きょうは、「霊の家に築き上げられなさい」というタイトルでお話しします。前回の箇所でペテロは、神の恵みによって救われたクリスチャンは、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めなさい、と勧めました。それによって成長し、救いを得るためです。今回のところでペテロは、そのように霊の乳であるみことばによって救われて、成長したクリスチャンはどうあるべきなのかを語っています。それは、霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげなさいということです。
霊の家とは何でしょうか。それは神の教会のことです。パウロはコリント人への手紙第一3章16節で、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」と言っています。神の御霊が宿っている私たちのからだが神の神殿であり、そのような人たちが集められ、築き上げられているのが教会です。教会は建物のことではなくキリストのからだであり、このキリストのからだである教会に築き上げられ、霊のいけにえをささげることが求められているのです。
Ⅰ.生ける石(4)
まず4節をご覧ください。
「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」
「主のもとに来なさい。」という勧めは、何か唐突な感じがします。新共同訳では、4節の冒頭に「この」ということばがついていて、「この主のもとに来なさい。」となっています。これは3節で言われていた「主がいつくしみ深い方であることを味わっているので」、この主のもとに来なさいということになります。しかし、英語の聖書には、霊の家に築き上げられるために、生ける石である主のもとに来なさい、とあります。つまり、真理のみことばによって新しく生まれたクリスチャンは、みことばの乳を慕い求めることによって成長し、霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげるために主のもとに来なさいということなのです。
旧約時代は、だれもが主のもとに来ることはできませんでした。そのためには祭司の仲介が必要だったのです。しかし、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じることによって、この救いを受け入れる人はだれでも主のもとに来ることができるようになりました。
なぜでしょうか。なぜなら、主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石だからです。どういうことでしょうか。キリストは人々を罪から救うためにこの世に来られましたが、人々はこの方を自分たちが期待していたメシヤ像とは違うと、十字架につけて死なせてしまいました。しかし、神はこの捨てられた石を礎の石として霊の家を築き上げられたのです。7節にあるように、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のです。
この「礎の石」とは、建物全体を支えるかなめの石のことです。パレスチナの家は石造りになっていて石を積み上げる方法で建築されていましたが、そのアーチ型の天井のてっぺんに入れる最後の石はとても重要な石で、その石がピッタリとはまるかどうかで、建物全体が強さが決まったのです。この石こそ建物全体のかなめとなったのです。英語の聖書には「Capstone」と訳されています。
それに対して6節の「礎石」は、「礎の石」という点では同じですが、これは建物全体を支える土台の四隅に据えられたかしら石のことです。英語では「Cornerstone」と訳されています。このコーナーストーンの上に建物の柱と壁が結び付けられて建物全体を支えていたので、これがどのような石なのかによって建物全体の強さが決まったのです。そういう意味では7節の「礎の石」と6節の「礎石」はどちらも建物全体を支えるかなめの石であったという点では同じです。それなのに、この石は、人には捨てられたのです。なぜでしょうか。それを見抜けなかった建築家の見立てが間違っていたからです。判断を誤ったのです。
イエスさまはそのことをぶどう園と農夫のたとえで説明されました。ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して、旅に出かけました。収穫の季節になったので、ぶどう園の主人は収穫の分け前を受け取ろうと、農夫たちのところへしもべを遣わしましたが、彼らはそのしもべをつかまえて袋たたきにすると、何も持たせないで送り帰しました。それで主人は、私の愛する息子ならきっと敬ってくれるだろう、と最後にその息子を遣わしましたが、農夫たちは、「あれは跡取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」(ルカ20:14)と言って、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまいました。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。いったいなぜ彼らはそんなことをしたのでしょうか。イエスはその話の中でこう言われました。
「では、家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」と書いてあるのは、何のことでしょう。」(ルカ20:17)
まさにこれは農夫たちの見立て違いだったのです。彼らはしもべたちを侮辱し、跡取り息子を殺せば相続財産であるぶどう園を自分のものにすることができると思いました。しかし、それは完全な見立て違い、判断ミスだったのです。
時として、私たちもこのような間違いを犯してしまうことがあります。この石こそ私たちの人生の土台であり、キリストの教会の礎石、かなめの石なのに、そうでないものを土台に据えてしまうことがあります。イエス・キリストこそ教会の礎石であり、また、私たちの人生のコーナーストーンなのです。どんなに立派なものを建て上げようとしても、イエス・キリストという土台の上に立っていなければ、それは確かな人生とは言えないし、何らかの災害などがあった時にはもろくも崩れてしまうことになります。イエス・キリストがコーナーストーンです。この方を礎石として、この方の上に人生を築き上げるなら、どんなことがあってもびくともすることはありません。「彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。」のです。あなたの人生はどんな石の上に建てられていますか。
使徒パウロもエペソ人への手紙2章20~22節のところで、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にあって聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」と言っています。キリスト・イエスが礎石です。霊の建物である教会は、この方にあって組み合わされ、結び合わされて、成長していくのです。
ですから、何を教会の土台に据えるのか、何を私たちの人生の土台に据えるのはとても重要なことなのです。使徒パウロはこう言っています。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように立てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。」(Ⅰコリント3:10-11)
私たちは皆、人生という家を築いています。それをどのように築き上げて行くはとても重要なことです。しかし、もっとも重要なことは、何の上にそれを築き上げていくのかということです。パウロが賢い建築家のように土台を据えたと言っているように、私たちも賢い建築家のように、人生の土台を据えたいと思います。
いったいなぜこのキリストの上に築き上げられなければならないのでしょうか。それは、主は人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石だからです。ペテロはこの手紙の中で「生ける」ということばを好んで用いています。1章3節では「生ける望み」と言い、1章23節では「生けるみことば」と言っています。そしてここでは、「生ける石」と言っているのです。いったいペテロはここで何を言いたかったのでしょうか。それは、この石がいのちを与える石であるということです。死んでいる石ではない、いのちを与える石なのです。それはイエス・キリストが死からよみがえられ、今も生きておられる方であるからです。ですから、この方に信頼する者は失望させられることはありません。私たちは弱くても、彼は強い方であり、今も生きて私たちにいのちと力を注ぎ続けておられる方だからです。
この「生ける石」は英語で「リビングストーン」と言いますが、そこから家名を取ったスコットランドの宣教師で、探検家でもあったリビングストーンは、アフリカで60年の生涯を終えました。しかし、彼が召された1873年以降も、彼が与えた影響は今に至るまでアフリカの大地に生き続けています。ザンビアの南部には、彼の名にちなんで「リビングストーン」という名前の都市があるほどです。このように、キリストは生ける石として今も生きておられ、私たちの人生に大きく働いているのです。
「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」これが私たちの人生の、私たちの教会のかなめの石です。あなたはどのような土台の上に人生を築いておられますか。この生ける石の上に私たちの人生も築き上げていきましょう。
Ⅱ.霊の家に築き上げられる(5a)
第二のことは、キリストが生ける石であるというだけでなく、私たちも生ける石として、霊の家に築き上げられなければならないということです。5節をご覧ください。ここに、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」とあります。これはどういうことでしょうか。
「あなたがた」というのは、すべてのクリスチャンのことを指しています。これはローマ皇帝の迫害によって小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンに宛てて書かれて手紙です。ペテロはそうした彼らに対して、「あなたがたも」と言っているのです。私だけでなく、あなたがたも、この石の上に築き上げられなさい・・と。
ペテロが石となってキリストの上に築き上げられることについては、マタイの福音書16章に語られていました。一行がピリポ・カイザリヤにいたとき、イエスが弟子たちに「人々はわたしのことをだれだと言っていますか。」と尋ねると、今度は弟子たちに、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問われると、ペテロは弟子たちを代表してこう言いました。「あなたは、生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)
すると、イエスは彼にこう言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:17-18)
ペテロというのは「岩」とか、「石」という意味です。「あなたは岩です、石です。わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます」と言われたのです。「この岩」とはペテロのことではなくイエスさまご自身のことです。その岩であられるイエスさまの上に、石であるペテロを用いてご自身の教会を建てるというのです。
イエスさまがなぜ彼をペテロと呼ばれたのかはわかりません。しかし、彼はその名前で呼ばれることをどれほど光栄に思ったことでしょう。どんなに小さな石でも、キリストという大きな岩の上に建てられた霊の家を築き上げていくために用いられていることを誇りと思ったに違いありません。
それはペテロだけでなく他の弟子たちも同じです。彼らは初代教会で重要な役割を果たしました。彼らは、イエス・キリストというコーナーストーンに直接つながっている土台の一部とされました。しかし、教会は使徒たちや他の指導的な人々だけで立て上げられているのではありません。石造りの建物には、大きな石ばかりではなく、小さな石も必要です。大きさばかりでなく、形も、色も、堅さも、様々なものが必要なのです。ですから、ペテロはここで、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」と言っているのです。私もイエスによって教会の土台石にされたように、あなたがたも、主の招きに応じて、生ける石として、霊の家に築き上げられなさい、と呼びかけているのです。
これは明治の文豪、徳冨蘆花(とくとみ ろか)という小説家の「昼寝の夢」という小説に出てくる一節です。ある日旅人が天国へ行った夢を見ました。天国の中央に新しき都エルサレムがあって、その石垣には昔から歴史上人類に貢献してきた有名な作家の名前がずらりと刻まれていました。ダンテ、ミルトン、シェークスピア、テニスン、トルストイ、ドストエフスキー等の栄光の石でした。彼は驚きながらも自分の石はどこにあるのかと一生懸命探しました。大きい石から小さな石まで探して行くうちに、ほんの小指の先ほどの小さな石に「徳冨蘆花」と刻んであるのを発見しました。彼は怒りました。怒りのあまり、大石と大石との間にはさまれた、その小さな自分の石を取り出そうとすると、突然、大音響と共にその壮大な天国の都が崩れかけました。その瞬間、彼は恐ろしさのために目が覚めた」というのです。つまり、天国全体にとっては無くてならない存在だということを悟らされたのです。私たちはそれぞれ小さな石であるかもしれませんが、霊の家を築き上げていくための大切な材料の一つであることを覚え、共に霊の家を築いていくものでありたいと思うのです。
ところで、いったいどのようにして築いていったらいいのでしょうか。幸いなことに、ここには、霊の家を築き上げなさいとは言われていないで、霊の家に築き上げられなさいと受け身で言われています。どういうことでしょうか。それは、建て上げてくださるのはイエス様であるということです。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長し、愛のうちに立てられるのです。」(エペソ4:16)
どんな建物でもそうですが、どんなに立派な柱があっても、断熱性の高いペアガラスにしても、無垢のフローリングにしても、それだけでは意味がありません。それが組み合わされて、結び合わされて、すばらしい建物となるのです。それを建て上げてくださるのがイエス様なのです。だから、私たちはそんなに頑張らなくてもいいのです。私たちは生ける石として自分を主に差し出すだけでいいのです。そうすれば、主が建て上げてくださるのです。
今回もアメリカから4名のチームが来日してくださり、明日からのさくらでのサマー・イングリッシュ・デイ・キャンプで奉仕してくれることになりました。どうなるかわかりません。わかりませんが、大きな梁や無垢材のフローリング、ペアガラスどころかトリプルガラスのサッシも用意されました。こうした一つ一つの材料を主に差し出すとき、主が建て上げてくださると信じましょう。
Ⅲ.聖なる祭司として(5b)
第三のことは、私たちが、霊の家に築き上げられるのは何のためか、その目的です。それは、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれるいけにえをささげるためであるということです。つまり、聖なる祭司として神と人に仕えることです。5節の後半をご覧ください。ここには、「そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」とあります。
祭司というのは、神に仕える仕事です。もう少し正確に言うと、神の御前に人々の罪を担ってとりなす者です。ですから、イエス・キリストは私たちの大祭司であると言われているのです。そして、ここには私たちは聖なる祭司であると言われています。マルチン・ルターは、ここから「万人祭司説」を唱えました。クリスチャンはみな祭司であるという教理です。彼が宗教改革を行ったのは1517年ごろですが、それまでは聖職者と平信徒という区別がありました。罪の赦しを祈ることも、聖書の説き明かしをすることも、それはもっぱら聖職者の仕事であって、平信徒にはできないと考えられていたのです。しかし、マルチン・ルターはその区別を取っ払いました。信仰者はみな祭司であると主張したのです。それは、信仰者は互いに対して小さなキリストになることができるということを意味しています。
ですから、私たちは互いの罪を負い合い、互いのために祈り合い、とりなし合うことができます。互いのために聖書を説き明かし、互いに励まし合うことができるのです。私たちは互いに聖なる祭司、小さなキリストなのです。その私たちに求められているのは何でしょうか。聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれるいけにえをささげるということです。
ユダヤ教の神殿では、目に見えるいけにえがささげられました。しかし、霊の家である教会では、目に見えない霊のいけにえをささげます。では、イエス・キリストを通してささげる霊のいけにえとはどのようなどのようないけにえでしょうか。
詩篇50篇14節には、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。」とあります。ここには、「感謝のいけにえ」とあります。神に感謝をささげること、それが一つの例のいけにえなのです。
また、詩篇51篇17節には、「神へのいけにえは、砕かれたましい。砕かれた悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。神へのいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた悔いた心です。神はそれをさげすまれません。
また、詩篇141篇2節には、「私の祈りが、御前への香として。私が手を上げることが、夕べのささげものとして立ち上りますように。」とあります。これは祈りのことです。神への祈りが神への喜ばれる霊のいけにえであると言われているのです。
さらに、ヘブル人への手紙13章15、16節には、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」善を行うことと、持ち物を人に分け与えることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」とあります。賛美のいけにえ、さらには、善を行うことや持ち物を人に分け与えることも、神に喜ばれるいけにえです。
さらに、ローマ人への手紙15章16節を見ると、ここには、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは、異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」とあります。パウロがここで言っている祭司としての務めというのは、言うまでもなく伝道のことです。自分は伝道をもって、祭司の務めを果たして、キリストの福音を証し、人々に宣べ伝えること、それが神へのいけにえであると言っているのです。
こうやってみると、神に喜ばれるいけにえとは、私たちの生活のすべてであると言うことができます。ですから、パウロは、ローマ人への手紙の中でこのように言っているのです。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)
「あなたがたのからだを」というのは、あなたがたの存在とか、あなたがたのすべてということです。それをささげなさいというのです。それこそ、神が喜ばれる霊のいけにえ、霊的な礼拝なのです。
生ける石であるキリストのもとに来て、生ける石として、霊の家に築き上げられた私たちは、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなければなりません。あなたのベクトルはどこを向いていますか。あなたは、聖なる祭司として、神に喜ばれる霊のいけにえをささげていますか。あなたのからだを、あなたの存在のすべてを神に受け入れられる、生きた供え物としてささげましょう。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝なのです。私たちはいったい何のために救われたのか、その目的を知っているかどうかは、私たちの信仰の歩みに大きな影響を及ぼします。私たちが救われたのは霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげるためであるということをはっきりと知っている人は、この地上での生涯を神と人のために喜んでささげることができるようになるのです。
最後に一つのお話しをして終わりたいと思います。何人もの男たちが大きな石にロープをつけて丘の上に引き上げていました。石を滑りやすくするために、石の下に丸太を並べ、少し動かしてはまたそれを並べるというようにして、長い坂道を上っていきました。そこにとおりかかった旅人が、「そんな大きな石を運んで、どうするのかね。」と聞きました。すると一人の男が、苦しそうな顔をして、こう言いました。「そんなこと知るもんか。俺は日雇いで働いているだけさ。しかし、こんなにきつい仕事じゃ割にあわないぜ。」ところが、一緒に働いていた別の男が、汗だらけの顔でしたが、白い歯をみせてこう言いました。「だんな、ご存知じゃないんですか。この丘の上にはね、この町一番の立派な教会が建つんですよ。これはその石なんです。さあ、もうひとがんばりだ。」
皆さん、どちらの男がその日の仕事に満足できたと思いますか。自分がしていることの目的を知っていた人です。私たちも、神が私たちを贖って、霊の家に築き上げられたていることの目的を知り、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれ霊のいけにえをささげる者でありたいと思います。