ヨハネの福音書7章37~39節「生ける水の川」

きょうは、「生ける水の川」というタイトルでお話しします。「生ける水の川」とは、39節にあるように、イエスを信じる者が受けることになる御霊のことです。イエスを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、この生ける水の川が流れ出るようになるのです。これが、私たちのいのちです。創世記を見ると、そもそも人は神のかたちに創造されました(創世記1:27)。この「神のかたち」とは、「霊」のことを意味しています。神は霊ですから、その神と交わりを持つことができるように、人は霊を持つものとして造られたのです。これが人のいのちです。ですから、私たちは神に祈り、神を礼拝するとき、「ああ、生きている」という感じることができるのです。これがないと、私たちはいったい何のために生きているのかもわからず、ただ目先のものに振り回されながら生きることになります。それは本当に空しいことです。人は神の御霊を受けることで生きることができ、それは生ける水の川のように、その人の心の底から流れ出るようになるのです。

どうしたらその生ける水を受けることができるのでしょうか。きょうはこのことについて、聖書のみことばから学びたいと思います。

 

Ⅰ.だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい(37)

 

まず37節をご覧ください。

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

 

この祭りとは「仮庵の祭り」です。イエス様は、兄弟たちがこの祭りに上って行った後で、ご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれました(10)。そして、祭りも半ばになったころ、宮に上って教え始められました(14)。それから36節まで、ずっとユダヤ人たちとの間に議論が続きました。そして、この祭りの大いなる日に、イエスは立ちあがり、大きな声で言われたのです。この「祭りの大いなる日」とは、仮庵の祭りの最終日、つまり7日目のことです。この日は、祭りのクライマックスの日でした。それまでの6日間、祭司たちは行列を作ってシロアムの池まで出かけて行き、そこで黄金の器に水を汲んで神殿に戻ってくると、祭壇の周りを1度だけ回って水を注ぎました。しかし、祭りの最終日の7日目は、昔エリコの城壁の周りを7回回ったように、祭壇の周りを7回周り「ホザナ」と歌いながら祭壇に水を注ぎました。それは、主が雨を降らせ、豊かな収穫を与えてくださったことに感謝すると同時に、翌年の豊かな雨を祈願するためでした。その祭りが最高潮に達した時に、イエスは立ち上がって、大きな声でこう言われたのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

前回の時にも申し上げたように、主が大声で語られるというのは非常に珍しいことです。これはそれだけ重要なことであることを表しています。それが「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」ということでした。これはどういうことでしょうか。

 

こ意味は一つしかありません。それはだれでも魂が渇いている人がいるなら、その渇きを癒すためにキリストのもとに来て飲みなさいということです。主がこのように言われたのは、この仮庵の祭りの時、シロアムの池から水が汲まれ、それが神殿に運ばれ祭壇に注がれるというタイミングでのことでした。主はかつてサマリヤの女に「決して渇くことにない永遠のいのちへの水」について語られましたが、その時井戸の水から話を進めて行ったように、この時もシロアムの池から汲まれてくる水を見て、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。もちろん、イエス様がここで言及しておられるのは飲み水のことではなく、「霊的な水」のことです。ですから、ここで「渇いているなら」というのは、のどが渇いていることではなく心が渇いているなら、という意味です。人々の関心は、水と収穫、すなわち物質的なものに向けられていましたが、イエス様の関心は、霊的な水、霊的な渇きを満たすことだったのです。

 

では、心が渇くとはどういうことでしょうか。私たちはみな欲望を持っています。欲望それ時代は悪いものではありません。しかし、欲望が満たされればそれで幸福になれるかというとそうではありません。お金にしても、物にしても、地位にしても、名誉にしても、そうしたものを手に入れることで、一時的な満足は得られるかもしれませんが、それで本当の満足は得られないのです。

 

映画「風と共に去りぬ」の主演男優であったクラーク・ゲーブルは、ある朝、むなしく疲れ果て、自分のベッドで自殺死体として見つかりました。彼はオスカー賞を何度も取りました。幸せを求めて5回も結婚しました。彼にはお金もあり、恋もあり、名誉もあり、人気もありました。私たちから見れば、彼は自分が求めたこの世のすべての物を手にしたかのように見えましたが、そんな彼が、なぜ自殺しなければならなかったのでしょうか。飢え渇いたその魂を、この世のもので満たすことはできなかったのです。

 

私たち人間は、神のかたちにかたどって造られていますから、神のみもとに帰るまでは、決して満ち足りることはないのです。神のみもとから離れ罪の中にある人間は、自分の魂が満足するどころか、不安と苦悩でおののいています。罪の中にある人間は、その罪の赦しを経験することなしに魂の渇きが癒されることはないのです。

 

ですから、イエス様は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。ここで注目したいことは、主が招いておられる人はどのような人であるかということです。それは「だれでも渇いている人」です。つまり、魂が渇いている人です。それは自分の罪を自覚し、その罪の赦しを求め、魂の平安を切望している人のことです。渇いていなければだれも飲みたいと思いません。空腹でなければ食べたいとも思いません。自分が罪人であると自覚し、その罪から救われたいと本気願う人だけが、そのためにどうしたら良いのか求めるようになるのです。

 

もうすぐペンテコステですが、あのペンテコステの日にペテロの説教を聞いた人々はどうだったでしょうか。彼らは心を刺され、ペテロとほかの使徒たちにこう言いました。

「兄弟たち、私たちはどうしたら良いでしょうか。」(使徒2:37)

これが渇いている人のことばです。また、パウロとシラスがピリピの牢獄に入れられた時、真夜中に、神を賛美していたとき、突然大きな地震が起こり牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、囚人たちの鎖が外れてしまいました。目を覚ました看守は、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした時、パウロは大声でこう叫びました。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」すると看守は、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏してこう言いました。

「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか。」(使徒16:30)

これが渇いた人のことばです。それでパウロとシラスが、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)と言うと、彼と彼の家族の者全員が、その言葉を受け入れてバプテスマを受けました。

このような渇きが、彼らをそこからの解放、すなわち、魂の救いへと向かわせたのです。「渇く」ということがなければ、満たされることはありません。

 

私たちが救われるために必要な第一のことは、私たちが渇くということです。私たちは罪を犯した、価値のない、貧しい罪人であるということを知ることです。私たちは失われた者であることを知るまでは、救いへの道を歩み出すことはしないからです。天国への第一歩は、私たちは地獄に行っても当然であるということを、はっきりと自覚することにほかなりません。罪の意識は、時として自分が救いようもない人間であるという思いを抱かせますが、実は、これが尊いことなのです。なぜなら、それこそ救いに向かう第一歩となるからです。私たちに律法が与えられたのはそのためでした。神の完全な律法が与えられそれと照らし合わせてみてはじめて、自分がどんなに罪深い人間であるかを知り、救いを求めるようになるでしょう。

イエス様は山上の説教の中でこう言われました。「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」(マタイ5:6)どういう人が満ち足りるようになるのでしょうか。義に飢え渇く者です。そういう人は満ち足りるようになるのです。

 

あなたは、義に飢え渇いていますか。もし飢え渇いているなら、イエスのもとに来てください。そして、イエスが与えてくださる水を飲んでください。キリストのもとに来て飲むとは、単純にキリストを信じるということです。キリストがあなたの罪を赦す力をもっておられ、あなたの魂の渇きを完全に癒すことができる方であると信じて、キリストにあなたのすべてをゆだねることなのです。これを「信仰」と言います。キリストに「来る」とは、キリストを信じることであり、キリストを「信じる」とは、キリストのもとに「来る」ことにほかなりません。これは実に単純なことです。あまりにも単純すぎるので本当でないかのように思えるかもしれませんが、これが本当のことです。これ以外に救いはありません。クリスチャンは、いつの時代でも、この信仰によってキリストのもとに来て、キリストの泉から飲み、罪から解放された人たちです。心から罪の意識を感じ、その罪から赦されること、つまり義に飢え渇いて、キリストのもとに行くことは、天国に至る大切なステップなのです。しかし、あまりにも多くの人が、このステップを踏もうとしません。このことを考える人が少ないのです。そして信じる人はもっと少ないというのは、本当に悲しいことです。

 

Ⅱ.生ける水の川が流れ出るようになる(38)

 

次に、38節をご覧ください。ここには、キリストのもとに来て飲むとどうなるのか、その結果が記されてあります。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 

キリストのもとに来て飲むとは、キリストを信じることだと申し上げましたが、ここでははっきりとそのように言われています。「わたしを信じる者は・・・」と。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

これは、もちろん比喩的な意味で用いられていますが、二つの意味があります。一つは、キリストを信じる者は、心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるということ、つまり、魂の必要が豊かに満たされるということです。そしてもう一つは、そのように自分の魂の必要が満たされるというだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉となるということです。

 

まず、キリストを信じる者は、自分の魂の必要が豊かに満たされるということですが、これはキリストを信じて生きている多くのクリスチャンが実感していることではないでしょうか。キリストを信じるまでは、それがどのようなものなのかを想像することすらできませんでした。しかしキリストを信じたことで、魂の平安と喜び、希望や慰めを知りました。

 

既に召されましたがクリスチャン作家の三浦綾子さんは、直腸がんの手術を受ける前日、心臓病もあるので、ひょっとすると手術中に召されるかもしれないと思い、遺書を書くことにしました。ところがその時、人知を超えた不思議な平安に包まれ、死の恐れから全く解放されたそうです。

 

第二次世界大戦時、ナチスの強制収容所には、定員の三倍近くの囚人が詰め込まれていました。しかも最上階のベッドは天上にくっつきそうだったので、そこに座ることさえできませんでした。そのような環境の中であらゆる自由を奪われた若い婦人たちが、腹這いになり、神の導きについて話し合っていました。すると、その中の一人の姉妹が、このように言ったそうです。

「神様が私をここに導かれたのは、決して間違いであったとは思わない。私はここで初めて、本当に祈ることを学びました。ここでの精神的、肉体的な苦痛は私に、その人がすべてをイエスさまに明け渡さない限り事態は解決されないことを教えました。これまで私は、うわべでは敬虔そうな信仰生活を送ってきましたが、私の生活の中にイエス様を締め出していた部分があったのです。でもイエス様は今、私の生活のあらゆる部分で王となっておられます。私ははじめて、神の平安と愛で満たされる喜びを知ったのです。」

こうした試練に会うと神を呪ってもおかしくないのに、むしろ、そうした中ではじめて神の平安を知ったと言える、これは人間の思いをはるかに超えた思いではないでしょうか。

 

主イエスを知って、主イエスを信じたことによって、こうした魂の平安と慰めが与えられ、生きる希望が与えられるのです。時として私たちは、自分自身に失望することがありますが、キリストに失望することはありません。キリストを信じたことで与えられた神との平安、喜び、希望、慰めは、この世の何物とも取り変えることはできないからです。それは聖書の御言葉を読み、そこにある神の恵みの確かさを理解すればするほどそうなります。皆さんはどうでしょうか。まさかあのエサウのように、パンとレンズ豆の煮物と交換するような愚かなことはしたいとは思わないでしょう。

 

長い間世界的な伝道者ビリー・グラハムの伝道集会で特別賛美を歌ってきたBEVERLY SHEAは、その体験をこう歌いました。

「キリストには代えられません 世の宝も また富も

この御方がわたしに代わって死んだゆえです。

世の楽しみよされ、世の誉れよ行け

キリストには代えられません 世の何物も」

(新聖歌428「キリスト」には代えられません)

 

これがクリスチャンの実感でしょう。キリストを知れば知るほど、その思いは深くなっていきます。キリストを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになるのです。

 

しかし、そればかりではありません。キリストを信じる者は、自分の魂の必要が満たされるだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉となります。たとえば、パウロは、コロサイ人への手紙の中でこのように告白しています。

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。」(コロサイ1:28)

クリスチャンをキリストにある成人として立たせることはどんなにか労苦の伴う働きだったことでしょう。しかし、彼は、自分のうちに働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しました。その結果、こうした彼の奮闘は決して無駄にはならず、その恵みは多くのクリスチャンに伝わり、やがて世界中へと広がって行きました。それは彼の心の奥底だけでなく、彼の周りの人たちに、そして全世界に溢れ出たのです。

 

先ほども申し上げたクリスチャンの作家に三浦綾子さんは、信仰をテーマとした小説をたくさん残されましたが、それは今も世界中で伝えられ、「三浦綾子読書会」となって広がっています。三浦綾子さんの心の奥底に流れた生ける水の川は、溢れ出て、多くの人の魂を満たす水となっているのです。

 

あなたもキリストのもとに行き、その水を飲むなら、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。

 

Ⅲ.イエスを信じる者が受ける御霊(39)

 

いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。ヨハネは39節で、そのことを説明して次のように言っています。

「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」

 

これは、ヨハネの福音書によく出てくる説明的論評と世バルものです。それがどういうことなのかを説明しているのです。そして、ここには、イエスを信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである、とあります。しかし、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのです。つまり、この生ける水の川とは、この御霊のことを指して言われていたのです。御霊とは神の御霊、聖霊のことです。当時の人々は、旧約聖書における聖霊の働きしか知りませんでした。それはある一部の人に、しかも必要な期間しか与えられませんでしたが、イエスが約束された聖霊は、イエスの十字架と復活、そして昇天の出来事以降、イエスを信じるすべての人に注がるというものでした。それがペンテコステの出来事です。イエス・キリストを信じる者には、だれにでもこの御霊が注がれ、その人の心の奥底に生ける水の川となって流れ出るようになったのです。

 

それがどれほどすごいものなのかを、旧約の預言者エゼキエルはこのように預言しました。

「彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。」(エゼキエル47:8-10)

 

「この川が入るところでは、すべてのものが生きる」。これはエゼキエルという預言者が語った言葉です。エゼキエルは、非常に困難な時代を生きた預言者でした。彼はユダヤからバビロンに捕囚として連れて行かれた人々の中にいた人物です。そして彼が捕囚の地において、預言者として活動していた期間中に、彼の故郷であるエルサレムが最終的に破壊されてしまうという、悲惨な出来事が起こるのです。  なぜ、生ける真の神に仕えている神の民イスラエルがこのような苦しみに遭わなければならないのか。神からの答えは、イスラエルが神から離れて罪を犯したからだ、ということでした。人々は真の神に頼って生きることをせず、偶像礼拝に陥っていたのです。そのために、神の臨在がエルサレムから去ってしまいました。

 

神が去った後のエルサレムは悲惨でした。異邦人によって滅ぼされ、なすがままにされ、ついに神殿さえも破壊されてしまうことになります。けれども、エゼキエルの見た幻は、そこで終わりませんでした。どん底に落ちたイスラエルに、再び希望が語られるのです。廃墟になったエルサレムの街が再建され、神殿が再び建設されていくのです。

そして、彼は思いもかけない光景を目にすることになります。なんと、神殿の中から、しかもその中心部分である聖所から、水が流れ出ているのです。しかも、その流れが川となり、その川は遠くへ行けば行くほど水かさが増して、最後には渡ることのできないほどの大河になります。この川は、普通の川ではありません。超自然的な川です。なぜなら、聖所から流れ出ているからです。聖所というのは、神様がおられる場所です。つまり、このエゼキエルが見た川というのは、神様ご自身から流れ出ていた川でした。

そして、この川が流れ出るところはどのようになるでしょうか。これが先ほど読んだ御言葉です。神殿から流れ出た川は、そこから東向きに流れて行って、やがてアラバに下り、海に入ります。この「海」というのは、エルサレムから東に向かって行くとある海、そうです、「死海」のことを指しています。「死海」とは「死の海」と書くように、魚が生きることができません。死海の水は、普通の海の水の六倍もの塩分の濃度を持っているために、普通、海に住んでいるような魚でさえも生きることができないのです。けれども、この神殿から流れて来た水がこの死海に注ぎ込むとその水が一変して、この死んだ海が生き物で満ちるようになり、そこに多くの魚がいるようになります。なんとすばらしい驚くべき光景でしょうか。

 

いったいこのエゼキエルが見た幻は、何を意味していたのでしょうか。それは、神の神殿から流れ出るいのちの水です。この水が流れ出ると、死んだようなこの世が生きるものとなるということです。それは、聖霊のことです。聖霊が流れ出ると、死んでいるようなあなたが生きるようになります。実に、教会とはこのいのちの水が溢れている所です。なぜなら、神の聖霊を受けたクリスチャンが集まっている所だからです。その教会からいのちの川の水が流れ出て、この世のすべてのものを生かすようになっていくのです。何とすばらしい約束でしょうか。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

あなたは、心に渇きを覚えてキリストのみもとに来て、キリストが与える水を飲みましたか。キリストを信じるなら、あなたの心にも聖霊という生ける水の川が流れ出るようになります。それはあなたの周りの人々をも潤していく力となるのです。

 

キリストを信じたのに、心の奥底から、生ける水が流れているという実感がないという方がいますか。そのような方は、もしかしたら神とのパイプラインが詰まっているのかもしれません。そのような時には、詰まりを取り除かなければなりません。それを悔い改めると言います。障害物があれば、真摯に神に対して悔い改めなければなりません。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義きよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

そして、渇いた心をもって主のもとに来て飲んでください。あなたのすべてを主に明け渡し、主の御言葉に従った信仰の歩みを始めてください。主に従うことが生ける水の川が流れ出るようになる秘訣です。

あなたの信仰のパイプラインは大丈夫ですか。神と直結しているでしょうか。接触が不十分であったり、詰まったり、曲がったり、細かったりしていませんか。十分に点検して聖霊に満たされた者とさせて頂きましょう。そうすれば、あなたの心の奥底からも、生ける水の川が流れ出るようになるのです。