ヨシュア記19章

きょうはヨシュア記19章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.シメオン部族の相続地(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。

「第二番目のくじは、シメオン、すなわちシメオン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地は、ユダ族の相続地の中にあった。彼らの相続地は、ベエル・シェバ、シェバ、モラダ、ハツァル・シュアル、バラ、エツェム、エルトラデ、ベトル、ホルマ、ツィケラグ、ベテ・マルカボテ、ハツァル・スサ、ベテ・レバオテ、シャルヘンで、十三の町と、それらに属する村々。アイン、リモン、エテル、アシャン。四つの町と、それらに属する村々。および、これらの町々の周囲にあって、バアラテ・ベエル、南のラマまでのすべての村々であった。これがシメオン部族の諸氏族の相続地であった。シメオン族の相続地は、ユダ族の割り当て地から取られた。それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。」

 

まだ自分たちの相続地が割り当てられていなかった七つの部族に対してヨシュアは、「あなたがたはいつまで先延ばしているのか。」(18:3)と叱咤激励し、彼らが具体的な行動を起こすことができるように部族ごとに三人の者を選び出し、その地を行き巡るように彼らを送り出し、具体的に相続地のことを書き記させることによってその重い腰を起こさせ、行動へと駆り立てました。何よりも彼らには全能の神がともにおられました。そのことを思い起こさせるためにそれまでギルガルにあった会見の天幕をカナンの地の真ん中、シロに移しました。そして、その最初のくじがベニヤミン族に当たり、その割り当て地が彼らに与えられました。

 

この19章には残りの六つの部族に対する相続地が割り当てについて記されてあります。まずシメオン部族に対する相続地の分配です。シメオン族に対する相続地の分配で特筆すべきことは、彼らの相続地はユダ族の割り当て地から取られたということです。いわばユダ族から借用したかのような形で割り当てられたのです。9節にはその理由がこのように記されてあります。「それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。」どういうことでしょうか。ユダ族には広すぎたのでシメオン族には借地しか与えられなかったというのは理解ができません。

 

二つのことが考えられます。一つは、シメオン族は相続地が与えられても、それを勝ち取っていくだけの気力というか、気概がなかったのではないかということです。以前にも述べたように、イスラエルの各部族は相続地が与えられたとは言っても、その地には先住民がいたわけですから、それを自分たちの領土にするためにはそうした先住民と戦い、勝ち取らなければなりませんでした。けれども、シメオン族は臆病であったがためにそのような戦いを回避したので、結局、ユダ族の領土を間借りするようなことになってしまったのではないかということです。

 

もう一つのことは、シメオン族は極めて激情的な性格であったがゆえに神の祝福に与ることができず、それ故に領土も与えられなかったということです。

シメオン族の始祖シメオンについては、創世記34章にある一つの出来事が記されてあります。それは妹ディナがその土地の族長ヒビ人ハモルの子シェケムに汚された時、シェケムだけでなく、その一族郎党全員を虐殺したという出来事です。ヒビ人たちはディナに行った行為を大変後悔し、自分たちはシメオンと同じヤハウェの神を信じてもよいと申し出たにもかかわらず、彼らが割礼を受けてその傷が痛んでいるとき、レビと一緒に剣ですべての男子を殺しました。彼らは妹ディナを遊女のように扱ったヒビ人を決して赦すことができなかったのです。

 

その出来事は後々までも尾を引き、創世記49:5~7には、ヤコブはシメオンの将来について次のように預言しました。

「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」

これはヤコブの預言的遺言ですが、これによるとシメオンとレビはその激しい性格のゆえに呪われるということでした。しかしレビ族は、やがてイスラエルの民が金の子牛を作って礼拝するという罪を犯したとき、兄弟に逆らっても主に身をささげたことで、その呪いから外されることになります。(出エジプト32:25-29)しかしシメオン族は、あのヤコブの預言のごとく呪われていくことになるのです。怒りや憤りを抑えることができないと、災いや呪いをもたらすことになるのです。

 

詩篇37:8-9には、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」とあります。

またヤコブ書1:19-20にも、「愛する兄弟たち。 あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るには おそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものでは ありません。」とあります。

人の怒りは、神の義を実現するものではありません。それは大きな損失をもたらすことになります。ですから、私たちはキリストの十字架の道を思い起こし、聖霊の助けをいただいて、怒りを制御することを学ばなければなりません。

 

Ⅱ.ゼブルン部族への相続地(10-16)

 

次に10節から16節までをご覧ください。

「第三番目のくじは、ゼブルン族の諸氏族のために引かれた。彼らの相続地となる地域はサリデに及び、その境界線は、西のほう、マルアラに上り、ダベシェテに達し、ヨクネアムの東にある川に達した。また、サリデのほう、東のほう日の上る方に戻り、キスロテ・タボルの地境に至り、ダベラテに出て、ヤフィアに上る。そこから東のほう、ガテ・ヘフェルとエテ・カツィンに進み、ネアのほうに折れてリモンに出る。その境界線は、そこを北のほう、ハナトンに回り、その終わりはエフタ・エルの谷であった。そしてカタテ、ナハラル、シムロン、イデアラ、ベツレヘムなど十二の町と、それらに属する村々であった。これは、ゼブルン族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ここにはゼブルン族への相続地について記されてあります。ゼブルン族が獲得した地域は、巻末の地図をご覧いただくとわかりますが、マナセ族の北にありますが、彼らの獲得した地域は小さいながらも、ほぼ長方形をした肥沃な地でした。

ヤコブの預言的遺言では、「ゼブルンは海辺に住み、その側面はシドンにまで至る。」(創世記49:13)とありますが、実際に海辺に住んだのはアシェルであり、その側面もツロを越えることはありませんでした。神のみこころにかなう祈りのみが聞かれるということなのでしょうか。

 

このゼプルンについて、後にイザヤは、「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」(イザヤ9:1)と預言しました。ここにはナザレという村があり、やがて救い主イエス・キリストが公に姿を現わされるまで、ここで成長していくことになります。そういう意味で、このゼブルンとナフタリの地は光栄を受けることになるのです。

 

「ゼブルン」は「ザーバル」というヘブル語に由来しますが、意味は「進む」です。それは彼らの性格をよく表していました。士師4章には、イスラエルがカナンの将軍ヤビンの将軍シセラとの天下分け目の戦いについて記されてありますが、この戦いにおいて極めて勇猛果敢に戦ったのがゼブルン族でした。イスラエル12部族の内の半分はこの戦いは勝ち目がないと思ったのか、兵を出しませんでしたが、残りの半分が兵を出し、その中でもこのゼブルン族の兵士は、死を恐れず、命を捨てて戦いました。このようにゼブルン族は極めて前向きで積極的な勇気ある部族だったのです。

 

これは私たちの人生にとっても大切なことです。生まれながらの人間は、そのまま放っておけば必然的に後ろ向きになり、否定的になっていきます。それほどに、私たちの周りには否定的で悲観的な事柄であふれているからです。新聞を読んでも、テレビを観ても、また周囲の人々が語る言葉を聞いても、積極的な言葉や前向きなことばよりも、否定的で後ろ向きな言葉で満ちています。ですから、そのままでいれば、自然に否定的になっていかざるを得ません。

 

しかし、神は私たちを罪から贖ってくださいました。私たちも「ゼブルン」のように、前に進んで行けるように、神が根本的な問題を取り除いてくださいました。異邦人のガリラヤも光栄を受けたのです。ですから私たちもゼブルンのように、信仰によって前に進んでいく者でなければなりません。

 

Ⅲ.イッサカル族への相続地(17-23)

 

次はイッサカル族への相続地です。17節から23節までをご覧ください。

「第四番目のくじは、イッサカル、すなわちイッサカル族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、イズレエル、ケスロテ、シュネム、ハファライム、シオン、アナハラテ、ラビテ、キシュヨン、エベツ、レメテ、エン・ガニム、エン・ハダ、ベテ・パツェツ。その境界線は、タボルに達し、それからシャハツィマと、ベテ・シェメシュに向かい、その境界線の終わりはヨルダン川であった。十六の町と、それらに属する村々であった。これが、イッサカル部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

次はイッサカル族への相続地です。彼らに与えられた相続地は狭くはありましたが、ガリラヤ湖の南西部に位置するイズレエル平原と呼ばれる大きな平原の東部にありました。創世記49:14のヤコブの預言には、「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す」(創世記49:14)とあります。この「二つの鞍袋」とは何かは難解なことばとされてきましたが、これが土地の相続についての預言だとすれば、イッサカルがマナセの二つの相続地に挟まれるような形で、この地を相続地として得るという預言だったのではないかと思われます。

 

この地は、古来重要な戦いの拠点でした。また、エジプトからレバノンに抜ける通商道路が通っていた重要な貿易の拠点でもありました。それゆえ、この地は狭くはあっても戦略的に見るならば極めて重要な場所であったと言えます。イッサカル族はこの領地を得たのです。それはイッサカル族が極めて謙遜であり、柔和であり、しかも忠実な部族であったからです。たとえば、それはイッサカル族の弟分にあたるゼブルンに対する態度を見てもわかります。ゼブルンは弟であるにもかかわらず、イッサカルに優先して相続地の割り当てを受けましたが、イッサカルはそのことで怒ったりせず、その優先権を弟に渡しました。なぜなら、ゼブルンの性格を知っていたからです。ゼブルンは前向きで積極的であり、リーダーへシップがあることを認めたのです。しかも、そのことですねたりせずに、弟ゼブルンを愛し、互いの共通の聖所を自分の領土のタボル山に建てました。こうした彼らの冷静で、慎重で、柔和で、謙遜、そして忠実さのゆえに、こうした重要な地を受けることになったのです。

 

「イッサカル」ということばは、「神が恵みを示してくださるように」という意味です。霊性で、慎重で、謙遜で、忠実なところに、神は恵みを施してくださいます。私たちもこのイッサカル族のような者でありたいと願わされます。

 

Ⅳ.アシェル族への相続地(24-31)

 

次は、アシェル族への相続地です。24節から31節までをご覧ください。

「第五番目のくじは、アシェル部族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、ヘルカテ、ハリ、ベテン、アクシャフ、アラメレク、アムアデ、ミシュアルで、西のほう、カルメルとシホル・リブナテに達する。また、日の上る方、ベテ・ダゴンに戻り、ゼブルンに達し、北のほう、エフタ・エルの谷、ベテ・ハエメク、ネイエルを経て、左のほう、カブルに出て、エブロン、レホブ、ハモン、カナを経て、大シドンに至る。その境界線は、ラマのほうに戻り、城壁のある町ツロに至る。またその境界線は、ホサのほうに戻り、その終わりは海であった。それに、マハレブ、アクジブ、アコ、アフェク、レホブなど、二十二の町と、それらに属する村々であった。これがアシェル部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

「アシェル」という名前の意味は、「幸い」です。そのことばのごとく、彼の始祖が父ヤコブから受けた遺言的預言では、「アシェルは、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作りだす。」(創世記49:20)とあります。また、神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばには、「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」(申命記33:24-25)とあります。その預言のとおり、彼らは、イスラエルの北部に位置する地中海沿岸の平野で、極めて肥えた良い土地が与えられました。

 

しかし、士師記を見ると、必ずしもそうではなかったことがわかります。彼らは地中海沿岸沿いの平野部どころか、むしろ山間部に閉じ込められ、カナン人の圧迫に悩まされ続けながら、やがては歴史の中へ消えていくことになりました。なぜでしょうか。それは彼らの姿勢にありました。士師5:17を見ると、「アシェルは海辺にすわり、その波止場のそばに住んでいた。」とあります。すなわち、イスラエルとカナン人の連合軍の天下分け目の戦いにおいて、日和見的な態度でその兵を動かさなかったのです。あんなにすばらしい約束が与えられていたのに、その約束に対して力の限り応答せず優柔不断な態度であったため、その約束を受けることができなかったのです。

 

それは私たちにも言えることです。神は私たちに「幸い」を約束してくださいました。それなのに、主が成せと命じられたことに対して全力で応答していくのでなければ、それは成就することはないのです。

 

Ⅴ.ナフタリ族への相続地(32-39)

 

次にナフタリ族への相続地を観たいと思います。32節から39節までをご覧ください。

「第六番目のくじは、ナフタリ人、すなわちナフタリ族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、ヘレフとツァアナニムの樫の木のところから、アダミ・ハネケブ、ヤブネエルを経てラクムまでで、終わりはヨルダン川であった。その境界線は、西のほう、アズノテ・タボルに戻り、そこからフコクに出る。南はゼブルンに達し、西はアシェルに達し、日の上る方はヨルダン川に達する。その城壁のある町々は、ツィディム、ツェル、ハマテ、ラカテ、キネレテ、アダマ、ラマ、ハツォル、ケデシュ、エデレイ、エン・ハツォル、イルオン、ミグダル・エル、ホレム、ベテ・アナテ、ベテ・シェメシュなど十九の町と、それらに属する村々であった。これが、ナフタリ部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ナフタリ族はガリラヤ湖の南西の平野部が与えられました。その地は豊かに越えたと地でした。それはヤコブとモーセに与えられた預言の成就でもありました。創世記49:21には、「ナフタリは放たれた雌鹿で、美しく子鹿を産む。」とあります。この「美しく子鹿を産む」ということばは、欄外の注釈にもあるように、「美しいことばを出す」という意味です。どういう意味でしょうか。それは将来メシヤがこの地から出て美しいことばを出すということの預言でもありました。事実、そのことばのとおり主イエスはこのナフタリの地から宣教の第一歩を踏み出されました。マタイ4:12-17をご覧ください。

「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」」

主イエスの宣教は、このナフタリとゼブルンの間にあったカペナウムから開始されました。ここから美しいことば、神の国の福音が宣教されたのです。

 

さらに申命記33:21には、「ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」とあります。ずばりナフタリの領土の豊かさが預言されていました。このようにモーセが語り、ヤコブが語ったごとく、ナフタリは極めて豊かで肥沃な土地を手にすることができました。しかしながら、やがてこのナフタリ族は多くの多民族からの侵略を受け、その影響の中で混合民族を形成していくことになります。そして、遂には「異邦人のガリラヤ」と他のユダヤ人から蔑視され、歴史の中からその姿を消していくことになるのです。

 

いったいなぜそのようになってしまったのでしょうか。士師1:33に、その理由が記されています。「ナフタリはベテ・シェメシュの住民やベテ・アナテの住民を追い払わなかった。そして、その土地に住むカナン人の中に住みついた。」すなわち、ナフタリ族は追い出すべきカナン人を追い出さなかったからです。「ナフタリ」ということばは、「争い」という意味です。彼らは戦いを大変好んでいた民族です。それなのに追い出しませんでした。それは、異教や偶像崇拝に対して曖昧な態度をとったからです。モーセの命令はカナン人を追い出すことでした。それはイスラエルの民が他の民族に対して、差別的で冷酷であったからではありません。それはイスラエル民が偶像と交わることから守られるためです。それなのに彼らは偶像に対して曖昧な態度をとることで、その命令を守られなかったのです。それゆえに、ここにあるようなナフタリの曖昧な態度は、信仰的には極めて悪いものでした。その結果、彼らは折角与えられた神の祝福を喪失し、滅びていくことになったのです。

 

私たちはこのナフタリがたどった運命を他山の石としなければなりません。特に、私たち日本のクリスチャンはナフタリを反面教師にすべきです。クリスチャンは他者に対して、寛容であることが望ましく、それは大切なことです。むやみに他者の弱さや罪を暴き立て、裁くようなことがあってはなりません。しかし、時としてこうした神の命令には曖昧な態度を捨て、毅然とした態度で臨まなければなれません。こうした曖昧な態度がもたらす弊害は、私たちが考えていること以上に大きなものがあるからです。

 

Ⅵ.ダン族への相続(40-48)

 

最後に、ダン族への相続地です。40節から48節までをご覧ください。

「第七番目のくじは、ダン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地となる地域は、ツォルア、エシュタオル、イル・シェメシュ、シャアラビン、アヤロン、イテラ、エロン、ティムナ、エクロン、エルテケ、ギベトン、バアラテ、エフデ、ベネ・ベラク、ガテ・リモン、メ・ハヤルコン、ラコン、およびヤフォの近くの地境であった。ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。これがダン部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ダン族にはパレスチナ中部にある地中海沿岸の土地が与えられました。しかしそれだけでなく、47節を見ると、彼らは上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ、とあります。与えられた地が狭かったので、さらに領土を広げるためにそこから北上し、パレスチナの最北端、ガリラヤ湖の北に当たる地を責めて、その所を勝ち取ったのです。最初は小さな領域でしたが、積極的に領地を広げようと前進して行ったのです。この記録から、ダン族というのは、実に積極的な部族であったことがわかります。創世記49章のヤコブの預言や、申命記33章のモーセの預言でも、ダン族が積極的な民であることが言及されています。

 

しかし、士師記5:17のデボラの歌を見ると、必ずしもそうでなかったことがわかります。そこには、「なぜダンは舟にとどまったのか」とあります。つまり、彼らは戦いに出て行かなかったのです。カナン人の連合軍との天下分け目の戦いにおいて、日和見的な態度をとったのです。とすると、ここに記されてあるダン族の勇敢な姿はどういうことなのでしょうか。

 

ここには、ダン族が上って行ったのは、さらに領土を広げるためであったかのように書かれてありますが、必ずしもそうではありませんでした。確かに彼らに与えられたのはパレスチナ中部の地中海沿岸の狭い土地でしたが、そこには強力なペリシテ人が住んでいたのです。そのためペリシテ人に圧迫されたダン族は、仕方なく北へ逃走し、誰も行こうとしないパレスチナの北の果てに住むようになったのです。そのことは士師記1:34を見るとわかります。そこには、「エモリ人はダン族を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。」とあります。何とダン族は勇敢な民どころか、狭い自分の土地さえも守ることができませんでした。そして終われに追われて、遂にはパレスチナの最北端にまで逃れて行ったのです。そればかりか、彼らはパレスチナにはびこっていた偶像崇拝に陥り、堕落して、黙示録7章にある終末の回復のリストからも外されていったのです。いったいこれはどういうことでしょうか。片や勇猛果敢な姿が描かれ、片や弱くて臆病な姿が描かれているのです。どちらが本当のダンの姿なのでしょうか。どちらも本当のダン族の姿でした。

 

このようなことは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。ある時には信仰が強められ、自分でも信じられないくらい神の力に満ち溢れたかと思うと、次の瞬間には周りの状況をなかなか受け入れられず、極端に弱くなってしまうことがあります。あの神の預言者エリヤでさえ、バアルとアシェラの預言者と戦い神の圧倒的な力によって勝利したかと思ったら、次の瞬間にはイゼベルのことばに恐れ、「神さま、どうか私のいのちを取ってください。」というほど弱くなりました。そうした二面性が、私たちの中にあります。だったら、いつも信仰によって勇敢であるにはどうしたらいいのでしょうか。

 

それは神とともに歩むことです。いつも聖霊に満たされて、神の力を頂くことです。あのサムソンはどうでしたか。彼の力の源は長く伸びた髪の毛でした。ナジル人として生まれた彼は、生涯、頭にかみそりをあてませんでした。それは神の霊が彼とともにおられることを表していました。しかし、デリラによってその秘密を洩らすと彼の髪の毛はさっと切り落とされ、神の力が彼から去って行きました。

 

それは私たちも同じです。私たちがいつも神の力によって勇敢に前進していくためには、神の聖霊に満たされていなければなりません。神の命令を守り、神のみこころに歩むとき、神はご自身の聖霊で満たしてくださいます。私たちはダン族のように時として弱くなってしまう器であるということをわきまえて、いつも聖霊に満たされることを求めていきたいと思います。

 

Ⅶ.ヨシュアが求めた町(49-51)

 

最後に49節から51節までを見て終わりたいと思います。

「この地について地域ごとに、相続地の割り当てを終えたとき、イスラエル人は、彼らの間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。彼らは主の命令により、ヨシュアが求めた町、すなわちエフライムの山地にあるティムナテ・セラフを彼に与えた。彼はその町を建てて、そこに住んだ。これらは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、およびイスラエル人の部族の一族のかしらたちが、シロにおいて会見の天幕の入口、主の前で、くじによって割り当てた相続地であった。こうして彼らは、この地の割り当てを終わった。」

 

ここには、イスラエルの全部族に対する割り当てが終わってからのことが記されてあります。各部族への割り当てが終わったとき、イスラエルの民はヨシュアに対して、どの町でも自分の好きな街を一つとるようにと言いました。それは、ヨシュアのこれまでの指導者としての功労に感謝を表すためです。イスラエルの民はその犠牲と功績の大きさを決して忘れることなく、これに最大限に報いようとしたのです。

 

それに対してヨシュアは、どんな土地を求めたでしょうか。ここには、エフライムの山地にあるティムナテ・セラフを求めたとあります。このティムナテ・セラフとは「太陽の部分」という意味で、太陽礼拝、すなわち偶像崇拝が盛んにおこなわれていたところです。いったいなぜ彼はそんなところを求めたのでしょうか。

 

ここにヨシュアの開拓者精神を観ます。この時彼は80歳を超えていました。年齢から行っても功績から言っても、もう隠居してもいい年であったはずです。それなのに彼はそのようにはせず、新しい挑戦を開始しようとしたのです。あえて困難な道を選んで、新しい第三の人生をスタートさせたのです。

 

私たち人間は老いていくと段々からだが弱り思考力も鈍くなるので、周囲もあまり期待しなくなります。そこでつい後ろ向きになり、消極的になりがちですが、また過去を振り返り、それで満足しがちですが、そうではなく、いつでも開拓者の精神をもって進んでいきたいものです。特にこの日本ではまだまだ獲得していない地がたくさんあります。そうした地を獲得していくためには、むしろ、人生のある程度のことを成し終えた老人のパワーが求められるのではないでしょうか。それは私たちには死を越えた永遠のいのちが与えられたという根源的な希望が与えられているからです。