皆様と共に、救い主イエス・キリストのご降誕を、お祝いできますことを、心から主に感謝いたします。
先週までアドベントクランツの3本のロウソクに灯がともされ、きょう4本目のロウソクに灯がともされました。これには意味がありまして、それぞれ平和の灯、希望の灯、喜びの灯、そして愛の灯です。
それは、神様と敵対していた私たちが、神様と和解して、神様との間に、平和がもたらされたということ、愛と、喜びと、希望がもたらされたということを表しています。
今の時代ほどやみに覆われた時代はありません。しかし、そのやみの中に輝く光としてイエス・キリストが来てくださいました。そのことを喜ぶのが、クリスマスです。
きょうは、この「やみの中に輝く光」という題で、メッセージを取り次がせていただきたいと思います。
Ⅰ.やみの中の光(1-5)
先ほど読んでいただいた聖書の箇所は、キリストが生まれる七百年ほど前に、預言者イザヤが、やがて来られるメシヤ、救い主がどのような方であるかを預言したものです。まず1節と2節をご覧ください。
「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
この箇所は「しかし」という言葉で始まっています。ということは、前の章からの続きになっていることです。前の章にはどんなことが書かれてあったかというと、8章20節を見ていただくと、ここに「おしえとあかしに尋ねなければならない。」とあります。おしえとあかしとは、神の教え、神のあかしのことです。預言者を通して語られた神のことばを指しています。その教えに尋ねなければなりません。もし、そうでないと、どうなるのかというと、同じ20節の終わりのところにこうあります。「その人には夜明けがない。」その人に夜明けはありません。
皆さん、なぜこの世は暗いのでしょうか。それは、神のことばがないからです。神のみおしえと証しに聞こうとしないで、別のものに聞こうとするからです。具体的にはその前の19節にありますね。「霊媒や、さえずり、ささやきとか、口寄せ」といったものです。このようなものに聞いても、神に聞こうとしないと、だんだん暗くなっていきます。
8章21節、22節にはこうあります。「彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。」
神の民イスラエルは、神のみことばに従わなかったので、アッシリヤ帝国をはじめとした異邦の民に踏みにじられ、苦難とやみに覆われたのです。
「しかし」です。しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなります。先にはゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けたのです。
「ゼブルンの地とナフタリの地」とはガリラヤ湖の西側の地域で、いわゆるガリラヤ地方のことです。イエス様が育ったナザレもここにあります。そこがはずかしめを受けました。B.C.722年のことです。アッシリヤ帝国が侵入してきたとき、そこが最初に彼らの手に落ちました。そして、その地域には多くの異邦人が住むようになりました。それでその地は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになったのです。しかし、そのような苦しみのあった所に、やみがなくなります。ゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けましたが、後に光栄を受けることになりました。異邦人のガリラヤは顧みられたのです。どのようにして?
やみの中を歩んでいた民が、大きな光を見ました。死の陰の地に住んでいた人に、光が照ったのです。これはどういうことかというと、それから約700年後に、神の御子がこの地に来られ、福音をもたらしてくださったということです。
マタイの福音書4章12節から17節までをご覧ください。
「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中に座っていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
イエスは、ゼブルンとナフタリとの境にある町カペナウムに来て、宣教を開始されました。これは、預言者イザヤを通して語られた事が、成就するためでした。このようにして、異邦人のガリラヤは光栄を受けたのです。イエスが語られた恵みのことば、イエスが行われた数々の奇跡、いやしは、その地の人たちにとってどれほど大きな慰めをもたらしたことでしょう。アッシリヤ帝国はさることながら、その後もバビロンやペルシャ、ギリシャやローマといった異邦人にずっと踏みにじられる中で、彼らは希望を見失っていました。それはまさに「やみ」の中を歩いているようなものでした。
しかし、そのように苦しみのあったところに、やみがなくなりました。はずかしめを受けた異邦人のガリラヤが、光栄を受けたのです。それは彼らにとって本当に大きな喜びであり、慰めであり、希望であったに違いありません。
そして、それは私たちに対する約束でもあります。私たちもよく人生のやみに覆われることがあります。それは病気であり、あるいは経済の悩みです。また、家族の問題、人間関係のこじれ、ひとりぼっちという孤独の苦しみ、老後に対する先行き不安などといったやみです。こうしたやみは、振り払おうとしてもなかなか消えません。また、罪というやみがあります。過去に犯した過ちにずっと責め立てられ、苦しみ続けています。そして誰もが迎えるであろう死というやみもあります。
「一寸先(いっすんさき)は闇(やみ)」という諺(ことわざ)があります。これは、「これから先のことはどうなるのやらサッパリわからないという」意味で使われていますが、私たちの人生は、この先、何が起こるのかわかりません。それが現実なのです。
しかし、こうしたやこの中にあって、それを照らす光があります。それが、救い主イエス・キリストです。使徒ヨハネは、このキリストについてこう証言しました。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)
光はやみの中に輝いているのです。やみの中に輝く光、やみを打ち破られる方、それがイエス・キリストです。キリストは、すべての人を照らすまことの光なのです。
そういえば、クリスマスが12月25日に定められたというのも、そのような意味があったのではないかと思います。クリスマスは、イエス・キリストの御降誕をお祝いする日ですが、イエス・キリストがこの日に生まれたわけではありません。A.D.336年に、ローマ帝国によって、この日がそのように定められたのです。それまでローマでは冬至を祝う「太陽の祭り」がありましたが、その祭りと結びつけて祝われるようになったのです。
なぜこの祭りと結びつけて行われるようになったのかというと、この祭りは一年で最も夜が長い日であったからです。この時期にキリストの御降誕を祝うのが最もふさわしいと考えたのです。それはキリストが私たちのやみを照らす光として来てくださったことを心に留めるためでもあったのです。
人は誰でも、やみを経験します。どこに進んで行ったらいいのかわからない時があります。しかし、そうしたやみの中にいても、かすかな明かりがあれば、その方向へ歩いて行くことができます。イエス・キリストはやみ中で不安にさいなまれ、道を失っている時の灯火として私たちの所に来てくださったのです。
オーストリアのザルツブルグの北にオーベルンドルフという小さな村があります。1818年のクリスマスの前日、その村の教会のパイプオルガンが鳴らなくなってしまいました。
この知らせを聞いて、2人の若者が苦境に立たされました。一人は、この教会のオルガニスト、フランツ・グルーバーという人です。もう一人は、この教会の若き牧師ヨゼフ・モールという人でした。
モールは、その教会に赴任したばかりでした。ですから、その年のクリスマス礼拝を、特別に恵みに満ちものとしたいと願っていました。それなのに、よりにもよって、その前日にパイプオルガンが故障してしまったのです。
モールは、乱れる心を静めようと、一人で村はずれの丘に登って祈りました。熱心に祈った後で、美しく輝く星空と、麓の村の平和な夜景を眺めていました。その時、讃美歌の歌詞が心の中にほとばしり出て来ました。急いで家に帰って、一気に歌詞を書き上げました。そして、翌日の朝、グルーバーのところに持って行って、作曲を依頼したのです。
その夜の礼拝では、ギターの伴奏で、モールとグル―バーのデュエットの賛美が献げられました。その時歌われた讃美歌がこの曲です。
「きよしこのよる 星はひかり
すくいのみ子は まぶねの中に
ねむりたもう いとやすく」
讃美歌109番「きよしこのよる」
ほぼ即興で作られたこの曲でしたが、その美しい歌詞と清らかなメロディーは、礼拝に集まった人々の心を強く捕えました。そして、人から人へと伝えられ、世界で最も愛されるクリスマスの讃美歌となったのです。
絶体絶命のピンチの中で、あの様に清らかな讃美歌が作られたことに、私は深い感動を覚えます。もし、私がモールであったら、どうしたでしょうか。きっと焦って、讃美歌を作るどころではなかったと思います。パイプオルガンを逆恨みして、蹴飛ばしたかもしれません。
どうして、モールはそんな危機的な状況の中で、あんなにも清らかで、美しい歌詞を書くことが出来たのでしょうか。どうして、グルーバーはあんなに澄み切った曲を作ることが出来たのでしょうか。
恐らく二人は、その混乱した中に、キリストの誕生に思いを馳せたのでしょう。そして、きれいに澄み渡った夜空の星を見て、そこに、やみを照らすキリストの光、キリストの平和を見出したに違いありません。
私たちにもやみがあります。しかし、キリストはそのやみを照らすために生まれてくださいました。それがクリスマスなのです。
Ⅱ.クリスマスの喜び(3-5)
ところで、やみが照らされるとどうなるのでしょうか。預言者イザヤは、そんな彼らの喜びを次のように表現しました。3節から5節までをご覧ください。
「あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。」
それは刈り入れ時に喜ぶようです。また、戦争に勝利してその戦利品を分け合う時に楽しむようです。また、あのミデヤンの日になされた時のようです。ミデヤンの日になされた時のようとは、士師記7章に出てくる話ですが、士師であったギデオンがたった三百人の勇士によって、十三万五千人のミデヤン人を打ち破りました。それによって、それまで彼らにのしかかっていた重荷から解放されました。
私たちも、日々いろいろなストレスを抱えながら生きています。このストレスがどれほど体に悪いものであるかも知っています。そうした重荷の一切を、あのミデヤンの日になされたように、粉々に砕かれるのです。その結果、完全な平和と喜びがもたらされるのです。
もちろん、私たちはまだ完全な形で、その実現を見ていません。ここに記されてあるような解放というものを、まだ経験していません。その完成は、イエスが再臨される時まで待たなければなりません。イエスが再臨されるとき、私たちは復活のからだ、御霊のからだをいただいて墓からよみがえり、空中で主とお会いします。そして、いつまでも主と共にいるようになります。これが救いの完成の時です。
しかし、それを完全に体験してはいなくとも、イエスを信じたその瞬間から、私たちの中に神が共におられるという現実を体験します。それは、この世では得られない魂の完全なやすらぎです。もし、あなたがイエス・キリストを救い主として受け入れるなら、その神の支配が、あなたの中にも始まります。そして、あなたもこの喜びと解放を味わうようになるのです。
Ⅲ.ひとりのみどりご(6-7)
このように、私たちにまことの喜びと解放をもたらしてくださる救い主は、どのような方なのでしょうか。6節と7節をご覧ください。ここには、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。
その方は、「ひとりのみどりご」としてお生まれになられます。そして、ひとりの男の子が、私たちに与えられます。これはイエス・キリストの誕生によって実現しました。「みどりご」とは赤ちゃんのことです。ひとりの赤ちゃんが、私たちのために生まれる、というのです。そうです、永遠の神であられる救い主は、私たちと同じ人間として生まれるというのです。
ヨハネはこのことを次のように言っています。「ことばは、人となって、私たちの間に住まわれた。」この方は人となって来られた神なのです。
そればかりではありません。イザヤは、やがて来られるメシヤがどのような方であるかについて、次のように言っています。
「主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」
この方は、「不思議な助言者」です。ワンダフル・カウンセラー(wonderful counselor)です。イエス・キリストはワンダフルなカウンセラーなのです。私たちが心の中で考えていることも含め、私たちのすべてを知っておられるというだけでなく、私たちの人生における完全な計画を持っておられ、その道を示してくださいます。ですから、私たちは、安心してこの方にすべてをゆだねることができます。
また、この方は「力ある神」です。ただの神ではありません。「力ある神」です。「力ある神」とは、マイティー・ゴッド(mighty God)です。マイティーとは、力強いとか、大能という意味です。この方はただアドバイスをしてくれるだけでなく、そのアドバイスを実行するために必要な力も与えてくださるということです。
また、この方は「永遠の父」とあります。赤ちゃんとして生まれてきますが、父です。しかもただの父ではなく、永遠の父です。肉の父親は、年を取るとこの世を去って行かなければなりません。しかし、イエスは永遠の父として、いつまでも、私たちとともにいてくださるのです。
マタイの福音書28章20節には、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とあります。イエスは世の終わりまで、いつもあなたとともにいてくださいます。
イエスは、決してあなたがたを捨てて孤児にはしません。ですから、安心して、自分の生涯をゆだねることができるのです。
そして、この方は「平和の君」です。「プリンス・オブ・ピース」(prince of peace)です。この方は平和の王として来られました。
この地上のどこに平和があるでしょうか。どこを探しても平和はありません。この人類は戦争の歴史です。いつも、どこかで戦争が繰り返されています。その悲劇を見ても、人類は少しも反省することなく、限りなく戦争を繰り返しているだけです。相対性理論を唱えたアインシュタインは、生前、「今や文明を破壊する武器に対する防備策はない」と言いました。また、ジョン・F・ケネディーは、「人間は戦争を終息させなければならない。そうでないと、戦争が人間を滅ぼしてしまう。」と言いました。いったいどうしたら平和になるのでしょうか。
この平和はお金で買うことはできません。ただ十字架に付けられて死なれたイエス・キリストを信じ、神と和解することによってのみもたられます。なぜなら、この方は平和の君として来られたからです。
かつてイギリスの作家ジェフリー・アーチャーが、「ケインとアベル」という小説を書きました。銀行の頭取ケインとアメリカのホテル王と言われたアベルが、ささいなことで喧嘩をし、反目しながら生活するようになりました。しかし、このケインの娘とアベルの息子が愛し合うようになり、親の反対を押し切って結婚し、こどもが生まれるのです。その子供の名前はウィリアム・アベル・ケインです。この子の誕生をきっかけに、長らく続いていたケインとアベルの家に和解がもたらされました。
イエス・キリストはこのウィリアム・アベル・ケインのように、神と人類が和解をするためにこの世に生まれてくださいました。そして、あくまでも神に背き、自己中心的に生き続ける人間のために十字架にかかって死なれることで、私たちが受けるべき一切の刑罰をその身に負ってくださいました。イエス・キリストこそまことの平和です。
7節の、最後のところにあることばをご覧ください。ここには、「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。それは私たちがすることではありません。万軍の主の熱心がこれを成し遂げてくださいます。
そして、事実、万軍の主は、これを今から二千年前に、神の御子イエス・キリストをこの世に送ってくださることによって成し遂げてくださいました。それがクリスマスです。それは、神があなたのために成し遂げてくださった恵みのわざです。どうぞ、この神の恵みを受け取ってください。クリスマスには互いにプレゼントを贈りますが、イエス・キリストこそ、神からあなたへのプレゼントです。それは、あなたの心のやみが消え、あなたが平和と喜びに満たされるために、神が与えてくださったプレゼントなのです。
あの星野富弘さんの詩に、「花菖蒲」(はなしょうぶ)という詩があります。
「花菖蒲 黒い土に根を張り どぶ水を吸って なぜ きれいに咲けるのだろう
私は 大ぜいの人の 愛の中にいて なぜ みにくいことばかり 考えるのだろう」
(「花菖蒲」 星野富弘)
鉄棒から落ちて首の骨を折り、手も足も動かなくなってしまった時、星野さんは、自分のベッドの脇で、一生懸命看病してくれていたお母さんに、自分のイライラをぶつけて、つばを吐きかけました。しかし、そのつばが自分に戻ってきたとき、どうしようもない悲しみを感じたと言います。
しかし、そんな星野さんがイエス・キリストと出会い、その光で心が照らされたとき、少しずつではありましたが、変わり始めました。自分が生まれ育った村に美術館ができると、何十万人という人々が訪れるようになりました。そして、多くの人たちがその詩画の前でしばし足を止め、励ましを受け、涙するのです。それは星野さんがイエス様を信じて、その心のやみを照らしていただいたからです。その時から星野さんの生涯に大きく変えられたのです。
「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
イエス様はあなたの心のやみも照らしてくださいます。あなたもこの光に照らしていただきませんか。そして、共にその喜びを味わいましょう。