きょうは、「自分自身を武装しなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。1節に、「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。」とあります。この「武装する」という言葉は軍事用語で、兵士が戦いに出かけていく時の様を表しています。兵士はどのような格好で戦いに出て行くのでしょうか。まさかマラソンのような短パンとランニングシャツで出て行くというようなことはありません。兵士が戦いに出かけていくときは重装備で出かけて行きます。腰には帯を締め、胸には胸当てを着け、足にはすね当てを着け、頭には兜をかぶります。また、敵の放つ火矢を消すために大盾を持ち、敵を倒すために鋭い剣を持って出かけるのです。
ペテロはここでなぜ自分自身を武装しなさいと言っているのでしょうか?それは、私たちの信仰生活はまさに戦いだからです。私たちの信仰生活にはいろいろな問題や葛藤が起こりますが、それは表面的なことであって、本当の戦いはその背後にある悪魔との戦いなのです。
パウロは、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊との戦いであると語り、その戦いに対抗できるように神のすべての武具をとるようにと言っています。エペソ6:10~18をご覧ください。
「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」
皆さん、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものなのです。この戦いに対処するためには、神のすべての武具を取り、それで自分自身を武装しなければなりません。「私は大丈夫です。私は悪魔になんて絶対にやられません。悪魔がやって来たら私のパワーでやっつけてやますから・・・。」だめです。これは霊の戦いですから、私たちがどんなに肉体を鍛え、強靭な身体を持っていても、この悪魔の前には太刀打ちできないのです。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、罪を犯します。また、悪魔はさまざまな問題を利用して、私たちを何とかして神から引き離そうと躍起になっています。私たちの思いの中にいろいろな否定的な思いを植えつけては、私たちを神から引き離そうとするのです。何で信仰を持ったのにこんなに苦しまなければならないのか、神がおられるならなぜこのようなことが起こるのか、神は私を愛しておられないんじゃないか、そもそも神なんていないに決まっている、信じたって、信じなくたってちっとも変わらない、いや、もっと苦しくなるだけだ、いったい神を信じることにどんな意味があるというのか・・。悪魔は私たちの中にこのような思いを吹き込んでくるのです。ほとんど毎日のように、です。
あのC.S.ルイスの「悪魔の手紙」にあるように、この世の現実を見せることによって、神を信じることがいかに愚かなことであるのかを訴えてくるのです。これがとても厄介な問題です。というのは、だれもそれが悪魔の誘惑だなんて思わないからです。そして、いかにもそれが正しいことであるかのように思い込んでしまうのです。それが敵である悪魔の常套手段でもあります。悪魔は私たちが気づかないうちにそのような思いを与えて神に対する疑いを引き起こし、不信仰に陥れるのです。
このペテロ自身がその一番良い例です。なぜなら、彼はこの霊的な武装にことごとく失敗してしまった過去があるからです。彼はイエス様のように目を覚まして祈っていなかったので、主を三度も知らないという罪を犯したのです。彼は、「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と言ったほどです。けれども、その数時間後には「イエスなんて知らない」と否定してしまいました。なぜでしょうか。この霊の戦いのことを本気にしていなかったからです。イエス様と同じ心構えで、自分自身を武装していなかったからです。
しかし、イエス様が復活した後、その主とお会いして、彼は、イエス様が言われたことがほんへんとうであったということに気付かされました。そして、自分と同じ失敗をすることがないように、ここで「あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と勧めているのです。きょうはこの自分自身を武装することについて三つのことについてお話ししたいと思います。
Ⅰ.キリストと同じ心構えで(1)
まず1節をご覧ください。
「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。」
「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから」というのは、3章18節から22節までの内容を受けてのことです。特に18節を念頭に語られていると思われます。キリストは、私たちの罪のために苦しみを受け、十字架で死なれました。キリストは正しい方であられたのに、悪い人々の身代わりとなって死なれたのです。それは、肉において、死に渡され、霊において生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。すなわち、私たちを罪から救うためでした。私たちはこのキリストを信じて罪から救われました。私たちが救われたのは、キリストが私たちの罪を負って死んでくださったからです。「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、癒されたのです。」(2:24)
それなのに、罪を楽しむことができるでしょうか。もしキリストが私たちの罪のために死んでくださったのであれば、その罪から救われた私たちは、そこから離れようとするはずです。なぜなら、キリストはそのために苦しみを受けてくださったからです。ですから、ペテロはここで「あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。」と言っているのです。「同じ心構えで」とは、イエスさまと同じ心構えでということです。
キリストはどのような心構えだったのでしょうか。それは、ここに、キリストは正しい方が悪い人々の身代わりとなられた、とあるように、人のためには自分のいのちを捨てるという覚悟、心構えです。これはものすごい覚悟です。そして、ものすごく大きな愛です。使徒ヨハネはこのように言っています。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)
これよりも大きな愛はだれも持っていません。これがキリストの心構えでした。あなたがたもこれと同じ心構えで自分自身を武装しなさい、というのです。
この心構えについて、パウロはピリピ2:5~9で次のように言っています。
「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
キリストは神であられるのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿を取られ、実に十字架の死にまでも従われました。これは、ほんとうにへりくだっていなければできないことです。自分を無にするって難しいことですよね。これができなくてみんな悩んでいるのです。みんな自分の思うように生きていきたいのです。けれども、キリストは自分を無にして、仕える者の姿をとり、神の御旨に従って死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。この心構えです。
また、イエス様はこう言われました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8:34)
これがキリストに従う者の心構えです。だれでもキリストについて行きたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてキリストについて行かなければなりません。自分を捨て、自分の十字架を負うとはどういうことでしょうか?それは別に毎日十字架のネックレスを着けるということではありません。十字架の意味は一つだけです。それは死ぬということです。ですから、十字架を負いなさいとは、死になさいということです。何に対して死ぬのでしょうか。自分に対してです。以前は罪の奴隷として生きていましたが、今はそうではありません。今は自分に死んで、神のみこころに生きるべきなのです。
最近、牧師の娘ですという方のお話しを聞く機会がありました。牧師である父親はこどもの伝道にも熱心で、彼女が小学校の頃にはマウンテンバイクで彼女の通う小学校の校門のところにやって来て子どもの集会のチラシを配っているのを見て、心の中で「止めて!」と叫んだそうです。父親が、一生懸命子ども伝道をすればするほど、「自分は愛されていない」と思いました。お父さんが愛しているのは他の子どもたちだ・・・。それから両親にも、イエス様にも反抗して、ずっと信仰から離れていたのです。
しかし、ある時父親が「ごめんなさい」と謝ってくれたことで彼女の心が開け、父親の語るメッセージがすんなり心にしみるようになりました。そして、約10年間の放浪生活を経て、イエス様のもとに戻ることができました。
イエス様のもとに戻った彼女は、最初はクリスチャンであればそれでいいと、礼拝には行ける時に行けばいいと思っていましたが、聖書を読んでいるうちに、いや、それではだめだと、少しずつ教会の奉仕にも携わるようになりました。そうしているうちに、キリストにあって励ましをいただき、愛の慰めと、御霊の交わりを受けて、自分のすべてを主に捧げたいと思うようになったと言うのです。
クリスチャンはみな、最初から自分に死んで、神のみこころに生きることはできませんが、キリストにある神の恵みを知れば知るほど、その愛の高さ、広さ、深さを知れば知るほど、このように変えられていきます。だれでもキリストについて行きたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについて来なさい、ではなく、あなたについていきたい!という思いになるのです。
ペテロはここで、「肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。」と言っています。どういうことでしょうか?肉体において苦しみを受けた人とは、死んだ人のことを指しています。イエス様が十字架にかかって死なれたように、罪に対して死にました。罪に対して死んだ人は、もう罪とのかかわりを断ったのです。いま私たちがこの世に生きているのは、私たちを愛し、私たちのためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。これがバプテスマの意味です。バプテスマの時に水の中に沈められるのは、私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたことを、また、水から上がることは、キリストとともに生きる新しいいのちを象徴しています。
死んでしまった人は何の反応もないはずです。死んだ人が「ヨイシュ、ドッコイショ」と突然起き上がったかと思ったら、「私はあれがしたい」「これがしたい」とか言いますか?言いません。死んでいるからです。死んだ人はもう罪から解放されているのです。罪から自由にされました。もはや罪に支配されることはありません。以前は罪の奴隷でしたが、今は義の奴隷となりました。キリストが死からよみがえったとき、私たちもキリストともに新しく生きるものにとされたのです。このように、肉において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ったのです。
Ⅱ.神のみこころのために生きる(2-5)
次に、2節から5節までをご覧ください。2節をご一緒に読みましょう。そのように、罪とのかかわりを断った人はどのようになるのでしょうか。
「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。」
このように罪とのかかわりを断った人は、この地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために生きるようになります。皆さん、これが神の知恵です。いったい私たちは、地上の残された時を、何のために生きるのでしょうか。どのように過ごしたらいいのでしょうか。それはここにあるように、自分の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすのです。
ですから、モーセはこう祈りました。詩篇90篇10、12節です。
「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び散るのです。・・・それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」
知恵ある生き方とは、いのちがどれだけあるかを数えて、いまを生きることです。地上の残された時はそう長くありません。それは早く過ぎ去ります。人生はほんとうに短いですね。あっという間に過ぎて行きます。ちょっと前まではあんなにピチピチしていたのに、今はもう首もよく回りません。身体をひねることさえ困難になりました。あっちこっちに弱さを覚えるようになりました。あの元気はどこへ行ってしまったのでしょう。私もあと何年生きられるかわかりません。その残された人生をどのように過ごすのか、ということです。何のために生きるのでしょうか。人生はどれだけ長く生きるかということではありません。神によって与えられたこの期間をどのように過ごすかということです。ペテロはここで、その残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごそうではないかと言っています。モーセは、それこそが知恵の心であり、知恵ある生き方だと勧めているのです。あなたはどうですか。残されたこの地上の時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごそうではありませんか。
3節をご覧ください。ここでペテロは、「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」と言っています。
私たちは過ぎ去った過去がどういうものであったのかを、覚えておく必要があります。以前は異邦人たち、すなわち、神を知らない人たちがしたいと思っていることにふけっていました。それは好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝といった類のものです。しかし、それは過ぎ去った時で、もう十分です。もう二度と以前のような生活に後戻りすべきではありません。それはもう過ぎ去ったのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
古いものは過ぎ去りました。すべてが新しくなりました。その新しい時代にふさわしい生き方とは、これまでのような自分の欲望のために生きるのではなく、神のみこころのために生きることなのです。
ところで、そのように私たちが神のみこころに生きようとすると、思わぬところに波紋が広がります。それはこれまで仲間だったはずの人たちからの攻撃です。彼らから思わぬ嫌がらせを受けることがあります。ペテロはそのことを4節で次のように言っています。
「彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないのを不思議に思い、また悪口を言います。」
「彼ら」とは、これまでいっしょに罪にふけっていた仲間たちのことです。彼らは、あなたがこれまでのように酒を飲んでドンチャン騒ぎをしたり、下ネタに耳を貸さないのを見て、あれっ、どうしたんだろうと不思議に思い、馬鹿にしたりします。それはそうです。それまでは神さまのことなんてさっぱりわからなかったのに、聖書を学んでいくうちに、自分の愚かさや罪深さがわかり、こんな罪深い自分を救ってくださった神の恵みがわかるようになると、それに応答して生きていきたいと思うようになるからです。罪の赦しと救いの喜びを体験すると、もはや以前のような罪の生活に戻りたいとは思わなくなります。今まで楽しいと思っていたことが虚しく感じられるようになるからです。しかし、私たちの生活が変わったことは、友人たちには全く意味がわかりません。何で毎週日曜日に教会に行くのかと不思議に思います。最近付き合いが悪くなったなと言ったりもします。以前はいっしょに飲みに行き、ドンチャン騒ぎをし、何でもやりたい放題だったのに、度を過ぎた放蕩にも走らないので不思議に思うのです。何度誘っても応じないとだんだん腹を立てて、「あつはああなんだ、こうなんだ」と他の人に悪口を言ったりします。こうした仲間からのプレッシャーを受けるのです。
これは日本の社会によくあることだと思います。会社の仲間に見られるプレッシャーです。「仲間との和」を重んじる家族的な環境では、「仲間に迷惑をかけられない」といった心理が働きます。そのことが仲間との関係をより密接にし、大きな成果に結びつく一方で、こうした傾向が行き過ぎると、互いが監視し合う居心地の悪い環境が生まれてきます。すなわち、仲間と同じ行動をとらないと仲間はずれにされるといった息苦しい人間関係になってしまうのです。まさにペテロがこの手紙を書き送ったクリスチャンたちは、その直前まで圧倒的多数の異教社会の中にどっぷりと浸かり、彼らと同じような行動やふるまいをしていました。それがクリスチャンになったことで、聖い生き方を送ろうとしたときに、こうした仲間からのプレッシャーを受けて苦しんでいたのです。
しかし、神の恵みをほんとうに知った人は、人から何を言われようと、再び罪の生活に戻りたいとは決して思いません。なぜなら、罪の生活の結末がどのようなものであるかを知っているからです。
5節には、「彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。」とあります。
申し開きをするとは、英語では〝give account〞という言葉が使われています。この〝give account〞という言葉は「会計報告をする」というニュアンスがあります。会計報告をする際は、お金の出し入れについて一切の曖昧さが許されません。お金の出し入れについて、帳尻があっていなければならないのです。すなわち、完全な透明性が求められるのです。ここでペテロは、彼らはこの神の前に完全な申し開きをしなければならないと言っているのです。そこでは一切の曖昧さも許されません。彼らがこの地上でどのように歩んだのかをすべて透明にして、その行いに応じてさばかれることになるのです。
それは彼らだけのことではありません。生きている人も死んだ人々も、正しくさばかれる神の前に申し開きをしなければなりません。ヘブル9:27にこう書かれてあります。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」
私たちはみなこの地上に生まれてきました。生まれてきた者はだれでも必ず一度死にます。死んだ後どうなるのでしょうか?聖書は、死後にさばきがあると教えています。死後にみな神の前に立たされるというのです。そのさばきの場で、これまで生きてきたことの報告をしなければなりません。
ヘブル4:13には、「造られたもので、神の前で隠せるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」とあります。人の前には隠せても、神の前には何一つ隠せるものはありません。私たちはこの神の前に弁明をするのです。あなたはどのように自分を弁明されますか?
それは、私たちのこの地上の残された時を、どのように過ごすのかにかかっています。キリストの十字架と復活によって新しく造られた者として、この地上の残された時を、自分の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごそうではありませんか。そこには仲間からのプレッシャーを受けることもあるかもしれませんが、そうした仲間の顔色を見て恐れるのではなく、生きている人も死んだ人も正しくさばかれる方を覚え、この方から受ける報いのすばらしさに目を留めて、この道を進んでいきたいと思います。
Ⅲ.霊において生きる(6)
最後に6節を見て終わりたいと思います。
「というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられたのですが、それはその人々が肉体において人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」
どういうことでしょうか。この箇所は前回の箇所でも説明しました。キリストが捕らわれの霊たちのところに行ってみことばを語ったとの関連で、キリストは死んだ人たちのとこに行って福音を語った、すなわち、死後にも福音を聞いて救われるチャンスがあるということではありません。死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたとは、福音を聞いて死んだ人々のことです。最近新しく出された新改訳聖書の改訂版では、「このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。」と訳されています。つまり、この手紙の読者たちも福音を聞いて信じましたが、今は死んでしまったということです。ここでペテロが言っているのは、その人たちのことです。彼らは生きている時に福音を聞きました。そして、イエス・キリストを信じて救われたのです。そのことで、悪口雑言を言われたり、仲間はずれにされたりすることもありましたが、このさばきがあることを信じていたので、どんなに仲間はずれにされても、福音を聞いて信じたのです。彼らは肉においてはさばかれることもありました。不思議に思われ、悪口も言われました。不当な苦しみにも会いました。そのことでいのちを失う人たちもいました。しかし、そのように肉体において苦しみを受けても、霊においては生きました。それはちょうど、イエス・キリストが肉においては殺されたけれども、霊は生かされたということと同じことです。3章18節にあるとおりです。キリストは肉においては死に渡されましたが、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導いてくださいました。キリストを信じた者は、同じように肉体は死んだとしても、その霊は永遠のいのちが与えられているので、永遠に神とともに生きるのです。
ですから、どんな不当な苦しみを受けても、迫害する者たちがいたとしても、恐れることはありません。たとえそのために命を落とすことがあったとしても、それは栄光の御国の入口であり、永遠に神とともに生きることになるのです。
イエス様は、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われました。私たちが恐れなければならないのは、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことができる神だけなのです。そんな雀の一羽でも、ちゃんと覚えられています。
「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」(マタイ10:29)
二羽の雀が一アサリオンというのは、一羽では値段が付けられないくらいの雀のこと、いわばおまけのようなものです。そんな雀の一羽でも、神の御許しがなければ地に落ちることはないのです。
私たちはそんな一羽の雀のようなものですが、神に覚えられ守られていることを覚え、ただこの方だけを恐れて歩んでいきたいと思います。たとえあなたが仲間から馬鹿にされたり、辱められるようなことがあっても、何も恐れる必要はないのです。キリストによって新しく造られた者として、キリストと同じ心構えで自分自身を武装し、この残された地上での生涯を、罪とのかかわりを断って、ただ神のみこころのために過ごしていきましょう。