ヨハネの福音書10章31~42節 「わたしのわざを信じなさい」 

きょうは「わたしのわざを信じなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。エルサレムで宮きよめの祭りがあった時、イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いていると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言いました。「あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」(24)はっきりと言ってくださいと言っても、もう何回もはっきりと言ってきました。それなのに、彼らが信じなかったのは、彼らがイエスの羊の群れに属していないからです。イエスの羊の群れに属しているなら、イエスの声を聞き分けイエスについて行きますが、そうでないと言うことは、彼らがイエスの羊の群れに属していないという証拠です。

 

不思議なことですが、世の中にはイエスの声を聞くとすべての羊がそれについて行くかというとそうではなく、ついて行く羊とそうではない二種類の羊がいます。彼らはどうしてイエスを信じなかったのでしょうか、あるいは、信じたのでしょうか。きょうは、そのことについて共に学びたいと思います。そして、信じない者ではなく、信じる者になりましょう。

 

Ⅰ.イエスを石打ちにしようとした人たち(31-36)

 

まず、31~36節をご覧ください。ここにはイエスを信じなかったというよりも、イエスを石打にして殺そうとした人たちの姿が描かれています。

「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒?のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。」

 

先ほども申し上げたように、22節からは場面が、宮きよめの祭りでイエスが宮にいた時のことです。イエスはご自分について来る者に永遠のいのちを与えると約束されました。そればかりか、彼らは永遠に、決して滅びるとこがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしませんと言われました。どうしてそのように言うことができるのでしょうか。それは、イエスが彼らの手をしっかりと掴んでいてくださるからです。31節には「わたしと父とは一つです」とありますが、イエスは全能の神です。その方が掴んでいてくださるなら、どんなことがあっても決して離れることはありません。

 

そのように言うと、ユダヤ人たちが、イエスを石打ちにしようとしました。どうしてかというと、イエスが神を冒涜したと思ったからです。イエスが「わたしと父とは一つです」と宣言しました。人間でありながら、自分を神と等しい者とするとは何事かと烈火のごとく怒り、イエスを殺そうとしたのです。

 

イスラエルにはモーセによって与えられた十戒がありました。その戒めの第一戒にはこうあります。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:3)

人間を神とする、自らを神とすることは神を冒涜することであり、この戒めに背くことになります。ですから、彼らはイエスがこの戒めを破り自分を神としたことで、神を冒涜したと考えたのです。もしイエスがただの人間であったのなら、彼らの主張も正しかったでしょう。でもイエスはただの人間ではありませんでした。イエスはもともと神であられる方なのに、人間の姿を取ってこの世に来てくださったのです。ですから、イエスが言っていることは正しいのです。そのイエスのことばを受け入れることができず、そのお方をさばき、石を投げつけるとしたら、その人の方がはるかに神を冒涜していると言えます。

 

イエスはそのことを証明するために、ここで二つの理由を挙げておられます。その一つが34~36節にあります。ここには、「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒している』と言うのですか。」」とあります。どういうことでしょうか?

 

主イエスがここで引用した言葉は、詩篇82篇6節の御言葉です。詩篇82篇6節にはこうあります。「わたしは言った。「おまえたちは神々だ。みないと高き者の子らだ。」(詩篇82:6)

この「おまえたち」とは、この世の裁判官や権力者たちのことのことです。ここで彼らは「神々だ」と呼ばれているのです。どうしてそのように呼ばれていたのかというと、人を裁く役目を担っていたからです。ある面でそれは神と同じ働きをしていたわけです。それで彼らは「神々だ」と呼ばれていたわけですが、であれば、神から遣わされ、人々を正しく裁く権威を持っておられる方を神と呼んだからと言ってどうしてそれが神を冒涜したと言えるのかというのです。

 

実は、旧約聖書においては、神から遣わされた器は神の代理人としての権威と使命をもって働くので、その人々を神々と呼ばれています。たとえば、出エジプト記4:16には、「彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる」とあります。「彼」とはモーセの兄アロンのことですが、神は口下手なモーセに代わってアロンをモーセの口としました。そして、モーセは「彼」すなわちアロンにとって神の代わりとなるのです。モーセが神の代わりとなるといったら大変なことになります。それこそモーセを神の地位まで高めたということで神を冒涜したと言われても不思議ではないでしょう。でも、ここではそういう反発はありません。また同じ出エジプト記7:1には、神はモーセに、「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。」と言われました。ここでも、モーセがエジプトの王ファラオにとって神とすると言われています。つまり、神から遣わされた器は神の代理人としての権威と使命をもって働くので、「神々」と呼ばれていたのですが、であれば、父から遣わされた神の御子自身を神と呼ぶのは当然であって、決して神を冒涜していることには当たらないでしょ、というのです。

 

誤解しないでください。ここでイエスが言っておられることは、本当はご自身は神ではないけれども神から遣わされている人々を「神々」と呼んだのだから、自分もそのように呼ばれても構わないのではないかということではなく、イエスは本当に神であって、父なる神と一つであられる方ですが、彼らがなかなか信じようとしなかったので、彼らが信じていた旧約聖書を引用して、神と呼ばれていたのは自分だけではないということを取り上げることで、ご自身が「わたしは神である」と言ったことが決して神への冒涜ではないということを示そうとされたのです。そうです、イエスはまことの神であり、父なる神と等しい方なのです。あなたはイエスをどのような方であると受け止めていますか。イエスを神の子、キリストとして信じましょう。

 

Ⅱ.わたしのわざを信じなさい(37-39)

 

第二のことは、イエスが行われたわざです。もしイエスが神のわざを行っているとしたら、それこそイエスが神ご自身であられ、父なる神と一つであるということの証拠となります。37~39節をご覧ください。ここには、「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。」とあります。

 

イエスは、たとえわたしを信じられなくても、わたしのわざを信じなさい、と言われました。イエスの言葉を信じることができなくても、そのわざを見れば信じることができます。イエスはまさに、神の子としてふさわしいわざを行われました。ガリラヤのカナでは、結婚式に水をぶどう酒に変えて、式が損なわれることがないようにされました。カペナウムでは、病気で死にかかっていた王室の役人の息子を癒されました。エルサレムでは、38年間も病気で伏せっていた男を癒されました。また、ガリラヤ湖畔では、イエスの説教を聞いていた5000人の人たちの空腹を、5つのパンと2匹の魚をもって養われました。そして9章では、生まれつき目の見えない人の目を見えるようにされました。

 

これを書いたヨハネは、この福音書の最後でこのように述べています。「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。」(21:25)

イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあります。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められません。イエスはそれほど多くのわざを行われたのです。それは、イエスが行われたわざを見ることによって、イエスが神の子、メシアであることを、あなたがたが信じるためであり、イエスの名によっていのちを得るためです。イエスの言葉を信じることができなくても、そのわざを見れば、この方が神のもとから来られた方であることを自ずと知ることができるのです。私たちも人が言っていることについて、本当にそのとおりであるかどうかを確かめるためには、その人が行なっていることを見るのではないでしょうか。それと同じように、イエスは、ご自分が神の子であると言っていることにふさわしいわざを行なわれたのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちのうちにイエスのわざが行なわれているでしょうか。目が開けられた人は、単にイエスの言葉を聞いてイエスを信じたのではありません。イエスのわざが自分のうちに行なわれたことを体験して、イエスを信じたのです。彼はこう言っています。「あの方が罪人であるどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(9:25)

 

つまり、イエスの言葉には実質が伴っていたということです。聖書は、イエスを信じると言うことは、そこに実質が伴うことであると教えています。たとえば、Ⅰヨハネ2:29には、「あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。」とあります。神が正しい方であると信じているなら、その神から生まれた者もみな正しいこと、義を行うはずなのです。また、3:6には、「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。」とあります。ここも同じです。さらに4:7には、「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」とあります。神を愛する者はみな、兄弟をも愛します。なぜなら、愛は神から出ているからです。つまり、その行いを見れば、何を信じているのかがわかるわけです。イエスを本当に神の子として信じているなら、神の子としてのわざが私たちのうちに起こってくるのです。ですから、もし私たちの言葉を信じることができなくても、私たちのわざ、行いを見れば、イエス様が本当に救い主であることがわかるはずなのです。

 

中国人の任さんと聖書を学んでいますが、先週、信仰告白に導かれました。本当はもう少し学んでから「どうですか、イエスさまを信じますか」と尋ねるのですが、「もう信じている」と言うので、まだ3回目ですが、信仰の告白に導いた方がいいと思いました。なぜなら、ローマ10:9-10に、「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあるからです。それで、このみことばを示しながら、「任さん、任さんは心の中でイエスさまを信じています。だから今、それを告白しましょう。なぜならここに、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。」書いてあるからです。今、私の後に続いて祈ってください。これは、新生の祈りと言って、信仰告白の祈りです。任さんが声を出してこの祈りをすることによって、任さんは新しく生まれます。今までのすべての罪が赦されて、神の子どもとなります。いいですか、それじゃ祈りましょう」と言って、一緒に祈りました。祈り終わった後でキョトンとしているので、「任さん、任さんはクリスチャンになりました。すべての罪が赦されて神のこどもになりました。いつ死んでも天国です。今も神がともにいてくださいます。良かったですね。」と言うと、「ん、良かった。罪全部赦されたね。良かった。今まで悪いことたくさんしてきた。ただ警察に捕まらなかっただけよ。でもその罪全部赦さんだね。感謝します。」と言いました。おもしろいです。中国人がみんなそうだとは思いませんが、自分でも、中国人は強いから・・と言われるのです。はっきりしています。悪いこともたくさんする。でも、本当に素直なんです。いろいろな人と接する機会がありますが、実におもしろいというか、とても爽やかです。

 

そもそも任さんが聖書を学びたいと思うようになったのは、中国に住む娘さんから、「お母さんもイエスさまを信じてください」と言われたからです。普通なら、娘にそう言われても「はい、そうします」という親は多くないと思います。「キリスト教なんて信じたって何も得しない。私は自分の思うように生きていきたい」と言うでしょう。でも、任さんは違いました。娘さんがそう言うので、自分もイエスさまを信じたいと思いました。娘さんを非常に尊敬しているんです。娘は普通の人じゃない、本当にすばらしいのです。何がそんなにすばらしいのかとお聞きすると、こう言いました。

娘さんは、大学生の頃にクリスチャンになりました。それから結婚しましたが、旦那はクリスチャンじゃなかったので、娘さんをひどく迫害しました。娘さんが熱心に祈っていると「気ちがい!気ちがい!」と言い、娘さんが教会に行くと言うと、娘さんを叩いたり、髪の毛をむしり取りました。「教会になんて言っているヤツは愚かなヤツばかりだ」と言うと、娘さんは「確かに、愚かかもしれません。でも実際に来てみてください。本当に謙遜で、立派な人たちばかりです。」と言いました。

ある日この旦那が教会にやって来ました。すると、最初のうちは聖書のことはわかりませんでしたが、そこにいる人たちが皆、優しいのです。今まで抱いていたイメージと全く違いました。しかも、社会的に地位のある人や人格的に優れた人たちがたくさんいました。それで続いて教会に来るようなると、旦那もイエス様を信じたのです。ただ信じたのではありません。熱心にイエスさまに仕えるようになり、今では伝道者になって世界中を飛び回り、貧しい人たちや困っている人たちを助けるような人になったというのです。すごいじゃないですか。何が奇跡かって、人が変えられることほど大きな奇跡はありません。イエス様は、私たちを変えてくださいます。そのみわざがどれほど大きいものであるかがわかります。

 

しかし、それだけだったら任さんもそこまで聖書を学びたいと思わなかったでしょう。しかし、この娘さんはイエスさまの教えに徹底して歩んでいるんですね。こんなことがありました。実は任さんにはもう一人の息子がおられるのですが、この息子さんから、こんなことを言われたそうです。「お母さん、お母さんはマンションを2つ持っているよね。それはお母さんが死んだら遺産として自分たちに相続されるんだから、だったら死ぬ前にその1つを自分の名義にしてください。嫁がそう言うようにとうるさいんだよ。」

それで、任さんは娘さんに相談しました。「弟がそのように言っているんだけど、どうしたらいい。」すると娘さんがこのように答えました。

「お母さん、私はマンションなんていりません。私には天国があるのでそれで十分です。天国は朽ちることも、消えて行くこともありません。この世のものはすべて一時的なもので、すぐに消えて行きます。天国に持って行くこともできません。でも、天国は永遠です。永遠にイエスさまと一緒に過ごせるんです。それがあれば十分です。何もいりません。お母さんのマンションは二つとも弟にあげてください。私は何もいりませんからでも、お母さん、お母さんには感謝しています。私を生んでくれたこと、そして、ここまで大切に育ててくれたこと、本当に感謝しています。こうして健康でいられるのも、お母さんのお陰です。ありがとう!お母さん。」

 

こんなことばを聞いて感動しない親はいないでしょう。任さんも娘の言葉を聞いたときびっくりしました。普通ならマンションちょうだい、お金もちょうだい、自分にはもらう権利があると主張するところでしょうが、娘さんは全然違いました。それで、「これは本物だ」と思いました。自分は悪いことばっかりやってきましたが、イエスさまを信じて天国に行きたいと思ったのです。

 

キリスト教が本物であるかどうかは、聖書の教えを聞いただけではわからないことがあります。でもそこに実質が伴っているならそれが本物であることを知り、信じることができます。「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」

 

イエスさまのわざとは、何も病気が癒されたとか、悪霊が追い出されたとか、不思議なわざが起こったりすることだけではありません。イエスさまの最大のみわざは、私たちがイエスを信じることです。イエスさまを信じて永遠のいのちを受け、そのいのちが溢れることです。それより大きな奇跡はありません。あなたがイエスさまを信じて救われたこと、救われて大きく変えられたこと、それよりも大きなみわざはないのです。聖書にあるイエスのわざを見たり、初代教会のクリスチャンたちの生活や行いを見ても、一つだけ言える確かなことは、イエスは神の子であり、信じる者はその名によっていのちを持つということなのです。

 

Ⅲ.イエスを信じた人々(40-42)

 

第三のことは、その結果です。40~42節をご覧ください。

「そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。」

 

イエスの愛に満ちたメッセージにも関わらず、パリサイ人たちのかたくなな心が砕かれることはありませんでした。彼らはイエスを捕らえようとしましたが、イエスは彼らの手から逃れられました。それはまだイエスの時が来ていなかったからです。

 

そして、ヨルダン川の向こうに行かれ、そこに滞在されました。そこはバプテスマのヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所です。すると、多くの人々がイエスのところに来てイエスを信じました。なぜこの人々はイエスを信じることができたのでしょうか。ここに「彼らは「ヨハネは何もしるしを行なわなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。」(41)とあります。「この方についてヨハネが話したこと」とは何でしょうか。私たちはすでに1章のところで、ヨハネの証を見てきました。1:26,27には、「私は水でバプテスマを授けていますが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」とあります。バプテスマのヨハネは人々からキリストではないか、光ではないかと思われていましたが、自分はそのような者ではなく、その方の履き物のひもを解く値打ちもないと言いました。そしてその翌日、イエスが自分の方に来られるのを見ると、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)と言いました。つまり、イエスが彼らのところに来たとき、彼らはかつてバプテスマのヨハネが語った言葉を思い出し、それがこの方のことであったことに気付きイエスを信じたのです。

 

いったい死ぬために生まれてきた人がいるでしょうか。いません。もちろん、どんな人でも最後には死にます。しかし、死ぬことを目的として生まれ、死ぬことを目的として生きているわけではありません。しかし、イエス・キリストは死ぬために生まれ、死ぬために生きられました。バプテスマのヨハネが言ったように、この方は世の罪を取り除く神の子羊として来られたのです。人間は、生まれながら罪人です。その罪を取り除いたり、赦したりできるのは、神以外にはおられません。イエスはその神の子羊として来られました。彼らはそのことがわかったのです。それで、その地で多くの人々がイエスを信じることができたのです。

 

私はここに深い慰めを感じます。すなわち、彼らが信じることができたのは、そこに彼らが信じることができるようにバプテスマのヨハネという人物の道備えがあり、主がその証を用いて信じることができるように助けてくださったからなのです。もし私がその場にいたら、どうだったであろうかと想像します。ガリラヤのナザレ出身の大工の息子が自分は神の子であると主張しているのです。果たして、そのような人物をどこまで素直に信じることができたでしょう。もしかしたら、受け入れられなかったかもしれません。そもそもそんなことどうでも良いと思ったかもしれない。それでも彼らは信じることができました。それは一方的な神の恵みによるのです。

 

それはあの使徒パウロも同じでした。「パウロ 愛と赦しの物語」という映画を観ました。パウロも、最初はイエスを救い主として信じることはできませんでした。むしろイエスを信じる者たちを激しく迫害していました。そのようなパウロが180度変わったのは、復活されたキリストが彼に近寄ってくださったからです。彼がクリスチャンを迫害しようとダマスコに向かっていた時、復活の主イエスが彼に現れて言いました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)

「あなたはどなたですか」と言うと、答えがありました。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(9:5)

どういうことか、パウロはわけもわからず、ただイエスが言われたように、ダマスコに行ってみると、そこにアナニアという兄弟がいて、彼を通して目が見えるようになりました。それは肉眼だけでなく、彼の心の目も開かれました。それは、一方的な神の恵みのみわざであることがわかったのです。

 

イエスさまはご自分が良い羊飼いであると言われました。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。羊が守られるのは、羊飼いに従うことにもよりますが、それ以上に、そこに羊飼いたちのいのちをかけた愛があるからです。同じように、私たちはイエスさまを信じていますが、それは私たちの努力によるものというよりも、神の力、神の恵みわざによるのです。主がそのことに気付かせてくださいます。これまでの様々な人たちとの出会いや、ある時に聞いた救いの証し、聖書のメッセージ、これまで経験した一つ一つのことが、ヨルダンの川向うの人たちが、「ヨハネが話したことはすべて真実であった」と気付いてイエスを信じたように、必ずや、そのような時が来て、イエスを信じることができるように導いてくださるのです。そのことが見えるとき、私たちはそこに深い慰めと平安が与えられます。私たちは神の恵みによってこそ信じることができ、今あることを覚え、神に感謝したいと思います。そして、ますます信仰に堅く立って、動かされることがないように、いつも主のわざに励みたいと思います。