出エジプト記2章

きょうは、出エジプト記2章から学びます。前回は、ヨセフのことを知らない新しいエジプトの王ファラオが、イスラエルの民が増え広がるのを恐れ、彼らに過酷な労働をさせたことを学びました。しかし、苦しめられれば苦しめられるほど、イスラエルの民はますます増え広がったので、どうにも手に負えませんでした。そこで彼は、ヘブル人の助産婦に、ヘブル人の女に分娩させるとき、もしも男の子なら殺すようにと命じましたが、神を恐れていた助産婦たちは、たとえファラオにそのように命じられてもそれに従わず、ただ神に従いました。殺さないで残しておいたのです。そこでファラオは、すべての民にこのように命じました。「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」

 

  1. 奇しい神のみわざ(1-10)

 

まず、1節から3節までをご覧ください。

「さて、レビの家のある人がレビ人の娘を妻に迎えた。彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。」(1-3)

 

レビの家のある人が結婚すると、妻は身ごもって男の子を産みました。その子の両親の名は、父がアムラム、母がヨケベデです(出エジプト6:20)。彼らは、この子をナイル川に投げ込まなければなりませんでしたが、できませんでした。それで、彼らはその子を三か月間隠しておきました。ヘブル11章23節には、それが信仰によってなされたと言われています。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです。」(ヘブル11:23)ここには、彼らがその子を隠したのはただかわいいという理由だけでなく、王の命令を恐れなかったからである、とあります。つまり、それは信仰によることだったのです。彼らは王の命令を恐れなかったのです。このように、信仰とは人を恐れないことで、神だけを恐れることです。そして、このように神を恐れて生きる人には、不思議な神のみわざが現れます。3節をご覧ください。

 

しかし、三か月が経った頃、もう隠しきれなくなると、その子をパピルス製のかごに入れ、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置きました。赤ちゃんの泣き声が外に聞こえるのでもう隠しきれなくなったのでしょう。瀝青と樹脂を塗ったのは防水加工をするためです。防水加工をして水がかごの中に入らないようにして、それをナイル川の岸の葦の茂みの中に入れたのです。なぜそんなことをしたのでしょうか?そんなことをしたからといっていったい何が期待できるというのでしょうか。何も期待などできません。でも、もしかしたら、情け深い人の手によって救われるかもしれないと思ったのでしょう。いずれにせよ、彼女はすべてを神の御手にゆだね、ナイルの茂みに置いたのです。ここに彼女のバランスのとれた信仰を学ぶことができます。隠せる間は努力して隠しました。しかし、自分の限界を超えた事柄については、神の摂理にゆだねたのです。

 

するとどうなったでしょうか。4~10節までをご覧ください。

「その子の姉は、その子がどうなるかと思って、離れたところに立っていた。すると、ファラオの娘が水浴びをしようとナイルに下りて来た。侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みの中にそのかごがあるのを見つけ、召使いの女を遣わして取って来させた。それを開けて、見ると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をかわいそうに思い、言った。「これはヘブル人の子どもです。」その子の姉はファラオの娘に言った。「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」ファラオの娘が「行って来ておくれ」と言ったので、少女は行き、その子の母を呼んで来た。ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。」

 

その子には姉がいました。15章20節を見ると、ミリアムという名の女性です。後に女預言者となります。モーセが生まれたとき、彼女は13歳でした。お母さんから、弟がどうなるか見て来てくれと頼まれたのでしょう。彼女は、離れたところから見ていました。すると、なんとファラオの娘が水浴びをしようとナイル川に下りて来ました。このファラオの娘は、トトメスⅠ世の娘ハトシェプストという人がではないかと考えられています。それにしても、その子がナイルに流されたちょうどその時に、彼女が水浴びをしようとナイルに下りてきたというのはものすごいタイミングです。その確率はあり得ないほど低いものですが、それは決して偶然ではありません。神がそのように導いていてくださったのです。人の目には一見偶然のように思える事柄の中にも、神が働いておられるのです。

 

ファラオの娘は、葦の茂みの中からそのかごを見つけると、召使いを遣わして取って来させました。そして、そのかごを開けて、中を見ると、そこに男の赤ちゃんが泣いていました。彼女はその子をかわいそうに思い、「これはきっとへブル人の子どもです。」と言いました。へブル人とエジプト人の割礼の方法が異なっていたので、それがへブル人の子どもであることがすぐにわかったのです。

 

すると、それを離れたところから見ていたその子の姉がファラオの娘に近づき、こう言いました。「あなた様に代わって、その子に乳をのませるために、私が行って、へブル人の中から乳母を呼んで参りましょうか。」これもすごいタイミングですよね。その子の姉がその様子を見ていなかったら、このように言うことはではなかったでしょう。でも離れた所からずっと見ていたので、「今だ」という時に、このように言うことができたのです。

すると、ファラオの娘が、「行って来ておくれ」と言ったので、彼女は行き、その子の母親を呼んで来ました。それで、その子の母親は息子を取り戻せただけでなく、賃金までもらって乳を飲ませることができたのです。こうしてモーセは、ファラオの娘の特別な保護のもと、実の母親の手によって、公然と育てることが許されました。こんなことってありますか?本当に不思議なことです。その子は、このような不思議な神の御手によって大きく成長していきました。その子の名は「モーセ」です。モーセが大きくなったとき母親は彼をファラオの娘のもとに連れて行き、その子はファラオの息子になりました。これはどういうことでしょうか?これは、彼がエジプトの王女の息子としてエジプトで最高の学問を身につけることができたということです。それは彼が後にイスラエルをエジプトから解放するために大きく用いられたことになります。皮肉にもエジプトの王子として受けた教育が、後にエジプトからイスラエルを解放するために用いられることになるのです。

そればかりではありません。彼がへブル人の実の母親の元で育てられたことで、彼はへブル人としての自覚を失いませんでした。彼が実母によって育てられた期間は彼が5歳くらいになるまでであったろうと思われますが、この時期にへブル人としての自覚とイスラエルの神についての概念を、しっかり確立することができたのです。

ここに幼児教育の重要性を見ることができます。その時期にどのような環境の中で育つかは、その人のその後の人格形成と信仰の形成に大きな影響をもたらします。鮭が生まれたところに戻るように、人は幼い頃に受けた環境に戻ります。「モーセ」という名前は、「引き出された者」という意味です。彼は水の中から引き出されただけでなく、後にイスラエルをエジプトから引き出すために用いられる人物になるのです。

 

2.ミディアンの地に逃れたモーセ(11-15)

 

次に、11節から15節までをご覧ください。

「こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。次の日、また外に出てみると、見よ、二人のヘブル人が争っていた。モーセは、悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言った。彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。ファラオはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜した。しかし、モーセはファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に着き、井戸の傍らに座った。」

 

こうして日がたち、モーセが大人になった頃、一つの事件が起こります。彼が同胞のところに行ってみると、彼らが苦役に服しているのを見ました。そして、自分の同胞を一人のエジプト人が打っているのを見ると、彼はあたりを見回し、そこにだれもいないのを確認して、そのエジプト人を殺し、砂の中に埋めたのです。なぜ彼はこんなことをしたのでしょうか。彼はへブル人としての自覚を失っていませんでした。ですから、同胞のへブル人が苦しめられているのを見た時、黙っていられなかったのです。使徒7章23節には、「モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。」とあります。彼にはもともとそのようなタイプの人間でした。しかも、それが同胞のへブル人であったので、何とか助けてやりたいと思ったのでしょう。

しかし、ここに一つの誤解がありました。彼は自分がエジプトで高い地位についている者だから彼らを救い出すことができると思っていたことです。しかし、救ってくださるのはあくまでも神であって彼ではありません。そのことが次の事件で明らかになります。

 

次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っていました。そこで彼は悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言うと、その人はこう言いました。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」彼は、神が自分をへブル人の解放者として選んでいると思っていたのに、同胞のへブル人はそのように認めていまいばかりか、彼がエジプト人を殺したことをファラオに密告したのです。それでモーセはファラオが自分を殺そうとしているのを知り、ファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に行ったのです。

 

このことについて、ステパノはこのように言っています。使徒7章23~29節です。

「モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。そして、同胞の一人が虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち殺して、ひどい目にあっていた人のために仕返しをしました。モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。 翌日、モーセは同胞たちが争っているところに現れ、和解させようとして言いました。『あなたがたは兄弟だ。どうして互いに傷つけ合うのか。』すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけながら言いました。『だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。昨日エジプト人を殺したように、私も殺すつもりか。』このことばを聞いたモーセは逃げて、ミディアンの地で寄留者となり、そこで男の子を二人もうけました。」

 

モーセは、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしていることをみんなが理解していると思っていましたが、実際はそうではありませんでした。むしろ、そのことに反発していたのです。その表れが、あの同胞の「だれがおまえを・・・」という言葉だったのです。彼は、自分の手によって神が同胞に救いを与えてくれると思い、また皆もそのことを理解してくれるものと思っていましたが、実際はそのように思っていたのは自分だけでした。このようなことがよくありますね。みんなもそう思っていると思っていたら全然違っていたということが。全くの誤解です。そもそも自分の力では無理なのです。イエス様は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)と言われましたが、私たちは、イエス様を離れては何もすることができないのです。それなに、自分の力で何とかしなければならないと思ってしまったことが、彼の大きな間違いだったのです。

 

それで彼はミディアンの地へと逃れて行くわけですが、それは、彼がこのことを学ぶために必要な期間でした。それは四十年にわたる神による準備と訓練の時でしたが、この霊的訓練の時を経て、彼は本当の意味で神に用いられ器となっていきます。それは、神の方法によって彼らを救い出すことはできないということです。

 

私たちはここから学ばなければなりません。神の時、神の方法によらなければ、いかに信仰的な行為であっても、真の祝福をもたらすものとはならないということです。自分にとって神の時はいつなのか、神の方法とはどのようなものなのかを黙想してみましょう。

 

3.ミディアンの地で(16-25)

 

ミディアンの地に逃れたモーセはどうなったでしょうか。16節から23節までをご覧ください。

「さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちは父の羊の群れに水を飲ませに来て、水を汲み、水ぶねに満たしていた。そのとき、羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。するとモーセは立ち上がって、娘たちを助けてやり、羊の群れに水を飲ませた。彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。「どうして今日はこんなに早く帰って来たのか。」娘たちは答えた。「一人のエジプト人が、私たちを羊飼いたちの手から助けてくれました。そのうえ、その人は私たちのために水汲みまでして、羊の群れに飲ませてくれました。」父は娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうして、その人を置いてきてしまったのか。食事を差し上げたいので、その人を呼んで来なさい。」モーセは心を決めて、この人のところに住むことにした。そこで、その人は娘のツィポラをモーセに与えた。彼女は男の子を産んだ。モーセはその子をゲルショムと名づけた。「私は異国にいる寄留者だ」と言ったからである。」

 

このミディアンの地がどこなのかは正確にはわかりません。おそらくシナイ半島の南東地域だと思われます。ミディアン人の祭司ですが、彼の名はレウエル(2:18)、またはイテロと言います(3:1)。ミディアン人は、アブラハムの子どもの一人です。サラが亡くなった後、アブラハムはケトラというもうひとりの妻をめとりましたが、その間に産まれたのがミディアンです(創世記25:2)。ですから、ミディアン人はイスラエル人と血のつながりを持っていたのではないかと考えられます。そして、「レウエル」とは、「神の友」とか、「神の羊飼い」という意味です。古代のセムの神「エル」に仕えていたことを示しています。ですから、彼はまことの神を礼拝していた祭司だったのでしょう。そういうところに神はモーセを導かれましたというのも、また不思議なことです。

 

モーセは、そこの井戸のかたわらに腰を下ろしていました。するとそこへミディアン人の祭司の娘たちが、羊に水をやるためにやって来ました。ところが、他の羊飼いたちがやって来て、彼女たちを追い払いました。せっかく汲み上げた水を彼女たちから取り上げて、自分たちの羊に飲ませようとしていたのです。そこでモーセは彼女たちを助けてやり、彼女たちの羊の群れに水を飲ませてやりました。この小さな親切が、この地の祭司であったレウエルとその家族に近づけさせることになります。

娘たちが家に帰ってから、このことを父に告げると、父は、「その人はどこにいるのか。どうして、その人を置いてきてしまったのか。食事を差し上げたいので、その人を呼んで来なさい。」と言ったので、モーセは心を決めて、この人のところに住むようにしました.ただ住むようになっただけではありません。ツィポラという娘を嫁としてもらいました。そして、子供も生まれると、その子の名前を「ゲルショム」と名付けました。それは、「私は異国にいる寄留者だ。」という意味です。これはどういうことかというと、このように名づけることによって、彼は自分がミディアン人ではなくヘブル人であることを証していたのです。

 

こうしてモーセは、ミディアン人の地に住むことになりました。80歳になるまで、40年間、この地で羊飼いをすることになるのです。モーセは「神の友」レウエルのもとで、エジプトでは得られなかった内面の修行を積むことになるのです。彼は同胞からも、約束の地からも遠く離れて生活せざるを得ませんでしたが、そのような所で彼は、主のみこころに全く従うことを学んだのです。

 

23節から25節までをご覧ください。

「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」

 

それから何年もたって、エジプトの王が死にました。彼はイスラエル人をひどく苦しめました。彼らが重い労働にうめき、泣き叫んだとき、その叫びが神に届きました。神は彼らの嘆きを聞かれると、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。そして、神は彼らをみこころを留められました。

 

ここにすばらしい約束があります。イスラエル人はヤコブを通して神から語られてからずっと、400年以上も神からの語りかけを受けていませんでした。神の祝福どころか、ひどい苦しみの中に置かれていました。もう神から見捨てられたのではないかと思っていたでしょうか。しかし、神は決して彼らをお見捨てにはなりませんでした。彼らがうめき、泣き叫ぶその声を聞いておられたのです。そして、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を決して忘れておられませんでした。そして、神は先祖たちに与えられた約束を、この世代のイスラエル人によって実現しようとされたのです。そうです、イスラエルを約束の地に再び連れ上るという約束です(創世記45:3-4)。

 

私たちにも、同じです。神は私たちに永遠のいのちを約束してくださいました。私たちはその約束を待ち望み、それが実現するのを期待しています。けれども、この世ではその約束とは反対の、うめきや苦しみの中で叫ばずにはいられない状況に置かれるがあります。敵である悪魔がほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜しながら、歩き回っているのです。その中で私たちは「神は本当におられるんですか」と疑ったたり、嘆いたりしますが、神は私たちの嘆きを聞き、みこころに留めておられるのです。そして、その約束の実現のために、今も働いておられるのです。

 

このエジプトでのイスラエルの叫びは、この世におけるキリスト者の叫びでもあります。しかし、神は私たちの叫びを聞き、私たちをみこころに留めておられます。イスラエルをエジプトから救い出したように、私たちを罪から救ってくださいます。それがイエス・キリストです。神はこのキリストによって私たちとともにいてくださいます。私たちの嘆きと叫びを聞き、そこから救ってくださいます。この神の約束を信じ、神に力を与えていただきながら、与えられた信仰の道を歩ませていただきましょう。