前回は、1章12節から15節までの箇所から、「いつも思い起こして」というタイトルでお話ししました。覚えていらっしゃいますか。私たちは、聞いてもすぐに忘れてしまいます。今聞いたかと思ったら、すぐにどこかへ飛んで行ってしまいます。昔、「とんで、とんで、とんで・・」という歌がありましたが、ほんとうにどこかに飛んで行ってしまいます。だから、いつも思い起こして、神の恵みにとどまるようにと励まして、奮い立たせることが、自分に与えられた努め、使命だと、ペテロは語ったのです。
きょうの箇所は、その続きです。タイトルは、「さらに確かな預言のみことば」です。ペテロはなぜこんなことを言っているのでしょうか。なぜなら、彼の話というのはうまく考え出した作り話ではなく、実際にそれを目撃した体験者であるからです。体験者は語るのです。
Ⅰ.キリストの威光の目撃者(16-18)
まず16節から18節までをご覧ください。
「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」
どういうことでしょうか?「私たちは」とは、ペテロをはじめとしたキリストの弟子たちのことです。正確に言えば、変貌山でキリストの御姿が変わったのを見たペテロとヤコブとヨハネのことです。ここに、「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」とあるからです。
「主イエス・キリストの力と来臨」とは、キリストの再臨のことです。ペテロは第一の手紙で、キリストが再臨することを繰り返し教えました。たとえば、1:7や1:13、2:12、4:7、5:4等です。特に1:13では、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」と勧めています。「イエス・キリストの現われ」とは、イエス・キリストの再臨のことです。その再臨に備えて、心を引き締め、身を慎むようにと勧めたのです。
また4:7でも、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」とあります。「万物の終わり」とはキリストの再臨の時を指します。キリストの再臨に備えて、心を整え、身を慎むようにと勧めました。
それは何もペテロが考え出した作り話ではありません。それは主イエスご自身も教えられたことですが、正しいことです。真実な教えです。なぜそれが真実だと言えるのでしょうか。なぜなら、ペテロはそのキリストの威光の目撃者だからです。キリストの神としての栄光を目撃した者だからです。
ちょっと待ってください。キリストの神としての栄光の目撃者だとは言っても、それはまだ起きていないことではないのですか?それは世の終わりに起こることであって、ペテロは実際には見ていないはずです。それなのに、どうして彼は、自分たちがキリストの威光の目撃者だと言っているのでしょうか。はい、確かにキリストの再臨は見ていません。しかし、キリストが再臨させる時のご威光は見ました。どこで?あの高い山で、です。あの山はヘルモン山だと言われていますが、その山にイエス様に上った時、目の当たりにしたのです。ヤコブとヨハネも一緒でした。私だけではありません。彼らも一緒でした。そこでイエス様の御姿が変わったのです。その顔は太陽のように輝き、まぶしくて、見ることができないほどでした。そして着ていた御衣は光のように白く輝きました。それは世のさらし屋、クリーニング屋ではとてもできないほどの白さでした。それは何を表していたのかというと、キリストの神としての栄光の輝きでした。ですから、自分たちは実際にキリストの再臨を見てはいませんが、キリストが再臨される時の栄光を見たのです。だから、キリストが再臨するというのは本当のことなのです。それを見たんですから・・。
それだけではありません。天から父なる神の御声を聞きました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」ペテロはその御声を自分の耳で聞いたのです。人から聞いたのではありません。自分で聞いたのです。それはペテロだけではありません。ヤコブもヨハネも一緒です。「私」ではなく、「私たち」です。私だけ見たり、聞いたりしたというのであれば気が狂ったと言われてもしょうがないですが、私だけではありません。ヤコブとヨハネも一緒に目撃し、一緒に聞きました。ということはどういうことかいうと、それは事実であるということです。
ここでペテロは何を言いたいのでしょうか。当時教会の中にはにせ預言者たちが忍び込んでいました。そして、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込んでは人々を惑わしていましたが、彼らはペテロの教えを聞いたとき、「そんなの関係ない」と言ったのです。「ありっこない。嘘だ」と否定したのです。「キリストが再臨するなんてありえない、そんなのはペテロがうまく考え出した作り話だ」と非難したのです。ですからペテロはそれが真実であるということを証明するために、これが本当の話であるということを、自分たちが実際に敬虔した事実として語っているのです。
しかし、キリストの再臨はこれから後に起こることであって、だれも経験したことがない話です。それなのに、これが真実な教えだということをどうやって証明することができるのでしょうか。確かにキリストが再臨するのをだれも見たことがありません。でもその再臨の主の栄光を前もって見たというのであれば話は別です。キリストの再臨はこれからまだ先のことであり、だれも見たことがありませんが、その再臨の姿を前もって見ることができたとしたら、間違いなくキリストは再び来られるということになるのではないでしょうか。ですから、このヘルモン山でのキリストの威光を目撃したということは、キリストが再び来られることの威光を目撃したということと同じことなのです。
それはイエス様が言われたことです。マタイ16:27,28節をご覧ください。ここには、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」とあります。
これはイエス様が語られたことですが、イエス様は、父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来るとき、おのおのその行いに応じて報いをなさいますが、ここに立っている人々の中には、イエス様が再臨するまで、決して死を味わわない人々がいる、というのです。どういうことですか?それまで死を味わわない人がいるわけがありません。それは世の終わりのことなのですから・・・。
それは、このヘルモン山での出来事を指して言われたのです。つまり、ヘルモン山でのキリストのご威光は、再臨の主イエスのご威光だったのです。マタイ17:1には、「それから六日たって」とありますが、この出来事はイエスが言われたことの証明であり、やがて来られるキリストの御姿だったのです。ですから、キリストはまだ再臨していなくとも、あの山上でその御姿を目撃したということは、あの父なる神の御声を聞いたということは、まさに、キリストの再臨を目撃したということと同じことなのです。そのように考えると、16:28のイエス様の言われたことばの意味が分かってきます。このあとペテロとヨハネとヤコブの三人は、イエス様といっしょに高い山に登って行き、それを体験しました。人の子が御国とともに来るのを見たのです。それまでは死を味わうことはありません。彼らは死ぬ前に、キリストが再び来られるのを見たのです。
ペテロがこの手紙の中で言いたかったのはこのことだったのです。彼はキリストが再臨することを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話なのではなく、彼が実際に見て、実際に聞いて体験したことでした。彼らは聖なる山で、主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。
皆さん、聖書は作り話とかでっち上げのようなものではなく、実際に体験した者たちの証言がまとめられたものです。ペテロはキリストの威光の目撃者としてこの手紙を書いたのです。ですから、彼の証言は真実で確かなものです。私たちは今、実際に見たり聞いたりすることはできませんが、神はこのように実際にキリストの威光を目撃した人たちを通してご自身を啓示してくださいました。このような人たちは「使徒」と呼ばれています。使徒とは、イエス・キリストの復活の証人であり、また主イエスと生前ともにいた人たちです。彼らが実際に見て、聞いて、触れて、体験したことが証言としてまとめたもの、それが、私たちが今手にしている聖書です。特に彼らは、十字架と復活の御業を実際に目撃して書いたのです。
使徒ヨハネはこのことを次のように証言しています。
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現われた永遠のいのちです。」(Ⅰヨハネ1:1-2)
ヨハネは、このいのちは、初めからあったものであり、目で見たものであり、じっと見て、また手でさわったものだと言っています。彼はそれを見たので、その証をし、この永遠のいのちについて私たちに伝えているのです。
ですから、聖書は実際にあったことです。間違いのない真理なのです。私たちに必要なのは、この神の啓示の書である聖書に聞くことです。私たちは聞いたので知ることができました。そして知ったので信じることができました。さらに深く主イエスを知るためにはどうしたらいいのでしょうか。この神のことばである聖書をよく知ることです。ここから離れては神を知ることはできません。私たちは彼らが実際に見たり聞いたりしたことを通して、さらにもっと深く、もっと正しく主イエスを知ることができるのです。
皆さんは何を見ていますか。何を聞いておられますか。偽りの教えを聞いてはいけません。それは聞こえがいいかもしれませんが、あなたを滅びと恐怖に陥れるだけのわなです。私たちが見なければならないのは、私たちが聞かなければならないのは、この神のことばです。私たちがどう思うかではなく、実際にキリストのことばを聞き、キリストの栄光を目撃したキリストの弟子たちが語った証言、聖書のことばなのです。
Ⅱ.さらに確かな預言のみことば(19)
次に19節をご覧ください。
「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」
ペテロはここで、驚くべきことを言っています。それは、「さらに確かな預言のみことばを持っている」ということです。ペテロは超自然的なすばらしい体験をしました。キリストの神としての栄光を目撃しました。さらに天から父なる神の御声を聞きました。それはうまく考え出した作り話ではなく、彼が自分の目で見、自分の耳で聞いたことです。彼だけでなく、他の弟子たちも一緒に目撃しました。ですから、彼らの証言は真実で確かなものです。しかしペテロはここで、それよりもさらに確かなものを持っているというのです。普通は、自分が目撃したことほど確かなものはありません。裁判においても証人の証言が有効であるように、ペテロの証言も非常に確かなものです。しかし、それよりもさらに確かなものがあります。いったいそれは何でしょうか。それは確かな預言のみことばです。
預言のみことばとは、旧約聖書のことです。旧約聖書は創世記からマラキ書まで、全部で39巻あります。それはメシヤ、救い主、キリストが来られることの預言です。キリストとは「油注がれた者」という意味ですが、罪に陥った人間を救うために神が遣わされた救い主のことです。最初の人アダムとエバが罪に陥った瞬間から、神はこの救い主を遣わすことを約束されました。創世記3:15には、「わたしは、おまえと女との間に、またおまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。これは、アダムとエバが罪に陥った直後に語られた神の救いのことばなので、原始福音と呼ばれています。これはキリストの十字架と復活によって死の力を持つ悪魔を滅ぼすという預言です。神はまず女の子孫から救い主を遣わすという約束をお与えになりました。そして創世記12章になると、その救い主はアブラハムの子孫から遣わされると示されました。
その後神は、神の預言者たちを通して、キリストについての預言をお与えになりました。それは実に三百か所以上、間接的なものも含めると四百か所以上になります。これらを全部開くことは大変でできませんので、その中のいくつかを見たいと思いますが、たとえばⅡサムエル7:12-13にはこうあります。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」
「あなた」とはダビデのことです。ダビデが死んで眠りについてから、彼の身から出る世継ぎの子を起こし、彼の王国をとこしえに確立されると言いました。これはダビデの子ソロモンのことではありません。ここに「とこしえまでも堅く立てる」とあるように、これは王の王であられるキリストが来られる時のことを預言して言われたのです。キリストはダビデ王の子孫から生まれるということでする
そのとおり、キリストはダビデの子孫からお生まれになられました。そのことが新約聖書マタイ1:1にあります。
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」
ですから、新約聖書は系図から始まっているのです。神が約束された救い主は、アブラハムの子孫、ダビデの子孫から来られると預言されましたとおりに救お生まれになられたことを証明するためです。
その他にも、救い主は処女にみごもるとか(イザヤ7:14)、ユダヤのベツレヘムで生まれること(ミカ5:2)、その働きはガリラヤから始まり(イザヤ9:1)、このキリストが来られたときにどのような奇跡をなさるのか(イザヤ35:5)、また、キリストはろばの子によってエルサレムに入場されるということも預言されています(ゼカリヤ9:9)。同じゼカリヤ11:13には、銀30枚で売られるということまで預言されています。さらにキリストは苦難を受けるということがイザヤ書53章にあります。そればかりではありません。キリストは死人の中からよみがえることもちゃんと預言されていました。詩篇16:10-11です。
「まことに、あなたは、わたしのたましいをよみに捨てておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:10-11)
キリストは私たちの罪のために死なれたわけですがそこに捨ておかず、神はキリストを三日目によみがえらせてくださいました。その他にも、このメシヤ、救い主に関する預言はたくさんあります。そしてそのすべての預言がキリストによって成就しました。中にはこれから成就するものもあります。キリストが再臨されることなどはその一つです。しかし、キリスト、救い主、メシヤが来られることについて語られた預言のことばは、ことごとく成就しました。それは、この方が旧約聖書で預言されていたあの救い主であるということを示しているのです。
皆さん、どうして聖書は確かなものなのであると言えるのでしょうか。それはこの預言が100%成就したからです。神がご自分の預言者たちを通して語られたことが、すべてそのとおりに実現しました。旧約聖書の預言のとおりに、神が約束された救い主キリストが来られました。すべて聖書が預言したとおり成就したのです。この方がまことの神であり救い主であられるイエス・キリストなのです。
この手紙を書いたペテロは、このキリストの神としての栄光を目撃しました。直接父なる神の声を聞きました。すばらしい体験をしました。しかし、こうした自分のすばらしい体験よりもさらに確かなものがあります。それが預言のみことばです。なぜこの預言のみことばはペテロの体験よりも確かなものだと言えるのでしょうか。それはこの預言のみことばはすべて成就したからです。ですからペテロは19節の最後のところでこう言っているのです。「それに目を留めているとよいのです」。
「夜明け」とは、キリストが再び戻って来られる日のことです。「明けの明星」とはキリストのことです。暗い所とはこの世のことです。この世は暗やみです。神から離れているので真っ暗です。どのように生きていったらいいのか、皆、道に迷っています。本当の希望を知りません。そのような暗やみの中に必要なのは何でしょうか。光です。ともしびが必要です。このともしびこそ神のことばです。詩篇119:105にこう書かれてあります。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
神のことばは、この世の暗やみを照らす光なのです。暗やみの中にともしびがあれば、つまずくことがありません。光があれば道に迷うこともありません。ともしびがあれば目的地へ導いてくれます。今は暗やみですが、もうすぐ夜明けがやって来ます。夜明けには太陽が上ります。夜明けの前は真っ暗になります。最も暗いとき、最も寒いとき、それが夜が明ける時です。しかしそのあとに太陽が上ると、すべてを照らします。キリストが再び戻って来られる前に真っ暗になりますが、そのあとに、すべてを照らすまことの光が上ってくるのです。
私たちは今、暗やみの中にいますが、神はその暗やみの中にあっても私たちの足元を照らすともしびを与えてくださいました。それが聖書です。それはさらに確かな預言のみことばです。このみことばに照らされるなら、決してつまずくことはありません。夜明けとなって、明けの明星が上るまでは、真っ暗闇ですが、そのような真っ暗闇の中にあっても、それを照らすともしびに目を留めるなら、あなたは決してつまずくことはありません。この預言のことばに目を留めようではありませんか。
Ⅲ.神からのことば(20-21)
最後に、20,21節を見て終わります。
「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
ここでペテロは、神のことばについてまず知らなければならないことは何かを教えています。それは、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。どういうことでしょうか。
これは大きく二つの解釈があります。一つは、私たちが聖書をどのように解釈するかという意味です。そのように解釈すると、ここは、自分に都合のいいように勝手な解釈をしてはいけない、ということになります。
もう一つの解釈は、ここではおそらくこの意味で使われていると思われますが、聖書の預言は、預言者たちの私的解釈ではないということ、つまり、彼らの考えではないということです。すなわち、私たちが聖書をどのように解釈するのかということではなくて、その聖書の預言はどこから来たのかという出どころ、起源のことを言っているという解釈です。恐らく、そういうことでしょう。英語の聖書ではこう訳しています。
「Above all ,you must understand that no prophecy of Scripture came about by the prophets own interpretation.」(NIV)
これはこういう意味になります。「あなたは理解しなければなりません。聖書の預言は、預言者たちの解釈から出たものではないということを・・。」つまり、どこから来たのかということです。そして、それは預言者たちの解釈や考えから来たものではないということです。彼らが自分で勝手に考えて、自分の考えを語ったのではないということです。
新改訳聖書改訂版では、ここをとてもよく訳しています。「聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきない。」と訳していますが、この「勝手に解釈するものではないということばに※がついていて、別訳として、「預言者自身の解釈ではない」と説明しています。このように訳している他の日本語の聖書は、創造主訳聖書です。創造主訳聖書では、「聖書に記されている預言はすべて、預言者が自分勝手に語ったものではない。」と訳しています。これがここでペテロが言いたかったことです。私たちがどう解釈するかということではなく、この聖書の預言はどこから来たのかということです。それは預言者たちが自分勝手に語ったものではありません。
では、この聖書の預言はどこから来たのでしょうか。21節をご一緒に読みましょう。
「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
それは決して人間の意志によってもたらされたのではありません。それは聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。創世記から黙示録まで、聖書は全部で66巻ありますが、1,600年以上かけて、40人以上の人たちによって書かれましたが、それは決して人間の意志から出てものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものなのです。「聖霊によって動かされた」とは、聖霊によって運ばれたとか、聖霊によってもたらされたという意味です。ちょうど海に浮かんだヨットのようなものです。ヨットはどのようにして目的地に行くのでしょうか。風です。風を受けて、風に運ばれて動いて行きます。それと同じように、預言は、聖霊の風を受けて、聖霊によって動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。ですから、聖書は神によって書かれた神のことばなのです。
Ⅱテモテ3:16には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とあります。皆さん、聖書とは何でしょうか。聖書は神のことばです。聖書はすべて神の霊感によって書かれました。神の霊感とは神の息という意味です。聖書は神の息がかけられたものなのです。すなわち、人間のインスピレーションとか、思い付きによって書かれたものではないのです。聖書はすべて神の霊感、神のいぶき、神によって語られた神のことばなのです。それは、預言者たちが意識を失って、ロボットのように勝手に筆が動いたということではありません。「か・み・は、こ・う・い・わ・れ・た・。」と機械的に書かれたのでもないのです。彼らはみな聖霊に動かされて神のことばを受け止め、そのことばを語り、書き止めたのです。
ですから、聖書は誤りのない神のことばであり、完全なものです。もしこれが人の考えによって書かれたものであればどうでしょうか。危ないです。これは「7つの習慣」という本から学んだ人生を本当の幸福へと導く成功哲学です。これは40か国以上の言語に翻訳され、全世界で2,000万部を越えるベストセラーになった本で、「人生のOSである」と言われているほどの本なんです。だから信頼するに値します!「そうですか、ところでそれはどこから来たんですか。」「はい、スティーブン・R・コヴィーという有名な哲学者が書きました。」「そうですか、でもどんなに有名な哲学者でも危ないですよ。」Ⅰペテロ1:24-25にはこうあります。
「人はみな草の花のようで、その栄えは、みな草のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
人から出たものは変わります。それは時代によって、国によって、場所によってその価値観も違ってきます。しかし、神は永遠の神です。真実な方です。いつまでも変わることがありません。ですから、この世の暗やみを照らす光として最も信頼できるもの、もっと確かなものなのです。それが聖書です。
あなたは何に信頼していますか。何に心を留めておられるでしょうか。あなたが心を留め、あなたが信頼すべきものは、この聖書のことばです。さらに確かな預言のことばなのです。私たちはこのさらに確かな預言のみことば、聖書に目を留め、神に信頼して歩ませていただきましょう。
最後に詩篇18:30-32を読んでこのみことばを閉じたいと思います。
「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる。」