きょうは、「偽教師たちに気をつけなさい」というタイトルでお話しします。この手紙は第一の手紙と同様、キリストの弟子であったペテロから、迫害によって小アジヤに散らされていたクリスチャンたちに書き送られた手紙です。これは、彼の生涯における最後の手紙となりました。第一の手紙では、教会の外側からの迫害があっても神の恵み覚え、その恵みの中にしっかりと立っているようにと勧めましたが、この第二の手紙では、そうした教会の外側からの問題だけでなく教会の内側からの問題、すなわち、教会の中に忍び込んでいた偽教師たちに惑わされないようにと警告しています。
Ⅰ.偽教師たちが現われる(1a)
まず1節をご覧ください。
「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。」
「しかし」というのは、この前で語られてきたことの関わりを示しています。それと比較してどうかということです。この前で語られていたことは、預言とはどのようなものであるかということです。つまり、預言とは決して人間の考えや意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものであるということです。彼らは自分の考えを語ったのではありません。聖霊に動かされて、神からのことばを語りました。神がこのように語りなさいと言われたことを、そのまま語ったのです。それは神から出たものであり、それゆえに、彼らは神のことばを語ったのです。これが神の預言です。
「しかし」です。しかし、それに対してそうでない預言者もいました。彼らは神のことばを語っているようでも、実際には神のことばではなく自分の考えを語っていました。神のことばを語っていれば必ずしもそれが本物だとは限りません。それは今に始ったことではなく、ずっと昔から、旧約の時代からイスラエルの中に出ていました。
たとえば、エレミヤ書28章にはハナヌヤという預言者が出てきますが、彼はこの偽預言者でした。神が廃ってもいないのに、あたかも神が語っているかのように語ったのです。彼は祭司たちとすべての民の前で、「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。」と言って、二年のうちに、万軍の主が、バビロンの王のくびきを砕き、ユダのすべての捕囚の民をエルサレムに帰らせる、と預言しました。そしてエレミヤの首にかけてあった木のかせを取り除くと預言したのです。この木のかせというのは、神のわざわいと呪いの象徴です。イスラエルの民は神に背き、自分勝手な道に歩んだので、自らにそのわざわいと受けることになりましたが、その打ち砕くと言ったのです。大体、偽預言者は悪いことはいいません。その人にとって受け入れられることしかいいません。そうでないと去って行かれますから。
しかし、その時、エレミヤに次のような主のことばがありました。
「行って、ハナヌヤに次のように言え。「主はこう仰せられる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせをつくることになる。まことに、イスラエルの神は、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカデネザルに仕えさせる。それで彼らは彼に仕える。野の獣まで、わたしは彼に与えた。」(エレミヤ28:13-14)
どういうことかというと、神は木のかせを砕くどころかもっと強力な鉄のかせをはめるというのです。ハナヌヤは、イスラエルの民にとって聞こえがいいように神の平安を預言しましたが、神のみこころは、むしろイスラエルが悔い改めることだったのです。それなのにハナヌヤは神のことばではなく、自分の考えを語りました。なぜでしょうか。人に気に入られたかったからです。イスラエルの民に聞こえがいいことを語りたかった。神のことばを語る者にとって、こうした誘惑はいつでも起こるものです。しかし、神の預言者は自分の考えを語るのではなく、神からのことばを語らなければなりません。
そのハナヌヤに対して、エレミヤは言いました。
「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わさなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしはあなたを地の表から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。」(エレミヤ28:15-16)
そのことばのとおり、ハナヌヤはその年の第七の月に死にました。恐ろしいですね。神が語っていないのにあたかも語ったかのように言うとしたら、神はそのような偽りの預言者を厳しく罰せられるのです。なぜなら、そのように語ることで自らに滅びを招くだけでなく、それに聞き従う人たちをも滅びに導くことになるからです。ですから、神のことばを語るということはとても重いことなのです。神のことばを語る者として襟を正される思いです。
しかし、本物の預言者は自分の考えではなく、神からのことばを語ります。たとえそれが人に気に入られなくても、それを聞いている人にとって聞き触りがよくなくとも、神のことばとして語るのです。なぜなら、それは1:19にあるように、暗やみを照らす確かなともしびだからです。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)
神のことばは私たちを正しい道に導きます。なぜなら、神のことばは、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。だからどんなに気に入られなくても、どんなに聞き触りがよくなくても、神のことばに目を留めていなければなりません。そうでないと惑わされてしまうことになってしまいます。
ここでペテロは、イスラエルにそうしたにせ預言者が出たように、あなたがたの中にも、偽教師が現われると警告しています。そういう教師がペテロの時代もいました。これからも出てきます。それはいつの時代でも起こることなのです。イエス様もこのような偽教師が現われることを予め語っておられました。マタイ7:15をご覧ください。ここには、「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」(マタイ7:15)とあります。
こうした偽教師は、あのグリムの童話にある「狼と七匹の子山羊」のように、羊のなりをしてやって来ても、その中身は貪欲な狼です。いくらチョークの粉を食べてお母さんのような声を出しても、いくら小麦粉を足に塗って真っ白くしても、内側は貪欲な狼なのです。ドアの隙間から白い足を見て油断して戸開けると、呑み込まれてしまうことになります。
パウロも同じように警告しました。使徒20:29です。パウロはエペソの長老たちに告別の説教した時、その中で次のように言いました。
「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがたの中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目を覚ましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりに訓戒し続けてきたことを、思い出してください。」(使徒20:29-31)
ここでは、そうした狂暴な狼が外から入り込んで来るというだけでなく、内側からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こると言っています。だから、目を覚ましていなさい、と警告したのです。
そして、ペテロも警告しています。イスラエルの中にそうした偽預言者が出ました。そして今、あなたがたの中にも偽教師がいます。これからも出てきます。彼らはいろいろな曲がったことを語ってはあなたがたを惑わそうとしますが、そういう者たちには気をつけなさいと、警告していたのです。
最近、預言カフェに行ったという人の話を聞きました。預言カフェとは、お茶を飲みながら神様の預言を伝えてもらえるという変わったコンセプトになっています。1杯数百円のコーヒーを頼めば、だれでも預言が聞けるというのです。コーヒーを飲んでいるところに預言者だという女性が現われて一方的に神のことばを語るのです。たとえば、「あなたが大きな夢を抱いて、それに向かっていることを(神は)知っていて、応援しますと言っています。
ただ、いま目の前にあることを、たまたまこれを知ったから、やろうと決めたから「やらなくちゃ」とがむしゃらになっている。でもそれは結果が出るまでに半年1年と時間がかかりそうな事。やめるというのではなく、今「これしかない」と思っていることをいったん横に置いて、少しそのことばかり考えているのを離れて、やりやすいことから2つ3つ始めてみる。
それから、「これがいいんじゃないか」と、自分の考えだけで必死に進んでるんだけど、そうじゃなくて説明書を手に入れる。やり方を分かっている人に話を聞いて、やり方を理解した上で取り組んだほうがいい。その出会いがあるように、私はサポートしていきますよ(と神は言っています)」
といった具合にです。
その時自分が悩んでいることや迷っていることにピッタリあてはまることを言ってくれるので、とても癒されるというか、ホッとするのです。しかも、「と神はいっています」というので、本当に神が言っておられるのではないかと錯覚してしまうのです。
危ないです。それはここでペテロが警告していることです。神が言ってもいないのに、神の名を使ってあたかも神が語ったかのように思わせるのは、昔も今も変わらない偽預言者の常套手段です。そういう偽りの預言、偽りの教えに惑わされないように気を付けなければなりません。
Ⅱ.偽教師たちの特徴(1b-3a)
いったいどうしたらいいのでしょうか。そのような偽教師の教えに惑わされないためには、そうした偽教師たちがどのような者なのか、その特徴を知らなければなりません。ペテロはここで、偽教師たちの三つの特徴を取り上げています。1節後半から3節の前半までをご覧ください。
まず第一に、彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むということです。1節の後半に、「彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかに滅びを招いています。」とあります。
「異端」とは「誤った教え」とか「偽りの教え」という意味です。キリスト教を名乗ってはいても、実質は違うことを教えます。聖書の教えではなく、聖書の教えを利用して自分の考えを語るのです。彼らの関心は神ではなく、この地上のことだけです。そして、自分を買い取ってくださった主を否定するようなことさえするのです。「買い取る」とは贖いのことを指します。その贖いを否定するのですから、救いを失ってしまうことになります。この異端の最大の特徴は、自分を贖って下さった主を否定するということです。そしてキリストを知らない、贖い主を知らないという事は罪が残るということなので、永遠の滅びに至ることになってしまいます。何年も教会に行き続けたのに、こうした異端に惑わされてしまうことになったら本当に悲しいことです。
2004年に「ダ・ヴィンチ・コード」(The Da Vinci Code)という本が出版されました。2006年には映画にもなりましたが、これは、イエス・キリストが、マグダラのマリヤと結婚したという想定のもと、イエスの死後、マリヤは子供たちを連れて逃れ、やがて古代の異教の信仰の聖なる女性のシンボルになったというものです。これを書いたダン・ブラウンは、この本に出てくる芸術作品、建築、資料、謎の儀式がみな正確なものであるかのように思わせ信じさせようとしていますが、これらはフィクションです。それなのに、この本が世界的な旋風を巻き起こしたのは、悲しいことに、神のみことばに対して無知な人が少なくなく、更に悪いことに、神の言葉を信じないでそれに従わない言い訳を必死に探している人が多いからなのです。
このような教えが、教会の中に広がって来ています。それはこれからもっと広がって行くでしょう。「キリストはインチキだった」とか、「十字架の贖い、復活などはあり得ない」などと、まさに「自分たちを買い取ってくださった主を否定」するようなことを言って、人々を滅びへと導くのです。
しかも悪いことに、彼らはそれをひそかに持ち込みます。「私は偽預言者です。これはあくまでも私の考えですが、私はあまり聖書に関心はないんです。私の関心はあくまでも皆さんの悩みを聞いて、皆さんを励ますことです。天国とか地獄とか、そんなことはどうでもいいんです。」なんて言うのであればすぐに「あっ、あれは偽教師だ」とわかるのですが、聖書のことばを用いて神はこう仰せられるというので、それを見分けるのが難しいのです。
冬が近くなる頃、いつも福島の教会の姉妹がりんごを送ってくださいますが、何年か前に届かない時がありました。というか、時期的に少し早かったんですね。家内からアップルパイを作るからりんごを買って来て、と頼まれたので、近くのスーパーで4個で498円のリンゴを買いました。それは青森産の真っ赤なりんごで、とても美味しそうでした。ところがそれをケーキに入れようと切ってみたところ、その内の1個が腐っていたのです。どうするのかなぁと思って見ていたら、腐ったところを取り除いて使える部分だけを使ってアップルパイを作りました。どれがいいりんごなのは切ってみないとわかりません。表面的にはどれも真っ赤で美味しそうに見えても、切ってみると中にはこのようなものが入りこんでいることがあるのです。
後日、スーパーに言って、「すみません。この前買ったりんごですが、中に腐ったものがありました」というと、スーパーのご主人が、「そうでしたか、それは大変申し訳ないことをしました。確かにりんごは外からは見分けが付かないので、そういうものが入り込んでいることがわからないんですよ。すぐに新しいものとお取替えします」と言って、1個おまけに2個くださいました。
異端も同じです。切ってみるまでわかりません。表面的には同じように見えても、切ってみるまではそれがどのようなものなのかわからないのです。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、あたかもそれが正しい教えであるかのように見せかけますが、中身は自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招くようなことをするのです。だから、そうした偽りの教えに騙されることがないように注意し、いつも本物に触れていることが大切です。聖書をよく学び、聖書の正しい教えを持っていることが必要なのです。
偽教師を見分ける第二の方法は、それを教える者がどういう者であるかをよく見ることです。2節をご覧ください。ここには、「そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道からそしりを受けるのです。」とあります。どういうことでしょうか。何が正しい教えであり、何が間違った教えなのかを見分けることは困難ですが、それでも、それを見分ける方法があるというのです。それは何でしょうか?それを教えている者がどういう者であるかをよく見ることです。ここには、「多くの者が彼らの好色にならい」とあります。どんなに正しい教えをしているようでも、それを教えている人が道徳的に堕落しているとしたら、それは偽物だと判断することができます。
イエス様は、マタイ12:33~35でこう言われました。
「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」
木の善し悪しは、その実によって知られます。もし木がよければよい実を結びますが、悪ければ悪い実を結びます。どんなに正しいことを言っていても、もし悪い実を結んでいるのであれば、それは悪い木であると判断することができるのです。
パウロは、エペソ4:19で、「道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」と言っています。それは神のいのちから遠く離れているため、道徳的に無感覚となっているからです。であれば、結果的に、そのような者から出てくる行いも肉的なものとなります。
ペテロは、第一の手紙の中で、「あなたがたは、異邦人がしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像崇拝にふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」(Ⅰペテロ4:3)と言っています。もう十分なのです。それは神を知らない人たちがふけっていたものであって、神を知った今、キリストによって罪が贖われた人には、そのような行いは必要ありません。もう十分なのです。イエス・キリストを信じて新しい者にされたのですから、そういう人は、昼間らしい、正しい生き方をしようと努めるのです。
それなのに、こうした生活を続け、彼らの好色にならうなら、真理の道がそしられることになります。どういうことでしょうか?それは、不信者から、「だからキリスト教は変なんだよな」とか「そこが違うよ、キリスト教!」と言われるようになるということです。つまり、全く証になりません。そして、人々が真理から離れて行ってしまうことになるのです。ここには「多くの者が」とあります。怖いですね、多くの者がそのようになるのです。そういえばイエス様もそのように言われました。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見い出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)
そこから入って行く者が多いのです。そことはどこですか?広い門です。滅びの門です。そこから入って行く者が多いのです。しかし、いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。そこから入って行かないように注意しましょう。
偽教師の特徴の第三は、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にするということです。3節の前半をご覧ください。
「また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。」
彼らは貪欲です。貪欲であるとは、今持っているもので満足できず、もっと欲しいとむさぼるということです。
以前、日本人の意識調査の中で、色々な収入のレベルの人たちに、それぞれ収入に関するアンケートを行ったところ、おもしろい結果が出ました。調査に応じたすべての収入のレベルの人が、「今よりも、もっとほしい」と回答したのです。人間の欲望は止まるところを知らないということです。どんなに持っていても、「もう少しほしい」という思いがあるのです。
これは生まれながらの人間の性質です。生まれながらの人間はどんなに物があっても満足することができません。もっと欲しいとむさぼるのです。特にお金や持ち物に対して貪欲です。だから聖書はこう言っているのです。
「衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分たちを刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:8-10)
金銭自体が問題なのではありません。金銭を愛することが問題なのです。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。これは、働き人が報酬を受けることを言っているのではありません。働き人が報酬を受けるのは当然だと、聖書にはっきり教えられています(Ⅰテモテ5:17-18)。ここで言われていることはお金そのものが目的となることであり、貪欲であることです。そしてそのために作り事のことばをもって人々を食い物にすることです。彼らはお金集めを目的として人々が聞きたいことだけを語るのです。
「作り事のことば」とは、インチキであるということです。だれかれかまわず、このようなインチキに引っかからせようとしてやって来ます。「食い物にします」の原語の意味は、「商品として売り買いする」です。ですから、ここにも贖いという概念が含まれているのです。このインチキに引っかかると、私たちの罪がせっかく贖われたのに食い物にされてしまいますから、そういうことがないようによくよく注意し、見極めるようにしなければなりません。
Ⅲ.偽教師たちへのさばき(3b)
それでは、こうした預言者はどのようになるのでしょうか。第三に、その結果です。3節後半をご覧ください。
「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」
偽教師は、今は繁栄しているように見えても必ず滅びに至り、さばかれることになります。どのようにさばかれるのでしょうか。ペテロはここで、昔行われたいくつかの例をあげて説明しています。
一つ目の例は、罪を犯した御使いたちに対するさばきです。4節をご覧ください。
「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」
これは天使たちの堕落と、彼に対するさばきです。イザヤ書14:12~15には、堕落した天使に対する神のさばきが次のようにあります。
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」
これが悪の起源とされています。いったい悪魔はどこから来たのでしょうか。神が造られたものはすべて良いものばかりだったのであれば、いったいどこから悪が来たのでしようか。ここです。この「明けの明星」とはヘブル語で「ヘーレル」、ラテン語で「ルシファー」です。意味は「輝く者」です。ですから、この明けの明星とは輝く天使でした。天使たちの最高位に位置していた天使長、それがルシファーです。このルシファーが堕落しました。心の中で、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」と言って神に反逆したのです。それで神は彼をよみに落とし、穴の底に落としました。それが悪魔、サタンとなったのです。神さまが造られたものはすべて良かったのですが、神は天使を人間と同じように自由意志を持つものとして造られました。そして、ルシファーは何を血迷ったのか天に上り、いと高き方のようになろうと高ぶってしまいました。それで神はこの天使をさばき、よみに落とされたのです。どんなに輝いていても、どんなに繁栄していても、神に背く者は、このようにさばかれるのです。
二つ目の例は、ノアの時代の不敬虔な世界に対するさばきです。5節をご覧ください。ここには、「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」とあります。
ノアの時代、人々の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていました。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められました。そして、人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまですべて、地の面から消し去ろうと言われました。40日40夜雨を降らせ、不敬虔な世界を洪水で滅ぼされたのです。しかし、神とともに歩んだノアとその家族を保護し、箱舟によって救われました。ノアは人々に、もうすぐ洪水が来るから、あなたがたも悔い改めて箱舟の中に入りなさいと警告しましたが、その言葉を受け入れる人はだれもいませんでした。結局、ノアとその家族以外はすべて神に滅ぼされてしまいました。
三つ目の例は、ソドムとゴモラに対する神のさばきです。6節から9節までをご覧ください。
「また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」
ソドムとゴモラは、アブラハムの甥のロトが住んでいた町です。そこは主の園のように潤っていたので、ロトはアブラハムと別れて住むようになった時その地に住むことを選択しました。しかし、そこに住んでいたの人々はよこしまな者で、主に対して非常な罪人でした。ここに「無節操な者たちの好色なふるまい」とありますが、いわゆるホモセクシュアル、同性愛が堂々と行なわれていたのです。ロトの家に来た二人の御使いに対して、その町の住人は、「彼らをよく知りたいのだ」とロトに詰め寄りました。神はそうしたソドムとゴモラを火と硫黄で滅ぼし、それ以後の不敬虔な者たちへのみせしめとされたのです。
しかし、ロトはというと、そうした神のさばきから救われました。なぜなら、ここに「義人ロト」とあるように、彼はそうしたソドムの近くに住みながらも、心が神から離れなかったからです。というのは、ロトは彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見たり聞いたりしても、それに流されることなく、日々その正しい心を痛めていたからです。
私たちも今、ある意味でソドムのような町に住んでいます。しかし、そうした不法な行いを見たり、聞いたりして、日々心を痛め、神から離れることがなければ、ロトのように神のさばきから救い出されます。なぜなら、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして、そのために神はご自身のひとり子を与えてくださいました。それが救い主イエス・キリストです。この方によって救われるようにと、神は救いの道を用意してくださいました。それが十字架の贖いでした。そこには大きな犠牲が伴いましたが神はそれほどまでに私たちを愛してくださり、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。これほど大きな恵みが他にあるでしょうか。ですから、この神の恵みを無駄にすることがないように注意すべきです。もしそのようにして滅びに向かわせることがあったら、神はきびしくさばかれるのです。
偽預言者が出ることは避けられません。でも、惑わされないように注意しなければなりません。偽預言者たち、偽教師たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとします。彼らはひそかに異端を持ち込むのでなかなか見分けができないのです。しかし、彼らの最後は滅びです。彼らはいのちに導くのではなく、滅びをもたらします。だから、気をつけてください。あなたがたの中にも偽教師が現われます。世の終わりが近くなると、ますますこうした傾向が強くなります。ですから、惑わされないように注意しましょう。彼らが言っていることをよく聞いてください。彼らは、神は言っていると言いながら、自分の考えを言っていませんか。自分のことを言い当てることに不思議な力を感じていませんか。貪欲に、作り事のことばをもって、あなたを食い物にしていませんか。惑わされないようにしましょう。真理のみことばである聖書に堅くたって、動かされないようにしましょう。この真理のみことばが、あなたを救いへと導いてくれるからです。