ヨハネの福音書4章1~18節「生ける水」

今日は、今年最後の主日礼拝を迎えております。この年も、共に主を礼拝し、心からの感謝と賛美を献げることができたことを、感謝したいと思います。

 

今日は、ヨハネの福音書4章前半の箇所から、イエス様とサマリヤの女との会話を通して、いつまでも渇くことがない生ける水について、ご一緒に学びたいと思います。

 

ナポレオン・ヒル(Napoleon Hill)という人は、現代に7つの不安と恐怖が潜在していると言いました。

それは、貧しさの恐怖であり、失敗の恐怖、病気の恐怖、愛を失うことへの恐怖、老いていくことへの恐怖、自由を失うことへの恐怖、そして死の恐怖です。

そして、このような不安や恐怖から逃れようと、人々は、ありとあらゆることを試みますが、この世のものだけでは、決して解決できない精神的空虚と不安のために、人々は疲れ果てています。皆さんはいかがでしょうか。

 

イエス・キリストは、ある日、魂を生き返らせる、いのちの水に飢え渇いていた、一人の女性と出会いました。その女性は、かつて人生の幸せを求め、5回も結婚しましたが、その心は満足を得ることはできませんでした。しかし、イエス様との出会いを通して、その心の飢え渇きを、永遠のいのちの水で満たしていただくことができました。彼女は、どのようにして、満たしてもらうことができたのでしょうか。

 

Ⅰ.サマリヤを通って行かれたイエス(1-5)

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。

しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリヤの町に来られた。」

過越しの祭りをエルサレムで過ごしておられたイエスは、その後しばらく、ユダヤ地方に滞在し、そこでバプテスマを授けておられましたが、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けているということがパリサイ人の耳に入ったとき、ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれました。

 

なぜそのことが問題だったのかというと、イエスの奉仕のほうがバプテスマのヨハネのそれよりも影響力を増したために、パリサイ人の関心と敵意が、今やバプテスマのヨハネからイエスに向けられていたことを意味していたからです。

 

それはイエスが彼らを恐れていたということではありません。まだその時ではなかったということです。その時とは、イエスの時です。イエスが十字架にかかって死なれる時はまだ来ていませんでした。それでイエスは、ユダヤを去って再びガリラヤへ向かわれたのです。

 

しかし、サマリヤを通って行かなければなりませんでした。当時、パレスチナは南のユダと北のガリラヤの間にサマリヤという地方があって、ユダヤからガリラヤの間を行き来する時には、そこを通らず、わざわざヨルダン川を渡って、ヨルダン川に沿って北上しました。もっとも急ぎの用の人は、サマリヤを通って行く人もいないわけではありませんでしたが、この少し後の所に、「ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなかったのである」とあるように、普通ユダヤ人たちは、その道を通ることはほとんどありませんでした。ですから、「サマリヤを通って行かなければならなかった」というのは、単に急ぎの用事があったからではなく、もっとほかの理由があったからなのです。

 

それはいったいどのような理由だったのでしょうか。それは5節にあるように、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリヤの町に来るためでした。そこにはヤコブの井戸がありました。主イエスがここへ来られたのは、単に名所旧跡を見に来られたのではありません。そこで、名もない一人の人、しかも、人生の裏街道を歩いているような人と会うためでした。会うためとは言っても、事前に会う約束をしていたわけではありません。これまで一度も会ったことのない人です。しかし、イエスはこの人と会うために、わざわざ普通のコースを取らず、サマリヤを通って行かなければなりませんでした。名もない、一人の女性を救いに導くために、イエスは、初めから、そのように計画しておられたのです。

 

私たちも、それが自分の考えや計画と違っても、神の御心ならば、それを変える柔軟さが求められます。それはイエス様のように、自分に与えられている神の使命を知り、そこに生きることから与えられるものです。いつも神の御心は何か、何が良いことで神に受け入れられることなのかを求め、その使命に生きる者でありたいと願わされます。

 

Ⅱ.イエスが与える水(6-14)

 

次に、6節から14節までを見て行きましょう。まず、8節までをご覧ください。

「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。一人のサマリヤの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた」

 

イエスは、旅の疲れで、井戸の傍らに、腰をおろしておられました。イエスは、私たちと同じような肉体をもってこの地上での生涯を歩まれたので、疲れを感じられることもあったのです。日々の奉仕と、歩きながらの旅は、肉体的に相当きつかったのでしょう。

 

時はおよそ第六時でした。これはユダヤの時刻のことで、現在の時刻で言うと、正午ごろとなります。つまり、太陽が最も高く上る時間です。イスラエルのこの時間は砂の上で卵が焼けるほど暑いと言われていて、人々は、大抵外へ出ずに家の中でゆっくりと過ごすのが習慣となっていました。

 

そんな時間に、ひとりのサマリヤの女が、水を汲みに来たのです。いったいなぜ彼女はこんな時間に水を汲みにやって来たのでしょうか。通常は朝夕の涼しい時間帯に水を汲み終えるのが当然ですから、人目を避けて水を汲みにやって来たこの女性には、何らかの事情があったことがわかります。その事情とはどんなことだったのでしょうか?

 

それは、他人に会いたくなかったということです。16節から18節にある、イエスと彼女との会話を見てください。ここでイエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言うと、彼女は、「私には夫がいません。」と答えています。するとイエスは、彼女の心のやみを暴き出すかのように、このように言われました。

「自分には夫がいない、というのはそのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないからですから。あなたは本当のことを言いました。」

つまり、彼女は五回も結婚しましたが、その五回とも別れ、今は別の男性と同棲していたということです。今でこそバツイチ、バツニ、バツサンも珍しくありませんが、バツゴというのはあまり聞きません。しかし、彼女は、かつて人生の幸せを求め、5回も結婚しましたが、その心は満たされることはありませんでした。だれと結婚しても同じ。それなら結婚するのなんて止めて、ただ自分を満足させてくれる相手がいれば十分と、別の男性と一緒に暮らしていたのです。

 

しかし、それで問題が解決したかというとそうではなく、そのことで他人から後ろ指を指されるようになると、だんだん心が重くなり、他人と距離を置くようになりました。話をするのが面倒くさいのです。だれとも会いたくありませんでした。それで、だれも来ないお昼の時間を見計らって水を汲みにやって来たのです。

 

以前私が住んでいた家の近くに福島女子短大があったため、家の周りにはたくさんのアパートがありましたが、住んでいれば当然ごみも出るわけで、それを町内会が管理しているごみ収集所に置くわけですが、燃えるゴミも、燃えないゴミも一緒に捨てるため、しかも町内会費を払っていないということで、近所の人たちがクレームをつけました。「あなたたち町内会費も払ってないのに勝手に捨ててもらっては困るわ!」

すると、ごみ収集所から、学生たちの姿が消えました。消えたと言っても、どこかに行ってしまったわけではなく、町内会の人たちと会わないような時間帯を見計らってごみを捨てるようになったのです。夜中の2時とか、3時とかの時間です。彼女たちにとっては、いろいろと文句を言われるのが嫌だったのです。できるだけ会いたくないし、何も言われたくないという思いから、通常捨てる時間帯ではない時間に捨てるようになったのです。それと同じです。

 

そんな彼女にイエスは、「わたしに水を飲ませてください」と言われました。これは、常識はずれのことでした。というのは、ユダヤ人とサマリヤ人とは付き合いをしなかったからです。もともとユダヤ人とサマリヤ人は、同じイスラエル民族でした。しかし、その昔イスラエル王国が今の朝鮮半島のように北と南に分裂した後で、北王国イスラエルは生けるまことの神から離れてしまったため、ついに紀元前722年に東方のアッシリア帝国によって滅ぼされてしまうと、主だった男たちはみなアッシリアへ連れて行かれ、その後に残った貧民たちの所にアッシリア人をはじめとした多くの異民族の男性が送り込まれて来たために、彼らは混血族になってしまったのです。ユダヤ人は血の純潔を特に重んじていたので、それ以来、彼らを異邦人同様に蔑視するようになりました。

 

しかも、ここに「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」とあるように、ユダヤ人の男性が、サマリヤ人の女性に語りかけるということは、考えられないことでした。というのは、当時、女性の地位はとても低く、男性が女性に話しかけるということは、一般にはほとんどなかったからです。それなのに、イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください。」と言われました。なぜでしょうか。

 

それは、この女が本当に必要としているものは何かを、イエスが知っておられたからです。10節をご覧ください。「イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」」

 

イエスが言っていたのは、「生ける水」のことでした。イエスは「水」という平凡なものから、深い霊的真理を語っても、サマリヤの女にはそれを理解することはできませんでした。なぜなら、ニコデモの場合もそうでしたが、彼女は、あくまでも目に見えるこの世の物、物質的な世界にしか関心がなかったからです。それは彼らが宗教的ではなかったということではありません。ニコデモはユダヤ教の正当派であるパリサイ派に属していましたし、この女も後の箇所を見るとわかりますが、礼拝について関心を持っていました。しかし、彼らは霊的には盲目でした。ですから、イエスが語られた霊的真理に対する応答は、まことにトンチンカンなものだったのです。この女は11節、12節で、このように答えています。

「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」

 

覚えていらっしゃいますか。イエス様がニコデモに「新しく生まれなければならない」と言われたとき、彼がどのように答えたか・・を。ニコデモはこう言いました。

「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」(ヨハネ3:4)

ニコデモは、イエス様が「新しく生まれなければならない」と言われたことを、もう一度、お母さんの胎内で生まれてくることだと理解していました。それと同じです。サマリヤの女も、ニコデモも、霊的にはさっぱり理解できませんでした。

 

そこで、イエスは、彼女が理解できるように、同じ霊的真理を別の形で、少し違った言葉で、説明されました。13節、14節です。ご一緒に読んでみましょう。

「イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」」

 

イエスは、最初、「神の賜物」と言われたことを、10節で、「生ける水」と言い換えています。そして、ここに来てさらに、「永遠のいのちへの水」と言い換えています。この「生ける水」とか、「永遠のいのちへの水」とは、何のことを指していたのでしょうか。

 

ヨハネの福音書7章37-39節を開いてください。ここには、「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」とあります。

これは神の御霊、聖霊のことを言っていたのです。つまり、イエスが与えられる生ける水とは、御霊と御言葉によって与えられる救いの恵みのことであり、これが与えられると、それまで求めても得られなかった本当の満足を得ることができるのです。それだけでなく、泉のように、永遠のいのちへの水が湧き出て来て、ほかの多くの人々を潤し、渇きを満たすことができるようになるのです。

 

これまで、この人類は、この心の渇きをいやしたいと思っていろいろなものを作り出してきました。それだけでなく、心の渇きをいやそうとして、目新しいものに取り組んでみたり、この世の中のどこかにそれがあるのではないかとずっと求めてきました。しかし、この世のものでは、また渇いてしまうのです。ちょうど、喉が渇くようにです。喉の渇きをいやそうと水を飲んでも、一時的にはいやされても、じきにまた渇いてしまいます。私たちが毎日していることは、このようなことなのです。人間が作ったものや、この世のものに求めても本当の満たしは得られないのです。主イエスに求めることです。イエスは言われました。「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」

 

私たちは、「風と共に去りぬ」という有名な映画をよく知っています。そして、この映画の主演男優であったクラーク・ゲーブルについてもよく知っています。彼はオスカー賞を何度も取りました。幸せを求めて5回も結婚しました。彼にはお金もあり、恋もあり、名誉もあり、人気もありました。私たちから見れば、彼は自分が求めたこの世の物のすべてを手にしたかのように見えました。

しかしある朝、彼はむなしく疲れ果て、自分のベッドで自殺しているのが発見されました。飢え渇いたその魂を、この世のもので満たすことはできなかったのです。永遠のいのちの水を見つけられずに終わったその魂が、残念に思えてなりません。

 

あなたはどうですか。永遠のいのちという水を持っておられますか。まだ持っていないなら、主イエスにそれを求めてください。なぜなら、イエスは、「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも決して渇くことがありません。」と言われたからです。イエスが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。その水は、イエス・キリスト以外には、どこを探しても得ることはできません。イエス・キリストこそ、私たちに生ける水を与えることができる唯一の方なのです。そして、その水は、その人の内で泉となるだけでなく、永遠のいのちへの水が湧き出ますとあるように、私たちの周りのすべての人をも潤す水となるのです。

 

Ⅲ.行って、あなたの夫を呼んで来なさい(15-18)

 

いったいどうしたら、その水を得ることができるのでしょうか。最後に15節から18節までを見て終わりたいと思います。

「彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」」

 

イエスが、「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と言うと、彼女は、イエスに「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と言いました。すると、イエスは彼女にこのように言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」

 

これはどういうことでしょうか。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われても夫とは離婚していて、夫はいませんし、今一緒にいるのは夫ではなく、ただ同棲しているだけの人ですから、夫ではありません。それならば、なぜイエスはこのようなことを聞かれたのでしょうか。

 

それは、彼女が、主の御前に、自分をありのままにさらけ出し、それを悔い改める必要があったからです。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」というイエスのことばは、彼女にとって、とても痛い言葉だったでしょう。できれば、そこだけは触れてほしくなかった。それは、ちょうど石の割れ目に釘を突き刺すようなものだったに違いありません。ちょっとでもたたいたらパカンと割れてしまうようなものでした。それでもイエスがそのように言われたのは、彼女が永遠のいのちへの水を受けるには、どうしてもそのことが避けられなかったからです。彼女が永遠のいのちを得るためには、自分の中にある罪をそのままにしておくわけにはいきませんでした。それを、主の御前にさらけ出さなければならなかったのです。このサマリヤの女が隠していた罪に光を当てるために、主は夫のことに触れたのです。

 

それに対して、彼女が「私には夫がありません。」と答えると、イエスは何と言われたでしょうか。イエスはこのように言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」

このイエスの言葉は注目に値します。なぜなら、彼女の告白に対して、主イエスはそれを暖かく受け止めておられるからです。彼女に対して、なぜそんなに男を変えたのかとか、そのような同棲生活は正しくないと言うこともできたでしょうが、主はそのようなことは一言も言わず、むしろ愛と善意をもって受け止めてくださいました。それは、今日も同じです。主は、私たちの真実な悔い改めを、暖かく受け止めてくださるのです。

 

それは、主が彼女の罪をいい加減にして扱っておられたということではありません。主はここで、「今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです」と言われました。それが正しいことではないということをはっきりと言われたのです。しかし、だからといって彼女を叱責したり、断罪したりするのではなく、「あなたは本当のことを言いました。」と、受け止められました。これが、イエス・キリストが、私たちにも取ってくださる態度です。こうして初めて、自分の醜く汚れた本当の姿に気付くというか、自分の姿が示されるのです。

 

これは、私たちが他人に接する態度とはずいぶん違いますね。私たちが他人に接する時、たとえば、親が子供に対する場合などを考えてみると、子どもが自分の過ちを認めていても、正直に答えたことに対して、それを受け止めるというよりは、むしろそのしたこと自体を咎めたり、怒ってしまったりします。しかし、そのようにすれば、もう二度と正直に自分の間違いを認めることはしないでしょう。そして、むしろ怒られないようにと嘘をつくようになるものです。子どもが嘘をつく場合の多くは、このようにして起こります。これは、何も子どもに限ったことではなく、ほかの人に対する場合も同じで、多くの人間関係の中で、よく私たちがしてしまうことです。しかし、主イエスは違います。イエスは、私たちの罪の告白と悔い改めを、暖かく受け止めてくださるのです。

 

ですから、私たちに求められていることは、ありのままに、正直に、イエス様の前に出ることです、自分がどんなに汚れていても、それを隠すのではなく、それをさらけ出しながら、救い主イエスのところに来て、永遠のいのちへの水を求めるなら、主イエスは、決して渇くことがない、生ける水を与えてくださいます。その水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るのです。

 

今日は、今年最後の礼拝となりましたが、この一年を振り返りながら、自分の罪、過ちがあればそれを主の御前にさらけだしてきよめていただきましょう。主は赦してくださいます。「もし私たちが、自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」そして、主が与えてくださる生ける水を持って、新しい生活を始めさせていただきましょう。