イザヤ書1章1-9節 「まず主に立ち返ることから」 

きょうからしばらくの間、このイザヤ書からご一緒に学んでいたきたいと思います。なぜイザヤ書から学ぶのでしょうか。それはこのイザヤ書が旧約聖書のローマ書と言われているからです。ローマ人への手紙の中に福音の奥義、神の救いの計画が体系的に語られているように、このイザヤ書にも、神の救いの計画が最もよく表されているからです。それはイエス様やパウロがこのイザヤ書から最も多くの預言を引用していることからもわかります。時代的にはホセア書とかミカ書と同時代に書かれた書物なのに、イザヤ書の方が先に出てくるゆえんはそこにあります。ちょうどパウロが書いた手紙の中でテサロニケ人への手紙などの方が先に書かれた手紙なのにローマ人への手紙の方が先に収められているのと同じです。この書の中に神の救いの計画がよく表されているのです。

そのイザヤ書ですが、1節を見ると「アモツの子イザヤの幻。これは、彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。」とあります。イザヤとは、「主は救いである」とか、「救いは主のもの」という意味です。彼は、私たちが救われるのは、北や南の超大国によるのではなく主からなのだということを、この書全体を通して語りたかったのです。この主の救いがテーマです。彼はユダの王ウジヤの時代、実際にはこのウジヤが死んだ年の.C.739年から、ヒゼキヤの統治期間が終わったB.C.687年までの間、実に彼は約53年間も預言の働きをしたのです。この時代はどういう時代であったかというと、一言で言えば、それは非常に危機的な時代でした。アッシリヤという国が台頭して来て近隣諸国を併合していました。そしてB.C.734年には北イスラエルの住民がアッシリヤに捕らえ移され、721年にはついに首都サマリヤが陥落するのです。

一方、南ユダはどうだったかというと、アッシリヤが南ユダのエルサレムの近隣の町々を破壊して、残るはエルサレムだけになっていました。その時、ヒゼキヤ王が必死にとりなしの祈りをささげるとその祈りに主が答えてくださり、奇跡的に彼らを救い出されました。185,000人のアッシリヤの軍隊が一夜のうちに滅ぼされてしまったのです。B.C.701年のことです。まさに主は救いです。これは38章に出てくる内容です。しかし、そんなヒゼキヤ王もいつしか高慢になって罪を犯し、ついにはバビロンに捕らえ移され、ついにエルサレムも陥落していくのです。

そうした差し迫った状況の中で、この預言が語られたのです。この時代は北イスラエルも、南ユダも他国によって滅ぼされてしまうという危機的な状況にありましたが、それでも主に信頼するなら主が助け出してくださるということを伝えたかったのです。きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.神に背を向けたイスラエル(2-4)

まず第一のことは、神に背を向けた胃すら絵の姿です。2-4節をご覧ください。

「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」

イザヤは神の懲らしめのメッセージから入ります。懲らしめのメッセージとか、さばきのメッセージはあまり人気がありません。人々はできるだけ温かいメッセージを聞きたいからです。励まされるようなメッセージを聞きたいからです。しかし、まことの預言者は、歴史の中に神のさばきの御手を見て、そこから人々に悔い改めを迫るのです。偽りの預言者は、滅びが迫って来ていても、「平安だ、平安だ」と言って、人々の良心を麻痺させますが、真の預言者は、まず罪を責め、人々の心を砕くのです。ホセア書6章1節に「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」とあるようにです。主は私たちを引き裂いてからいやし、私たちを打ってから包んでくださるからなのです。単に表面的な解決をもたらそうとはしないのです。

ここでイザヤがまず語っていることは、「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。」(1a)ということです。神は、天にも地にも響き渡る形で、誰にでも聞いてもらいたいという気持ちで語られました。というのは、申命記に二人、三人の証人によって物事は事実と確認されるとあるからです。ですから神様は天と地という二人の証人を立てて、すべてのものを明らかにする形で語っておられるのです。

その内容はというと、「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」(2b-3)ということでした。神がイスラエルを責めておられる第一の理由は、親が子を育てるように、神がイスラエルを育てたのに、まるでご自分のことを全く知らないかのようにイスラエルが神に対して振る舞っていることでした。人間は忘れっぽく、感謝することも忘れやすい者ですが、こんなに何百年も、何千年にもわたって育ててきたのに、その人のことを忘れてしまうことなどあり得ません。聖書を最初からずっと読んでいくと、天地創造とかノアの洪水といった世界的な出来事が最初の10章程度にまとめられていて、そこから12章に入るとアブラハムを選び、ご自分の民とされました。世界的な視野からイスラエルという小さな民族に焦点が絞られていくのです。そしてモーセの時代に律法を与えご自分のみこころを示し生活の細部に至るまで教え、導いてこられたのです。いわば全世界の中でこの子だけを育てていくよ、あらゆるものの中で彼らだけを特別に愛して育ててくださったのです。どれほど多くのこどもがいても、イスラエルは特別でした。親の眼に自分のこどもしか見えないように、神はイスラエルにあつい眼差しを注いでおられたのです。まさに目の中に入れても痛くないような存在だったわけです。

にもかかわらず彼らは、その親への恩を全く忘れてしまいました。それは動物よりもひどいと言います。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉桶を知っていますが、イスラエルは知らないというのです。家畜よりもひどいというわけです。これは実際にあった話ですが、ある泥棒を捕まえるために警察がいろいろ考えて、彼が飼っていた牛の縄を解いて放してやったそうです。するとどうなったと思いますか。何とその牛は自分の飼い主のところへ自然に向かって行ったそうです。そうやって泥棒がいる場所を見つけて捕まえた。このように、牛でさえ自分の飼い主を知っているのに、あなたがたは知らない、悟らない、とはどういうことかと、神様は驚いておられるのです。

そういう彼らへの嘆きはさらに続きます。4節です。「ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」「ああ」という神の嘆きに、私たちの心は痛みます。なぜに神はそんなに嘆いておられるのでしょうか。彼らは罪を犯す国であり、咎重き民であり、悪を行う者の子孫、堕落した子らだからです。

「罪を犯す国」とは、もともと「的を外す」という意味です。神の基準に満たないことを行っているということです。神から離れた人間はどのように人生を送っても、最終的には目標のない中途半端な存在にすぎません。どれほど勤勉で家庭円満な誠実な人生を歩んでいても、人生の最終到着点がはっきりしていない人は「的外れの人生」を送っており、神の前には罪人にすぎないというのです。イスラエルは神によって選ばれ、神の栄光を現すという明確な目標を与えられた民でしたが、的外れの民、罪を犯す国になってしまいました。

それから「咎重き民」の「咎」ということばは「ゆがみ」「ひずみ」を意味することばです。英語では、guilt feeling(罪責感)です。神から離れ、神に背を向けて歩むようになった人間は、鍾乳洞の迷路のように曲がりくねったものとなり、罪責感で心が重い状態になりました。    そして「悪を行う」とは、公正と正義に照らして悪いことを行っていることです。「堕落」とは、神の基準から落ちてしまったことを言っています。つまり、神から離れ、人生の究極的な目標を持たない的外れの状態から、すべての咎や悪、堕落が始まっているということです。

人生の様々な不幸と災い、人を傷つけたり、裏切ったり、ねたんだり、家庭内での不和、偽りなど、これらいっさいのものは、神との関係の修復からから始めなければ、すべて応急処置にすぎないのです。人の一生は、政治家であっても、主婦であっても、もし罪の根源、すなわち神との関係の修復から始めなければ、自分の人生に起こる様々なトラブルの応急処置に終始して人生を終わることになるのです。

Ⅱ.弱り果てたイスラエル(5-8)

第二に、そのように主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、神に背を向けて離れ去ったイスラエルは、どうなってしまったのかを見ていきましょう。5-8節をご覧ください。

「あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。」

そのように、主に反逆に反逆を重ねた結果は、主を悲しませただけでなく、自分自身をも、自分自身をも傷つけることになってしまいました。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果ててしまいました。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、生傷が絶えないのです。この頭とか、心臓というのは人間の体の外側と内側を表しています。そして足の裏から頭のてっぺんまでというのは、体全体という意味です。つまり、神に逆らって反逆に反逆を重ねた結果、体全体が弱り果ててしまったということです。しかもここには、「絞り出しても包んでもらえず、油で和らげてももらえない」とあります。これは治療してもらえないという意味です。病気で苦しみ、痛みにあえいでいるのに、治療もしてもらえないとしたら、どんなに苦しいことでしょう。それほどまでに弱り果てているのです。

その弱り果てた様が7,8節に描かれています。「あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。」アッシリヤの攻撃によって、イスラエルもユダも荒れ果ててしまいました。彼らの町々は火で焼かれ、まるで他国人の破滅にも似たような形で荒れ果ててしまいました。そして8節を見ると、それはあたかもぶどう畑の小屋のように、キュウリは畑の番小屋のようになってしまいました。ぶどう畑の小屋とか、きゅうり畑の番小屋というのは、今でいうと、ビニールハウスのようなものです。最近のビニールハウスは結構頑丈で、ちょっとした雨風では破れたりはしませんが、もともと骨組みが弱いですから、台風などがやってくるとひとたまりもありません。何とかそこに立っているというようなビニールハウスです。あるいは、よく畑などに置かれてあるプレハブ小屋を想像するとよいかもしれません。土台もしっかりしていませんので、ちょっとした外圧で傾いてしまいます。そうした状態でかろうじて立っています。 それほどまでに弱り果ててしまいました。かつては神のあついまなざしが注がれていたイスラエルが、今ではその陰さえも見られないほど荒れ果ててしまったのです。

これが神から離れ、神に背を向けて歩んでいる人間の姿です。にもかかわらず私たちは、「自分は富んでいるから大丈夫。乏しいものは何もない」と言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知りません。このような人にとって必要なのは何でしょうか。目薬です。かつてイエス様がラオデキヤの教会に、「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録3:18)と言われたように、目に塗る目薬を買わなければならないのです。そうすれば、自分の姿がハッキリ見えて悔い改めることができる。

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(同3:19,20)

そのことによって初めて主が私たちのところに入って、私たちとともに食事をしてくださいます。食事をともにするというのは本当に親しい関係を表しています。嫌いな人となかなかともに食事はできないですよね。その親しい関係に入れてくださるというのです。

Ⅲ.残されたイスラエル(9)

第三のことは、それでもあわれみ深い神様は、残りの者を残しておらたということです。9節をご覧ください。

「もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。」

ここですね。ユダとその他の国々の違いは・・・。主は、アッシリヤとかバビロンといった国々に対して完全な破滅を宣告しておられるのに、なぜイスラエルにはそうではないのかというと、それは残りの者が生き残っているからです。

ここに一つの主が持っておられる原則が見られます。それは、主は「残りの民」を用意しておられるということです。これが、パウロがローマ人への手紙9章から11章までのところで展開していることです。9章29節ではこの箇所を引用しています。そして、11章1節でこう宣言しています。「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。」なかなか悔い改めようとしないイスラエルに対して神は、すべてを滅ぼしてしまわれるのかというとそうではありません。その中にも少数の残りの者を用意しておられ、彼らを通してイスラエルが救われるようにと計画しておられたのです。神様の賜物と召命とは変わることがありません。そうでなかったら、あのソドムとゴモラのように滅ぼされてしまったことでしょう。しかし、イスラエルは神様に特別に選ばれ、愛された民なので、神は滅びることがないように守っておられるのです。それはただ神様のあわれみによるものです。哀歌3章22節に、次のようなみことばがあります。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」皆さん、私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによるのです。主のあわれみは尽きることはありません。主はご自身を愛し、ご自身に従う者を、決して見放したり、見捨てたりはなさいません。主のあわれみは尽きないからです。主の愛のゆえに、どんなに激しい神の御怒りの中にあっても、主を信じて歩む者に、神の御怒りがくだることは絶対にないのです。私たちに終わりが告げられることはありません。何という御約束でありましょう。けれども神様はどこまでも真実な方であって、その約束はとこしえに変わることはありません。

皆さん、このことからいったいどのようなことが言えるのでしょうか。そうです、神様は今でも残りの民はいるということです。この世の圧倒的多数の人たちが神から離れ、全く神とは正反対であるかのような道を歩んでいても、神様は必ず「残りの民」を用意しておられるのです。主が再び来られるその日まで信仰を堅く守り、神様の御前に従う民が必ずいるのです。どんな大きな迫害や、苦しい状況があったとしても、神様の恵みとあわれみによって、ちゃんと「残りの民」がいるのです。

ですから私たちは決して数に慰めを求めるのではなく、「私たちの中に神様が認めてくれる信仰があるかどうか」「私たちが神のみこころに従って歩んでいるかどうか」ということを絶えず確認していなければなりません。どんなに少人数であっても、この神の約束を握りしめているなら、神様はそのような人を用いてこの歴史を動かしてくださるからです。

神に背を向け、神から離れて行った民の人生は本当に悲惨なものです。しかし、イスラエルがどれだけ不従順で、罪を犯しても、神の子という身分は消し去られることはありませんでした。神は「残りの民」を残しておられました。神はご自分の子を決して見捨てるようなことはなさらなかったのです。家出した息子、娘を待つ父のように、イスラエルの民に望みを置かれ、彼らが立ち返ることをずっと待っておられたのです。神は今、あなたをも待っておられます。あなたが神に立ち返ることを待っておられるのです。あの放蕩息子がはっと我に返ったとき父のことを思い出したように、今、私たちも父から離れたみじめな者であることを覚え、父のもとに立ち返ろうではありませんか。そのとき、主は「死んでいたのが生き返った」と言って喜び、祝宴をしてくださいます。主はそれほどまでに、私たちが神に立ち返ることを願っておられるのです。今、あなたも自分の罪を悔い改めて、主に立ち返ってください。そこから始めていかなければなりません。そのとき主はあなたを赦し、あなたを喜んで受け入れてくださいます。そして嘆きは喜びに、悲しみは踊りに変えられるようになるのです。