きょうは、出エジプト記4章から学びます。まず1~17節までをご覧ください。9節までをお読みします。
Ⅰ.今、行け(1-17)
「モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」主は彼に言われた。「あなたが手に持っているものは何か。」彼は答えた。「杖です。」すると言われた。「それを地に投げよ。」彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。モーセはそれから身を引いた。主はモーセに言われた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」 彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」主はまた、彼に言われた。「手を懐に入れよ。」彼は手を懐に入れた。そして出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。また主は言われた。「あなたの手をもう一度懐に入れよ。」そこで彼はもう一度、手を懐に入れた。そして懐から出した。なんと、それは再び自分の肉のようになっていた。 「たとえ彼らがあなたを信じず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。もしも彼らがこの二つのしるしを両方とも信じず、あなたの声に聞き従わないなら、ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。あなたがナイル川から汲んだその水は、乾いた地面の上で血となる。」
神は、エジプトにいるイスラエルの民を救うためにモーセを遣わそうと召されました。しかし、モーセはいろいろと言い訳をしてそれを断ろうとします。その一つは、「私は、いったい何者なのでしょう。」(3:11)ということでした。自分にはそんな資格はないということでした。エジプトの王子の立場だったらいざ知らず、一介の羊飼いにすぎない自分にはそんな資格などないというものでした。
二つ目の言い訳は、3章13節にありますが、仮にエジプトにいるイスラエルの民のところへ行っても、彼らは自分を認めてくれないだろうというものでした。
「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言えば、彼らは、「その名は何か」と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょう。」(3:13)
つまり、自分には信頼がないということです。しかし、主は、その時は「わたしはある」という者が私をあなたがたのところへ遣わされたと言え、と言われましたが、モーセはその重い腰を上げることができませんでした。
そして、ここに来て彼は、三つ目の言い訳をしています。それは、自分には力がないということです。1節には、「モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」とあります。なぜモーセはここまで否定的になっているのでしょうか。それは40年前の失敗の記憶から解放されていなかったからです。過去の失敗の記憶に支配されていると、なかなか新しいことに取り組むことができなくなります。モーセが経験していた束縛は、神のことばを否定してしまうほど強いものでした。神は、「彼らはあなたの声に聞き従う。」(3:18)と約束されましたが、その約束さえ信じられないほどだったのです。
そのような疑い深いモーセに、神は三つのしるしを与えます。一つは、杖が蛇になるというものでした。主は、「あなたの手に持っているものは何か」と言われました。モーセが「杖です。」と答えると、「それを地に投げよ。」と命じられました。すると、それが蛇になりました。それでモーセは、それから身を引きました。身をひいたというのは、それが本当に蛇になったということです。すると主はモーセに、「手を伸ばして、その尾をつかめ。」と言われた。それで彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは彼の手の中で杖になりました。このことは何を表しているのかというと、主はご自分の意のままに何でもできる方であるということです。特に、この蛇はコブラのことですが、これはエジプトの王パロの権威を象徴していました。すなわち、主はパロの権威よりもはるかに偉大であるということを示していたのです。
次に、主はモーセに、「手を懐に入れよ。」と言われました。それで彼が手を懐に入れると、なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになってしました。そして再び主が「あなたの手をもう一度懐に入れよ。」と言われたのでそのようにすると、彼の手は元どおりになりました。当時、「ツァラート」は不治の病とされていました。その病をいやすことができる神は、偉大な方です。たとえ彼らが最初のしるしを信じることができなくても、このしるしは信じるでしょう。
しかし、彼らがたとえこの二つのしるしの両方とも信じず、モーセの声に聞き従わないなら、もう一つのしるしを行うようにと言われました。それは、「ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。」(9)というものです。その水は、乾いた地面で血となるというのです。エジプト人にとって、ナイルはいのちの守り神です。そのナイル川の水を血に変えるというのは、モーセの神がエジプトの神よりも偉大であるということを示していました。
これだけのしるしが与えられたのであれば、モーセにとってもどれほど心強かったことかと思います。しかし、それでも彼はまだ言い訳を続けます。それは口が重いということでした。10~17節をご覧ください。
「モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。また、あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」」
「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」これはどういうことでしょうか。これはモーセの最後の言い訳です。でも、こんなのは言い訳になりません。なぜなら、人に口をつけたのは主であられるからです。主が人に口をつけたのであれば、主はその口を用いてくださいます。主がモーセの口とともにあっ、語るべきことを教えると言いましたが、それでも彼の答えはノーでした。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」と言いました。彼はどこまでも否定的でした。こういう人と話していると本当に疲れます。だれにでも、ある程度の恐れや不安はあります。でも何を言っても従おうとしないというのは、最初からやる気がなかったのです。
すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がりました。そして、彼の兄アロンを用いると言われました。すなわち、主がモーセに語ったことをアロンに伝え、その語られたことばをモーセに代わってアロンが民に語るというのです。「わたしは彼が雄弁であることをよく知っている」。新改訳第三版では「わたしは彼がよく話すことを知っている」と訳されています。モーセの兄アロンはよく話人でした。口から先に生まれて来たような人でした。彼が口を開くと説得力があるのです。でも神が選ばれたのは弟のモーセでした。ですから神はモーセを通して語られますが、それを民に伝えるのはアロンです。モーセは神のことばをアロンに伝え、アロンはモーセに代わって民に語るのです。アロンがモーセにとって口となり、モーセは彼にとって神の代わりとなるというのです。
それでモーセは、ようやく重い腰をあげ神に与えられた使命のために立ちあがります。しかし、その後の出エジプト記の展開をみると、モーセが「私は口が重く、下が重いのです」というのは最初だけで、後になると、彼が直接イスラエルの民に語っているのがわかります。しかも大胆に・・。彼は口べたどころか、饒舌なのです。彼が「私は口べたです」と言ったのは、単に彼がエジプトに行きたくなかったからなのか、自分の弱点を誇張していたのかわかりませんが、そのようなことが私たちもあるのではないでしょうか。私たちも自分に与えられている賜物を過小評価するあまり、いろいろな理由をつけて主に従おうとしないということがあります。できない理由を考えるのではなく、できる理由を考え、いろいろと経験をする中で、どのように主に用いていただけるのかを祈り求めていきたいものです。
Ⅱ.エジプトの地へ(18-22)
いろいろと言い訳をし、神の召しを断ろうとしたモーセでしたが、ついに神の御声に促されエジプトに向かう決心をします。18節から20節までをご覧ください。
「そこでモーセは行って、しゅうとイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる同胞のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか、見させてください。」イテロはモーセに言った。「安心して行きなさい。」主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰れ。あなたのいのちを取ろうとしていた者は、みな死んだ。」そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せて、エジプトの地へ帰って行った。モーセは神の杖を手に取った。」
そこでモーセはしゅうとイテロのもとに行き、「どうか私をエジプトにいる同胞のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか、見させてください。」と言いました。ここでモーセは、主の計画の全貌を語っていません。主がエジプトにいる同胞を救うために自分を召されたということにも触れていません。どうしてでしょうか。おそらく、そのことを説明してもイテロには理解ができなかったからでしょう。主が燃える柴の中に現れたとか、杖を投げたら蛇になったとか、手を懐に入れたらツァラートになったと言って説明しても、なかなか分かってもらえるものではありません。そこで彼はエジプトにいる同胞がまだ生きているかどうか、見させてください、と言ったのです。イテロはそれを承諾しました。そして、「安心して行きなさい」と言って、モーセを送り出しました。
すると主は、モーセがまだミディアンにいる時に彼に仰せられました。「さあ、エジプトに帰れ。あなたのいのちを取ろうとしていた者は、みな死んだ。」これは、今がその時だということです。なぜモーセのいのちを取ろうとしていた者たちがみな死んだ時が「その時」なのでしょうか。それは、モーセの心から恐れが取り除かれる時だからです。主はそのようにして彼を励ましてくださったのです。そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せて、エジプトの地へ帰って行きました。手には神の杖を持っていました。この杖は、かつては単なる羊飼いの杖でしたが、今は神の杖となりました。モーセは、この杖で数々のしるしを行うことになります。
あなたは神の杖を持っていますか。私たちにとっての神の杖は神のことばである聖書であり、キリストの福音です。信仰を持った瞬間から、聖書は単なる本から「神の本」になるのです。私たちは何も持っていないようでも、すべてを持っています。自分の手にあるものは何かを再確認しなければなりません。
21節から23節までをご覧ください。
「主はモーセに言われた。「あなたがエジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え。しかし、わたしが彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせない。そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」」
モーセがエジプトに帰ることを決心すると、主はモーセに言われました。「あなたがエジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え。」これは、これから先にエジプトで起こる事柄です。神に従うと決断してその一歩を踏み出すと、その次が見えてきます。いったいその先に何があるのでしょうか。
まず、モーセは神から与えられた不思議をエジプトの王ファラオの前で行わなければなりません。しかし、主は彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせません。その時モーセはファラオにこう言わなければなりません。
「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。」
主はここで、イスラエルを「わたしの子、わたしの長子である」と言われました。イスラエルは神の子であり、神の長子です。これは神とイスラエルの特別な関係を表しています。その関係とは、アブラハム契約に基づく親子関係です。神はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、その子孫であるイスラエルの民を特別に扱われるのです。神はイスラエルを通して全人類を救うというご計画を持っておられました。神の長子、神の初子を苦しめる者は、自らの初子が苦しめることになります。イスラエルを苦しめたエジプトは、やがてその初子という初子は人から家畜に至るまで、すべて殺されることになります。
そして、それは神の民であるイスラエルだけではなく、私たちクリスチャンにも言えることです。神は私たちクリスチャンを「神の子」としてくださいました。ヨハネ1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。だれでもキリストを信じ、キリストを受け入れる者は神の子どもです。神との特別な関係に入れていただけるのです。ファラオは心を頑なにするのでなかなかイスラエルの民を行かせようとしませんが、しかし、それはファラオをさらに苦しめるための神のご計画でもありました。同じように、敵である悪魔は、私たちを罪の束縛からなかなか行かせようとしませんが、それは悪魔がさらに苦しむためであって、私たちを苦しめるためではありません。私たちは神の子として神に特別に愛されている者であることをしっかりと覚え、神の時を忍耐して待ち望みましょう。
Ⅲ.血の花婿(24-31)
最後に24節から31節までを見て終わりたいと思います。24節から26節をご覧ください。
「さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会い、彼を殺そうとされた。そのとき、ツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。「まことに、あなたは私には血の花婿です。」すると、主はモーセを放された。彼女はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。」
ここに不思議な出来事が記されてあります。モーセがエジプトに向かう途中、ある場所で一夜を明かすことになりましたが、その時主がモーセ会い、彼を殺そうとしたのです。どういうことでしょうか。モーセが致命的な病にかかり、死にそうになるのです。しかも、それは主から出たことでした。それを見た妻のツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて、「まことに、あなたは私には血の花嫁です。」と言うと、主はモーセを解放されました。いったいなぜ神はモーセを殺そうとしたのでしょうか。また、そのことと割礼を施していないことに、どういう関係があったのでしょうか。
この出来事が意味していることは明白です。それは、神は割礼を重んじておられるということです。「割礼」とは、神の民のしるしです。神がアブラハムと契約を結ばれた時、イスラエルのすべての男子は、生まれて8日目に割礼を受けなければなりませんでした。(創世記17:12)しかしモーセは、2番目の息子に割礼を施していませんでした。なぜなのか、その理由はわかりません。もしかすると、妻のツィポラが嫌ったのかもしれません。この時ツィポラが「まことに、あなたは私には血の花婿です。」と言ったのは、そういう背景があったからと思われます。ですから、もしモーセがアブラハム契約に違反したままでエジプトに下るなら、彼には出エジプトとしてのリーダーとしての資格がないということになります。それで、ツィポラがすかさず息子の包皮を切り取って、モーセの両足につけたのです。するとモーセはその瀕死の状態から解放されました。この後、妻のツィポラと2人の息子はミディアンに送り返されたようです。次にツィポラが登場には18章2節になってからです。割礼を嫌ったツィポラは、神がエジプトで行われる大いなる奇跡の目撃者になれなかったのです。
このことからわかることは、人は、神が用意された方法によらなければ救われないということです。それがどんなに自分にとって受け入れられないような事柄であっても、また、自分がどのように思おうと、神が命じられたことを行わなければなりません。そうでないと、神の救いに与れないばかりか、神の祝福に与ることもできないのです。その神の用意された方法とは、イエス・キリストの十字架でした。イエス・キリストは、アブラハム契約の成就としてこの世に来られ、十字架で自らのいのちをささげることによって救いの道を開いてくださいました。十字架以外に人が救われる道はないのです。このイエスを信じることはが、神と新しい契約を結ぶことです。その時、私たちの心に聖霊による割礼が施されます。新約の時代には肉の割礼が重要なのではなく、この心の割礼が重要です。心に割礼を受けているかどうかが問われているのです。
パウロはこの真理をガラテヤ6章14~16節でこのように言っています。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」
あなたはどのような基準にしたがって進んでいますか。この基準にしたがって進む人々こそ神のイスラエルです。そのような人々の上にこそ、平安とあわれみがあるのです。
最後に27節から31節を見て終わります。
「さて、主はアロンに言われた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。モーセは、自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、彼に命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。それからモーセとアロンは行って、イスラエルの子らの長老たちをみな集めた。アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。」
一方、主はアロンに現われて言われました。「荒野に行って、モーセに会え。」すると彼は行って、神の山ホレブでモーセに会いました。実に40年ぶりの再会です。モーセはこれまでの経緯をすべてアロンに告げまた。そして、二人が行ってイスラエルの長老たちをみな集めると、主がモーセに語られたことばをみなアロンが民に語り、民の前でしるしを行いました。すると、民は主が言われたとおり信じました。イスラエルの民はモーセが主から遣わされた人として認めたのです。主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて主を礼拝しました。主は決して彼らをお見捨てになりませんでした。400年という長い間苦しんできましたが、主が顧みてくださる時が来たのです。主は、あなたのことも忘れてはおられません。必ず顧みてくださいます。そして、その解決のために手を差し伸べてくださいます。それを待ち望みましょう。