ルツ記1章

今回からルツ記の学びに入ります。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ナオミと二人の嫁(1-5)

 

「さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。」

 

これは、さばきつかさたちが治めていたころのことです。つまり、士師記の時代です。士師の時代がどのような時代であったかは、士師記の一番最後を見るとよくわかります。すなわち、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(士師21:25)時代でした。それは霊的混乱ばかりでなく、物質的混乱をももたらしました。ここには、「この地に飢饉が起こった」とあります。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野に行き、そこに滞在することにしました。その人の名前は「エリメレク」と言います。妻の名前は「ナオミ」です。二人には二人の息子がいました。「マフロンとキルヨン」です。

 

するとそこで思わぬでき出来事が起こりました。ナオミの夫のエリメレクが死んでしまったのです。なぜ死んでしまったのかはわかりません。しかし、そのことでナオミと二人の息子が残されてしまいました。そこで、二人の息子はモアブの女を妻に迎えました。一人の名は「オルパ」で、もう一人の名は「ルツ」です。残された家族で助け合って生きていこうと思ったのでしょう。ところが、その10年後に、その二人の息子のマフロンとキルヨンも死んでしまいました。何ということでしょう。いったいなぜこのようなことが起こったのでしょうか。

 

わかりません。それがどうしてなのかわかりませんが、私たちの人生にはそれがどうしてなのかわからないことが起こることがあるのです。しかし、それがどんなことであっても、今週の礼拝のみことばにあったように、主の御許しがなければ何も起こりません。すべては主の御手の中にあります。そしてこのことにも主の深いご計画と導きがあったがわかります。この時点ではそれがどうしたなのかはわからる術もなく受け入れられることではなかったでしょう・・・が。

 

ただこの地に飢饉が起こったとき、彼らがモアブの地へ行ったことが、果たして本当に良いことであったのかどうかはわかりません。というのは、カナンの地は、イスラエルの民に与えられた約束の地です。その地から離れることは決して神のみこころであったとは思えないからです。エリメレクが家族を守ろうとしたことは理解できますが、そのために約束の地を離れたことは評価できません。かつてアブラハムも約束の地カナンに入って後で、その地に飢饉が起こったとき、エジプトにしばらく滞在するために下って行きましたが、それは神のみこころではありませんでした(創世記12:10)。彼はそこで自分の妻を妹だと偽ったので、彼女は宮廷に召し入れられてしまいました。主はそのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれたので、彼らは所有するすべてのものと一緒にそこを出ることができましたが、明らかにそれは神のみこころではありませんでした。

 

ここでも同じことが言えます。モアブの地とは、ヨルダン川東岸にある、アルノン川とゼレデ川の間の高原地帯を指します。そこは肥沃な農業地帯でした。産物としては、小麦、大麦、ぶどうなどがあり、羊ややぎの牧畜も盛んでした。

モアブ人の祖先は、アブラハムの甥のロトです。ロトには二人の娘がいましたが、姉が父ロトによって産んだ子がモアブです(創世記19:30-38)。ちなみに、妹が父ロトによって産んだのがアンモン人の祖先ベン・アミです。ですから、モアブ人はイスラエル人と血縁関係にありましたが、そのように近親相姦によって生まれたアンモン人を、イスラエルは罪に汚れた民族と見ていたのです。

 

また、歴史的にもイスラエルがエジプトを出て約束の地を目指して北上したとき、イスラエル人を恐れたモアブの王バラクは、占い師のバラムを雇ってイスラエル人を呪わせましたが、これは失敗に終わりました(民数記22-24章)。そこでモアブの娘たちはイスラエル人を誘惑し、バアル・ペオル礼拝に陥らせました。主はその危機から救い出すためにピネハスを用いて2万4千人のイスラエル人を討たれました(民数記25:1-9)。それ以降、モアブ人は主の集会から除外されるようになったのです。ですから、たとえ飢饉が起こったからと言って、約束の地を離れてこのモアブに行ったことは、主のみこころであっとは言えません。むしろ彼はそれがどんな困難があってもその地にとどまっているべきだったのです。

 

これは、私たちにも言えることです。私たちの人生にも、避けて通ることのできない困難があります。しかし、それがいかに苦しくても、永遠に価値あるものを手に入れるためにそこから離れるのではなく、忍耐をもってそこにとどまっていなければなりません。神の導きがないままで場所や状況を変えても、根本的な問題の解決にはならないからです。

 

Ⅱ.ルツの信仰(6-18)

 

それでナオミたちはどうしたでしょうか。次に6節から18節までご覧ください。まず14節までお読みします。

「ナオミは嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ることにした。主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。彼女は二人の嫁と一緒に、今まで住んでいた場所を出て、ユダの地に戻るため帰途についた。ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。二人はナオミに言った。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」 ナオミは言った。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」 彼女たちはまた声をあげて泣いた。オルパは姑に別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついた。

 

夫とふたりの息子を失ったナオミは、主がご自分の民を顧みて、カナンの地を祝福し、彼らに豊かな収穫を与えてくださったということを聞き、ふたりの嫁といっしょに、モアブの野から故郷のベツレヘムに帰ることにしました。

しかし、その途中でナオミは、このふたりの嫁を実家に帰すことにしました。ふたりの嫁にとって一番幸せなのは、再婚相手を探してモアブに住むことだと考えたからです。ナオミはふたりの嫁にこう言いました。

「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」

このナオミの言葉には、愛が溢れています。この二人が亡くなった自分の夫と姑である自分にしてくれたことをねぎらい、主がその労に報いてくださるようにと祈っています。また、彼女たちが実家に戻って、モアブの地で新しい夫が与えられ、その家で安らかな暮らしができるようにと祈りました。そして、ふたりに分かれの口づけをすると、彼女たちは声をあげて泣きました。そして、ナオミにこう言いました。「私たちは、あなたの民のところへ一緒に戻ります。」彼女たちにとっては異国の地です。自分の夫を失って、それでも姑について行きたいというのは、そこによほどのものがなければ言えないことです。ナオミとこのふたりの嫁たちの間には、深い愛と信頼関係がありました。

 

このような二人にナオミはこう言って説得します。「帰りなさい、娘たち。なぜ私と一緒に行こうとするのですか。私のお腹にまだ息子たちがいて、あなたたちの夫になるとでもいうのですか。帰りなさい、娘たちよ。さあ行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとえ私が自分に望みがあると思い、今晩にでも夫を持って、息子たちを産んだとしても、だからといって、あなたたちは息子たちが大きくなるまで待つというのですか。だからといって、夫を持たないままでいるというのですか。娘たちよ、それはいけません。それは、あなたたちよりも、私にとってとても辛いことです。主の御手が私に下ったのですから。」

 

どういうことでしょうか。これは、申命記25章5-6節にある「レビラート婚」という聖書の律法に基づいたものです。「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。」

これはユダヤ人の特殊な婚姻法で、死んだ者の兄弟が、そのやもめと結婚して、死んだ者の名を残し、イスラエルから消し去られることがないようにするための定めです。この場合、彼女たちの夫であるマフロンとキルヨンが死にました。ですから、彼らの弟がオルパとルツと結婚する必要がありますが、弟はいませんでした。そこでナオミがこれから子を宿して、その子が、彼女たちと結婚しなければならないことになります。けれども、そんなことは無理です。ですからナオミは、夫を持って息子たちを産んだとしても、彼らが成人になるまで待とうというのですか、と言っているのです。

 

それで彼女たちはまた声をあげて泣きました。結局、オルパは姑に口づけをして別れを告げましたが、ルツはナオミにすがりつきました。ここでふたりの嫁オルパとルツの決断が別れました。弟嫁のオルパは、自分の民とその神々のところに帰って行きました。そのこと自体は何の問題もありません。それはナオミが勧めたことですし、ナオミも彼女を責めてはいません。ある意味、それは常識的な判断だったと言えるでしょう。

 

しかし、兄嫁のルツはそうではありませんでした。ルツはこう言っています。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(16-17)

ルツがナオミに着いて行ったら、不安なことだらけです。夫はいないし、全く新しい土地で、外国人として暮らさなければなりません。それでもルツがナオミに着いて行こうとしたのは、姑ナオミに対する愛はもちろんのこと、ナオミの民であるイスラエルの民への愛、そして、イスラエルの神への愛から出たものでした。ルツはここで、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と言いました。どうして彼女は、このように言ったのでしょうか。

 

彼女の決断は大きなものでした。今まで住み慣れたモアブの地、モアブの民、そしてモアブの神と別れを告げ、ナオミの民、ナオミの神を自分の神とするのですから・・。彼女は、マフロンの妻になってから、イスラエルの神こそ天地を創造されたまことの神であるということを知りました。そして、この神がいかに、エジプトからイスラエルを救い出され、約束の地に導かれていたことも聞いていたでしょう。イスラエル人の家族の中にいて、生けるまことの神がどのような方であるかを知り、この方を自分の神としたのです。自分の支えである夫がいなくなり、かつて自分が暮らしていたモアブ人たちの中に戻ることはいくらでもできましたが、彼女は、自ら進んで、イスラエルの神を自分の神とする決心をしたのです。ナオミの信じているイスラエルの神の恵みの中で生き、そして死んで行きたいと思いました。モアブ(異邦人)の女である彼女は、このように信仰を告白することによって、イスラエルの民が受ける祝福に与ることができたのです。

 

それは私たちも同じです。私たちも肉においては異邦人でした。いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあっては望みもなく、神もない者でした。しかし、かつては遠く離れていた私たちも、イエス・キリストにあって、キリストの血によって近い者とされたのです。ルツのように異邦人であった私たちもナオミのような存在の人と出会いを通して、まことの神を知り、その中に加えていただくことができたのです。私たちもまた神から遠く離れていた者ですが、神の恵みによって、「あなたの民は私の神、あなた神は私の神です。」と信仰を告白することができ、神の民に加えていただくことができたのです。

 

Ⅲ.ベツレヘムに着いたナオミとルツ(19-22)

 

最後に19節から22節までをご覧ください。そのようにしてベツレヘムに帰ったナオミとルツはどうなったでしょうか。

「二人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは「まあ、ナオミではありませんか」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。 私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。」

 

ふたりは旅をして、ベツレヘムに着きました。ふたりがベツレヘムに着くと、町中がふたりのことで騒ぎ出しました。そして、女たちは、「まあ、ナオミではありませんか。」と言うと、ナオミは、「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。」と言いました。「ナオミ」とは「快い」という意味で、「マラ」は、「苦しむ」という意味です。全能者が私に大きな苦しみにあわせたのですから、満ち足りてかえって来たどころか素手で帰ってきたのですから、とても「ナオミ」ではない、「マラ」です、そう言ったのです。ここでナオミは自分の身に起こったことを、偶然の結果としてではなく、全能者のわざであるとみています。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。全能者が私を辛い目にあわせたのですから。どういうことでしょうか。

 

それが全能者のわざであると受け止めることができるなら、そこに希望があります。なぜなら、一時的な苦しみは必ず祝福へと変えられるからです。どのような試練の中にも、そこに神がおられ、神が導いておられると信じることができるなら、その試練にも何らかの意味があることを悟ることかできるからです。先日、亡くなられたマラソンの小出監督は、バルセロナオリンピックで銀メダルを取った有森裕子選手に、「人生に意味のないことはない。試練や苦しみがあったら、それを「せっかく」だと思え。」と言って指導したそうです。人生に意味のないことなどありません。なぜなら、神はご自身のご計画に従って、私たちの人生を導いておられるからです。たとえ今、試練の中にあってもそこに神の御手があると受け止められる人は、そこに神の希望の光を持つことができるのです。ナオミの場合、どこに希望を見出すことかできたのでしょうか。

 

22節をご覧ください。ここには「モアブの野から戻った嫁、モアブ人の女ルツが一緒であった」とあります。また、「ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった」とあります。人間の目では何でもないことですが、神の目を通してみるなら、そこに大きな希望がありました。この二つのことが、その後の話の展開に有利に働くからです。だれがこんなことを考えることができたでしょうか。

 

神はナオミとルツを見捨ててはいませんでした。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたにもルツが残されています。あなたの置かれている時は、大麦が始まったころではないですか。あなたが置かれている状況をよく見てください。神はそこに脱出の道を備えていてくださいます。現状を見て悲観するのではなく、そこに全能者の御手があると信じ、信仰の目をもって、神の働きに期待して祈りましょう。