出エジプト記8章から学びます。まず1節から15節までをご覧ください。4節までをお読みします。
Ⅰ.第二の災い:蛙の害(1-15)
「主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが去らせることを拒むなら、見よ、わたしはあなたの全領土を蛙によって打つ。ナイル川には蛙が群がり、這い上がって来て、あなたの家に、寝室に入って、寝台に上り、またあなたの家臣の家に、あなたの民の中に、さらに、あなたのかまど、こね鉢に入り込む。こうして蛙が、あなたと、あなたの民とすべての家臣の上に這い上がる。』」(1-4)
イスラエルをエジプトから去らせるようにとの主のことばを拒んだファラオに、主はすべてのナイ
ル川の水を血に変えるという災いを下しました。それによってナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなりました。それでもファラオの心は頑なになり、モーセとアロンの言うことを聞き入れませんでした。それは、初めからわかっていたことです。ファラオはどんなに偉大な主の力を見ても、イスラエルの子らをその地から去らせようとしません。それは主がファラオの心を頑なにし、主がエジプトの地でしるしと不思議を行うことによって、主こそ神であることをファラオが知るようになるためです。
そこで主は第二の災いをもたらします。それは蛙の害です。この蛙の災いが、ナイル川が血になる災いと異なるのは、この災いがファラオの家の中にまで入り込むということです。寝室にも、かまどにも入り込むので、ベッドで寝るときもぐちゃ、こね鉢でこねる時も蛙を一緒にぐちゃぐちゃにすりつぶしてしまうのです。1匹2匹だったらかわいいものですが、至る所が蛙ですから気持ち悪いですね。特にエジプでは蛙は礼拝の対象でしたから、その蛙に打たれるということは屈辱的なことでした。
5節から7節までをご覧ください。
「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『杖を持って、あなたの手を川の上、水路の上、池の上に伸ばせ。そして蛙をエジプトの地に這い上がらせよ』と。」アロンが手をエジプトの水の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおった。呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行った。彼らは蛙をエジプトの地の上に這い上がらせた。」
アロンが持っていた杖を川の上や水路の上、池の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおいました。するとエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行いました。しかし、彼らは蛙を増やすことはできても、それを取り除くことはできませんでした。
するとファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言いました。8節です。「私と私の民のところから蛙を除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」
ファラオは、何とかしてこの苦しみから解放されることを願いました。それで、自分たちのところから蛙を取り除くように、主に祈れ、とモーセとアロンに言いました。そうすれば、イスラエルの民を去らせる・・・と。それでモーセはファラオに迫ります。10節です。「いつが良いですか」
「蛙があなたとあなたの家から断たれ、ナイル川だけに残るようにするため、私が、あなたと、あなたの家臣と民のために祈るので、いつがよいかを指示してください。」(9) するとファラオは「明日」と言いました。なぜ「今」ではなかったのでしょうか。そんなに苦しいのであれば「今すぐに取り除いてほしい」と願うのが普通かと思いますが、ファラオは「明日」と言いました。もしかしたら明日になれば事態が解消されていると思ったのかもしれません。あるいは、このような儀式を行うためには、それくらいの時間がかかるものと思ったのかもしれません。
それでモーセは、「あなたのことばどおりになりますように」と言いました。「それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。」(10)これがこの災いの目的です。それはファラオが、イスラエルの神、主のような方はほかにいないということを知るためです。ファラオは、あの手この手を尽くしてイスラエルを行かせることを拒みますが、それはそのことによって主が力強い御業を行い、主こそ神であるということをファラオが知るためだったのです。
するとモーセが主に叫んだので、蛙はエジプト中の家と畑から死に絶えました。モーセがファラオに約束したとおりです。主はモーセを通して約束されたように、モーセの祈りに答えてこの問題解決してくださいました。
ところが、ファラオは一息つけると思うと、手のひらをひるがえして、彼らの言うことを聞き入れませんでした。主が言われたとおりです。何という頑なさでしょうか。ファラオにはこうしたずる賢さがありました。いつがよいかというと「明日」と言い、祈りが応えられて一息すると心を頑なにするという不従順が見られます。
しかし、それは何もこのファラオだけのことではなく、私たちにも同じではないでしょうか。「今日」ではなく「明日」と言ってみたり、一息つくと元の状態に戻ってしまうということがあります。
「「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。」(へブル3:15)
今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはなりません。心を頑なにしないで、従順に主の御声に聞き従う者でありたいと思います。主のような神は、ほかにはいないからです。
Ⅱ.第三のわざわい:ブヨの害(16-19)
次に16節から19節までをご覧ください。
「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」彼らはそのように行った。アロンは杖を持って手を伸ばし、地のちりを打った。すると、ブヨが人や家畜に付いた。地のちりはみな、エジプト全土でブヨとなった。呪法師たちも、ブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ブヨは人や家畜に付いた。 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」
それで主はモーセ言われました。16節です。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」」
それでモーセとアロンがそのようにすると、エジプト全土でブヨが人や家畜に付きました。「ブヨ」という言葉は、へブル語では「種々の害虫」のことです。何か特定の昆虫というよりも、雑多な害虫が現れたのでしょう。
この時もエジプトの呪法師たちがブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしましたが、できませんでした。それで彼らは何と言ったかと言うと、「これは神の指です」と言いました。つまり、自分たちの能力をはるかに超えているということです。このように叫ぶことによって、それが神によって行われたわざであることを暴露したのです。しかし、それでもファラオは、彼らの言うことを聞き入れませんでした。
Ⅲ.第四のわざわい: あぶの群れ(20-32)
それで主は第四のわざわいをエジプトに下します。それは「あぶの群れ」です。20節から24節までをご覧ください。
「主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に出よ。見よ、彼は水辺に出て来る。彼にこう言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしもわたしの民を去らせないなら、わたしは、あなたと、あなたの家臣と民、そしてあなたの家々にアブの群れを送る。エジプトの家々も、彼らのいる地面も、アブの群れで満ちる。わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。明日、このしるしが起こる。』」主はそのようにされた。おびただしいアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入って来た。エジプトの全土にわたり、地はアブの群れによって荒れ果てた。」
「アブ」というのは、「サシバエ」という蝿の一種だと考えられています。この「サシバエ」が家畜や人の体を刺すと、とにかく痛いんだそうです。動物たちは始終頭を振り、尻尾を振り、刺される痛みのためか時に身をブルッと震わせます。これは彼らが強いストレスを感じているサインです。ですから、こんなのに刺されたらたまったもんじゃありません。これがエジプト全土に満ちるというのです。
しかし、今回はこれまでと違う点が一つだけありました。それは、イスラエルの民がとどまっていたゴシェンの地にはいないようにするということです。つまり、主はイスラエルの民とエジプトの民を区別して、贖いをする、ということです。そのようにして主は、ご自身の民であるイスラエルを特別に扱われるのです。それはファラオが、その地のただ中にあって主こそ神であるということを知るためです。
この区別して、贖いを置くというのは、区別して、救いを置くという意味です。この表現は、あのノアの方舟のことを思い起させます。あの箱舟の扉が閉ざされた瞬間に、舟の中の人々と外の人々とが区別されました。その扉を通って箱舟に入るかどうかが、中の人と外の人とを区別したのです。その扉こそイエス・キリストです。キリストはこう言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)
つまり、イエス・キリストこそ神の民とそうでない民とを区別して、ご自身の民を贖われる方であるということです。その中間はありません。救い主イエス・キリストを信じるのか、信じないのかが、主の贖いに与るかどうかの区別となるのです。
そうでないと、神のさばきを受けることになります。24節をご覧ください。おびただしいうアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入ったので、エジプト全土がアブの群れによって荒れ果ててしまいました。
それで、ファラオはどうしたでしょうか。25節をご覧ください。ファラオはモーセを呼び出してこう言いました。「さあ、この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」
どういうことでしょうか?主の命令は、イスラエルの民をエジプトから去らせということでしたが、ファラオは、「この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」と言っています。これはファラオの妥協案です。彼らがいけにえを献げるのはいいだろう。でもこの国から出て行ってはいけない。この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げればいいじゃないか、と言ったのです。
それに対してモーセは、「それはふさわしいことではない」(26)と断ります。なぜなら、イスラエル人はエジプト人の忌み嫌うものをいけにえとして献げることになるからです。それは何ですか?羊です。エジプト人は羊を忌み嫌っていました。その羊を献げたらどうなるでしょう。それを見たエジプト人たちに石で打ち殺されてしまうでしょう。だから、イスラエルの民は主が言われたとおり、荒野に三日の道のりを行って、主にいけにえを献げなければなりません。
するとファラオはどうしましたか?28節をご覧ください。「ファラオは言った。「では、おまえたちを去らせよう。おまえたちは荒野で、おまえたちの神、主にいけにえを献げるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」」
どういうことでしょうか?「ただ、決して遠くへ行ってはならない」とは。ここでファラオはさらなる譲歩案を提示しているのです。それは、イスラエルが荒野に出て行って、主にいけにえを献げてもよいが、決して遠くへは行くな!ということです。そして、自分のために祈ってくれ!というものでした。つまり、エジプトの支配が届かない所には行ってはならないという意味です。あくまでも自分たちの手の届くところに置いておきたいのです。これが悪魔の常套手段です。
悪魔は私たちが信仰を持つことを許しても、あまり遠くに行かないようにと働きかけてきます。仮に神を信じたとしても、自分たちの手の中にあれば、いずれ戻ってくることになるからです。だからあまり遠くに行ってほしくありません。これまでのようにできるだけこの世にどっぷりと浸かっていてほしい。教会に行って、洗礼を受けてもいいけれども、できるだけ今のままでいるようにと圧迫してくるのです。つまり、自由にさせているようで自由ではないのです。私たちがイエス様を信じて罪から解放され、全く自由にされたはずなのにそうではないように感じるのは、このような悪魔の働きがあるからなのです。
また28節を見ると、「私のためにも祈ってくれ」と、いかにも敬虔であるかのように装っています。これがこの世が取る姿です。彼らはいいことなら何でもやってもらいたいのです。たとえ自分たちが信じていない神でも、自分に都合のいいように祈ってもらいたいのです。ピリピ3:19に、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。」とあるように、あくまでも彼らの神は彼らの欲望なのです。
それでモーセは言いました。「今、私はあなたのもとから出て行き、主に祈ります。明日、アブが、ファラオとその家臣と民から離れます。ただ、ファラオは、民が主にいけにえを献げるために去ることを阻んで、再び欺くことなどありませんように。」
モーセはファラオの言うことを受け入れ、明日、アブがファラオとその家臣から離れるように祈ることを約束します。だから、ファラオはイスラエルの民がいけにえをささげることを阻んで、再び欺くことがないようにと釘を指しました。そして、ファラオのもとから出ていくと、モーセはファラオに約束したとおり、主に祈りました。本来であれば、エジプトがアブによってもっと苦しめばいいのに・・と思うところでしょうが、彼はそうした自分の感情に流されることなく、エジプト人のためにとりなしの祈りをしたのです。
すると主はモーセの祈りを聞かれ、モーセが祈ったとおり、翌日には、アブが一匹も残らないようにされました。しかし、ファラオはまたも心を頑なにし、民を去らせませんでした。何という優柔不断さでしょうか。主に祈ってくれ!と言ったかと思えば、やっぱり行かせない!と、いつも気持ちがコロコロと変わっています。こういうのを「二心」と言います。こういう人はその歩むすべてにおいて安定を欠いた人です。ヤコブはこう言っています。
「 ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。」(ヤコブ1:6-8)
皆さんはどうでしょうか。少しも疑わないで、信じて祈っているでしょうか。それとも、信じていても疑うようなことをして、安定感のない信仰生活を送ってはいないでしょうか。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはありません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)いつも信仰に歩めるように、神の助けを求めましょう。