求めに応じて生きる者は、兄弟愛においても徹底して愛することが求められているのです。
Ⅱ.偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから(22)
いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。無理です。自分を愛してくれる人、自分によくしてくれる人ならともかく、そうでない人を愛するなんてとてもできません。それなのに、どうやって心から愛し合うことができるでしょう。もう一度22節を見てください。ここには、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」とあります。これが鍵です。どういうことでしょうか。
それは、私たちの生まれながらの力ではできないということです。生まれながの人間にあるのは、「目には目を、歯には歯を」です。「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」です。しかし、真理に従うことによって、たましいが清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになると、愛する力が与えられるのです。たとえ相手が自分の嫌なタイプや性格の人であっても、たとえ相手が自分にひどいことをするような人であっても愛することができるのです。なぜ?私たちは新しく生まれ変わったからです。真理のことばに従うことによってたましいが清められ、神の子としての性質をいただきました。偽りのない兄弟愛を抱くようになりました。ですから、愛することができるのです。
ヨハネ第一の手紙5章1節を見てください。そのことをヨハネはこう言っています。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」
イエスをキリストと信じる者はだれでも、神によって生まれた者です。そして、神によって新しく生まれたのであれば、生んでくださった神を愛します。そして、神を愛する者は、神が生んでくださった信仰の仲間である兄弟姉妹をも愛するようになるのです。これが神によって生まれた者の特徴なのです。
ですから、ペテロはここで「互いに熱く愛し合いなさい」と命じているのです。神は、私たちができないことは命じられません。できるからこそこのように命じているのです。どうしたらできるんですか。真理に従うことによって、たましいが清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから・・。
使徒ヨハネはこう言っています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:7-11)
この「愛」は、アガペーの愛です。アガペーの愛は与える愛であり、犠牲的な愛、無条件の愛です。それは、自分の感情や気分によって左右されるような愛ではありません。それは、神がそのひとり子をこの世に遣わし、この方を私たちの罪のために、十字架につけてくださることによって示してくださった愛です。こんなにいい加減で、どうしようもない私のために、キリストが十字架で死んでくださったのです。ここに神の愛が示されました。私たちが愛したからではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があるのです。神がこれほどまでに愛してくださったのなら、その神を信じて新しく生まれた私たちも互いに愛し合うべきです。自分が好きだとか嫌いだという感情は全く関係ありません。なぜなら、この愛は感情の愛ではなく、意志を持った愛だからです。好きでも、嫌いでも、愛することができます。それは愛するという意志の問題だからです。ペテロはここで、私たちの意志に訴えているのです。あなたの感情や気分がどうであれ、あなたが真理のことばに従うことによって、たましいを清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのなら、あなたは愛することを選び取って、それを実行することができるのです。
この手紙を書いたヨハネは兄弟ヤコブとともに「ボアネルゲ」という異名を持った人です。「ボアネルゲ」とは「雷の子」という意味です。彼の性格は雷のようでした。マルコの福音書9章38節を見ると、彼について、もう少し具体的に知ることができます。彼はイエス様の弟子であるという自負心が大変強い人でした。彼は弟子ではない人が、イエス様の名前で悪霊を追い出しているのを見ると、それをやめさせました。「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している人を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』」
すると、イエス様はこのようにおっしゃいました。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」(マルコ9:39-40)
ものすごい余裕を感じます。広い心で人をご覧になっていたイエス様とは対照的に、ヨハネの心は狭く、自分と同じ意見の人でなければ受け入れることができませんでした。自分だけが正しいのではないということを認め、他の人の主張も受け入れる心が、ヨハネには必要でした。
しかし、イエス様に出会った後、彼は変えられました。彼は多くの人を受け入れる「愛の人」となりました。イエス様に出会うなら、みんな変わります。その愛の広さ、深さ、大きさにふれるなら、私たちも愛の人に変えられるのです。
ある自由主義神学者が、ヨハネの福音書を書いたヨハネとヨハネの手紙を書いたヨハネは同じ人物ではない、と言いました。同じ人物であるはずがないというのです。文体や態度があまりにも違うからです。
しかし、同じ人物なのです。確かに、文体や態度は全く違うかもしれません。けれども一つ、その人たちが見逃していることがあります。それは、ヨハネがイエス・キリストによって全く変えられたという事実です。若いころのヨハネと、成熟した後のヨハネが同じ人物であるはずがありません。イエス様は人の心を、それほど変えられるお方なのです。私たちはこの点を忘れてはなりません。愛を受けた人だけが、人を愛することができるようになります。確かに、私たちもかつてはヨハネのようにいつもゴロゴロしているような者でしたが、イエス様に出会い、イエス様の愛にふれて、新しく生まれました。偽りのない兄弟愛を抱くようになったのです。ですから、互いに心から愛し合うことができるのです。私たちの中に神の愛が入ってくるなら、人を愛することができるようになるのです。
Ⅲ.神のことばに根差して(23-25)
最後に、23節から25節までをご覧ください。ペテロは、私たちが互いに愛し合うことができるのは、私たちが真理に従うことによって、たましいを清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのであるからと述べました。では、いったいどのようにして新しく生まれたのでしょうか。23節には、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」とあります。
私たちはどのようにして新しく生まれたのでしょうか。私たちが新しく生まれたのは、朽ちる種からでなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
ヨハネ福音書3章には、ニコデモという人がイエス様のもとを訪ねたことが記されています。このニコデモにイエスは、人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできないと言われました。ところがニコデモには新しく生まれるということがどういうことなのか理解できませんでした。そこで、もう一度、お母さんのお腹の中に戻るなんて出来ないと答えました。するとイエス様は、このようにおつしゃいました。
「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)
それは、朽ちる種というおおよそ人間的なものに由来するのではなく、神のことばという朽ちない種によってもたらされるものであるという意味です。肉によって生まれた者は肉でしかありません。しかし、御霊によって生まれた者は霊なのです。人が新しく生まれるためには神のみことばを聞き、それを信じて、心に受け入れなければなりません。その時、神の御霊、聖霊が働いて、新しく生まれさせてくださるのです。
きょうは、万希子さんがバプテスマを受けられました。バプテスマは、罪に対して死しんでいた私たちが、キリストとともに新しい人として生きることを表わしていますが、罪に対して死んでいた者が、どうやって自分を救うことができるのでしょうか。私たちは罪過と罪との中に死んでいた者ですから、自分で自分を救うことなどできません。しかし、神は、彼女が通っている大学にクリスチャンの先生を備えていてくださり、その方との出会いを通して神のみことばを与え、イエス・キリストの十字架の救いを信じるように導いてくださいました。その神のみことばを通して、彼女は新しく生まれたのです。
私はもう何年も牧師をしていますが、最もよく受ける質問はこうです。「どうして私は変わることができないのでしょうか。変わりたい、本当に変わりたいと思っています。でも、どうしたら変われるのか分からない。私には変わる力がないのです。」
そうです、私たちには変わる力がないのです。私たちはいろいろなセミナーやインターネットで、自分を変えてくれるような情報を得、それを試したりしますが、二週間もしないうち最初の決意はどこかへ消えてしまい、すべてが元の木阿弥となってしまいます。以前と全然変わらないのです。自己啓発の本も読んでみますが、問題は、それは何をすべきかを教えてくれても、それを実行する力を与えてくれないということです。いったいどこにその力があるのでしょうか。
ここに、その力があります。それは、いつまでも変わることのない神のことばです。ヘブル人への手紙4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)とあります。この神のことばは、「生ける」とあるように、生きていることばなのです。生きているということは、そこに“いのち”があることを意味しています。“いのち”があるということは、人を生かす力があるということです。罪によって死んでいた人をよみがえらせ、新しいいのちを与える力を持っているということです。この力こそ、私たちを新しく生まれさせ、私たちの人生を変える力にほかなりません。
1787年イギリス政府が南洋諸島の一つである、タヒチにパンの木の栽培のために100人ほどの人を送ったことがあります。その船の名前は「バウンティ号」でした。その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようで、彼らの心は高鳴りました。特に住民の女性たちはとても魅力的でした。すると彼らはしだいに堕落し始め、本国からの使命を忘れ、口やかましい船長に反抗し、反乱を起こしました。彼らは船長を縛り小舟に乗せ、海の中で死ぬように追い出したのでした。その後彼らは本国から逮捕されるのを恐れ、ピトアケンという島に移り、住民の女性たちをもて遊ぶようになりました。そうなると、彼らの間にケンカが絶えなくなってしまいました。特に仲間の一人が熱帯植物のズースでお酒を作って飲むようになってからは、そのケンカはひどくなり、殺し合いが始まるようになりました。そして最後にたった一人だけが残りました。名前はジョン・アダムズと言います。その島には西洋人はいなくなりましたが、彼との間に生まれた混血の子どもたちが生まれ育ちました。
それから30年が過ぎ、近くを通りかかったアメリカの船がその島を発見し上陸してみると、そこに驚くべき光景を見ました。何とそこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。彼はその島の王様で、父のような存在でもありました。彼は、その島に何が起こったのかをこう説明してくれました。仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いをして死んでしまったある日、一人生き残ったジョンは、難破したバウンティ号に戻ってみると、そこで一冊の聖書を見つけたのです。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引き付けられていきました。聖書を読んでいると、彼の目にいつしか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして、彼は悔い改めたのです。彼は新しく生まれ変わりました。神の人とされたのです。その後聖霊の導きによって、子どもたちを集めて字を教え、神のみことばである聖書を教えました。するとその島は、まことのパラダイスになったのです。
神のことばは生きていて、力があります。それは、両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのです。この神のみことばを信じるなら、私たちは新しく生まれるだけでなく、神の人に、愛の人へと変えられていくのです。なぜなら、それは朽ちる種ではなく、朽ちない種からであり、いつまでも変わらない、神のことばであるからです。
ペテロはこの真理をイザヤ書のことばを引用してこう言っています。24節、25節です。
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
「変わることがない」と訳されている言葉は、「保つ」とか「残る」という意味の言葉です。人はみな草のようにしおれ、花のようにすぐに散っていきますが、神のことばは、とこしえに変わることがありません。ずっと残るのです。永遠に生き続けるのです。これこそ、真に信頼できるものではないでしょうか。私たちに宣べ伝えられている福音のことばがこれです。
私たちは人間の知恵やこの世の栄光、力を見ると、あたかもそれが大木のように見え、そこに根を張って生きることが安全であるかのように思いがちですが、それは草であり、花にすぎません。朝にはきれいに咲かせても、夕べには枯れて散っていくはかないものにすぎないのです。私たちが信頼すべきものはそのようなものではありません。私たちが信頼すべきものは、朽ちない種、生ける、いつまでも変わらない、神のことばなのです。この神のことばがあなたを新しく生まれさせ、あなたの人生を変えてくださいます。あなたも、神のみこころに従って、互いに心から熱く愛し合うことができるのです。