ヨハネの福音書7章1~13節「わたしの時は来ていません」

ヨハネの福音書から学んでおりますが、きょうから7章に入ります。きょうは「わたしの時は来ていません」(6)とイエス様が言われた言葉から、「キリストに従う」というテーマでお話ししたいと思います。

Ⅰ.イエスを信じていなかった兄弟たち(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。

「その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」

「その後」とは、6章の出来事があって後のことです。6章には、イエス様が、5つのパンと2匹の魚で男の人だけで五千人の人たちの空腹を満たされたという奇跡が記されてあります。それは6章4節に「ユダヤ人の祭りである過越しが近づいていた」とあるように、過越しの祭りが近づいていた頃のことでした。時期的には3月の終わり頃から4月の上旬にかけての頃です。その後、イエス様はガリラヤ地方を巡り続けておられました。なぜなら、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたからです。もしユダヤ(地方)に行けば、ユダヤ人に捕らえられ、殺されてしまいます。イエス様は、ユダヤ人に殺されることを恐れていたのではありませんが、まだその時が来ていなかったので、ユダヤには行かずガリラヤを巡り続けておられたのです。

それからしばらくして、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていました。これは秋の祭りです。ですから、6章の出来事から半年くらい後の事になります。イエスの兄弟たちがイエスにこう言いました。

「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」(3-4)

なぜイエスの兄弟たちはこのようなことを言ったのでしょうか。ある意味で、彼らが言っていることはもっともであるかのように見えます。もし自分を世に現したいとと願っているのであれば、隠れて事を行う必要はないからです。しかし、彼らは本当にイエス様のことを思ってそう言ったのではありませんでした。彼らがなぜこのように言ったのかを理解するためには、ユダヤ人にとって「仮庵の祭り」が何を意味していたのかを知る必要があります。

先ほども申し上げたように、仮庵の祭りは、過越しの祭り、五旬節、すなわち七週の祭りに並ぶユダヤの三大祭りの一つでした。それは、彼らの先祖がエジプトを出た時、仮の庵、仮庵に住んだことを覚えるために、七日間、仮小屋か木の枝を張って造った天幕に住み、主の前で喜ぶように定められていたものです(レビ3:39-43)。また、この祭りの最終日は聖なる贖いの日と呼ばれていて、この日は、アザゼルとして荒野に山羊が放たれ、年に一度大祭司が至聖所に入って特別な儀式を行いました。そして、何と言ってもこの祭りは、来るべきメシヤの再臨を示すものでした。ゼカリヤ書14章16~21節にこう書いてあるからです。

「エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。」(ゼカリヤ14:16)

すなわち、これはメシヤがエルサレムから全世界を支配するようになる時、異邦人たちはメシヤを礼拝するために、この祭りに上って来るということです。イエスの兄弟たちが、仮庵の祭りの期間にエルサレムに上り、自分をメシヤとして世に示すようにと言ったのは、こうした背景があったからです。

そういう意味では、彼らが言ったことは決して間違いではありませんでした。むしろ、日ごろからイエスが語っておられることを耳にしていた彼らにとって、この仮庵の祭りにイエスがエルサレムに行き、そこで驚くべき奇跡を行うなら、自分がメシヤであることを示す絶好の機会になるのではないかと考えるのは、むしろ当然と言えるでしょう。しかし、それは彼らがイエスをメシヤだと信じていたからではありませんでした。5節には、「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」とあります。彼らもイエス様を信じていませんでした。だから、イエスがメシヤであるというしるしを行えば、みんな信じるでしょう、そうしたらいいんじゃないかと、挑発したのです。それは神のみこころから遠く離れていたものでした。というのは、十字架抜きの救いというのは、結局のところ、人々を本当の救いを与えることはできないからです。その時はまだ来ていませんでした。悪魔は、いつも身近にいる人を通して、主のみこころとは違った、安易な道へと私たちを誘惑してきます。ですから、私たちは主のみこころは何なのか、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、いつも神の言葉を求めなければなりません。

それにしても、このことがイエス様の一番近くにいた兄弟たちから出たということは驚きです。家族であればいつも一緒にいてその言葉なり、行動というものをつぶさに見ています。ですから、彼らはイエス様のことを見て、よく知っていたはずなのに信じていなかったのです。普通であれば、一緒にいればポロも見えるはず。いいことばかりでなく、悪いことも、いろいろな欠点も見えてきますから信じられないというのは最もですが、イエス様の場合は完全で、しみも汚れも全くなかったわけですから信じても不思議ではなかったというか、信じるのが当然かと思いますが、そうではなかったのです。これはひどい話です。ご自身の民であったユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしていたというのもひどい話ですが、イエス様の兄弟たちがイエス様を信じていなかったというのもそれと同じくらい、いやそれ以上にひどいことです。

このことを思う時、改めて6章44節でイエス様が言われた言葉を思い出します。それは、「わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。」という言葉です。神の恵みと導きがなければ、人はだれも主のもとに来ることはできません。どんなにイエス様の近くにいる人でも、神が引き寄せてくださらない限りだれもイエス様のもとに来ることはできないのです。

私たちはこのことをしっかりと覚えておかなければなりません。私たちはとかく、私たちの家族が信仰を持たないでいたりすると、つい自分を責めてしまうことがあります。自分の態度が悪いからだ、クリスチャンとしてふさわしい態度でないから、夫が、妻が、息子が、娘が、父が、母が信じてくれないのだと思いがちなのですが、必ずしもそうではないのです。何の落ち度もないイエス様が一緒にいても、その兄弟たちが信仰を持たなかったのだとしたら、どんなに私たちが信仰に熱心だからと言っても、必ずしも私たちの家族の者が信仰を持つとは限らないのです。むしろ、イエス様はこのことを経験された方として、そのように祈ってもなかなか信じてくれない家族のことで悩み、落ち込んでしまう私たちの心を知って、深く憐れんでくださるのです。ですから、私たちは何よりもこのことを覚えてこの主のあわれみによりすがり、主が私たちの家族をご自身のもとへ引き寄せてくれるようにと、あきらめないで祈り続けていかなければなりません。

Ⅱ.わたしの時はまだ来ていません(6-9)

第二のことは、多くの人がクリスチャンを憎む本当の理由は何であるかということです。6節から9節までをご覧ください。

「そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」

「自分を世に示しなさい」という兄弟たちの言葉に対して、イエス様は、「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」と言われました。どういうことでしょうか?

イエス様が福音書の中で「わたしの時」と言われる時、それはご自身が十字架に付けられ、永遠の贖いを成し遂げられる時のことを指しています。その時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ています。これはどういうことかというと、新改訳2017で訳されているように、「用意ができている」ということです。どのように用意ができているのかというと、7節にあるように、「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」つまり、イエス様はこの世と同じ生き方をせず、この世の悪い行いを指摘するのでこの世から憎まれますが、イエスの兄弟たちは、この世と調子を合わせ、いつもこの世の流れに流された生き方をしていたので憎まれることはないということです。彼らはいつもこの世にどっぷりと浸かっていました。彼らの時はいつでも来ていたのです。

しかし、それは何もイエスの兄弟たちだけのことではありません。私たちもイエ様を信じて、イエス様に従って生きていこうとすれば、そこに多くの戦いが生じます。もし私たちがこの世から全く憎まれることがないとしたら、それこそこの世にどっぷりと浸かっている証拠であり、この世の人々と何ら変わりがないということを示しているのです。なぜなら、世はイエス様のことを憎んでいるからです。

現代では、特別な時がありません。昔なら、野菜や果物にしても、旬のものがありました。しかし、今は野菜や果物がビニール・ハウスで栽培されるので、いつでも同じ野菜や果物を食べることができるようになりました。季節感というものがなくなってきたのです。いつでも用意ができるようになりました。これは食べ物のことだけでなく、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。つまり、この世のペースに巻き込まれて、クリスチャンとしての生き方を失い、この世に流されてしまう傾向があるということです。それが、イエス様が言われた「あなたがたの時はいつでも来ている」ということです。

しかし、イエス様の時は来ていません。イエス様がこの世から憎まれるのは、「世について、その行いが悪いことを証ししているからです。」つまり、この世の人々の罪を指摘したからです。罪を指摘すれば、当然憎まれます。これが、イエス様がユダヤ人指導者たちから憎まれた本当の理由です。それはイエス様がご自分をメシヤとして受け入れるようにと主張したからではなく、あるいは、イエス様が崇高な教えを説いたからでもなく、当時の人々の間にはびこっていた罪や過ちを指摘したからなのです。こういう人はいつの時代でも人々から煙たがれ、憎まれ、迫害されます。

もうすぐ「平成」が終わって「令和」になります。202年ぶりに生前退位が行われ、新しい天皇になるのです。天皇が生きている間に、その地位を譲るというのは考えられないことです。なぜなら、日本国憲法に定められている「皇室典範」の第1章に、皇位の継承は現天皇が崩御(死亡)する時と定められているからです。それ以外に重篤な病気がない限り譲位することは認められていません。そのことで政府はいろいろと議論を重ねましたが、結局、一時的な法律を作って生前退位することを認めました。なぜ、天皇が生前に退位することがそれほど問題なのかというと、明治政府以降、日本の政府は、天皇を神格化「現人神」(あらひとがみ)して、国民をまとめる国家戦略を持っているからです。しかし私たちは、唯一まことの神であるイエス・キリスト以外の存在を神としません。確かに、今の天皇は人格的に立派で、個人的には尊敬し、お慕い申し上げておりますが、しかし、神として敬うことは別です。戦後、天皇は国民の象徴としての天皇とは何かを模索してきました。そしてそれを見事に全うされましたが、それはあくまで象徴としての天皇であって、神としてではありません。私たちは、天皇が神格化されることによってあらゆる批判が封じられ、人権が抑圧され、天皇の名によって侵略戦争が正当化された過去を忘れてはいけません。しかし、そのように主張すれば、当然そこにこの世とのひずみが生じ、妨害が起こってくるのは必死です。

最近、LGTB、性的マイノリティーの方々をどのように受け入れるかが問題になっています。世界的には同性婚が受け入れられるようになりました。何と28の国々で認められています。そこまで認めていなくとも、パートナーシップ法のある国が19もあります。その権利を保証する国が5つあります。その中には日本も、何とイスラエルも含まれているのです。旧約聖書をみると、同性婚について厳しく戒められているにもかかわらず、そのイスラエルでも容認する傾向にあるのです。アメリカではこれが法律で定められていて同性婚を禁止したり認めないと、牧師が訴えられるというケースが数多く起こっています。そのような中で、もし我々が同性婚に反対しようものなら、この社会からたちまち非難されることになるでしょう。

ですから、クリスチャンがこの世から憎まれることがあってもちっとも不思議ではありません。それはあなたが間違っているからでも、あなたが悪い人だからでもなく、その生き方が聖いからなのです。そしてその生き方がこの世に対して常に証をしているので、世は不愉快になって受け入れることができないのです。それで世はクリスチャンを憎むのです。間違っても、この世が自分を憎むのは、自分がこの世と同じことをしないからだとか、もっとこの世に染まれば受け入れられるに違いないと、この世と調子を合わせようとしないでください。それこそ、悪魔の思うつぼですから。

イエス様はこう言われました。「人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。」(ルカ6:26) みんなから良く言われるのはその人がよい人だからである、というのがこの世の常ですが、これは大きな誤りです。それは、当時イエス様がこの世からどう思われていたかを見ればわかります。イエス様はみんなから愛されていたのではなく、逆に憎まれたのです。ですから、みんなから好かれているというほめ言葉が、必ずしも良いわけではありません。

私たちもこの世から好かれるかどうかではなく、この世から憎まれることがあっても、イエス様同様、この世に流されることなく、神の御心に従い、塩味のきいたピリッとした生き方を求めていかなければなりません。

Ⅲ.イエスを誰だと言いますか(10-13)

では、どうしたらいいのでしょうか。第三に、10節から13節までをご覧ください。

「しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。」

兄弟たちが祭りに上って行った後で、主イエスご自身も、上って行かれました。なぜイエス様は兄弟たちと一緒に上って行かなかったのでしょうか。それは、ここに「表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた」とあるように、兄弟たちと一緒に行くことによって目立つのを避けようとしたからです。兄弟たちは、人々の注目を主に向けさせることで、いかにも自分たちがその弟たちであることを誇ろうとしたのかもしれませんが、このような機会を与えないために、主は彼らと一緒に行かなかったのです。5つのパンと2匹の魚の奇跡を行った時も、人々は主を自分たちの王にするために連れて行こうとしましたが、主はそれを知って、ただ一人山に退かれました(6:15)。主はそのような人たちを避けたいと思っていたのです。

主イエスが祭りに上って行かれると、ユダヤ人たちはどのようにイエス様を迎えたでしょうか。11節には、「ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを探していた。」とあります。何のために探していたのかわかりません。しかし、1節を見ると「ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていた」とありますから、殺そうとして探していたのかもしれません。彼らは、当然イエスも敬虔なすべてのユダヤ人同様、祭りのためにエルサレムに上ってくるだろうと考えていたので、その隙を狙っていたのでしょう。

一方、群衆はどうだったかというと、12節をご覧ください。群衆の間では、イエス様に対する評価が真っ二つに分かれました。「群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。」

ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言いました。イエス様のことを「良い人だ」と言ったのは、自分たちの考えをはっきり持っていた、純粋で素直なユダヤ人たちでした。彼らの中には、主のお働きを一部始終見聞きしていたガリラヤの人たちも含まれていたことでしょう。一方、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言った人たちは、真理について全く考えようともせず、ただユダヤ教の指導者たちを恐れ、その言いなりになっていた肉的な人たちでした。

しかし、このことからわかることは、キリストに対しての受け止め方は、驚くほど多くあるということです。人生いろいろ。キリストに対する受け取る方もいろいろです。

イエス様が生まれた時、年老いたシメオンが幼子イエスを腕に抱いて語ったことを覚えていますか。彼はイエスの母マリヤにこのように言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」(ルカ2:34-35)彼の語ったことが、ここに成就したのを見ます。イエス様は、多くの人々が倒れたり立ちあがったりするために定められたのです。それは、多くの人の心の思いがあらわになるためです。

イエス様ご自身、どこに行っても、常に対立を引き起こす原因となりました。それは今もそうです。ある人にとってキリストは「いのち」に至らせる香りですが、ある人にとっては「死」に至らせる香りです(Ⅱコリント2:16)。キリストは、私たちの心の思いをあらわにされます。人々はキリストを好むか、好まないか、のどちらかです。福音が人々の心に入るとき、そこには当然意見の衝突や争いが起こります。それは福音に問題があるからではなく、人々の心にこうしたいろいろな思いがあるからです。太陽が湿地を照らすと毒の成分である毒気を発生しますが、それは太陽が悪いからではなく、地が悪いからです。同じ光が麦畑を肥沃にし、豊かな刈り入れをもたらします。

ですから、キリストを信じ、聞き従い、人々の前に信仰を告白する人が少ないからといって、これが正しくないとか、恥だとかと思わないでください。むしろ、これが真理だからこそこのような反応が起こるのです。大切なことは、そのような中で、あなたはイエスを誰だと言うかです。あなたは、他人の意見や圧力に影響を受けないで、自分の意見を堂々と述べることができますか、ということです。イエス様はこう言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

世に勝利されたイエス様が、あなたとともにおられます。私たちも、信仰のゆえに、世に憎まれることがあるますが、世に勝利されたイエス様に信頼して、他人の意見や圧力に屈することなく、イエス様に従う者とさせていただきましょう。