ヨハネの福音書4章43~54節「見ないで信じる者に」

ヨハネの福音書4章から3回にわたってお話ししてきました。第一回目は救いと悔い改めについて、第二回目は礼拝について、そして第三回目は伝道についてです。今日は、この4章の終わりの箇所から、信仰の成長についてお話ししたいと思います。タイトルは、「見ないで信じる者に」です。

 

Ⅰ.見ないかぎり信じない(43-48)

 

まず、43節から48節までをご覧ください。45節までをお読みします。

「さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。」

 

「さて、二日後に」とは、イエス様がサマリヤに滞在されて二日後に、ということです(4:40)。イエス様はそこを去ってガリラヤへ行かれました。ガリラヤに行くことは、当初からの計画でした。しかし、イエス様は一人の魂に飢え渇いた女性を救うためにサマリヤを通過し、その途中スカルというサマリヤの町に滞在されたのです。それは、いわば寄り道でした。しかし、その寄り道は何とすばらしい結果をもたらしたことでしょう。イエス様はその町に二日間滞在し、さらに多くの人々が、イエス様を信じたのです。

 

その二日後に、イエス様はそこを去ってガリラヤに行かれました。なぜなら、イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていたからです。自分の故郷では尊ばれないとわかっていたのに、どうしてわざわざガリラヤへ行かれたのでしょうか。そこである人たちは、この44節のことばは、イエスがガリラヤへ行かれた理由を説明しているのではないと考えます。そうでないとさっぱり意味が通じなくなるからです。この新改訳2017ではそのように訳しています。しかし、この44節の冒頭には日本語では訳されていませんが、「そういうわけで」とか「なぜなら」という理由を説明するギリシャ語の接続詞「ガル」ということばがあって、これは明らかにイエスがガリラヤへ行かれた理由を表しているのです。ですから、新改訳聖書第三版では、ここをちゃんと、「イエスご自身が、『預言者は自分の故郷では尊ばれない』と証言しておられたからである。」と訳しています。訳としては、こちらの方が正確です。問題は、であればイエス様はなぜガリラヤへ行かれたのかということです。自分が尊ばれない所には、だれも行きたいとは思わないはずです。それなのに、イエス様はあえてガリラヤへ行かれたのです。そこには二つの理由があったと考えられます。

 

一つは、このガリラヤというのはガリラヤ地方のことであって、ナザレのことではなかったからです。イエス様が言われた「自分の故郷」とはナザレのことであって、ガリラヤ地方全体のことを指していたのではなかったということです。確かにナザレもガリラヤ地方の町の一つではありますが、ナザレの町と他の町とではイエス様に対する感情に明らかに違いがありました。一般的にガリラヤの町々では尊ばれていましたが、ナザレではそうではなかったのです。そこには自分の家族も住んでおり、その家族にとってイエス様は単なる家族の一員にすぎず、神の預言者として尊ばれることはありませんでした。たとえば、ヤコブの手紙を書いたヤコブはイエス様の実の兄弟ですが、彼がイエス様をメシヤとして信じたのはイエス様が復活してからのことでした。それまではただの家族の一員、親切なお兄ちゃんくらいにしか受け止めていなかったのです。

ですから、イエス様がガリラヤに帰っても、ナザレを訪問することはありませんでした。その結果、遠くにいたサマリヤの人たちやガリラヤの他の町々村々の人たちが祝福を受け、近くにいたナザレの人たちが祝福を逃すことになってしまいました。これは何という皮肉なことでしょうか。私たちの祝福は、イエス様とどれだけ近くにいるかということによってではなく、イエス様をどのような目で見、どのように歓迎するかによって決まるのです。イエス様を私たちの人生に歓迎する人になりましょう。

 

では、そのガリラヤの人たちはどのようにイエス様を歓迎したでしょうか。45節をご覧ください。彼らはイエスがガリラヤに入られたとき、イエスを歓迎しました。すばらしいですね。でもどうして彼らはイエス様を歓迎したのでしょうか。その後のところに理由が述べられています。

「それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。」

なるほど、彼らがイエスを歓迎したのは、過越しの祭りを祝うためにエルサレムに上ったとき、そこでイエスが行われたしるしを見たからです。彼らはガリラヤに帰るなり、エルサレムで起こった不思議な出来事を隣人たちに報告していたのです。ですから、イエス様がガリラヤに到着すると、熱狂的にイエス様を歓迎したのです。

 

でも、これは本物の信仰とは言えません。それは2章23~24節に出てくるエルサレムの人々と何ら変わりありません。そこにはこうあります。

「過越しの祭りの間、イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスの行われたしるしを見て、その名を信じた。しかし、イエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。」

イエスがエルサレムにおられたとき、多くの人々がイエスを信じましたが、それはどうしてかというと、イエスが行われたしるしを見たからです。ですから、たとえ彼らがイエス様を信じても、イエス様は彼らに自分を任せることはなさいませんでした。つまり、彼らを信頼しなかったのです。イエス様が行われたしるしを見て信じるだけなら、それは本物の信仰とは言えないからです。イエスのなされる御業を見て信じること自体が悪いのではありません。しかし、それは信仰の入口にすぎず、あくまでも神のみことばが真実であるということの証拠としての奇跡であって、そこから本物の信仰へと進んで行かなければならないのです。つまり、イエス様が私たちの罪のために十字架で死んでくださったメシヤ、救い主であるということをしっかりと告白し、新しく生まれ変わるという経験が必要なのです。それが信仰の第一ステップです。それがなければ、どんなに不思議なしるしや奇跡を見ても何の意味もありません。

 

ヨハネは、そのことを示すために、次に王室の役人の息子の話を取り上げています。46節から48節までをご覧ください。

「イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。』」

 

イエス様は再びガリラヤのカナへ行かれました。そこはかつてイエスが水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われたところです。そこにカペナウムという町から、ある王室の役人が来ていました。この王室とはヘロデ・アンティパスに仕える役人のことで、今で言うと、政府の高官のことです。彼は息子が病気で死にかかっていたので、息子を癒してもらうためにカペナウムからわざわざやって来たのです。カペナウムからカナまでの距離は約30㎞、標高差は約600mあります。その距離を一気に上って来たのですから、彼がどれほど切羽詰まっていたかがわかります。

 

イエス様はいったいなぜガリラヤに行かれたのか、そのもう一つの理由がここにあります。それは、この役人を救いに導くためでした。イエス様は以前サマリヤの女を救いに導くためにわざわざスカルというサマリヤの町に行かれたように、この王室の役人を救うためにわざわざガリラヤへ行かれたのです。「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていたのに・・です。この役人はどのように救いに導かれて行ったのでしょうか。

 

彼には悩みがありました。彼の息子が病気で死にかかっていたという悩みです。身分が高ければ悩みがないというわけではありません。どんなに身分が高い人でも悩みごとを持っているのです。それは身分が低い人が持っているものとは違うものかもしれませんが、誰にでも悩みがあるのです。そして、その悩みはその人にとっては切実なものなのです。

 

しかしながら、そうした悩みや苦しみが、いつでも人を不幸にするのかというとそうではありません。むしろ、こうした悩みが私たちを救うための(罪から)一つの契機になる場合があります。この王室に役人も息子が病気で死にかかっていたという苦しみの中でイエス様のところへ助けを求めに来ることで、本当の救いを得ることができました。

 

彼はイエス様のところにやって来ると、何と言ったでしょうか。47節を見ると、彼はイエスのところに行き、「下って来て息子を癒してくださるように願った。」とあります。これはどういうことでしょうか。当時、多くの人々が、イエスが祭りの間にエルサレムでなさった「しるし」によって信じていました。ですから、この役人も、イエス様がエルサレムで多くの「しるし」を行ったといううわさを聞いて、イエス様に助けを求めに来たのでしょう。

 

しかし、それに対するイエスの答えは殺伐としたものでした。48節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。『あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。』」

どういうことですか。息子が病気で死にそうなのだから、来て癒してくださいと願うのは当然のことではないでしょうか。それなのに、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」と言うのは理解できません。癒しを求めることが問題なのではありません。問題は、しるしや不思議を見ないかぎり信じないということです。それはあのガリラヤの人たちと少しも変わりません。彼らがイエスを歓迎したのは、イエスが祭りの間にエルサレムで起こったことを、すべて見ていたからでしたが、それはこの役人も同じでした。彼はイエスがユダヤからガリラヤにやって来たことを聞いて、自分の病気の息子が癒されたのなら信じようと考えていたのです。問題の解決を求めてイエスのところにやって来ることは大切なことです。しかし、それは信仰の入口にすぎず、そこから本物の信仰へと進んでいかなければならないのです。ですから、イエス様はここで、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」と言われたのです。最初はそれでもいいでしょう。しかし、いつまでもそこにとどまっていてはなりません。そこから一歩進んでみことばに信頼する信仰を持たなければならないのです。

 

マタイの福音書8章に登場するあのローマの百人隊長はそうでした。彼は、イエス様の発せられる御言葉の権威を認め、それに従いました。ちょっと開いて確認してみましょう。

「イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、『主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます』と言った。イエスは彼に『行って彼を治そう』と言われた。しかし、百人隊長は答えた。『主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。』

イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。』」(マタイ8:5-10)

 

この百人隊長は、イエスが御言葉を発せられれば、すべてのものはそれに服従すると信じて疑いませんでした。なぜなら、百人隊長である彼でさえ部下に命じれば、部下は必ずそのとおりにしたからです。ましてや、この天地万物の創造主であられる神が発するのであれば、すべてのものがそれに服するのは当然のことです。ですから、わざわざ来てもらう必要もありません。ただそのように言っていただくだけで良かったのです。そうすれば、すべてはそれに従うと信じて疑わなかったのです。

 

しかし、この役人は、まだそこまでの信仰を持ち合わせていませんでした。ですから、「下って来て息子をいやしてください」と願っているのです。何ですか、「下って来て息子をいやしてください」とは。彼はイエス様が下って来て、息子を癒してくださらなければ、息子は直らないと思っていました。しるしと不思議を見ない限り信じられない信仰、そのような信仰しか持ち合わせていなかったのです。

 

それは49節の彼のことばにも現れています。49節で彼はこのように言っています。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」

これはどういうことですか。死んだら終わりだということです。だから死なないうちに来てほしかったのです。イエス様がどんなに偉い方であっても、死んでしまえば、もう手の施しようがないと考えていました。主がよみがえらせる力を持っておられることは信じていなかったのです。

 

それは、あのラザロが病気だった時と同じです。ラザロが死んでから、イエスがマリヤとマルタの家にやって来ると、彼女たちは異口同音にこう言いました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(ヨハネ11:32)そうです、彼女たちもまた、死んだら終わりという信仰しか持っていませんでした。

そのような彼女たちにイエス様は何と言われましたか。有名なみことばです。イエス様はこのように言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

 

すばらしい約束ですね。皆さん、私たちの人生には「死」のような出来事が起こることがあります。それが実際の死であることもありますし、もうすべてが終わった、お先真っ暗だというようなこともあります。けれども、イエス様はその死からよみがえりました。イエス様はよみがえりです。いのちです。イエス様を信じる者は死んでも生きるのです。イエス様は死に勝利されました。この方が私たちとともにおられるのです。この方が共におられるなら、私たちに絶望はありません。私たちはこの方にあって、常に勝利ある人生を送ることができるのです。それはしるしと不思議を見なければ信じない信仰からは生まれてきません。それは、見なくても信じる信仰、イエス様の御言葉を信じる信仰から生まれてくるのです。

 

Ⅱ.イエスが語ったことばを信じる(50)

 

そこでイエス様は、この王室の役人の信仰を次のステップへと導かれます。それは、「しるし」に頼る段階から「みことば」を信じる信仰です。50節をご覧ください。

「イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」

 

「子どもが死なないうちに、下って来てください」という役人の願いに対して、イエス様は「行きなさい。あなたの息子は治ります。」と言われました。「わかりました。すぐに行きましょう」とか、「それは大変ですね。急いて行きましょう」とかではなく、ただ「行きなさい。あなたの息子は治ります。」と言っただけです。どうしてでしょうか。それは、この王室の役人に対して、信仰の飛躍を経験させようと考えておられたからです。

 

すると彼はどうしたでしょうか。「その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。」不思議ですね。あれほど切羽詰まってやって来た人が、「行きなさい。あなたの息子は治っています」と聞いただけで、そのことばを信じたのですから。私だったら、「いいえ、帰りません。あなたが一緒に来てくださるのでなければ、どんなことをしたって帰りません」と言い張ったのではないかと思います。たとえば、自分の孫がそういう状態だったら、「助けてくださいイエス様。何とかしてください。このピンチを乗り越えられたなら、何でもしますから」とか言って強引に連れて来ようとしたのではないかと思います。それなのに彼は、イエスが語ったことばを聞くと、すんなりと帰って行きました。なぜでしょうか?あきらめたのですか?どんなに言ってもだめだ・・・と。そうではありません。彼はこのイエスが語ったことばを信じたのです。彼はここで一つの信仰の冒険をしました。自分の思いに固執するのをやめ、主が言われることに従うことにしたのです。

 

これは、彼の信仰が次の段階に進んだことを示しています。事実、彼が帰途に着いたのは翌日のことでした。つまり彼は、イエス様にこのように言われた後ですぐに家に戻ったのではなく、そこにもう一泊しているのです。なぜそのことがわかるのかというと、後でこの息子の病気が治ったとき、その時刻を尋ねると、「昨日の第七時」と答えているからです。カペナウムからカナまでは30㎞、帰る気であれば帰れたのです。それなのにそこにもう一泊滞在したのは、彼がイエス様の言われたことばを信じたからなのです。確かに状況は絶望的でした。自分の無力さに打ちのめされる思いだったでしょう。しかし、そのような中にあってもイエス様のみことばに信頼することで、嵐の中でも動じない舟の錨のような安心感が与えられたのだと思います。

新聖歌248番の「人生の海の嵐に」は、そのような信仰が賛美されています。

「人生の海の嵐に もまれ来しこの身も

不思議なる神の手により 命拾いしぬ

いと静けき港に着き われは今 安ろう

救い主イエスの手にある 身はいともやすし」

 

私たちもこのようなことをよく経験します。もう自分の力ではどうしようもなくなったとき、すべてを主にゆだねることで人知をはるかに越えた不思議な神の平安を体験するということがあるのです。まさに彼はこれを体験したのです。キリストのことばに信頼すること・・で。

 

しかし、これがなかなか難しいのです。私たちは自分の持っているものをなかなか手放すことができません。自分の結婚にしても、将来のことについても、仕事のことや家庭のこと、あるいは自分の財産やいのちについても、自分でしっかり握りしめているだけで、それを主にゆだねることができなくて苦しむのです。信じなさいと言われても、信じることができなくて、自分で何とかしようともがくのです。それではなかなか主の力を体験することはできません。あなたが今しっかり握っているものを一度手放す時、主はそれを何倍にもして与えくださいます。その時、あなたの信仰も大きく飛躍することができるでしょう。

 

Ⅲ.みことばを体験する(51-54)

 

この王室の役人の信仰はどのように飛躍したでしょうか。彼は、そのみことばを体験しました。最後にそれを見て終わりたいと思います。51節から54節をご覧ください。

「彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。

イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。」

 

彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来ると、彼の息子が治ったことを告げました。そこで、子どもが良くなった時刻を尋ねると、前日の第七時に熱が引いたということでした。それはユダヤの時刻で、今日の時刻では午後1時になります。それはちょうどイエス様が「あなたの息子は治る」と言われた時刻でした。それで彼自身も彼の家の者たちもみな信じたのです。あれっ、彼はイエス様が言われたことばを信じて帰って行ったのではなかったですか?それなのに、イエス様が「あなたの息子は治る」と言われた時刻と息子が癒された時刻が同じ時刻であったことを知って信じたというのはおかしいのではないでしょうか。いいえ、それは、彼がイエス様のことばを信じていなかったということではありません。イエス様が言われたことを信じた結果、本当にそのようになったことを知って改めて信じたということです。つまり、信仰によってみことばが真実であることを体験したということです。

 

皆さん、信仰において大切なことは、このみことばを体験するということです。信仰というのは、まず神のみことばの正しい解釈が求められますが、いくら神のみことばを知っていても、それが頭だけであるとしたら、いざという時に何の役にも立ちません。それこそ、実際の生活の中で自分が思ってもいなかったことが起こると、右往左往し、信仰につまずいてしまうことになるのです。しかし、みことばを体験した人は違います。ちょっとやそっとのことでは動じません。この不動の信仰に至るためには、どうしてもみことばの体験が必要なのです。自分の結婚の問題について、また自分の将来について、自分の仕事や生活、その他あらゆることについて、たえず聖書のみことばに生き、みことばの真実さを体験していく時、不動の信仰に至ることができるのです。その結果、彼だけでなく、彼の家族全員が同じ信仰を持つようになりました。

 

あなたはこの役人のように、イエス様のことばだけに信頼して、そのみことばを体験しておられるでしょうか。それとも、しるしと不思議を見ない限り、決して信じませんという段階でしょうか。しるしと不思議を見て信じる段階からイエス様のことば、聖書のことばに信頼する段階へ、そして、そのみことばを体験する信仰へと進ませていただきましょう。

 

54節を見ると、「イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。」とあります。この奇跡は、ガリラヤでの二回目のしるしでした。「しるし」というのは、証拠としての奇跡です。イエス様が神の子、キリストであるということの証拠としての奇跡のことです。最初のしるしもこのカナで行われました。それは水がぶどう酒に変わることを通して、主はこの自然界をも支配しておられる方であり、私たちに真の喜びをもたらすことができるということを示していましたが、今回の奇跡は、この王室の役人の息子のいやしを通して、主は死にそうな病人をも癒すことがおできになられるいのちの主であられることを示されました。「信じるなら神の栄光を見る」(ヨハネ11:40)のです。ですから、信じない者にならないで、信じる者になりましょう。しるしと不思議を見る信仰から、見ないでも信じる信仰へ、そして、それを体験する確固たる信仰へと進ませていただきましょう。